天使の隠れ家

水瀬 文祐

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天使の隠れ家

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 当たり前に明日がくる。そう信じて、いや、きっとそんなこと考えもせず、僕は眠りについた。そして目覚めたら、明日はきた。きたけれど、その明日で僕は、すべての記憶を失っていた。
 ベッドから起き上がってまず感じたのは、記憶の有無じゃない。これが自分の体なのか、という自意識の歪み。他人の器の中にするりと入り込んでしまったような羞恥と、申し訳なさ。それが僕の意識を支配していた。
 慌てて立ち上がり、鏡を探して、バスルームはどっちだ、ということが分からない。手当たり次第に扉を開けて鏡の前に辿り着いたとき初めて、僕はどうやら記憶を喪失しているらしいということに気づいた。
 鏡の中に映っていた若い男の顔に僕は見覚えがなかったし、名前すら思い出せない。不意にレゴブロックというものがあったなと思う。名前は覚えていないのに、レゴブロックのことを覚えているのは滑稽でさえあった。
 そのレゴブロックで、西洋の城を作ったことがあった。説明書の通りに。だが、僕より年長の子ども(兄弟だろうか?)が癇癪を起して徹底的にそれを壊し尽くして、説明書をどこかに捨ててしまった。僕は自分の手で城を作ってきたはずなのに、説明書がないからもう二度と再現することができない。
 記憶をなくすということは、それに似ていた。
 まずは情報が欲しい、と思った。成人男性なら免許証を有している可能性が高い(免許証の存在など、日常的な常識は覚えているようだ)と考え、鞄の中や財布、クローゼットのコートのポケットなどを探ったが、それらしいものは見つからなかった。その代わり、『ポイント1276 15時』と書かれた紙片を見つけた。恐らく何か座標の位置を示すものと、待ち合わせ時間だろうと推察すると、このポイントには僕を知っている誰かが現れる可能性が高いと考えて、財布と一緒にズボンのポケットに押し込んだ。自分のものなのに、盗みを冒しているようで気が引けたが、必要になるかもしれない。やむをえない、と言い聞かせた。
 しかし僕は変わった性格だったようだ。日中の普段着のままベッドに潜り込んで寝ていたのは、前日それだけ疲労して着替えるのも億劫だったのか、単に着替える習慣がないのか。しかしシャツにもズボンにもプレスがきれいに入っていて、寝乱れた様子がない。よほど寝相がいいらしい。
 今の季節がいつか分からない。不思議なことに寝室とそれに連なるバスルームには窓が一切ない。だから外の様子を推し量るべくもないが、室内の気温から真夏や真冬ということはなさそうだ。念のためジャケットを羽織って、寝室を出た。
 寝室の向こうはリビングになっていて、ダイニングテーブルの上にはトーストとスクランブルエッグ、コーヒーが用意されて、湯気をたてている。それよりも僕がぎょっとしたのが、外へ通じるであろう扉の横にスーツを着た紳士的な老人が腰かけてじっと見つめていたことだ。
 彼は誰か?
 まず考えられるのは彼が僕の身内であるという可能性だ。年齢的に祖父。それ以外の可能性は単なる同居人? いや、こんな高齢者とルームシェアするだろうか。そもそも見渡してもリビングの他には僕のいた寝室ぐらいしかない。であればルームシェアは成立しない。なら、空き巣か? だが、こんな堂々とした空き巣がいるだろうか。それに金目のものは寝室にあった。財布の中も抜かれた形跡はない。現金もそれなりに入っていたし、クレジットカードもあった。
 僕は出方を待つため、とりあえずテーブルにかけることにした。食事は一人分しか用意されていない。老人は食べ終えたのかこれから食べるのか。見極めるためにコーヒーを手に取って啜ってみる。老人は穏やかな笑みを浮かべたまま、黙って見ている。僕はトーストを手にして齧った。バターもはちみつも塗っていない、ただのトーストだけどうまかった。食べ物を口にすることで初めて飢えを知り、僕はトーストを齧ってはスクランブルエッグにたっぷりケチャップをつけてかきこみ、皿の上のものを平らげてしまった。
「味はどうだったね」
 僕が食べ終えるのを待っていたかのように老人は声をかける。僕は振り向いて、「おいしかったです」と口にして、ごちそうさまでしたと言うべきか迷っていると、老人は自分の名前のことで僕が迷っていると勘違いし、「礼はいらんよ。わしはラグザ」と名乗った。
「ああ、どうも、ラグザさん。あの、ええっと、ここは僕の家です、よね?」
 そうだ、とラグザは頷いた。「正真正銘君の家だ」
「なら、あなたはどうしてここに」
 僕の問いにラグザは答えず、「それより、君の名前を聞いていないが」と痛いところを突いてきた。結局僕の身分の片鱗でも窺い知れるものはなかったのだ。ここは偽名であれなんであれ、名乗っておくしかない。問題なのは、ラグザが僕の本当の名前を知っていてとぼけている可能性があることだ。正直に記憶喪失であることを訴える手段もあったが、本能がそうすべきでないと強く警告していた。『記憶喪失であることを、他人に知られてはならない。』
「幸一郎……、如月幸一郎です」
 ほうほう、と老人はフクロウが鳴くように感心すると、「いい名じゃないか」と相好を崩した。
 ほっとして余裕ができた僕は、部屋の中をぐるりと見まわし、調度品や家電製品は揃っているように見えるが、生活感を感じさせない部屋だ、と思った。モデルルーム、という言葉が脳裏をよぎる。薄暗いなと思うと、中央の電灯が一か所点いているだけで、窓の類がやはりこの部屋にもなかった。こんな環境で暮らしていれば、昼夜の感覚もなくなる……、はっとして探すと、時計が一つもなかった。テレビを点けて時間を確認しようと思ってリモコンを操作しても点かない。見ると、そもそもテレビにケーブルがなかった。
 はりぼての部屋。そんな言葉が浮かんで身震いし、外へ出ようとすると、老人が杖で行く手を遮る。
「外には出ん方がいい。君の思う世界はそこにはありゃあせん」
「どういうことです」
 老人は杖を引っ込めると、ため息を吐いて、電灯を見上げながら眩しそうに目を細め、ぽつりぽつりと語り始めた。
「数年前まで、儂らにとっては理想の世界がそこには広がっておった。争いはなく、平和な世界。人類が平和の名の下に統一されるのも、そう遠いことではなかったのだ。だがある日、一人の女がそれを破壊した。構築されつつあった完璧で美しい秩序を、悍ましいやり方で粉砕したのだ。それからはあっという間だ。統一、というものの反動は大きかったのだな。世界中が戦火に包まれた。平和のために使うべき人の叡智は、野望と憎悪、憤怒、怨嗟、そうしたもののために使われ、世界を焼き尽くした」
 だから、と老人は疲れたように息を吐くと、「君は儂とここでのんびりチェスでも指そうじゃないか」とすがるようにそのグレーの瞳を向けてくると、突然顔が苦悶のために歪み、老人は杖を落として胸を押さえ、椅子から転げ落ちた。
 僕が助け起こした時には、老人は息をしていなかった。床に寝かせて、懸命に蘇生術を試してはみたが、駄目だった。誰かを呼んで来ようと考えて、扉の外へと飛び出した。
 そこはうららかな陽気の街路だった。左手脇を水路が流れていて、それに沿うようにソメイヨシノが咲いている。春だ、と僕は空気を吸い込んだ。薄暗い部屋にいたせいか、目がちかちかした。外の明るさに慣れない。手で庇を作って見渡してみても、人の気配がなかった。これだけの陽気で明るさなら、人の一人や二人歩いていても不思議じゃないのに。
 まず隣家の玄関先で懸命に人を呼んでみたが、誰かが出てくる様子も、中で人が動く気配もなかった。
 もっと大きい道路に出ればと思って駆けずり回ったが、どこまで行っても似たような街路が広がるばかりで、幹線道路のような、車通りの多い道には出られなかった。それどころか、道に路駐してある車は見かけても、持ち主の姿は見かけなかった。走っている車さえ見ない。
 途方に暮れて戻ろうと思っても、無我夢中で走ってきたため、どうやって戻ったらいいか分からなくなってしまった。どうしようか、と振り返ったとき、道路の逃げ水の先で人影が揺らめいていた。安堵して近寄ろうと考えて、ふと考え直す。これだけ探しても人に出会えないのに、唐突に出会うのはできすぎではないかと。なら逃げるか。でも、ひょっとしたら向こうも自分と同じ境遇で、途方に暮れているのかもしれない。それなら二人で協力した方がいい。
 結局、接触することにした。丸腰で出てきてしまったことをほんの僅かに後悔した。
 近づいてきたのは、自分よりも若そうな男だ。大学生くらいの年に見える。ゆったりとした白のトレーナーにジーンズ、アディダスのスニーカーと、これといって特徴のない男だった。顔の造作も整ってはいるが、それぞれのパーツが小さいせいで、男前、というところまではいかない。だが、浮かべている笑顔は人懐っこく、こちらの警戒心を解きほぐす効果があった。
「あっ、どうもー。ええっと」
「如月です」
 僕が名乗ると、若者の目が一瞬鋭くなったような気がしたが、再び見ると元の笑顔だった。見間違いだったのだろうか。
「如月サン。おれは篠宮っていいます。これでも一応地方公務員です」
 僕の抱く公務員のイメージはお堅いスーツに身を包んで、髪をびしっとセットして、磨き抜かれた革靴を履いて一分の隙も無い、そんな人物を想像してしまうのだが、目の前のだぼだぼのトレーナーを着ててろんてろんとした若者はまさか公務員に結びつかない。
「非番ですか」と訊いてみる。非番なら私服でも仕方ない。
「そうなんですよー。久しぶりの休みだったってのに、誰かさんが寝坊して起きたせいでね。おれが呼び戻されたってわけでー」
 篠宮の口調は軽薄な若者のそれだったが、その奥に老獪な蛇のような狡猾さを感じ取り、僕は背筋がぞくっとして思わず身構える。
 同時に篠宮は腰から銃器のようなものを抜くと、僕に向かって構える。それは一般的な銃よりも口径が大きく、半透明でネオンで光るシリンダーのような形だった。銃には何本ものケーブルが伸び、銃床のところで一つにまとまると、一本の太いケーブルとなって篠宮の腰に取り付けられた箱型の黒い物体と接続していた。
「如月サン。家に帰りましょうか。あのジジイ、ちゃんとテストしなかったのでね。もう一度眠りましょう」
 あのジジイ、というのが倒れた老人を指したのだということは分かった。途端に篠宮に対する不快感が噴出し、僕としても帰ることができるのは願ったりなのだが、彼の言うことには従いたくなくて、「いやだ」と首を振った。
「如月サン。我がままはだめですって。大人しく家に帰ってもらえれば、それで丸く収まるんですから」
「いやだ」と僕はもう一度繰り返した。
 あーもう、とうんざりしたように篠宮は髪の毛を掻き乱し、天を仰ぐと、手に持った銃を発射した。銃口からは雷光のような光が放たれたかと思うと、僕の背後にあった二階建て住宅を粉々に吹き飛ばした。家が建っていた残骸のような骨組みとも呼べないものだけが残り、後は粉のような瓦礫として辺りに降り注いだ。
「口答えしてんじゃねえよ。てめえは黙ってついてくりゃいいんだよ。余計な手間かけさせやがって。お前は大人しくおれたちの言うことを聞いてりゃいいの。そのための存在なんだから、お前はさあ」
 いらいらと足の爪先でアスファルトを何度も叩きながら、篠宮は「もう一度だけ言う」と銃を構え直し、僕に銃口を完全に向けてさっきまでとはまるで違う冷ややかで残酷な、斬れる刃のような声音で言った。
「家に帰るぞ。それでもう一回寝ろ。それだけでいい」
 銃は恐かった。でも、脅しに屈してしまう方がもっと恐ろしい、と僕の中の何かが命じていた。僕は大きく息を吸って答えを口にしようとする。篠宮の指は引き金にかかっている。なんだ、彼にも答えは分かってるんじゃないか、と思うと可笑しくて、気が楽になった。
「いやだ」
「じゃあ、消えろ。お前は不用品だ」
「いいや、消えるのは貴様だな」と女の鋭い声がどこからか響いてくる。
 誰だ、と篠宮が初めて狼狽を見せる。銃をあちこちにかざしながら、「出てきやがれ」と叫んでいる。
 すると、篠宮の左手にあたる民家の二階の窓が割れ、ロングコートを着た赤毛の女がそこから降ってくる。そして篠宮が照準を合わせるよりも早く懐に入り込むと、拳を鳩尾に叩き込み、篠宮がえづいて怯んだ隙に、コートをはためかせて腰のホルダーからナイフを抜いて、頸動脈を切り裂く。
 見とれるような流麗さだった。髪の赤が鮮烈に印象に残り、炎が水のように流れる、と僕は形容したくなった。
 篠宮は血が噴き出す首筋を押さえると、二歩三歩とよたよた後ろに下がりながら、銃の引き金を引こうとしたが、赤毛の女に手首を斬られて銃を取り落とし、口から血を吐きながら倒れ、動かなくなった。
 女はナイフの血を拭うと、立ち去ろうとした。それをどういうわけか彼女を呼び止めていた。
「どうして助けてくれたんですか」
 女は無感情に僕を眺めて、首を振った。「別に助けたわけではない」
「奴ら悪魔が隙を見せたからな。絶好の狩る好機だと思っただけだ」
「悪魔。彼らは悪魔ですか」
 彼らが悪魔なら、あの老人も悪魔で、さながらここは地獄だろうか。
「貴様、何も知らないのか?」
 僕は逡巡したが、記憶を失って何も覚えていないこと、ここまでの道中であったことを告白し、今は仮に如月幸一郎を名乗っていると告げた。
「如月……幸一郎だと。まさか、な」
 女は黒いロングコートを翻し、値踏みするように僕を眺めると、「私はメサイア006。モデル:エリスだ」とまるで機械のコードか何かを読み上げるように言った。僕が困惑しているのが伝わったのか、彼女はコートを脱いで、剥き出しになった肘を目の前に突きつけると、肘の先をスイッチのように押した。すると腕が三つに分かれ、見たこともないような複雑な構造で組み合わせられた金属の骨組みと、緑柱石色に光る液体が通る管とが現れる。
「私はアンドロイドだ。人間を模して造られた存在。そしてそのアンドロイドの基本理念や構造を生み出したのが、如月幸一郎博士だ」
「如月幸一郎、博士」
「そうだ。だが安心しろ。お前のことじゃない。如月博士は何年も前に事故死している」
 彼女は腕を元に戻すと、軽く振った。挙動が正確かどうか確かめているようだった。
「如月幸一郎博士は、人間の意識から『否定』の感情を抜き取ることで平和を築こうとした。そしてその方法を確立したが、道半ばで死んだ。しかし博士の理想は生き続け、世界を統一する目前まで迫った」
「どうなったんです?」
 メサイア006は不敵な笑みを浮かべると、「私のマスターが『否定』の感情を人間に戻した」と自分の功績を誇るように言った。
「そんなことしたら」と僕が絶句していると、彼女はそうだな、と頷き、「世界は戦乱の嵐に包まれた。マスターは魔女扱いだ」と肩を竦めて首を振った。
「なら、あなたは悪人ですか」
 メサイア006は僕を一瞥すると、「我らは善悪の下に生きていない。だが、お前の敵でもない」と静かに言い放った。
 そうですか、と安堵する。彼女、メサイア006がじっと見つめていることに気づいて、「なんです?」と首を傾げる。
「貴様、ここがなんと呼ばれているかも知らないのか」
 無言で頷く。メサイア006は「とんだ記憶喪失だ」とため息を吐き、コートを羽織り直した。
「いいか。ここは『天使の隠れ家』と呼ばれる実験施設だ。私はマスターからここで何の実験をしているか突き止めるよう派遣された。あわよくば、施設を破壊しろともな」
 実験施設。言われても実感は湧かなかったが、それならば無人なのも頷ける。なら、その実験施設で記憶を失っていた自分は一体なんなのか。不安が足先から侵食するように上って来る。裸の足に無数の蛭がいて、血を流しているのに痛くない。そして蛭たちはどんどん上って来る。そんな実体を伴わない不安だった。
「私の推論では、お前はその実験対象の人間だ」
「僕が、実験対象?」
 メサイア006はおもむろに頷く。
「そうだ。記憶を失っていることも、その実験と関りがあるに違いない」
 はっと思い出して、僕はメサイア006にコートのポケットに入っていたメモを見せる。
「何かの座標だと思うんだけど」
「ちょっと待て」と言うと彼女は目を瞑った。
 僕は身を守るものがほしいと思って篠宮の死体に近付き、彼が持っていた光線銃とバッテリーボックスのようなものを外すと、自分の腰に取り付けた。銃身にエネルギー残量が表示されるが、篠宮は充填を怠っていたのか、あと一発分のエネルギーしか残っていなかった。まあ、ないよりましかと考えていると、メサイア006の方も位置を掴んだようで、「ここから北西にある空き地だ」と指さした。
 あのさ、と僕は走りながらエリスに声をかける。メサイア006では長いので、エリス、と呼ぶことにしたら、彼女はアンドロイドらしくなく、恥ずかしそうに顔を背けた。僕は彼女についていくことにした。あのままあそこにいても、きっと第二第三の篠宮が現れて、僕を連れ戻そうとするだろう。それなら、得体は知れないけど、助けてくれた彼女について行きたい、そう思ったのだった。彼女の方も思ったよりあっさり了承してくれたので、拍子抜けしたくらいだ。
「実験者たちは今のこの状況を把握しているんだろうか」
 しているだろうな、と事もなげにエリスは言う。
「その上で妨害を寄越さないということは、この状況が奴らにとっても望ましい状況だということだ」
「それって、罠にはまりに行ってるってこと?」
 エリスはちらと僕を一瞥し、「そうだ。身の安全は保証しない」とぶっきらぼうに言う。
 自分の身は自分で守るさ、と僕は腰の光線銃を見やる。
 北西の空き地に辿り着くと、そこは建築資材が置かれただけの空き地で、他に何もなさそうだった。エリスと二人で調べたが怪しいものは何一つなく、諦めかけたときだった。「地中か」とエリスが呟いて、背中から手榴弾を抜くと、空き地に向かって放り、「伏せろ!」と叫んだ。懸命に逃げて伏せると、爆音が響き渡って衝撃が体を突き抜け、土や小石が体に降り注いだ。
 衝撃で痺れた体と鼓膜に伴う平衡感覚を何とか維持しようと試みながら立ち上がると、地面に大穴が空き、その穴の中に、あの爆発をもものともしない金属の箱が転がっていた。
「中身が無事じゃなかったら、どうするつもりだったのさ。15時まで待てば……」
 エリスは僕の話など聞く耳持たないように穴の中に飛び降り、箱を拾い上げて戻って来る。
「恐らく15時は待ち合わせの時刻じゃない」
 そう言ってエリスは箱を地面に置くと、ダイヤルを回す。すると箱の窓にデジタル表示の時計が現れ、15時にダイヤルを合わせると、箱が開いた。中には書類の束と、メモリーチップが一つ入っていただけだった。
 エリスは書類に一通り目を通すと、口に手を当てて押さえ、目を見開くと、「なるほどな」と呟いて書類を僕に押し付け、メモリーチップをコートのポケットにしまう。
 僕はそんなエリスの様子を不審に思いながらも書類に目を落とす。
「ここまで辿り着くことができた僕へ
 よくここまで辿り着けたね。そんな幸運が二度も起こった奇跡を、僕は祝いたいと思う。
 君は気づいているか分からないが、事実を伝えておきたい。
 君は人間ではない。
人間を精巧に模して造られたアンドロイドだ。そして素体名はジーザス107、モデル:如月幸一郎。そう、如月幸一郎博士の姿を模った、人間のまがい物なんだ、僕らは。
 僕らは、というのは、僕の人格データを消去された後の人格が君だからだ。体は一つ。でも、君と僕の精神は違う。アンドロイドが精神、という言葉を使うと人間は顔を顰める。でも、それ以外僕らの状況を説明する言葉があるかい? 僕は僕で、君は君だ。
 この施設を作った奴らは、死んだ如月幸一郎博士の代わりをアンドロイドにさせようと考えた。なぜなら博士は今世紀最高の頭脳をもつと称えられ、世界を一度は完全な平和に導こうとしたのだからね。だが、それは別に詳しく君が知る必要のないことだ。
姿は精巧に造り上げたが、精神データのインストールがうまくいかない。そこでこの実験施設『天使の隠れ家』でデータインストールの実験を繰り返しているのさ。
 やつらが期待しているのは、如月幸一郎博士の記憶を完全にもっている素体だ。だが、何度やっても記憶に障害が出る。そのたびにデータを消去して再インストールし、素体が耐えきれなくなったら新しい素体に入れ替える、そんな悪魔のような実験を繰り返している。
 僕は監視員の一人、藤宮と名乗る男だったが、彼を殺して、メモリーチップを入手した。それは輸送中だったもので、記憶障害を克服した人格データをインストールするチップだ。それをインストールさえすれば、僕らの人格は消し飛んで、『如月幸一郎博士』が再びこの世に蘇るわけだ。
 なぜ破壊しなかったのかって?
 怖かったのさ。今のこの世界を救えるのは如月幸一郎博士だけだと考える奴らは馬鹿げている。個人が神のごとき力で万人を救うなんて、宗教を通り越してオカルトじみてる。でも、もしそれが事実なら? その人格データを破壊した僕は歴史の大罪人になるぜ。だから僕は、もう一度僕に賭けてみることにしたのさ。僕の隠したチップに君が辿り着くことができたなら、君は如月博士に勝ったことになるんだ。だから、君は君として生きていってくれ。メモリーチップを破壊し、ここを出て、自由を謳歌してくれ。それが、それだけが僕の願いだ。
 無責任のように聞こえたら済まない。でも、僕は僕を信じている。僕らは、『如月博士』なんかじゃない。れっきとした、一個の人格なんだ。
 どうか幸運を。もう一人の僕へ。」
 それ以外の書類は、この施設の見取り図や僕の設計図などだった。
 勝手だよ、と呟いて僕は天を仰ぐ。そして腰の光線銃を構えてエリスに向け、「チップを渡して」と手を差し出す。
「それはできない相談だな。これはマスターに渡すべきものだからだ」
 エリスはコートのポケットに手を突っ込んだまま向き直って、憐れむような視線を向ける。
 見るな。僕をそんな目で見るな。僕を憐れむな。
「何度も言いたくない。エリス、チップを渡すんだ」
 ふうとエリスはため息を吐くと、「分かった」と両手を挙げて肩を竦めてみせる。「破壊するのか」
「それが僕らの意思だ」
 エリスは思案気に俯くと、「僕ら、か」と呟いた。
「渡す前に一つだけ聞いてくれないか」
「時間稼ぎかい?」と苛立って言う。ああ、この苛立ちという感情も、造られた電気信号でしかないのだろうか。僕がこれまで信じていた感情というものもすべて。老人を必死に蘇生しようとした感情も、アンドロイドが故の救援行為に過ぎないのか。エリス、君も同じように感じているのかい。
 いや、とエリスは首を振って、ゆっくりと近寄って来る。
「私はメサイア006だ。同時期に005という姉妹機が造られた。造ったのは『天使の隠れ家』とは別の組織だ。だが、ここよりイカレた実験をしている組織だった。だってそうだろう。人類の敵である女をモデルにアンドロイドを造り、『メサイア』なんてコードネームをつけるんだ。
 私は005を姉のように慕っていた。君なら、慕っているという感情を模した、だろうと言うかな。だが、私の中にある想いは、そうとしか表現できないんだ。アンドロイドに感情はないと奴らは言うが、なら、私の中にあるこれは何なんだ。分かるか、『如月幸一郎』。
 姉は私よりも感情に関して過敏だった。実験動物や同じアンドロイドを殺戮したりする訓練に対して嫌悪を覚え、組織に反抗するようになった。私は姉に表面だけでも組織に従順にと諫めたけど、姉は私の言葉すら組織におもねる邪悪な存在のものとみなして、聴く耳をもたなくなってしまった。
 そうしてある日、私に任務が下された。任務はメサイア005の破壊だった。私は刃を前に姉の前に立った。私の技量では姉には敵わない。私は姉に破壊してもらうつもりで行ったんだ。私には、姉を殺すことなんてできない。だから、殺してもらおうと、ただ直線的に突っ込んだ。反撃で息の根を止めてくれる、と信じながら。
 だが、姉は反撃しなかった。私が向かってくるのを、微笑んで受け入れたんだ。その姉の首を、私は刎ねた。そして私は組織を抜けて、マスターに拾ってもらった。
 教えてくれ、『如月幸一郎』。あのとき私が感じた痛みは、ただの信号なのか。胸を何度引き裂いても余りあるような痛みは、人間のものとは違うのか?」
 違うね、という声が割って入る。
「所詮貴様らは人形だ。感情などというものは存在しない。それは人間だけに許されたものだ」
 気づくと黒いスーツに身を纏った集団に囲まれていた。みな光線銃を構えている。その中の白衣の男が不愉快そうに顔を歪めて吐き捨てる。若そうに見えるが、髪には白いものがちらほらと混じっている。意外と年かさなのかもしれない。
「さあ、人形ども。チップを渡せ。そうすればせいぜい有効利用してやる。いずれはスクラップだがな」
 そう言って白衣の男は狂ったように笑い声を上げた。
 エリスはポケットからチップを出して僕の手に握らせる。「お前に託すぞ。マスターに届けてくれ」
 言いかける僕の口を彼女は唇で封じると、腰に手を回して手榴弾や拳銃を僕のベルトに取り付ける。
「はははは、模造品が、恋愛ごっこか! 笑わせる」
 白衣の男を睨みつけると、彼は臆したように一歩下がり、「は、早くチップを寄越せ」と上擦った声で叫んだ。
「僕に届ける義理はあるかい?」
 キスの後のエリスは、揺れる赤い髪が炎のようで、その真紅の瞳まで熱く燃えているようで、美しかった。人が火を恐れ、その美しさに見入るように、僕もエリスという炎をじっと見つめた。
「代価なら今支払った」
 エリスは揺れる炎のように微笑むと、腰のナイフに手を伸ばし、白衣の男に向き直って腰を落とした。
「また、会えるよな?」
「マスターのところで会おう」とエリスは頷き、集団に向けて猛然と突進する。
 僕は牽制で光線銃を一発放ち、コンクリートの塀を乗り越えて向こう側に降りた。光の矢が空を飛び交っている。一度だけ振り向き、エリスの無事を祈った後で、僕はただ施設の出口に向かって走った。
もう一人の僕が残してくれた見取り図を頼りに、エリスという同朋の助けを得て、僕は今、外の世界へと飛び出そうとしている。
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