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勇者と細い腕 2
しおりを挟む空に星が輝き出すと、壁の向こうから聞こえる声がエマとマーニャから男たちの声へとかわった。白い湯気に包まれながらフィオンが温泉に入ってくると、リアムは驚きの声を上げた。
戦う為の筋肉で出来た厚い胸板に腹筋は美しく割れていて、隊服で隠されていない二の腕は驚くべき太さだった。自らの意志と力を貫き通せる逞しい体であったが、フィオンは自慢することなく少し笑っただけだった。
湯に腰まで浸かったところで、フィオンの後ろから入ってきたルークが口を開いた。
「あっ…フィオンさん、背中に何かついていますよ。
取りますね」
と、ルークは言った。手を伸ばして騎士の広い背中についているモノを取ろうとしたのだが、ソレは決して取ることが出来ないモノだった。
風で飛んできた草のようにルークには見えていたのだが、ソレは鋭利な刃で斬られた大きな傷跡だった。
背中に刻まれた恐ろしい傷跡に触れたルークは「すみ…ません…」と小さな声で言った。
慌てて目を逸らしたが傷跡は背中だけではなく腹や腕にもあり、小さな傷も含めると数えきれないほどだった。
ルークが口を開けたままガタガタと震えていると、フィオンは笑いながら頭をポンポンと撫でた。
「なんで謝る?謝んなよ、ルーク。
これは俺の誇りだよ。
俺は、この傷を背負って生きている。
隊長に上り詰めるまで、いろいろあったからな。俺は貴族じゃない。ただの少年だったから、防具をもらえずに戦の最前線で立ってた時期がある…末端兵と言われてな。
けどな、それがあったからこそ、今の俺がいるんだ。
いろんなモノが、この体には刻み込まれている。
守った傷もある、守れなかった傷もある」
と、フィオンは言った。
国は違えど同じ騎士の隊長でありながら、アーロンの体には目立った傷はなかった。
生まれながらに約束されているアーロンとフィオンとでは、歩んできた道は正反対であった。アーロンには十分すぎるほどの訓練期間があり、さらに彼は国王の息子であるのだから。
アーロンは無数の傷を黙ったまま見ていたが、フィオンと目が合うと静かに口を開いた。
「だからこそ、フィオンは勇者に選ばれたのだろう。
末端兵から隊長にまで上り詰めたのは、君だけだ。
そして君はソニオ王国の騎士でありながら、騎士としての誇りを守り続ける男だ」
アーロンは目の前の傷だらけの騎士を心から称えた。
その言葉にフィオンは少し驚いた顔をしたが、顔を背けて肩まで浸かると、夜空に輝く星々を見上げた。その瞳には、輝き続ける星と落ちていく星が映っていた。
「あの…末端兵って…何ですか?」
と、リアムが怪訝な顔で聞いた。
「そうだな…末端兵っていうのは兵士であって兵士でない。
ソニオの騎士団の間で使われている蔑称だから、深くは知らない方がいい。
そんな事より、このまま温泉に浸かりながら美味い酒でも飲みたいな。水かお茶ばっかりだから、急に飲みたくなってきた」
と、フィオンが笑いながら言った。
「なら、僕が持っている酒をとってこようか?」
アーロンがそう言うと、フィオンは驚いた顔をした。
「お前、酒持ってるのか?」
「あぁ。
マーニャの薬を沢山買ったから、気をよくした店主がくれたんだよ。宿屋で飲む気はないし、野宿では危険だから、ずっとどうしようかなと考えていた。
ちょうど、良かったよ。
先程見張っていた間も、人が来る気配はなかった。
案内人とゲベート王国の馬なくして、夜に、この場所に辿り着ける者などいない。ここならば僕たち勇者を見ている目も、背中から狙われる心配もない」
アーロンはそう言ったが、フィオンは返事をしなかった。
今は共に勇者となって最果ての森を目指しているとはいえ、敵国の隊長同士が酒を酌み交わすなど考えられなかった。
拒否するとばかりにフィオンが首を横に振ると、アーロンは笑ってみせた。
「今の僕は隊服は着ていないし、紋章も身に帯びていない。
敵国の騎士同士ではなく、クリスタルを追い求める勇者同士で酒を飲むんだ。
夜空には、美しい星が輝いている。これほど美しい星空を見ながら酒を飲むのは格別だろうな」
アーロンは星が降るような空を見上げながら言った。
夜風が優しく頬を撫でると、フィオンの心にも変化が生じていった。
その誘いに乗ってみるのも悪くないように思えた。酒でも入れば、アーロンにも油断が生まれるかもしれない。闇のように黒々とした腹の内が分かるかもしれないと思うと、フィオンは笑みを浮かべた。
「そうだな。
お前がそこまで誘うのなら、一杯だけ付き合ってやろう」
「一杯でいいのか?
遠慮せずに、すきなだけ飲めばいい」
と、アーロンが言った。
「酒は、少ししか飲まないと決めてるんだ。お前は好きなだけ飲んどけ。
エマとマーニャには先に寝といてもらうか」
と、フィオンは言った。
「分かった。一杯でも、付き合ってくれるのならば嬉しいよ。
エマに伝えてくるよ」
アーロンはそう言うと、フィオンの考えが変わらないうちにと立ち上がった。
「あぁ、頼むわ」
と、フィオンは言った。
アーロンは湯気に包まれながら体を拭き、さっと服を着ると風のように消えていった。フィオンはアーロンがいなくなると大きく伸びをした。
空では、星がいくつも流れた。静かな空間で聞こえるのは、側の川で流れる水の音だけとなった。
「綺麗な星空ですね。
星をこんなに近くに感じられる日がくるなんて…思いもしなかったです。流れ星も見れたから、僕の夢が叶うといいなぁ」
と、リアムが嬉しそうな声で言った。
「あぁ、そうだな。
リアムの夢が叶うように、俺も願っているよ」
フィオンがそう言うと、リアムはにっこりと笑った。
それからは馬で駆けながら見た景色について語り合い、町で食べた美味しい食事を思い出しながら笑い合っていた。
普段は微笑むだけであまり喋ろうとしないルークでさえ、今は違い声を上げて笑うのだった。
フィオンが空に輝く星について話をすると、ルークが「あの星のことですか?」と楽しそうな声で腕を伸ばして星を指差した。
すると、急に湯気が岩に吸い込まれるように消えていった。
フィオンの目に、白くて細い腕にある「モノ」がはっきりと見えるようになった。
二の腕が、赤黒く変色していた。
執拗に何かをやった痕のように思えて、フィオンは胸騒ぎがした。
「その腕の痕、どうしたんだ?」
フィオンは眉根を寄せながら言った。
「えっ?痕?なんのことですか?」
ルークが不思議そうな顔でそう言うと、フィオンは二の腕の赤黒く変色した痕を指差した。
ルークはその痕をじっと見ると、まるで覚えがないように何度も首を傾げた。自分の腕なのに、まるで初めて見たかのように目を丸くしていた。
「誰に…やられた?」
と、フィオンが言った。
「あれ?なんでもないですよ。痛みもありませんし。
きっと…虫にでも…噛まれ…たんでしょう」
と、ルークは小さな声で言った。それ以上見られないように手で隠そうとしたが、フィオンはルークの腕をグイッと掴んだ。
「やっ、フィオンさん。痛いです」
ルークは声を上げたが、騎士の力にかなうはずもなかった。ルークの腕は、華奢な少女の腕のように細かった。
フィオンは細い腕を掴んだまま、赤黒くなっている痕をまじまじと見た。
それは注射を打った痕だと、すぐに分かった。
ソニオの騎士の何人かが打っている注射の痕によく似ていたからだった。それは恐ろしい薬であり、体を蝕んで、心を破壊し、やがては死に至る。
真っ青になっている少年の顔を見ると、温かい湯に浸かっているというのに体を凍らせるような冷水に浸かっている気持ちになっていった。
「なんでもないことないだろう!?
なんだよ、これは!?
まるで何回も注射を打ったような…」
フィオンがそう言い終わらないうちに、ルークはガタガタと震え始めた。
「あっ…あっ…」
ルークは口をパクパクさせると、何かを思い出そうとするかのように頭を何度も振ってから目を大きく見開いた。
「そう…だ。
あぁ…そうでした…。今、思い出しました。
自分が病弱だから…旅の間に変な病気にかからないように…お城の方が…特別に打ってくれたんです」
ルークは消え入りそうなほどの小さな声でそう答えたが、その言葉には全く感情が入っていなかった。
(思い出す?自分の腕なのに?何を言ってるんだ?)
フィオンはみるみる様子がオカシクなっていくルークから手を離した。
「そうなんです…自分が病弱だから…定期的に打たないと…いけないんです。
そう…自分が悪いから…そう…自分を助けるために……」
ルークは恐ろしい呪文のように呟いた。
その顔は苦痛に歪み、湯が揺れるほどにガタガタと震えていた。少年の抱える苦しみの音ですら、聞こえるかのようだった。
フィオンがリアムの腕を確かめると、リアムの腕にも同じように赤黒い注射の痕があった。
「リアム、お前もじゃないか!?」
フィオンがそう言うと、リアムはゆっくりと自らの二の腕を見た。
「あれ?僕も…だ。
なんでだろう?僕にもどうしてあるんだろう?なんでだろう…?
でも、大丈夫です。この旅には、なんの問題もありません。
僕たちは、精一杯、頑張れますから」
リアムはそう言うと、穏やかに微笑んだ。
その言葉を聞いたフィオンは、見えざる鋭い剣で体を斬りつけられたかのような衝撃を受けた。
魔法使いが「精一杯」と口にする度に、フィオンは嫌な気持ちになっていた。精一杯やらねばならないと、刷り込まされているような気がしてならなかった。
途端に輝く空の光すらも感じなくなり、闇の向こうから槍の勇者を観察している鋭い視線を感じた。恐ろしい戦場にいるような感覚を覚えたが、辺りは岩に囲まれていて勇者を見ている者など勿論いない。
だが、何もかもを不気味に感じるようになった。
流れてきた大きな雲が分厚く勇者の頭上にのしかかり、周りの岩が影のように取り囲んで四方から押しつぶそうとしているかのような恐ろしい感覚にも襲われた。
さらに吹く風の音が向かってくる蹄の音のように聞こえ出すと、フィオンの手には力が入っていった。
「なんの問題もないわけないだろうが!
お前ら一体どうなってるんだ!
その注射の痕は、この旅が原因なのか?
それとも、魔法使い全員がそうなのか?」
フィオンは矢継ぎ早に質問した。
リアムの黒い瞳が恐怖の色に染まると、フィオンは自らの声と迫力が少年を怖がらせているだけだと悟った。
「ごめん…。悪かった…」
と、フィオンは言った。
気持ちを落ち着かせようと息を吐き、赤い髪をかき上げてから夜空を見上げた。のしかかっていた雲は散り散りになっていて、空に輝く星は美しく煌めいていた。
全ては幻覚であり、岩は動くこともなかった。
フィオンは空に輝く光をその目に焼きつけてから、小さな魔法使いを見た。
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