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第7話『優しい手』

(061)【2】蒼の風(3)

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(3)
 腕をだらりと下げ、動かす気配のない少年がいる。彼はカイ・シアーズがその腕を切断し、繋いでやった少年だろう。動き回れる程度には回復したようだ。カイ・シアーズの治癒の術だけではなく、彼らの薬剤に関する知に救われたのだろう。
 カイ・シアーズは三人の忍びの方を向き、指先から肩まで分厚いグローブに覆われた右腕を差し向けた。その指には小さな宝石がつままれている。実際には宝石ではなく、見事にカットされ、磨かれたただの石だが、魔力が込められている。紺呪石だ。
 小石ながら、微かに振動する程に大きい力が込められている。
「私の事はよく知っているでしょう。動くのは得策ではありませんよ」
 冷たく睨む青い目は、伊達眼鏡という緩衝材を間に挟みながらも、鋭い。普段とかけ離れた凄みをもって威を放っている。
 対して、忍びのリーダー格はスッと上体を落とし、構えた。
「我々の事もご存知でしょう、あなたなら。邪魔立てなさるのは、得策ではありませぬぞ」
 初めて口をきいた。その体格、声から察するにカイ・シアーズとそう変わらぬ年であろう。
 両脇の少年達も構えた。腕にダメージを負っていたであろう少年も。
 睨み合いをしていると、土を鳴らす音が背後で聞こえた。
「あなたたちは何なんですか? 私は何でこんな目にあうの? あなたたちは、一体何を知っているの? 私の知らない、私の一体何を知っているの!?」
 カイ・シアーズは首だけユリシスを振り返った。
 その声が、ただ疑問を投げかけているだけというものではないと思ったからだ。
 心の奥から吐き出されているような叫びは、ひどく切なく、細い。
 そんなユリシスを無視して、忍びのリーダー格の左右に居た少年二人が地面を蹴ってカイ・シアーズに襲いかかる。その手には逆手に諸刃の剣が握られている。カイ・シアーズは視線をユリシスに固定したまま、目を細めた。瞬間的に魔力を身の内側から引き出す。
 カイ・シアーズの足元から青い魔力が立ち上り、盾となって二人の少年を弾き飛ばした。少年達はきれいに受身を取り、再びカイ・シアーズに向って構える。
 バサリと外套で風を切り、カイ・シアーズは三人の忍びに体を向けた。
 魔力盾は既に消えているが、カイ・シアーズの全身からはうっすらと青みがかった光が漏れている。有り余る魔力の奔流。
 魔術には魔力そのものを使う術と、魔力を媒介に他の力を借りる術がある。前者にはルーンの記述は必要がない。その為、術の瞬発力は抜群に良い。カイ・シアーズは前者の術を近接戦になるこの場では使った。
 相変わらず右手には魔力の込められた石があり、じわじわとカイ・シアーズの魔力が注ぎ込まれている。青い糸のような光が石を巡っている。
「もう一度言います。私の事はよく知っているでしょう。動くと先日よりもっと、痛い思いをしますよ」
 忍びのリーダーが、ふうと息を吐き出す。
「我々には退けない理由がある。が、この展開もよいでしょう。あなたがどれほど本気か、確かめてさしあげる」
 言うが早い、リーダーは素手で飛び出し、カイ・シアーズの脅しの右腕に掴みかかった。
 カイ・シアーズは予想以上の俊敏な動きに対応しきれず、紺呪石を掴んだ右手に痛みを感じた。忍びが、手首の内側に隠していた小刀を、カイ・シアーズの手の甲に迷いなく突き立てていたのだ。が、カイ・シアーズはその右の拳をリーダーの胸に押し込んで気合の声を飛ばした。
 瞬間、カイ・シアーズの右手の中にあった紺呪石が一気に力を開放する──竜巻が生まれた。
 渦を巻く風が鋭い刃となってリーダーの腹をなぎ、血飛沫を舞わせた。弾みでカイ・シアーズの手の甲に刺さっていた小刀も飛んだ。
 身動きの取れなくなったリーダーは、カイ・シアーズに胸を押し上げられ、全身を激しく震わせ切り裂かれるままとなった。
 この時、リーダーのものだけではなく、ガードの間にあわなかったカイ・シアーズの右腕でもその風は暴れ、舞う“もの”の量をぐっと増していた。竜巻は次第に広がり、リーダーの全身を巡ろうとし、またカイ・シアーズの肩までその脅威を広げていった。カイ・シアーズはリーダーを睨む目をはずさなかったが、彼の伊達眼鏡は、軽い音をたてて吹き飛んだ。
 蔓をひどく歪められた伊達眼鏡は、ユリシスの足元にその姿を晒した。
 それまで圧倒されていた二人の少年が、慌てて剣を収め、リーダーの足を掴んで魔術の範囲から引き抜いた。
 勢いのまま地面に仰向けに倒れたリーダーは、その黒装束をズタズタに裂かれながらも、なんとか一人で立ち上がる。よろめきかける体を、踏ん張って耐えている。上半身を屈め、荒い息のまま、カイ・シアーズをギロリと睨んだ。覆面の一部が裂け、片目がのぞいていた。鋭くつり上がった目の淵は黒く塗られ、瞳も漆黒の色をしている。
 カイ・シアーズはさっさと紺呪石を握り、魔力の流れを止めていた。カイ・シアーズの分厚いグローブさえも引き裂いた強烈な風の魔術は、あっさりと消え、終わった。肩から指先へ滴る血が、地面に黒い斑点を作っていた。
 リーダーは一息吐くと、姿勢を伸ばした。こちらは上半身のあちこちが血で濡れている。
「そうですか。カイジュアッシュ・ウォルフ・ディアミス・シアーズ殿。あなたはそうですか」
「どちらのお方の者かまではわかりかねますが、これ以上続けるつもりなら、もう、手は抜きませんよ」
 血にまみれたグローブの上を、もう片方の手がなぞるように青白い文字を描く。まるで手品のように、しなやかな指先がサラリと払う。文字は次第に薄桃色に変化すると腕を包み、染みこんで消えた頃には、グローブの破け目の奥の傷は全て消えていた。
 リーダーの息は既に整っていて、すぐにも戦闘態勢に移れるだろう。派手に血が飛んだように見えたが、二人分だったこともあり、見た目より軽傷のようだ。また、彼の両脇の少年忍びは姿勢を低くして構えている。
「ご自分のお立場をわかっておいでか?」
 黒い瞳がカイ・シアーズの思考を読み解こうと睨みあげる。カイ・シアーズは一瞬だけ目を細め、柔らかい声音のまま告げる。
「問いの意味がわかりませんね」
「……」
「そちらもわきまえていらっしゃるのか? あなた方は……」
 ちらりとユリシスを見て、リーダーに目線を戻した。
「何を望んでいるのですか」
 リーダーも視線を一瞬だけユリシスに向け、すぐカイ・シアーズに戻した。
 しばらく沈黙した後、唐突に黒装束の三人は退き、立ち去った。
 カイ・シアーズは彼らの背を見送ると、「……私は戦闘向きではないんですよ……」と小さく息を吐き出した。
 後ろのユリシスも立ち去ろうと地面を鳴らすので、カイ・シアーズはその腕を掴んで止めた。
 とっさに掴んだ腕が右腕でよかった。何せ、左腕には刃物で斬りつけられた傷がくっきりと赤い線を引いており、服も裂けていたのだ。
 カイ・シアーズはユリシスの左腕に治癒術を施した。カイ・シアーズがここへ来る前に、黒装束達との間に何があったのかはわからない。術が傷を癒していく間、カイ・シアーズはただその左腕を見ていた。
「腕、離してください」
 間近で声がして、すぐ側に紫紺の瞳があった事に気付いた。
「失礼」
 カイ・シアーズはさっと手を離し、半歩分の距離をあけた。
 ユリシスは近くの木の幹を見ているだけで、こちらを見ない。カイ・シアーズは改め、口を開く。
「ここで何をしていたんですか?」
 声に非難の色が少なからずあったのは、認めるしかない。
 ユリシスはこちらを見ないまま、少しだけ視線を泳がせた。
「……言わないといけない事ですか?」
「数日前も、あなたはここで危険な目にあっていたでしょう? 私は注意しましたよね。それでもあなたは今日ここに居て、怪我をした。そうなる事はわかりきっていたのではありませんか? なのに、ここで何をしていたんですか?」
 ユリシスは目を閉じた。何かを堪えている。目を開くと、カイ・シアーズを紫紺の瞳で真っ直ぐ見上げてきた。
「わかりきっていた? 何を? 私に何がわかっていたって言うんですか? なんにもわかりゃしない! あの連中はなんで私を狙うの!?」
 ユリシスは一息ついて続ける。
「あなたの方こそ、何でここに居て、何を知った風な口ばっかり私にきくんですか?」
 カイ・シアーズは黙ったままユリシスを見た。ここに居る理由は仕事の途中だと言えば済むだろうが、後者の問いに答えていいものか悩んだ。
 カイ・シアーズはそっとユリシスの手を取った。
「都へ戻りましょう。ここに居ては危険だ」
 ユリシスは一瞬眉間に深い皺を寄せ、カイ・シアーズの手を振り払った。
「自分で帰れる」
 カイ・シアーズはもう一度ユリシスに手を伸ばすが、彼女は背を向けさっさと森の中へと突き進んで行ってしまった。一度だけこちらを振り向くと、こう言い残して──。
「わからないままでいる方がいいと言ったのはあなたじゃない。でも、それで一体何が解決するっていうの? ただ危ない場所を避けて、それで何が変わるの? ……教えてくれる気がないなら、構わないで」
 ユリシスの姿が見えなくなって、カイ・シアーズは振り払われた手の平を持ち上げ、眉をひそめて見下ろした。
「──卑怯な大人ですね……」
 少しだけ冷たい風が、ふわりと吹き抜けたような気がした。
 その後、カイ・シアーズはズタズタに裂けたグローブを自宅で新しいものに取替え、何事も無かったように仕事に戻った。依頼された物を依頼主へ渡し、いくつか打ち合わせに飛び回った。
 魔術機関オルファースの執務室に戻ったのは、夕方を過ぎてからだった。ナルディはもういなかった。
 一人で靴音を鳴らし、夕日に紅く染まる執務室を歩く。
 ふと足を止めて、外套を脱ぎ、右のグローブの留め金を外してずるりと引き抜いた。魔術師としては立派に鍛えられた腕があらわになる。
 朝の傷痕などは治癒術によって完全に癒えており、見当たらない。しかし……元来白い肌には、古い傷跡が無数に走っていた。
 肉を切り裂かれた傷を縫い合わせたのであろう痕跡が、いくつも残っていた。──カイ・シアーズの戒めだった。静かにその腕を抱いて、カイ・シアーズは目を閉じた。
 カイ・シアーズとて、ナルディと変わらない年の頃は、血気に満ちて狩猟と称して都を飛び出し、鬼獣狩りに勤しんだ。
 この手で奪った鬼獣の命の数は、もうわからない。
 一つはっきりしているのは、この手で救えなかった命があったという事だ。
 ある日の森で、旅人数名が襲われているのを助けた。
 彼らはとても感謝して去っていった、けれど──。
 巨大な鬼獣だった。
 そいつを屠る為にふるった鋭い風の魔術が、貫通してその先に居た旅人たちのリーダーの右腕を切り落としてしまう事など、微塵も頭になかった。
 腕の落ちた旅人を目前にして、数瞬、若いカイ・シアーズは虚ろであった隙をつかれた。
 その旅人の真横に居た小さな、十歳にも満たないであろう女の子の首が、まだ息のあった鬼獣の爪に掻き切られ、奪われた。旅人が残った左腕で首のない女の子を抱き寄せて逃げる。
 ──それらの光景が、真っ白に見えていたのを覚えている。
 その後の事は、よく覚えていない。が、どうやらカイ・シアーズはちゃんと鬼獣を倒したようだった。
 まだまだ未熟だったカイ・シアーズの魔術では、その旅人の腕を外見上くっつける事ぐらいしかできなかった。女の子、旅人の娘に至っては……。
 旅人の腕は二度と動かなくなってしまったし、心も助けてはやれなかった。娘の命を奪ったのは、自分かもしれない……。
 その事件が起こるまで、自信でいっぱいの己がいた。身につけた魔術で人に仇なす害獣を狩って、英雄気取りでもいたのかもしれない。慢心に取り憑かれていた。
 実際は、人を傷つけ、助けられた命を救えなかった。
 旅人達を都へ送った後、カイ・シアーズは自分の右腕を傷つけた。
 右腕の上でいくつも術を破裂させた。治癒もしなかった。
 何日かして自宅へ戻ったカイ・シアーズの腕は、傷跡を消す事は出来なくなっていた。家族が魔術師を呼んでも、カイ・シアーズは誰にも傷に触れさせなかった。
 そうする事でしか、心を保つ事が出来なかったのだ。
 もう、十年以上前の事だ。
 その出来事を根にして、カイ・シアーズは多くの事を自らの中に閉じ込めた。過信がもたらすものが恐ろしい。
 どれだけ魔術を使え、由緒ある貴族であっても、どれだけの地位を得たとしても──前へ出てゆく事が恐ろしい。
 魔術も貴族であるという事も高い地位も、どれもが様々な力を持っている。それらの力がもたらすものが恐ろしい。
 だから、触らずに済むなら、済ましたい。
 それが、今のカイ・シアーズの人生観の一つでもある。
 カイ・シアーズは、強く右の拳を握り締めた。
 外はいよいよ闇を濃くしてゆき、月の明かりが見えはじめる。
 巨大な力が及ぼす影響が怖くて、力を振るわずに済めば良いと思う。
 人を傷つけたくはないから──自分を傷つけたくないから……。
 うっすらと目を開けると、紫紺の瞳の少女の姿が眼裏《まなうら》に浮かぶ。
『でも、それで一体何が解決するっていうの?』
 あの少女の言葉が突き刺さる。
『ただ危ない場所を避けて、それで何が変わるの?』
 彼女のそれらは若さ故、考え無く言っているのだろうか。
 いや、違うだろう。
 あの声を聞いたではないか。
『私の知らない、私の一体何を知っているの?』
 涙声になるのを必死でこらえて押し出された叫びを──。
 どれほどのものがその胸の奥で渦巻き、熱を持って彼女を襲っているのだろう。
 だったら自分は彼女に告げるべきであったか?
 君が紫紺の瞳をしているからだと。災いを呼ぶ者だと王家に警戒されているからだと。
 九年八回も試験を受け続ける粘り強さと意思の強さを思えば、彼女はかならず、それらを知ってゆくだろう。いずれ、彼女も知るのだろう。
 それならば、教えてやってもいいのではないだろうか?
 自分が知っている事ぐらい、教えてやっても良かったのではないだろうか。
 カイ・シアーズは右腕の醜い傷を睨み、左の指でなぞった。
 それでも教えてやれなかったのは……言葉が出なかったのは……。
「引き金にはなりたくないと思ってしまう……私の弱さか」
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