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第4話『少女の見る夢』

(008)【2】少女の憂鬱な休日(3)

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(3)
「おあっ!?」
 ユリシスは硬直した。
 お昼休み後の講義に休憩時間はない。みっちり夕方五時の鐘が鳴るまで続けられる。途中、講師は変わり、講義内容も変わるが生徒はそのまま続行する。
 五時の鐘が鳴り、講義室全体がふぅと息を吐き出す。ユリシスもぼんやりと疲れたなぁなどと考えながら肩をごきごき鳴らし、筆記用具をカバンに詰め込み──動きを止めて固まったのだ。
「……うそー……やめてよ……」
 声が半泣きなのは、演技ではない。
 のったりした声とは裏腹に、その手の動きはせわしない。持ち手が長く、肩にもかけられる小さな手提げ鞄の中、教本やノートの底にも指を滑り込ませて荷物を全て机の上にひっぱり出す。立ち上がると、椅子は床のタイルの隙間にひっかかりながら後ろへ下がった。
 目の前に数冊の本と、ハンカチと弁当箱、鞄の底に沈んでいた糸クズが散らばった。
 布製の手提げ鞄を持ち上げひッくり返し、洗濯物を干す際に皺を伸ばす要領で、腿でばしばしはたいてみたりもしたが、目的のものは見つからなかった。
 ユリシスは再び力を失って動きを止め、鞄を持ったままの両手を机についた。
 あって然るべきものがない。
 ──お財布がない……! 見つからない!?
 どくどくと早くなる鼓動。鞄から手を離し、胸に当てた。
 ──……じゃあ、じゃあ、とにかく記憶を手繰ってみよう。うん!
 声には出さないものの、頭の中の言葉を口だけを動かして、自分と相談する。
 周囲では他の生徒達が帰り支度をしては各々講義室を出て行くが、ユリシスは額に人差し指をたて、今日自分に起こった出来事を一つ一つ思い出していた。
 自分の世界に没頭するユリシスの顔を覗きこむ者が居る。
 講義室にはユリシスとその一人、さらにそれを待つ者、計三名が、窓から入ってくる紅い夕日にさらされていた。廊下からはガヤガヤと物音がしていて、それが少しずつ遠退いていく。
 それから一分程して、覗きこんでいた一人が声を出す。
「ねぇ、何してんの?」
 ユリシスと同じく、休日コースの子供の一人で、七歳の少年だった。名をイワンといって、ユリシスの家『きのこ亭』のはす向かいの雑貨屋の息子。普段は親の手伝いをして、休みの日には予備校へ通っている。襟の緩い長袖の上着を着ていて、その腕をユリシスの机の上に伸ばして、下から覗き込んできている。
「……イワン。邪魔しちゃ悪いんじゃない?」
 今一人、イワンを待つ者が後ろから声をかけた。こちらはイワンの兄で十一歳と、ユリシスに次いで年長の受講者だ。マフラーを自分の首に巻きながら、イワンとユリシスを見ている。彼の襟は緩くなっていない。イワンの服はこの兄のお古なのだが、衣類の劣化が原因ではなく、首が苦しいのが嫌いだと言ってイワン自身が生地を引っ張ってゆるゆるにしてしまう癖があるのだ。イワンは窮屈なのがキライだ。もちろんマフラーも無し、さらに半ズボンと、春になったとはいえまだ夕方には冷える、見ている側の方がぶるっと震えてしまうような格好をしていた。赤いほっぺの片方をぷうと膨らませてしばし考え、イワンは兄を振り返る。
「……じゃさ、コレ、荷物に混ぜとけば持って帰るかな?」
 イワンは手のひらサイズのメモを、ユリシスが広げた荷物の上に置いた。ユリシスを下から再度見上げる。
「ユリシス、読んでよ? 僕のお誕生日会の招待状だよ?」
 どうにも聞こえてなさそうで、イワンはへの字の口をした。
「イワン、帰るよ」
「うん……」
 イワンは後ろ髪引かれながら、講義室を出て行く兄に駆け寄った。
 兄弟が講義室を去って二分後。
「そうだっ! やっぱそうっ! あん時だ!」
 ユリシスは机に広げた荷物を流し込むように手提げカバンに詰めた。何を詰めたかはよく見ていなかったが、机の上が空になれば全部入った事になるだろう。
 荷物をまとめて、手提げ鞄の持ち手を腕を通して肩で持ち、小脇に抱えて講義室を走って出た。
「だってそうだよ! あの時、第二別館から戻って私確認したもん、ほったらかしにして追いかけちゃったから、盗られてないか不安で……!」
 手すりを時々掴みつつ、落ちる勢いで階段を降りていきながら、ユリシスは記憶を反芻していた。
「……あの後、のんびり空見上げてて、のんびりしすぎてて、午後の講義に遅れると思って……」
 三段飛ばしも交えて階段を降りきり、講義室のあった第三別館から飛び出る。
 外は中よりも夕日の赤みが強い。冬を乗り越えたばかりの木々の葉が風に揺れていた。景色はセピア色の風合いすらある。昼よりも少しずつ肌寒くなっていく。
 中庭の芝にユリシスは足を踏み入れた。
「結局慌てて、中庭つっきってて……」
 唇を軽く噛んだ。
 ──……あんな遭遇の仕方ってないよ。
 近くの木に近寄り、足を緩めた。その木に片手をついたが、硬い樹皮の角が小指の先にちくりと刺さって、すぐに少しずらした。
 走り過ぎたせいか、喉の奥が呼気でぜぇぜぇと荒れる。下を向いて息を整えながら、思い返していた。
「……いきなり、体当たりされるし……。あんなの、とっさに魔力障壁張ってなきゃ私、あばらの二、三本折れてたよ……」
 自分もこっそりと風を味方につけ、周囲の風を操りながら走る速度を上げていた──魔術で速度を上げていたのだ。そこへ、風と一体になったあの少女が突っ込んで来た。慌てて周囲にあった風をそちらに向け、同時に自身の周囲に魔力そのものを放出してクッションにしたのだが……。
「……一瞬でよくやるよ、私も」
 あの後、魔術を使っていた事がバレてしまうのではないかと恐れた。何せ相手は第二級の魔術師、国に二十七人しかいない魔術師である。その後来た奴もいただけない。十九人しかいない、第一級の魔術師だ。八千人の魔術師達の、上から四十六人の内に数えられる二人である。
 バレるんじゃないかと内心冷や冷やしながら、言葉を少しだけ交わした。懐疑やそのヒントを抱かれても困る。とにかくとっとと立ち去りたかった。魔術行使がバレれば、身の破滅、死罪にもなりかねない。資格無しの自分が魔術を使ったのだから──。
 ふと、息が整った頃、自分の顔がニンマリと微笑っているのにユリシスは気付いた。
 慌てて顔を引き締めて再び走り出した。
「何笑ってんの、私。ワケわかんないし。……とにかく、あのぶつかった場所に落としてる可能性大! 急いでたから、拾い損ねたって線が一番、『らしい』!!」
 芝を駆る今、あの時のように魔術で早めたりはしない。自分の足のスピードだけで走った。今日の事なのだ、また誰かとぶつかったら阿呆すぎる、学習能力0のような真似はしない。もし、あの二人疑われていたとして、今魔術を使ってはその疑いを確信に変えてしまう。自重しなくては。
 そして、目的の場所に辿り着く。
 植木の側、手持ち無沙汰に少女が鼻歌を歌っていた。
 肩で息をしたまま、足を緩め、三、四歩の距離で止めた。
 昼にぶつかった少女、シャリー・ディア・ボーガルジュとかいう貴族の、第二級の魔術師がいた。
 白い肌、頬には消えきらないそばかすが少しだけ残っている。二、三年もしたらそれも消えて、美女になるに違いない。銀髪の美しい少女。それは、内側からもたらされている自信にも基づいているのかもしれない。
 ──同じ年だったと思う。なんか、私とは随分と違う……雰囲気が……こう……かっこいいよね。
 ユリシスはどんな顔をしていれば良いのかわからず無表情でゆっくり歩いて近づく。すると向こうも気づいた。 
「あっ、良かった~! ネオ、来ましたわ。会えたわよ!」
 銀髪の少女シャリーはユリシスの存在に気付き、植木──ユリシスが吹っ飛ばされた先だった植木──の向こう側に声をかけた。
 植木の葉をガサガサと鳴らして立ち上がる少年が居る。微笑を浮かべるシャリーはユリシスに近づいて来る。
「こんにちは。また会えて良かったわ。私、必ずきちんとお詫びをしたかったんだもの」
 そこまで言ってシャリーは心配気にユリシスの姿を一通り眺める。
「……本当にどこも痛くない?」
「ええと、平気です」
 ──そりゃ心配するよね、普通の人が食らったら大怪我だよ……。
 ユリシスにしてみれば、お詫びよりも自分の財布の在り処が気になって仕方が無かったので、シャリーと植木の向こうからやって来る少年に聞くことにする。
「あのぅ、私、ここで落し物したかもしれないんです、見てませんか?」
 ユリシスの問いにシャリーは即座に反応した。言動全てに聡明さが感じられる。上級魔術師とはこういうものなのかと、ユリシスは妙な所で感心した。
「それならネオが拾ってくれてるのよ。ネオ」
「……待って、今出すから」
 シャリーの声に応じて、ネオと呼ばれた少年が肩に掛けていた鞄の紐を解いていた。
 二人は、ユリシスが魔術を使ったかもしれないとか、そういう事には一切気に掛けていないようだった。ユリシスはホッと胸を撫で下ろす。
 待つ間にユリシスは、下町に住む自分や『きのこ亭』常連客など庶民と彼ら貴族との壁を、感じていた。
 目の前にいる二人は大貴族の子で、やはり着ている服から所持品、持っている雰囲気や細やかな仕草が全然違って見えた。ほんのりいい香りもする。下町に住む側からすると、人種の違いみたいなものすら感じてしまうのだ。同じ人間には違いないのに。
 少年──ネオはシャリーの隣に歩み寄って来て、手を差し出す。
「はい」
「……ありがとう」
 見なれたみすぼらしいお財布を貴族の子から返してもらって、ユリシスは小さな声で返事をした。
「オルファースの中庭といっても、誰が拾って持って行ってしまうかもわからないから」
 その“誰か”をネオだと疑われることは、彼の考えに微塵も入っていなかったのだろうか。それともこんなはした金、盗ってもしょうがないと思うんだろうか……。
「持ち主に返せて良かった」
 ネオが見せた笑顔の純粋さに、ぼんやりと見上げていたユリシスは息を呑んだ。ほんの少し口を開いてまじまじと見てしまった。
 ──疑うとか、あんまり知らないのかも。だから、もしかして、私があんなタックル食らって無事なのも、ああ大丈夫だったんだ、とか、納得しちゃったのかも。
 信じる気持ちを、素直な気持ちを持つ人達だ──ユリシスは彼の笑顔で確信した。貴族だとか、そんな偏見はいらない。
 自分の素直な気持ちを──表情は笑顔で良いのだと気付いた。
「ありがとう」
 ユリシスはきちんと聞こえる声で、二人それぞれの目を見てお礼を言った。


 その日、ユリシスが『きのこ亭』に帰ったのは、八時の鐘が街中に響いて少したった頃だった。
 魔術師のケジメとしてお詫びをさせて欲しいという第二級魔術師シャリー・ディア・ボーガルジュに、夕飯をご馳走になってしまったのだ。
 『きのこ亭』三階の廊下の突き当たりには梯子があり、それを上って天井への扉を開くと、ユリシスの城、屋根裏部屋だ。
 三階の廊下を梯子へ向かう途中、ユリシスは『きのこ亭』次男坊コウとすれ違った。
 コウはユリシスと同じ年の少年で、晩の給仕を担当し、休日は父親の料理長に習って修行中だ。今もその休憩で三階に居たのだろう。
「あ、おかえり。今日は、遅かったんだ。いつもすぐに帰ってくるでしょ?」
「うん。ちょっと、人と会ってた」
「さっき母さんが探してたよ、ユリシスはまだ?? って」
 コウはクスクスと笑って母親の口真似をした。親子だからというのもあるが、特徴を捉えた口調がそっくりそのままなものだから、ユリシスも目を細めて顔をほころばせた。
「わかった。おばさん達の部屋に寄るよ」
「ああ、いや、今は町内会の集まりとかってのに行ってていないよ。母さんのコトだから、別にたいした用事でもないって。気にしなくていいと思うよ」
「そ? ……んー、そうかな。……うん、そうかもね」
 ユリシスは笑って答えた。もう十年近く一緒に暮らしている人達だ。自分の本当の家族なんかよりもずっと、身近に感じる。会話に自然と笑みもこぼれる。
「……あのさ、ユリシスさ」
「何?」
 じゃね、そう言って立ち去ろうとした時、コウが言い難そうに声をかけてきた。ひねりかけてた半身を戻して、ユリシスはコウの正面を向いた。
「あっ……いや……。なんてゆーか、最近、落ち込んでるみたいだから、その、どうなのかなっと思って……試験の結果とかも……」
「……えぇ……?」
 驚いてコウを見て、不自然な程ユリシスは眉をひそめた。どこか演技がかっている。
「何言ってんのー、コウ。私、落ち込んでないよ。やだなー」
「えぇ~? ……そう? ……なら、いいんだけど」
「試験、また不合格。でも、慣れっこになっちゃった。だから、平気だよ。また挑戦するだけだしね!」
 笑顔で言うユリシスに、コウはこくりと大きく頷いた。
「うん。頑張ってな。ウチの人間みんな、ユリシス応援してるから!」
「まっかせといてっ! 来年こそ、受かるよ!」
 次は呼び止められる事なく、ユリシスは梯子を上って自室へと戻った。
 自分の部屋という場所では、疲れがどっとあふれ出るのは、何故だろうか。
 ベッドに腰掛けて、ふぅと溜め息をついた。
 日も暮れきって、丸窓からは空の月とオルファースの本部ドームの輝きが目立って見える。
 柔らかく差し込むその2種類の光。
 部屋の明かりはつけない。魔術師達や、彼らを抱えられる貴族達は魔術の明かりを点けるが、下町の人々は皆、獣油を使って火を灯した。ユリシスの部屋にも当然その道具はそろっていたが、彼女はそれを使う気になれなかった。月明かりだけでいい。月明かりだけが、いい。
「……最近、落ち込んでるみたいだから……かぁ」
 まいったとばかりに額に手をぱしんと落として、当てたまま呟く。
「バレバレ……?」
 ふふふっと、声が漏れてしまう。
 嬉しいのか、悲しいのか、情けないのかわからなかった。けれど、それらはみんなきっと正解なんじゃないかと、ユリシスには思えた。
 今日、ユリシスは第二級魔術師に連れられて普段なら近づきもしない高級レストランで食事をした。第二級魔術師の少女は、第一級魔術師の少年も当然のように連れていった。
 三人でする食事。
 その少女は明るくて優しくて、気遣いも細かくて、頭もよくて、お金持ちで、貴族で、着ている服も綺麗で……第二級の魔術師だ。
 その少年は、素直で純粋だった、多分、嘘がつけない。正義感がきっと強い。叡智きらめく瞳をした、第一級の魔術師。たった一つ年上なだけの、十代ただ一人の第一級魔術師。彼もまた、お金持ちで、貴族で、着ている服も綺麗で……。
 三人目は、他の二人に比べてみすぼらしい、洗濯疲れした服を着ていて、髪もモッサリとまとまりに欠けている。肌の調子も夜更かしするのかあんまり良くなく、顔色が悪い。何より、紫色の瞳が気色悪い。
「あはは……」
 無理に笑ってみるが、声が次第に震えていく。その震える感覚を押さえる為に、下唇を噛んだ。
 ──…………悔しい!
 何故、お財布を拾ってもらった時、自分の口は「ありがとう」なんて言えたんだろう。なんで、高級レストランに誘われて、付いて行ってしまったんだろう。
 屈辱以外の何物でもないじゃないか。
 ──……わかってる。あの二人、悪い人じゃない、むしろ、珍しい位に優しい人達。私の事を気遣って心配してくれた。
 けれど、とユリシスは月明かりに背を向け、ごろりと壁の方を向いた。
 ──いらない。あの人達の優しさなんて、欲しくない。悔しいばっかりだ……悔しい。
 ぎゅっと目を瞑った。
 ──こんな風にしか思えない自分が、嫌いにしかならない。憂鬱にしか、なっていかない。
 落ち込まずに、いられない。
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