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リリィ
しおりを挟むそれからアンセルは決められたトレーニングメニューをこなす為に、次の日から朝早くに起きるようになった。怠惰な日々を送っていたアンセルには辛くてたまらなかった。
朝はまだトレーニングを頑張れるのだが、昼には疲れが出始めて、夜になると体は思ったように動かなくなった。腕と脚が震えて腰も痛くなり、何かを食べただけで吐きそうにもなっていた。
今までの日々を悔やんだが、今更どうにもならなかった。
「しんどい、つらい」と何度も繰り返し、トレーニングを止めたくなる自分自身と戦いながら体を鍛えるのだった。
ただ眠る頃には疲れ果てているので、今までとは違いぐっすりと眠ることが出来たのだった。
トールとオルガから報告を聞く日になると、疲れた体を引きずりながら広場へと向かって行った。
広場の扉の前に立つと、疲れを見せないように息を吐いてから、明るい表情を作った。
アンセルが扉を開けると階層主達は立ち上がって挨拶をしたが、ミノスの視線は今までとは違い自分を厳しく見ているような気がしたのだった。
アンセルがゆっくりと歩いて行き椅子に腰を下ろすと、トールは意気揚々と図面をテーブルに広げた。
「図面が完成しました。
避難所は五ヶ所にすることにしました。マーティス様がダンジョンの仲間の総数を教えてくれましたので、五カ所作れば窮屈な思いはしないと思います。
ダンジョンの長さについては、他の階層の男達が総出で頑張れば、このように出来ると思います。今の道はそのまま残して、複雑に入り組んだ別の道を作るつもりです。行き止まりを作ったり、様々な仕掛けも施そうと思っています。
今の道は、勇者達が近づいて来たら大きな石を使って封鎖して、勇者達がダンジョンから出れば元に戻せるようにしておくつもりです。
道は暗くなっていますし、マーティス様が魔術を施して下さるので見た目には分かることはありません。それに道を封鎖するのは、仲間が避難所付近の階層に移動してからにしますので安心して下さい。女子供や、足の悪い者達も大勢いますからね」
と、トールは言った。
「ありがとう、トール。避難所があれば仲間の生命は安全だろうし、道がこれほど長くなるのなら十分だ。
俺には勝利が見えたよ」
と、アンセルは図面を見ながら言った。
実のところ知識は全くないし、図面は複雑すぎてよく分からなかったが、トールの自信満々の表情はアンセルに成功を思い描かせるものだった。トールの仕事ぶりはいつも素晴らしいので、自分のやるべき事に心置きなく取り組めるだろう。
アンセルがトールの顔を見ると、トールは嬉しそうに笑ったが目の下にはクマが出来ていた。ほとんど寝ずに仕事をしたのだろう。そのクマを見ると「しんどい、つらい」と繰り返していた自分が恥ずかしくなった。しんどいのは、アンセルだけではないのだから。
「どうされましたか?アンセル様」
と、トールは言った。黙ったまま自分を見つめているアンセルを不思議に思ったのだった。
「本当にありがとう。トールがいてくれて良かったよ」
アンセルがそう言うと、トールはまた嬉しそうに笑ったのだった。
「オルガ、食料の方はどうだ?」
と、アンセルは言った。
「こちらも問題ありません。
一週間分の備蓄を準備することは可能ですが、その分を作る為には皆んなの協力が必要です。
火が使えませんので、あまり美味しいものは出来ませんが、そこは我慢してもらわなければなりません。
勇者が帰った時には、盛大にパーティーでもしましょう。
その時には、皆んながびっくりするぐらいの美味しい御馳走を作ってみせますよ」
と、オルガは明るい声で言った。
「ありがとう、オルガ。食料の備蓄が出来るだけで、本当に有難いよ。忙しくなるだろう…な。大変な思いをさせてしまうけど任せたよ。
そうだな…盛大なパーティか…今から楽しみだな。
オルガの料理は、美味いからな。いつも、ありがとう」
アンセルがそう言うと、オルガも嬉しそうに笑ったのだった。
(本当によくやってくれた。
俺がしんどいと言っている間に、こんなにも頑張ってくれていたんだ。
それはきっと…先日の俺の言動によるものだろう。本当に…俺の言動で左右されるんだ。
魔王である俺が弱気になると、仲間に広がっていく。希望は、絶望に変わるのだろう。
俺が…頑張らないといけない)
アンセルは目頭が熱くなっていくのを感じた。
アンセルは何度か瞬きをしてから、ゆっくりと顔を上げると、階層主達の顔を見渡した。
「明日、皆んなに説明する。
1階層の大ネズミ達が20階層のこの広場まで歩いて来るのは大変だろうから、そうだな…19時からにしよう。
リリィ、階層主達に、次のように伝えて欲しい。
『重要な話があるから、明日19時に、20階層の広場に全員来てもらいたい。足の悪い者や小さな子供と親は、その限りではない。なお広場に来れなかった者達には、階層主から直接話を伝えるように』とな」
「分かりました!」
リリィはそう言うと、翼をパタパタと動かしながら広場から飛び去っていったのだった。
階層主達も自らのやるべき事をする為に、それぞれの階層へと戻って行った。
最後に広場に残ったアンセルは、明日の演説を思いながら目を閉じると、その瞬間を思い浮かべた。
自分を見つめるあらゆる仲間の姿を想像すると、アンセルの心臓がドクンと震えた。緊張によるものなのか両腕がカタカタと震えると、アンセルは妙な視線を感じて目を開けた。
驚いて辺りを見渡したが、もちろん誰もいなかった。
けれど、その視線はアンセルを射抜こうとしているかのように冷たく鋭かったのだった。
アンセルは全身にびっしょりと汗をかきながら、得体の知れない恐怖に襲われた。逃げ出すかのように広場を後にすると、その恐怖を忘れようとするかのようにトレーニングに励んだのだった。
そうして夜になる頃には、フラフラになっていた。
汗は流したが食事をとる気にはなれず、寝室のベッドの上で目を閉じていると、ドアをノックする音とリリィの声が聞こえてきた。
アンセルはベッドから起き上がり寝室のドアを開けると、そこには黒い服と赤い布を持ったリリィが立っていた。
「明日皆んなに説明をされる時に、この服を着てもらえたらと思って持ってきたんです」
リリィはそう言うと、黒い服と赤い布をアンセルに渡した。
光沢のある滑らかな黒い布で作られた服は着る者を立派に見せるような力があり、赤い布は情熱的な素晴らしいマントだった。
「リリィが作りました。いつか…お渡ししようと思って、少しずつ作っていたんです。
まさかこんな形で着ていただくことになるなんて思いませんでしたが…着ていただくなら今だと思いました。『かのお方』は漆黒でしたので、ドラゴンの力がアンセルさまを守ってくださいますように。
それに…この黒は、アンセルさまの漆黒の髪にとても似合うと思います。
リリィはあまり力になることは出来ませんが、リリィはリリィに出来ることでアンセルさまを支えたいんです。
食事も筋肉がつきやすいように、マーティスさまから本を借りて勉強しています。食事を運ぶだけでなく、明日からはアンセルさまの食事は、リリィが作ることになりました。
リリィも…何か…したいんです。
あと2ヶ月、あと2ヶ月しかないんですから、皆んなを守ろうと頑張っているアンセルさまの力になりたいんです」
「ありがとう…リリィ」
アンセルはリリィの気持ちをとても嬉しく感じた。
手に持っている服をとても大切に思うと、重さを感じないほどの軽い服とマントが、とても重たく感じられたのだった。
「リリィは…決めたんです。
アンセルさまが皆んなを守る為に頑張るのなら、そんなアンセルさまをリリィが支えようって。
リリィの出来ることで…ですが。リリィの出来ることなんて、アンセルさまのやろうとしていることに比べたらちっぽけですし、少ししかないですけど。
アンセルさまが疲れてしまった時は、少しでも疲れがとれるように全力で支えます。リリィが…その…アンセルさまを癒します」
リリィが笑顔を向けると、アンセルはリリィを抱き締めたいという衝動に駆られた。リリィがたまらなく可愛く思えたのだった。
今までそんな風に思うことすらなかったのに「癒す」という言葉を、妙な意味で受け取っていた。全身で彼女の温もりを感じることが出来たのなら、心に広がっている不安と恐れが小さくなっていくような気がしたのだった。それが…癒しであると受け取ったのだった。
ほんの少しばかりの時間でも楽になれるのならば…と欲望のままに動こうとした瞬間、黒い服と赤いマントが目に入った。
すると、アンセルの頭の中に仲間の顔が次々と浮かんできたのだった。
(俺は…一体…何をしようとしたのだろう?必死になって、皆んな頑張ってくれているのに。
そんなことをする時間があるのなら、もっと他にやるべきことがあるはずだ。リリィの言葉は仲間を守ろうと頑張っている姿に向けられた言葉なのに…変にとってしまうなんて。
リリィの心を傷つけてどうするつもりなんだろう…その思いを踏み躙って、俺の不安と恐怖が消えていくというのだろうか?
本当に…自分が嫌になる。皆んなが必死になって頑張ってくれているのに、俺は何をしようとしたのだろう。
仲間を守ると決めたんだ。
今は、その事だけを考える時だ。純粋な目を向けてくれているリリィを押し倒そうとするなんて…どうかしている)
アンセルはそう思い直すと、自分のやるべき事を思い出した。体は疲れているのだから、明日に備えて早く寝るべきなのだ。
「ありがとう、リリィ。
この服、明日着てみるよ。持ってる服はヨレヨレの服ばっかりだから、ちょうど良かったよ。
すごく…美しい服だ。これを着たら俺も…魔王らしく見えるかもしれないな。
うん…見えるだろう」
「はい…アンセルさま。
アンセルさまは今も、これからも、ずっと…リリィ達の大切な魔王アンセルさまです」
と、リリィは言ったのだった。
リリィがいなくなると、アンセルは椅子に座りながら黒い服と赤いマントを見つめていた。この服とマントを纏いながら「皆んなを、この手で守る」と宣言するのだから、それは生命にかえても守らなければならない約束となるのだろう。
すると、ふと以前に読んだことのある大切な人達の為に世界を救った英雄の物語を思い出したのだった。
英雄となる主人公の青年が、邪悪な生き物から世界を救う為に戦う物語だ。
家族と愛しい女性を故郷に残し、仲間と共に苦しい修行にも耐えながら、何度も傷ついては立ち上がった。どんな難局にも活路を見い出しながら成長していき、恐ろしい真実を乗り越えて、やがて世界を救ったのだった。
あの時は、その主人公の気持ちがアンセルにはよく分からなかった。むしろ主人公を支える仲間の一人に強く憧れたのだが、今回は自分がその主人公の立場になろうとしているのだ。邪悪な生き物が人間ということであるのならば。
リリィに微かに抱いた気持ちが一体何であるのかはアンセルにはまだよく分からなかったが、大切な仲間を守る為に強くなろうする姿は紛れもなく同じものだろう。
分からなかった英雄の気持ちが、これから先どんどん分かるようになるのだろう。そして最後には、勝利を掴み取るのだろう。
(俺も…やれる。全力で励めば、勝利を掴み取れるだろう。
まだ2ヶ月もあるんだ。俺にはドラゴンの血が流れている…まだ時間はある)
アンセルはそう思うと、黒い服とマントを優しく抱き締めたのだった。
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