クリスタルの封印

大林 朔也

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魔術

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 アンセルは鍛錬を積む日々を過ごすことになった。今までより朝早くに起きると、何度も寝返りを打ってくちゃくちゃになったベッドを綺麗に整えてから大きく伸びをした。
 朝からしっかりとした量を食べることになったのは少食なアンセルにとっては苦痛でしかなかったが、戦いに耐えられる体を作る為だと思い我慢しながら食べ続けた。

 トレーニングをしてから茶色の袋を背負うと、思った以上に重たくて体にのしかかってくるようだった。何の重りが入っているのか知らなかったが、わざわざ開けて中を見ようとは思わなかった。走り出そうとしたが出来ずヨロヨロと歩いていると、食器を下げにきたリリィと目が合った。
 おかしな歩き方をしているアンセルをリリィは不思議そうな目で見ていたが、何も言わずに部屋から出て行った。

 19階層に着く頃には、アンセルは背中を屈めながら荒い息をしていた。苦しさのあまりに、こんな事をして一体何になるのだろうかという嫌な考えが心に浮かんだ。
 袋を開けて重しを取り出してしまおうかとさえ思ったが、ダンジョンを守る為に同じように頑張っている仲間の姿を思い浮かべると、それは裏切りだと自らに言い聞かせた。
 壁に手をつきながら呼吸を整えているとフラフラだった頭がはっきりとしてきて、背負っている重しでさえ仲間の生命の重みに比べたら、とても軽く感じるようになっていた。

「アンセル様、頑張っていますね」
 そう声がした方を見ると、そこにはミノスとマーティスが立っていた。

「様子を見に来ました。だいぶ苦戦されているようですが、続ければ筋肉と持久力がつきます。
 マーティスの魔術は、21時30分から始めます。それまでに全てを終わらせて下さい」
 と、ミノスは言った。

「はい」
 アンセルはそう答えるのがやっとだった。

 アンセルがまたヨロヨロと歩き出すと、軽やかな足取りで18階層に戻ろうとしていたマーティスが足を止めて後ろを振り返った。アンセルと目が合うと、マーティスはニヤニヤしながら手を振った。

(マーティス…)
 その笑みを見たアンセルは俄然やる気が出てきて、しばしの間は疲れを忘れることが出来たのだった。
 
 やっとの思いで20階層の部屋に戻って来ると、肩と背中は悲鳴を上げていて、ヘナヘナと床に座り込んだ。頭がフラフラとしながら茶色の袋をおろすと、床の上で大の字になって横になった。
 ひどい眠気が襲ってくると、ヨロヨロと起き上がった。もし眠ってしまったら、次に起きた時は夜になっているだろう。

 アンセルは体を伸ばしてから、剣と向き合うことにした。テーブルの上に置いていた剣を手に取り鞘から抜くと、黙ったまま剣身をしばらく見つめた。
 剣身が、鋭く光った。剣を誰かに向けるということが、アンセルには恐ろしくてならなかった。このような武器を掲げながら、同じ人間同士で殺し合っている勇者を恐ろしく思った。

(俺に…出来るのだろうか?)
 アンセルがそう思うと、多くの魔物の血を吸ってきたであろう剣がズシリと重たく感じた。

(魔物を殺した剣を、魔王である俺が使う)
 その現実は残酷で、アンセルの心を深くえぐった。
 グリップの赤い宝石に触れると、その冷たさに鳥肌が立ち、思わず剣を投げ捨てた。
 指先から広がっていく冷たさは這うようにのぼっていき、この剣によって殺された多くの魔物の悲鳴が聞こてくるようだった。

(こんな剣など…持ちたくない…)
 それが、アンセルの思いだった。悲鳴が大きくなると、仲間の顔が思い出され、その口から発せられているような幻を見た。

(いや、ちがう。持たなければならない。
 仲間の悲鳴を聞かないように…仲間が殺されないように…。
 仲間を守る為に、俺は使うんだ)
 アンセルはそう思い直すと、ヨロヨロと剣を拾い上げた。柄を握る手に力を込めると、何度も何度も自らを斬りそうになりながら素振りを続けた。
 空気を斬り裂く音が、彼の心の中に広がっていった。


 *

 アンセルは時間が経つのも忘れてトレーニングと素振りに励んでいたので、部屋のドアをノックする音が聞こえてくるまで魔術を施す時間になったのだと分からなかった。
 ドアが開くと、ミノスとマーティスが入ってきて、素振りをしているアンセルをジロリと見た。
 
「アンセル様、疲れましたか?」
 と、ミノスは言った。

「いえ、大丈夫です」
 と、アンセルは答えた。剣を鞘に納めると疲れがどっと出てきたが、疲れたと口に出すとさらに疲れてしまいそうだった。

「剣はどうですか?怖いですか?」

「いえ、大丈夫です」
 と、アンセルはまたも答えた。何度も自分を斬りそうになったことは言えなかった。両手で握った柄の感触は、素振りを終えてからも手にはっきりと残っていた。

「そうですか。
 ならばマーティス、お願いします」
 と、ミノスはアンセルを見ながら言った。その目はアンセルの嘘を見抜いていたが、アンセルが立っていられているので予定通り魔術を施すことにしたのだった。

「かしこまりました。
 アンセル様、仰向けの状態で寝転がって下さい」
 と、マーティスは言った。

「え?仰向けで寝転がる?」
 アンセルは驚きのあまり、その言葉を繰り返した。
 
「そうです」
 マーティスはそう言うと、ニコリと微笑んだ。

 マーティスの魔術を体に施してもらうのは両腕の再生治療の時以来だった。あの時は凄まじい痛みだったので、アンセルはほとんど意識を失っていた。
 アンセルは訝しげな顔をしながらも「分かった」と呟いた。部屋の奥にある寝室のドアに向かって歩いて行こうとすると、マーティスがアンセルの腕を強い力で掴んだ。

「寝室のベッドは、心安らかに眠れる場所でなければなりません。僕が施す魔術を、寝室に持ち込むべきではありません。そう…これも、鍛錬です。
 ここで、お願いします」
 マーティスはそう言うと、床を指差した。

 その言葉を聞いたアンセルは不安になったが、言われるがままに冷たい床の上に仰向けに寝転がった。
 アンセルが緊張した面持ちで天井を見ていると、マーティスがアンセルの顔を覗き込んでから微笑んだ。

「失礼しますね」
 マーティスはそう言うと、アンセルに馬乗りになった。腰よりやや下に座り込むと、何も言わずにアンセルのシャツのボタンを一つ一つ外し始めた。

「へ?なんで?何を…?」
 アンセルが狼狽えているうちに、マーティスはアンセルのシャツのボタンを全部外し終わっていた。上半身をあらわにすると、アンセルの体をまじまじと眺め回した。
 ドキドキするような魅力的な相貌をしているマーティスに馬乗りになって見つめられると、アンセルも少し顔を赤くしながらマーティスを見つめた。

「アンセル様、僕を見つめすぎです。やめて下さい。
 随分…逞しくなりましたね。本当に…成長が早いです。体の方は危険を感じているからでしょうか。それとも準備をしているからでしょうか。
 いえ…やめておきましょう。今まで何もしていなかったから、そう見えるだけでしょう。
 アンセル様に馬乗りになったのは、もしもの時を考えてです。ご無礼を、お許し下さい」
 と、マーティスは低い声で言った。
 琥珀色の瞳は真剣で、ニヤニヤしながらアンセルを見ていた男の姿はどこにもなかった。

(今から施されるのは、恐ろしい魔術なのかもしれない)
 アンセルは緊張で、体はどんどん強張っていった。部屋に流れる空気すらも冷たくなったように感じるのだった。
 魔術を受け入れてしまえば「何か恐ろしい事」が、自分の身に起こるのではないのかという恐怖に駆られた。
 アンセルの目に不安と後悔の色が浮かぶと、マーティスは表情を緩めて微笑みかけた。

「僕を信じて下さい。恐れることなどありません。
 心を閉じてしまっては、アンセル様の魂に語りかけることが出来なくなります。
 僕は必ず力となります。
 この魔術は、アンセル様の眠れる力を呼び起こします。アンセル様の体に流れる『かのお方』の血と力を大きく動かすのです。
 どうか、楽にして下さい」
 と、マーティスは優しい声で語りかけた。その穏やかな瞳を見ていると、アンセルの不安は和らいでいった。
 
 アンセルがマーティスを見ながら頷くと、マーティスも頷き返してから白き杖を取り出した。マーティスは魔術を使う時には、杖に魔力を集中させてから魔術を施すのだった。

「これよりアンセル様の上半身、胸から腹部にかけて魔法陣を描きます。
 目を閉じた後は、僕が目を開けていいと合図をするまでは、決して目を開けてはなりません。こちらの世界に戻って来れなくなります。
 この魔術で、アンセル様には「かつての決戦の場であった20階層の広場」を、『かのお方』の目を通して、見ていただきます。最も激しく炎が燃え上がった時と場所ですので「その力」を呼び起こしやすくなります。
 最初は何も見えないかもしれませんが、アンセル様の心に応じて、その光景が見えてきます。
 ご自身を信じて、しっかりと強い心をお持ち下さい。
 では、ミノス様もお願いします」
 マーティスがそう言うと、ミノスがアンセルの両腕を押さえ込んだ。アンセルは体の自由を奪われ、なんとも恥ずかしい姿となっていた。

「目を閉じて下さい。
 大事な事ですから、もう一度言います。
 僕が合図をするまでは、決して目を開けてはなりません」
 と、マーティスはアンセルの目を見ながら言った。

 アンセルがゆっくりと目を閉じると、白き杖の先端が胸に触れ冷たい感触がした。杖は心臓に向けられてから、徐々に大きな魔法陣を描き始めた。

「我はここに命じる、白き杖よ。
 この者の魂に眠る、気高きドラゴンの炎を呼び起こすため、時を遡り、炎の意味を教え、この者を支える力となれ」
 マーティスが低い声でそう詠唱すると、白き杖を左胸に軽く突き立てた。

 その瞬間、不思議なくらいに静かになった。何の物音も聞こえなくなり、マーティスとミノスの気配も感じなくなった。
 魔術が働いているのか、アンセルの体がガタガタと激しく震え出した。心臓を何者かに掴まれたかのような苦しさと凄まじい痛みに襲われると、真っ黒な穴の中に引きずり込まれていった。アンセルは長い長いトンネルを滑り落ちていくと、暗闇の中に乱暴に放り出されて背中から着地した。激しい痛みにのたうち回ったが、その音すらしなかった。

 全てを飲み込む漆黒の闇だけが広がっていた。

 アンセルはその闇に恐れをなし、なす術もなくガタガタと震え始めた。闇を前にすると、自分が小さな無力な存在であり、このままココで蹲っている方が似合いのように思えた。
 しかしマーティスが白き杖を突き立てた左胸から体が熱くなっていくのを感じると、ここが「かつての決戦の場であった20階層の広場」だと思い出した。
 すると小さかった自分の体がとてつもなく大きくなり、嗅いだこともないような嫌な臭いを感じ取ると、黄金に煌く光や赤い閃光がうっすらと見えた。
 バタバタとした足音が聞こえたが、その足音は徐々に数が減っていき、大きな声と悲鳴が上がったのだった。激しい憎しみが渦を巻き、失意と心を狂わせるような悲しみが、この空間を埋め尽くした。
 望みは潰えたのだろうか。
 絶望が支配すると、この世の「ある者達」全てを殺し尽くさねばならないという思いが、アンセルを襲い始めた。
 小さな赤い閃光が放たれたが、それはすぐに恐ろしい炎となってアンセルを包み込んだ。
 何が起こったのか全く分からないまま叫び声を上げながらもがき苦しみ出すと、現実の体の方も激しくのたうち回った。ミノスとマーティスが暴れ回る体を押さえつけると、アンセルの体は痙攣し口からは泡をふき出した。
 マーティスはアンセルが目を開けないように急いでアンセルの目を覆うと、アンセルは物凄い力でマーティスの手首を掴んだ。

「放せ!」
 と、アンセルは叫んだ。その声は低く、強い怒りに満ちていた。

 その声を聞いたマーティスは、ミノスに目で合図を送ってから口を開いた。

「アンセル様、落ち着いて下さい。
 今日は、ここまでにしましょう。目を開けていただいて結構ですよ」
 と、マーティスは言った。

 その言葉が暗闇の中で響き渡ると、アンセルはパッと目を開けた。アンセルは肩で激しく息をしながら、口から出ている泡を手で拭った。
 マーティスの手首はうっすらと赤くなっていたが、アンセルは何も覚えていなかった。

「アンセル様、大丈夫ですか?
 何か感じましたか?」
 と、マーティスは言った。

 アンセルはすぐに言葉が出てこなかった。顔は真っ青で、ガタガタと震えるばかりだった。

「時間が長すぎたようですね。申し訳ありませんでした。
 この魔術はしばらくやめておきましょうか?
 先に心が…壊れてしまうかもしれません」
 と、マーティスは言った。

 しかし、アンセルは首を横に振った。

「いや、俺はやれる。大丈夫だ。
 本当に…俺はかつての20階層の広場にいた。
 そこは、激しい憎しみの感情で渦巻いていた」
 と、アンセルは言った。
 何か恐ろしいものに触れてしまったかのように、アンセルの体の震えは止まらなかった。

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