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第5話『……だから』

(021)【1】その何気ない日常を(6)

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(6)
 世界で最も大きな大陸、中でも古くから魔術利用の盛んな国、ヒルド国。
 狭い国土ながら大陸の周辺諸国への影響力は大きい。
 国土の二割は、隣接する人の踏み入らない荒野、砂漠に飲まれている。この荒野、既に大陸の四割を侵食している。
 物的資源の乏しいヒルド国の最大の武器は、人的資源──優秀な魔術師だ。
 周辺国家は魔術に支えられた強大な軍事力に脅威を抱き、攻め込む事を躊躇う。勝利したとしても得られる国土は狭い上、魔術師らに団結され反旗を翻された場合、被害が大きすぎる。彼らの手綱をとれるとは、誰も安易に考えない。
 ヒルド国は、かつて世界中を席巻した魔術大国メルギゾークの生き残りが築いたと言われている。
 頂点に立つヒルド国王家は、歴史上最強の魔術師とうたわれた魔導大国メルギゾーク最後の女王の血に連なる。
 大陸でも上から数えた方が早い、力のある魔術師達の九割がゴロゴロと居る国に、わざわざ攻め込むのは得策ではない、ましてや王家はメルギゾークに連なる。ヒルド国王家だからこそ、魔術師達を束ねられていると、誰もが信じた。
 ヒルド国に隣接する荒野は、元はメルギゾークの中心地、未だ草木の戻らぬ死した大地──古の魔術師達の遺したもの。
 未知なるものは恐ろしい。
 危険を冒してまで、小国を手に入れようとは思わない。結果、ヒルド国は、諸外国と概ね良好な関係を築き、つまり戦争や騒乱とは無縁の、平穏平和な国であった。
 ヒルド国の中心、王城ヒルディアムは、位置も都の中央にあった。
 都の周囲には外敵──それは人であったり獣であったり──から守る為に、長大にして堅固な壁がある。都は多くに人々で賑わう。
 都も王の居城ヒルディアムに近付くほど、中央に行く程、守りは固くなる。
 都の中央に、国の要たる王城がある。
 深く水の張られた堀の内側、巨大な城壁が一枚、二周伸びている。元々小高い丘に建てられた城の為、城郭の門部分と城壁が伸びた先、内城の門辺りでは、高さが建物三階分違う。もちろん内城の方が高い位置に建っている。
 城郭、傾斜のある城壁の内側に十二の尖塔を抱え、緑豊かな庭園を持つ王城がそびえ立っていて、王都のどこに居ても見上げる事が出来た。
 王城の一番高い部分で八階建てだ、棟と棟の間、あるいは屋上からさらに伸びる塔をいくつも持ち、それらから都中が見渡せた。
 壮麗な全景、魔法技術を集めて作り出された白亜の城である。
 都の景色は夕暮れに朱色で染まるが、城の中に入れば魔術の明かりがいたる所を白く照らして輝く。
 王城は縦にも横にも広大だ。中央には巨大な本城がある。
 飛び抜けて高さのある十二の尖塔が囲み、さながら王を護る騎士が立っているかのよう。本城からは十二尖塔ををつなぐ第三の城壁がそれぞれへ真っ直ぐ伸びている。
 本城の縦方向の中ほどに、緑にあふれ、魔術で水を引き込んだ川を持つ空中庭園がある。春の柔らかな緑と、色鮮やかな花がその庭を満たしている。生命力あふれる輝き。
「姉上……?」
 緑で満ちた空中庭園への回廊、白い柱のもとで、姉が頭を抱えてうずくまっているのが見えた。
 近くの噴水のそのせせらぐ音と、鳥達のさえずりが聞こえる。それらを突き破って、幼い声が響く。
「どうされたのじゃ!? 姉上!!」
 遠目に見えた姉に、白い床を蹴って駆け寄る。七歳、今年八歳になる妹姫だ。
 姉姫の純白のシルクのドレスは、装飾がほとんど無い。あっさりすぎるほどにあっさりしている。妹の呼ぶ声に、白いドレスがさらさらと流れた。上げた面には王城の白さより、ドレスよりも眩い美貌があった。
 身に着けた如何なる装飾も全て、彼女のその凛とした美しさにくすんでしまう。はっきりとした目鼻立ちと、白い肌。妹よりも豊かに結い上げられた赤い髪。ただ、憂いからか、疲れからか、翠の瞳は重そうに見えた。
 その白い面の眉間には一本の皺が寄っていたが、年の離れた大事な妹を目にすると、表情をふわりと和らげて微笑んだ。
 姉姫は、今年二十四歳になる。
 結婚を申し込まれる数は近隣諸国の皇女達とは比べ物にならない程に多いが、彼女はまだ、ヒルド国に残っていた。
「エナ」
「姉上、お顔の色がよくない……どうされたのじゃ? …………頭が、痛いの?」
 姉はまだ知らない──妹姫エナである、二週間程前にユリシスが出会った偉そうな女の子は──、エナ姉姫とユリシスが出会っていた事は。
 エナ姉姫が姉上と呼ぶ人物は、ヒルド国広しといえどただ一人しかいない。妹姫が姉姫を心の底から大切に思い尊敬しているように、姉姫も妹姫をとても大事にしていた。
「大丈夫よ、エナ。不安そうな顔はしないで。何も、心配する事はないから、ね?」
 姉姫は屈んだ姿勢のまま、妹姫の瞳を覗くように見上げて、笑みを浮かべた。
「……姉上……」
 エナ妹姫が何か言葉を繋ごうとした時、マナ姉姫の後ろに人影が現れる。それは唐突に、あまりにも自然に、光りの中、影が生まれた。マナ姉姫の背後に、微塵の違和感も無く。
「マナ姫様──」
 人影はひざまづいて姉姫の名を呼んだ。
 その人影をエナ妹姫も知っている。
 ヒルド国の王族には、十一歳になる時、ある一族との盟約により、身近に全てを預ける忍びの者を持つ。
 かつて、他国において迫害を受けていたその一族を、時のヒルド国王が受け入れた。受け入れる条件が、その能力の全てを王家に預けよというものであった。その盟約は三百年以上、固く、続いていた。
 エナ妹姫にはその人影のいる辺りだけが、白く明るい王城の中で闇に落ちたように見えた。本来人前に現れないその一族の者も、主の前でははっきりと姿を見せる。この王城に似つかわしくない、黒装束に身を包んだ青年。闇色にくるまれたその者が青年だとわかるのはその体格と声から。すべてを闇が包み、どのような顔立ちなのか、髪の色は黒なのか金なのか、そのような他愛のない特徴さえ、つかむ事を許さなかった。目深にかぶったフードが、瞳の色をはかるのさえ、阻む。
 姉姫は白いドレスをほんの少し揺らし、静かに立ち上がると青年を見下ろして小さく頷く。そのまま言葉を促そうとしたが、動作を止めて妹姫を振り返った。
「エナ、悪いけれど……」
 マナ姉姫の言葉の途中でエナ妹姫は口を真っ直ぐ引き結んで、顎が喉の付け根に当たる程頷き、顔を上げる。
「わかっています、姉上はお仕事なのじゃな。ワタクシは邪魔などしませぬ……下がります」
 姉姫は一度だけギュっと姉のドレスの裾を握ってから、その場を離れた。
 駆け去る幼い後ろ姿が見えなくなるまで見送って、マナ姉姫は彼女の最も信頼する一族の──忍の名を呼ぶ。
「ゲド、何事か?」
「……先だって、地下遺跡での轟音ですが……その正体についての調査が終了しました」
「そう。その報告は後で受けます。……今、一つだけ答えなさい。貴方の前に立ったのは……」
「はい──。私の父でした。つまり、マナ姫様、貴方様のお父上、国王様の、その忍にございます」
「そう……」
 マナは息を一つ、こっそりと吐き出した。だがすぐに背筋をピンと伸ばす。
「わかりました。貴方はすぐに休みなさい。報告も、次の調査も全て、それが済んでからです」
 そう言って、マナはエナの消えた、彼女達の私室のある塔へと歩いた。
 忍もすぐに姿を消した。その時、滴り落としてしまった血をぬぐう事は忘れなかった。右肩から胸にかけて、その黒装束の黒さ故にわからぬが、じっとりと重く濡れていた。
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