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第一幕
VS透明人間⑤
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「ハルカが……透明人間だって?」
金髪の少女を見つめ返し、田中は乾いた喉を震わせた。
「ええ。被害者は透明人間だった」
櫻子は至極真面目な表情で頷いた。
「彼女は殺された時、透明になり姿が見えなくなっていたんです。部屋中に飛び散った彼女の返り血も、匂いも。彼女の命が尽き果てて消えて無くなるまで、透明なままだった。だから吉村さんは部屋に戻った時、奥さんの死体に気がつかなかった」
「…………!」
彼女の口調は淀みなかった。田中は思わず顔を強張らせ、息を飲んだ。
そう、確かに自分の妹、殺されたハルカもまた透明人間だった。
自分と妹には、透明人間の素質があった。
それが血筋なのか、育った環境なのかは分からない。彼女もまた、兄の背中を追うように、程なくして透明能力を発現した。二人揃ってこの特殊能力に目覚めた後は、一緒になって散々悪事を働いてきたのだ。窃盗や暗殺など、『裏』の世界ではそこそこ名の知れる存在ですらあった。
ところがつい最近になって、妹はだんだん兄である自分のことを避けるようになってきた。
『裏稼業』の連絡はお互い取り合っていたものの、彼女はある日突然、居場所も言わず逃げるようにこのペンションに引っ越した。挙句「もう裏稼業をやめたい」と言い出した。
残念だが、一度でも足を踏み入れた闇の世界から、そう簡単に抜け出せるものではない。闇の世界の住人の『目』は、至る所に光っている。どうしてもやめたいというのであれば、それ相応のオトシマエを付けなくてはならない。自分の身を守るためにも、田中は仕方なく、妹を始末することにした。
「…………」
だがもちろんこんなことは、誰にも明かしたことはない。汗や匂い、そして流した血まで透明になってしまうのは、二人だけの秘密だった。それを利用して、田中は今回の殺人に臨んだのだ。出来れば命が尽きた後も透明のままでいて欲しかったが、あいにく事はそう上手くは運ばなかった。だが、そもそも能力の秘密を知らない限り、普通に考えてバレるはずがないのだ。田中は目の前の少女をじっと見据えた。この小娘は一体どうやって妹の能力を……。
ソファの上で堂々と振る舞う少女に、田中は眉をひそめ反論した。
「……馬鹿馬鹿しい。そんな突拍子もない仮説、誰が信じるものか!」
「聞いてくださいよ、『証拠はあるのか』って」
「……なんだと?」
ジャージ姿の女子高生は、真顔で睨みつける田中を見つめ返し、不敵に笑ってみせた。有無を言わせないその表情に、先ほどまで余裕たっぷりだった田中はゴクリと唾を飲み込んだ。
一体、これはどういうことだ?
なぜ私が、こんな年端も至らない少女に気圧されている?
証拠?
有り得ない。そんなものはあるはずがない。
私は透明人間だぞ。
カメラにも、闇の世界の住人たちにさえ見つけられない、史上最も稀有な存在。
証拠なんて残りっこない。
絶対に不可能だ。
絶対に。
絶対に。
絶対に……!
「証拠は……」
やがて田中は少女を食い入るように見つめ、喉の奥から声を絞り出した。
「証拠はあるのか?」
「…………」
田中の問いかけに、少女は黙ってポケットから一枚の証拠を取り出した。
「それは……?」
彼女が田中に見せたのは、一枚のトランプだった。
「トランプッスよ。昨日の晩、死体が見つかるまで私たちが部屋でやっていた、トランプ」
櫻子はゆっくりとカードを裏返した。
「!」
「見てください。このカード、血が着いています」
「ち、血だと……?」
田中は眉をひそめた。櫻子の指差すトランプの端に、確かに小さな赤黒い痕が見て取れた。
「ええ。被害者が発見された時、私たちは三人とも同じ部屋にいた。それから吉村さんも私たちも一緒に大広間に集まったので、部屋には戻っていません。おかしいっスよね。それなのになぜ、私たちが昨日持って来たトランプに被害者の血が着いているんでしょう?」
「……! 最初に悲鳴が上がった時に、私が間違えて持って行ったのかも……」
「発見した時に慌てて持ってったのなら、逆に私たちの部屋にこのカードがあるはずがない」
田中の弁明に、櫻子はぴしゃりと言ってのけた。
「つまり……旦那さんに発見される前に、はるかさんは既に血を流していたということ。犯人ははるかさんの返り血を浴び、それに気づかずこの部屋で呑気にトランプをしていたってことの証拠なんスよ」
「ぐっ……」
鋭い眼差しに突き刺され、一瞬、田中の足元が揺らいだ。
「あるいは、返り血はどこかで洗い流してはいたんでしょうが……『透明』な血であるが故に、全部は洗い流しきれなかった。犯人は見落としてしまったんス。透明な血の付着した部分で、このカードに触れてしまった。そしてハルカさんの死後、透明の効果が消えこのカードに証拠が現れた」
「…………」
「この証拠が部屋にあった以上……真犯人は外部からやって来た者ではなく、あの夜トランプをやっていた我々三人の誰かということになります。ここまではいいっスか?」
「馬鹿な……そんなことが……。そんなことが、透明人間の証明になるとでも!?」
田中が歯軋りしながら叫んだ。
迂闊だった。
返り血は、全て念入りにシャワーで洗い流したはずだったのに。
アリバイ作りのために訪れた探偵の部屋に、まさか自ら血痕を運んでしまうなんて。
「……検死が済めば、詳しい死亡推定時刻は割り出せるし、なんなら私たちが泊まってる部屋の血液反応を調べてもらってもいい。閉ざされた密室で殺されたはずの被害者の血が、なぜこのカードに残されているのか」
「私じゃない……!」
「最初にオカシイと思ったのは、あの殺人現場の血の量っス」
「……!?」
「刃物を刺しっぱなしにしておくと、それが栓になって逆に出血の量は少ないんスよ。だから、普通はあんな部屋中に大量の血が飛び散るはずはない」
「!」
「それを見て思ったんス。もしかしたらあれは犯人が事件を起こす前の段階で、何らかの方法で被害者の血液を入手して、部屋にばら撒いておいたんじゃないかって。彼女の命が潰えるまで、その血は透明で目に見える事はないんスからね。そうやって犯人は、あたかもはるかさんが密室の中で即死したかのような状況を作り上げた」
「何をバカな……!」
田中は思わず視線を逸らした。櫻子は表情一つ変えずに、構わず続けた。
「実際には、被害者が意識を失って、栓になった部分から失血死するまで数十分の時間は合ったでしょう。これは密室殺人なんかじゃない。あの夜、犯人は鍵の空いた部屋に堂々と侵入し被害者を殺した。そして彼女が命を絶たれ能力が消えるまでの間に、犯人は私たちの部屋でトランプをしてアリバイ工作をしてたんスよ」
「それじゃ、君たちのどちらかが犯人だって可能性も、十分あるじゃないか! さっきから聞いてりゃ何だよ、透明人間の血がどうのこうのって! そんな馬鹿馬鹿しい証拠で、私を追い詰めただなんて思うな!」
「証拠?」
櫻子が鼻で笑った。その瞬間、彼女の声色が一変した。
「こっちだって別にそんな証拠、最初からアテにしてねぇよ。ただ、『三人のうち誰かだけ分かれば、もう十分だ』って言ってんだ」
彼女は血で汚れた証拠を顔の前に翳し、その向こう側から瞳の奥に妖しい色を光らせ田中を睨んだ。
殺される……!
その瞬間、目の前の小柄な少女から明らかな殺意を感じ、田中は思わずたじろいだ。
この娘、ヤバい。
この目は、犯人を追い詰めるどうこうじゃなく……この私を仕留めにきている。
幼少の頃から闇の世界で育った、彼の本能がそう告げていた。
「う……うわあああっ!」
悲鳴を上げながら、田中は転がるように大広間を飛び出した。
妹の血は、数ヶ月前わざと彼女を献血に誘い、その際にこっそり入手した。透明な能力を使えば、誰にも見つからず盗むなんて朝飯前だ。万が一妹が死んだ時に、その体や血が透明なままじゃなかった場合にと考えた偽装工作が、逆に仇になってしまった。
田中は走りながら着ていた服を脱ぎ、急いで全裸になった。体を透明にしてしまえば、あの小娘にも姿は捉えられない。何とか、逃げ切らなければ……!
大きな音を立てペンションの玄関を開けると、彼は闇雲に森の中を走った。こんなことになるなら、最初から最後まで透明なまま妹を暗殺していれば良かった。欲を出し、アリバイ工作なんてしなければ……能力がバレるハズがないと、油断していたとしか言いようが無い。まさか探偵の助手に、あんな少女が……。
「くそ! くそ……ぐッ!」
森の真ん中辺りで、突然背後から巨大な何かにのしかかられ、田中は勢いよく地べたに叩きつけられた。
「ば……馬鹿なッ!?」
田中は目を見開いた。
見えないはずなのに。
一体どうやって、透明になった私の居場所がわかったんだ!?
頭の中は混乱したまま、彼は見えない何かに押さえつけられた。必死に首を曲げ、かろうじて上空を見上げると……。
彼の視線の先には、漆黒の翼を生やしたバケモノが立っていた。
「な……!?」
「透明人間ねぇ。あー、思い出したぜ」
「……!」
「あっちの世界じゃ、その『びっくり手品』で随分小遣い稼ぎしたみてえだが」
「お、お前は!?」
「三下風情が、天狗に勝てると思ったか?」
「天狗だって……!?」
田中は必死に抵抗を試みたが、身動き一つ取れなかった。彼の目の前で、鼻の長い能面を被ったバケモノが宙に羽ばたき、両手を天に掲げた。
「ひぃ……助けて! こ、殺される!!」
「バーカ……」
星空を背景に、宙に浮いた少女が紅く光る仮面の奥で心底愉しそうに嗤った。
「殺しゃしねぇよ。ただ、今からお前が自首したくなるまで、もう二度と消えない傷を与え続けるだけだから……」
「ぎ……!」
「……ま、覚悟しやがれ」
「ぎゃあああああああああああああ!!」
闇夜の下に、漆黒の黒い羽が舞う。
ペンションの近くの森に、誰にも聞こえない透明な叫び声が何度も何度も響き渡った。
□□□
「警部!」
「なんだ?」
「その……宿泊客の一人が、『自分が犯人だ』と自首してきています」
「なんだって? そんな馬鹿な」
「詳しい検死結果や死亡推定時刻が出たんですが、彼の証言と一致するところが多々あります。何より彼の泊まっていた部屋の風呂場からも、被害者の返り血を洗い流した跡が……」
「おいおい、どうなってんだよ。吉村が犯人じゃなかったってのか? で、その男はどこだ?」
「大広間です……でも」
「でも、なんだ?」
「ちょっと彼、半狂乱になってまして……。近くの森で全裸になってるところを発見されたんですが、野獣にでも襲われたのか、さっきからずっとガタガタ震えっぱなしで……」
「フン。自分の犯した罪の大きさに、今更気がついたか。やれやれ。その自白が本当かどうか、詳しく話を聞こうじゃないか……」
□□□
「やっぱり……透明人間はいなかったのか……」
「タリメーだろ。馬鹿言ってねえで、さっさと帰るぞ」
田中を連行して行ったパトカーを見つめながら、坂本はがっくりとうな垂れた。その手には、まだ例の妖しげな透明人間探査機が握られている。助手席に座り、櫻子が落ち込む坂本を冷たく突き放した。
「いい加減、諦めろよ。透明人間なんていやしねーよ」
「櫻子君。僕はいつになったら、事件を解決できるんだろうか……」
「バーカ……」
運転席に乗り込んできた坂本がハンドルに額をくっつけて、深いため息をついた。落ち込む探偵に向かって、櫻子はポケットから取り出した真新しい棒突きキャンディーを投げてよこした。
「まずはその、透明人間がいるとか天狗を見たとか。ホントその頭からどうにかしろよ」
「フェ狗はいるんだって! 僕はフォの目で見たんだ。今でも週に三回ファ見るね」
「やっぱこいつアホだ」
坂本はキャンディーを受け取ると、櫻子の言葉に目を輝かせ力説し出した。勢いよく踏み込まれたアクセルに、エンジンが唸りを上げる。二人を乗せたオンボロの軽自動車は、山を下りやがて都会の喧騒の中へと戻って行くのだった。
《続く》
金髪の少女を見つめ返し、田中は乾いた喉を震わせた。
「ええ。被害者は透明人間だった」
櫻子は至極真面目な表情で頷いた。
「彼女は殺された時、透明になり姿が見えなくなっていたんです。部屋中に飛び散った彼女の返り血も、匂いも。彼女の命が尽き果てて消えて無くなるまで、透明なままだった。だから吉村さんは部屋に戻った時、奥さんの死体に気がつかなかった」
「…………!」
彼女の口調は淀みなかった。田中は思わず顔を強張らせ、息を飲んだ。
そう、確かに自分の妹、殺されたハルカもまた透明人間だった。
自分と妹には、透明人間の素質があった。
それが血筋なのか、育った環境なのかは分からない。彼女もまた、兄の背中を追うように、程なくして透明能力を発現した。二人揃ってこの特殊能力に目覚めた後は、一緒になって散々悪事を働いてきたのだ。窃盗や暗殺など、『裏』の世界ではそこそこ名の知れる存在ですらあった。
ところがつい最近になって、妹はだんだん兄である自分のことを避けるようになってきた。
『裏稼業』の連絡はお互い取り合っていたものの、彼女はある日突然、居場所も言わず逃げるようにこのペンションに引っ越した。挙句「もう裏稼業をやめたい」と言い出した。
残念だが、一度でも足を踏み入れた闇の世界から、そう簡単に抜け出せるものではない。闇の世界の住人の『目』は、至る所に光っている。どうしてもやめたいというのであれば、それ相応のオトシマエを付けなくてはならない。自分の身を守るためにも、田中は仕方なく、妹を始末することにした。
「…………」
だがもちろんこんなことは、誰にも明かしたことはない。汗や匂い、そして流した血まで透明になってしまうのは、二人だけの秘密だった。それを利用して、田中は今回の殺人に臨んだのだ。出来れば命が尽きた後も透明のままでいて欲しかったが、あいにく事はそう上手くは運ばなかった。だが、そもそも能力の秘密を知らない限り、普通に考えてバレるはずがないのだ。田中は目の前の少女をじっと見据えた。この小娘は一体どうやって妹の能力を……。
ソファの上で堂々と振る舞う少女に、田中は眉をひそめ反論した。
「……馬鹿馬鹿しい。そんな突拍子もない仮説、誰が信じるものか!」
「聞いてくださいよ、『証拠はあるのか』って」
「……なんだと?」
ジャージ姿の女子高生は、真顔で睨みつける田中を見つめ返し、不敵に笑ってみせた。有無を言わせないその表情に、先ほどまで余裕たっぷりだった田中はゴクリと唾を飲み込んだ。
一体、これはどういうことだ?
なぜ私が、こんな年端も至らない少女に気圧されている?
証拠?
有り得ない。そんなものはあるはずがない。
私は透明人間だぞ。
カメラにも、闇の世界の住人たちにさえ見つけられない、史上最も稀有な存在。
証拠なんて残りっこない。
絶対に不可能だ。
絶対に。
絶対に。
絶対に……!
「証拠は……」
やがて田中は少女を食い入るように見つめ、喉の奥から声を絞り出した。
「証拠はあるのか?」
「…………」
田中の問いかけに、少女は黙ってポケットから一枚の証拠を取り出した。
「それは……?」
彼女が田中に見せたのは、一枚のトランプだった。
「トランプッスよ。昨日の晩、死体が見つかるまで私たちが部屋でやっていた、トランプ」
櫻子はゆっくりとカードを裏返した。
「!」
「見てください。このカード、血が着いています」
「ち、血だと……?」
田中は眉をひそめた。櫻子の指差すトランプの端に、確かに小さな赤黒い痕が見て取れた。
「ええ。被害者が発見された時、私たちは三人とも同じ部屋にいた。それから吉村さんも私たちも一緒に大広間に集まったので、部屋には戻っていません。おかしいっスよね。それなのになぜ、私たちが昨日持って来たトランプに被害者の血が着いているんでしょう?」
「……! 最初に悲鳴が上がった時に、私が間違えて持って行ったのかも……」
「発見した時に慌てて持ってったのなら、逆に私たちの部屋にこのカードがあるはずがない」
田中の弁明に、櫻子はぴしゃりと言ってのけた。
「つまり……旦那さんに発見される前に、はるかさんは既に血を流していたということ。犯人ははるかさんの返り血を浴び、それに気づかずこの部屋で呑気にトランプをしていたってことの証拠なんスよ」
「ぐっ……」
鋭い眼差しに突き刺され、一瞬、田中の足元が揺らいだ。
「あるいは、返り血はどこかで洗い流してはいたんでしょうが……『透明』な血であるが故に、全部は洗い流しきれなかった。犯人は見落としてしまったんス。透明な血の付着した部分で、このカードに触れてしまった。そしてハルカさんの死後、透明の効果が消えこのカードに証拠が現れた」
「…………」
「この証拠が部屋にあった以上……真犯人は外部からやって来た者ではなく、あの夜トランプをやっていた我々三人の誰かということになります。ここまではいいっスか?」
「馬鹿な……そんなことが……。そんなことが、透明人間の証明になるとでも!?」
田中が歯軋りしながら叫んだ。
迂闊だった。
返り血は、全て念入りにシャワーで洗い流したはずだったのに。
アリバイ作りのために訪れた探偵の部屋に、まさか自ら血痕を運んでしまうなんて。
「……検死が済めば、詳しい死亡推定時刻は割り出せるし、なんなら私たちが泊まってる部屋の血液反応を調べてもらってもいい。閉ざされた密室で殺されたはずの被害者の血が、なぜこのカードに残されているのか」
「私じゃない……!」
「最初にオカシイと思ったのは、あの殺人現場の血の量っス」
「……!?」
「刃物を刺しっぱなしにしておくと、それが栓になって逆に出血の量は少ないんスよ。だから、普通はあんな部屋中に大量の血が飛び散るはずはない」
「!」
「それを見て思ったんス。もしかしたらあれは犯人が事件を起こす前の段階で、何らかの方法で被害者の血液を入手して、部屋にばら撒いておいたんじゃないかって。彼女の命が潰えるまで、その血は透明で目に見える事はないんスからね。そうやって犯人は、あたかもはるかさんが密室の中で即死したかのような状況を作り上げた」
「何をバカな……!」
田中は思わず視線を逸らした。櫻子は表情一つ変えずに、構わず続けた。
「実際には、被害者が意識を失って、栓になった部分から失血死するまで数十分の時間は合ったでしょう。これは密室殺人なんかじゃない。あの夜、犯人は鍵の空いた部屋に堂々と侵入し被害者を殺した。そして彼女が命を絶たれ能力が消えるまでの間に、犯人は私たちの部屋でトランプをしてアリバイ工作をしてたんスよ」
「それじゃ、君たちのどちらかが犯人だって可能性も、十分あるじゃないか! さっきから聞いてりゃ何だよ、透明人間の血がどうのこうのって! そんな馬鹿馬鹿しい証拠で、私を追い詰めただなんて思うな!」
「証拠?」
櫻子が鼻で笑った。その瞬間、彼女の声色が一変した。
「こっちだって別にそんな証拠、最初からアテにしてねぇよ。ただ、『三人のうち誰かだけ分かれば、もう十分だ』って言ってんだ」
彼女は血で汚れた証拠を顔の前に翳し、その向こう側から瞳の奥に妖しい色を光らせ田中を睨んだ。
殺される……!
その瞬間、目の前の小柄な少女から明らかな殺意を感じ、田中は思わずたじろいだ。
この娘、ヤバい。
この目は、犯人を追い詰めるどうこうじゃなく……この私を仕留めにきている。
幼少の頃から闇の世界で育った、彼の本能がそう告げていた。
「う……うわあああっ!」
悲鳴を上げながら、田中は転がるように大広間を飛び出した。
妹の血は、数ヶ月前わざと彼女を献血に誘い、その際にこっそり入手した。透明な能力を使えば、誰にも見つからず盗むなんて朝飯前だ。万が一妹が死んだ時に、その体や血が透明なままじゃなかった場合にと考えた偽装工作が、逆に仇になってしまった。
田中は走りながら着ていた服を脱ぎ、急いで全裸になった。体を透明にしてしまえば、あの小娘にも姿は捉えられない。何とか、逃げ切らなければ……!
大きな音を立てペンションの玄関を開けると、彼は闇雲に森の中を走った。こんなことになるなら、最初から最後まで透明なまま妹を暗殺していれば良かった。欲を出し、アリバイ工作なんてしなければ……能力がバレるハズがないと、油断していたとしか言いようが無い。まさか探偵の助手に、あんな少女が……。
「くそ! くそ……ぐッ!」
森の真ん中辺りで、突然背後から巨大な何かにのしかかられ、田中は勢いよく地べたに叩きつけられた。
「ば……馬鹿なッ!?」
田中は目を見開いた。
見えないはずなのに。
一体どうやって、透明になった私の居場所がわかったんだ!?
頭の中は混乱したまま、彼は見えない何かに押さえつけられた。必死に首を曲げ、かろうじて上空を見上げると……。
彼の視線の先には、漆黒の翼を生やしたバケモノが立っていた。
「な……!?」
「透明人間ねぇ。あー、思い出したぜ」
「……!」
「あっちの世界じゃ、その『びっくり手品』で随分小遣い稼ぎしたみてえだが」
「お、お前は!?」
「三下風情が、天狗に勝てると思ったか?」
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「ひぃ……助けて! こ、殺される!!」
「バーカ……」
星空を背景に、宙に浮いた少女が紅く光る仮面の奥で心底愉しそうに嗤った。
「殺しゃしねぇよ。ただ、今からお前が自首したくなるまで、もう二度と消えない傷を与え続けるだけだから……」
「ぎ……!」
「……ま、覚悟しやがれ」
「ぎゃあああああああああああああ!!」
闇夜の下に、漆黒の黒い羽が舞う。
ペンションの近くの森に、誰にも聞こえない透明な叫び声が何度も何度も響き渡った。
□□□
「警部!」
「なんだ?」
「その……宿泊客の一人が、『自分が犯人だ』と自首してきています」
「なんだって? そんな馬鹿な」
「詳しい検死結果や死亡推定時刻が出たんですが、彼の証言と一致するところが多々あります。何より彼の泊まっていた部屋の風呂場からも、被害者の返り血を洗い流した跡が……」
「おいおい、どうなってんだよ。吉村が犯人じゃなかったってのか? で、その男はどこだ?」
「大広間です……でも」
「でも、なんだ?」
「ちょっと彼、半狂乱になってまして……。近くの森で全裸になってるところを発見されたんですが、野獣にでも襲われたのか、さっきからずっとガタガタ震えっぱなしで……」
「フン。自分の犯した罪の大きさに、今更気がついたか。やれやれ。その自白が本当かどうか、詳しく話を聞こうじゃないか……」
□□□
「やっぱり……透明人間はいなかったのか……」
「タリメーだろ。馬鹿言ってねえで、さっさと帰るぞ」
田中を連行して行ったパトカーを見つめながら、坂本はがっくりとうな垂れた。その手には、まだ例の妖しげな透明人間探査機が握られている。助手席に座り、櫻子が落ち込む坂本を冷たく突き放した。
「いい加減、諦めろよ。透明人間なんていやしねーよ」
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「バーカ……」
運転席に乗り込んできた坂本がハンドルに額をくっつけて、深いため息をついた。落ち込む探偵に向かって、櫻子はポケットから取り出した真新しい棒突きキャンディーを投げてよこした。
「まずはその、透明人間がいるとか天狗を見たとか。ホントその頭からどうにかしろよ」
「フェ狗はいるんだって! 僕はフォの目で見たんだ。今でも週に三回ファ見るね」
「やっぱこいつアホだ」
坂本はキャンディーを受け取ると、櫻子の言葉に目を輝かせ力説し出した。勢いよく踏み込まれたアクセルに、エンジンが唸りを上げる。二人を乗せたオンボロの軽自動車は、山を下りやがて都会の喧騒の中へと戻って行くのだった。
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