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第6話『王女のお仕事』

(036)【1】まどろみの心地よさ (1)

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(1)
 三人で話して、たくさん笑って帰った日の夜、ユリシスはぐっすりと眠った。
 心地好い眠りだった……本人が自覚する限りは。
 『きのこ亭』の屋根裏部屋の丸窓、空から黄色い月明かりが注いで、ユリシスの頬を照らした。春も終わろうとしているとはいえ、夜間はまだ肌寒く感じる風が吹く。この夜も、少し涼しすぎる位だった。
 すっぽりと布団にくるまって、顔だけ覗けているところへ月明かりが落ち、浮かび上がった汗に反射していた。
 かすかに震える口元は、何かを低く呟いているように見えた。

 ――目覚めた朝は、何も覚えていない。しかし、脳裏に焼き付く何かが、確かに彼女に忍び寄っていた――……。

 昨日の、病み上がりに動き回った程よい疲れもやわらいで、晴天の朝陽の下、布団の中で「う~ん……!」と背伸びをすると、体はシャキっとする。さわやかな風が部屋の中へ、早朝の空気を運んでくる。
 ユリシスはベッドに転がったまま伸びをした後、全身の力が抜けたリラックスした姿勢のまま、ぼうっと天井を眺めた。見飽きた、何の変哲もない天井。……それは日常。

 一日のはじまり。
 ユリシスの一日は早い。
 日の出と共に始まる。
 いつもなら飛び起きるところだが、今日はノンビリとしている。自覚もあった。未だ、全身の魔力を投入した消火の古代ルーン魔術の疲れが、ユリシスの中にズシリと重く残っていた……。
 飛び起きずにゴロゴロとまどろむ感覚の甘みが、その残された痛みをじんわりと、少しずつ癒す。
 上半身だけ起こして、また背伸びをした。顎が外れんばかりに大きなあくびが自然と出て、目尻に涙が上がった。にぱっと微笑って呟く。
「い~い朝だ~~……」
 せっかく起こした体をパタリと倒し、横になった。覚醒するのにはもう少しだけ、時間がいるようだった。


 ヒルド国、王都ヒルディアム始まって以来の大火事となった国民公園の火が、何者かの魔術によって鎮火されてから十四日目の朝。
 その「何者か」は、元気よくとは言い難いが、大火から完全復旧したオルファースへとやって来ていた。今日は週に一度の予備校の日である。先週は休みだった事に胸をなでおろしたその「何者か」──つまりユリシスは、先週の今頃は魔術による消耗の為、ベッドに埋もれていたのだから。
 予備校の授業は、いつも通り気だるく不真面目に午前を過ごし、お昼時にはイワンやイワンの兄ヒルカ、さらにシャリー、ネオの五人で談笑を中庭に広げた。
 イワンとヒルカが眠いと言って昼寝をし始めた時に、ユリシスは自分も予備校生であることを二人に告げた。
 シャリーは、ただでさえ大きなの目を見開き、グレーの瞳をくっきりと見せて驚いていた。「イワン達のお迎えの、魔術師か魔術師見習いかと思ってた……!」と言い、慌てて「ごめんなさい、あの、悪気とかはないのよ……?」と付け足すあたり、シャリーの心遣いが見えた。
 ユリシスはと言えば、そう思う事の方が当然だと笑った。ユリシス位の年齢の者が定期的にオルファースに出入りするとすれば、最低でも第九級の資格を持った魔術師見習いか、魔術師である。ユリシスが異例中の異例なのだ。その事は、ユリシス自身が一番イヤという程に理解している。
 一方、予備校生だと聞いて、ネオは怪訝な顔をするが、すぐに普段通りの表情に戻し、ユリシスとシャリーの会話を聞いて、時折その輪に入ったりした。
 二人とも、自分が予備校生である事を知っても態度が微塵も変わらない……。
 もしかしたら、貴族だとか上級魔術師だとか、偏見というものに苦しんだ経験が、あるのかもしれない。相手をゴテゴテと飾らずに見る事が出来る二人なんだと、ユリシスはただただ、これまでの自分を反省するばかり。
 この気味の悪い紫紺の瞳も、初対面の時、人によってはあからさまに嫌そうな顔をする。近隣の顔見知りや常連客はもう慣れて、お伽噺がなんだと言ってくれるし、変わらず接してくれる。イワン達のように。色々な人が居るけれど、自分も色眼鏡を付けていたのだと、思い知る。この瞳を、気色悪いと言った連中と同じだったと。今すぐ完全に改める事は難しいと感じながらも、気付いた分前進したのだと思うと、心は妙に晴れやかだった。
 中庭の植え込みの中に紛れて、三人の声と、子供二人の静かな寝息。お昼ご飯も食べ終えて、ユリシスもスッキリした気持ちで笑う事が出来た。
 温かな日差しの下、生い茂る中庭の芝の上、優しい時間が流れていく。
 そんな穏やかな日。

 ──穏やかな日、じわじわと「何か」が忍び寄って…………。


 国民公園の芝が、ユリシスの予想外に蘇っていたのにはワケがあった。
 大火の翌日、ほとんどの魔術師が力尽き、上級魔術師は深い休息を必要とした。オルファース魔術機関の指揮から実務までが第四級の者に仮に渡った。そのまま彼らが上級魔術師達が戻るまで指揮を執り続けていたら、これほど緑にはならなかった。
 大火の翌々日、知らせを聞きつけ、弟子と共に旅先から蒼空を割って彼が舞い戻った。彼──通称、カイ・シアーズ。
 カイジュアッシュ・ウォルフ・ディアミス・シアーズ。
 ヒルド国王の左右を固めるのは、オルファース総監と、双璧をなす宰相──その次男坊が……カイ・シアーズだ。

 輝く金髪に白い肌。童顔にかけられた伊達眼鏡の奥には、空よりも澄み、海よりも深く冴えた、真っ青な瞳が静かに在る。
 その瞳と同色のローブをひるがえし、若い第一級魔術師は深く傷ついた森に降り立った。
 ──カイ・シアーズに、総指揮ではあるが裏に回っていたデリータ総監から、第四級、第五級に与えられていた代行としての権利が渡されると、彼の穏やかなイメージが、ほんの一部に過ぎなかった事を人々は知った。
 それからの五日間、カイ・シアーズの指揮の下、オルファースは緊急時であるにもかかわらず、基本業務は全て滞りなく完遂していった。付加業務とも言える魔術付加製品工場への魔術師の派遣や、オルファース魔術師による一般庶子への教育部門、魔術師になる為の予備校などは完全に休止していたものの、表面的にはそれまでと同じ日常が人々にはあった。
 夜、都が全て闇に沈む事は無く、街灯──紺呪灯はいつも通り辺りを照らした。都内に引き込まれる、都から少し離れた湖からの水量は、一定に保たれたし、水路の警備結界は正常に動作した……。王城に仕込まれた様々な魔術的なセキュリティ、教会内部の宗教的な動く壁画……。
 非常時の中で日常を作り出すのは、ひどく困難だ。
 例えば、普段は水があふれる田んぼ、急に雨が降らなくなった非日常時、乾ききったそこで、例年通り、普段通り作物が獲れるであろうか……?
 カイ・シアーズは獲った。
 また、それだけでなく、カイ・シアーズは上級魔術師の大半を欠いていながら、森の復旧にも力を注いだ。激しい人材不足の中、森の緑を取り戻すべく全力を尽くした。
 根が真面目で謙虚な彼は「一番はじめの応急処置と、それをカバーする対処があったからこそ──」と言うが、非常時、更にそこへ手を回した彼の統率者としての手腕は相当なものである。普段接していない魔術師の能力や性質を見抜き、配置。もちろん、総監にかけあい、魔術師らへの特別報酬も忘れない。普段大人しい彼が、発破がけに大声を張り上げる姿など、この時が最初で最後といえる。
 森の最初の応急処置はユリシスの古代ルーン魔術、その後ギルバート達の夜を徹した看病。それを引き継いで手当てを続けたカイ・シアーズ。その連携があったからこそ、森は元の芝を取り戻し、数年もすれば木々の緑も蘇るであろうところまで、助ける事が出来た。そうでなければ、森を抱えた憩いの公園は、焼け野原に植樹から立て直さなければならなくなっていただろう。
 旅先から急ぎ戻り、朝早くから夜遅くまで働くカイ・シアーズの姿を見て、人々は知った。身を引く事の多い彼の真価の一端を……「父譲り統率力」と賞賛した。
 カイ・シアーズはシアーズ家の三人兄弟の真ん中で、政権争い激しい王宮を嫌い、父親や他の兄弟達とは異なる道を選んだ。魔術師として腕を磨き、オルファースに留まった。
 見目も穏やかな青年であったが、人々は知り得た。臨時であったとしても、オルファースのトップとして指揮し、物事を達成する力が在る事を。

 人々の賞賛の中で、ゆるぎなく執務をこなすカイ・シアーズ。
 翌日にはギルバートが、翌々日にはやっと国王から開放されてオルファース総監が復帰するという晩に、月夜を見上げていた。
 緊急時であっても、オルファース本部のドーム天井、地上の月にも煌々と明かりが灯っている。が、そちらには一瞥もくれず、四分の一に欠けた夜空の月を、カイ・シアーズは見上げた。
 部屋のソファは副総監に支給されるもので、ギルバートの部屋にあったソファと同じ。ギルバートと同じく、十人の副総監の一人であるカイ・シアーズは、ソファを窓際に寄せ、深く腰をおろしていた。
 片手のグラスをゆっくりと揺らす。濃い紫の酒が波打ち、底に月の黄色い光が滲み落ちていた。
 ここ数日そうであったように、自宅に帰ることなく、オルファース敷地内別館三階にある執務室で、一日の激務を終えてくつろいでいた。
 春も穏やかに終わりを告げようとしている。日中は少し汗ばむ程だが、夜になると途端に涼しくて過ごしやすい。
 夜空を眺めながら、ひとつだけ、ため息をついた。
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