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準備編(8~12歳)【1】

めくるめく季節⑧ ゴホッ

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 いつの間に眠ったのかさえわからない。
 ふっと目覚めるとカーテンは開いていて、室内は明るかった。
 額に乗せていたらしい自分の手をパタンと退けると静かな足音が聞こえた。
「トリシアお嬢様、お目覚めですか?」

 覗き込んできたのはサニー・カーニーで、領へ移住する時に着いてきてくれた十歳年上の侍女だ。今回の一時帰省にも二台目の馬車に乗って来た──のだが……。

 パトリシアは少しずつ脳がクリアになり──ついでバッと起き上がった。
「いま、何時!?」
「今は昼過ぎの十四時です」
「うそ……!」
 思っていたよりも寝過ぎている。
「昨日のお昼前にあの襲撃があったのよね?」
「はい。覚えてらっしゃるんですね」
「どうなったの?」
「シリル様や護衛騎士達が難なく撃退され、首領を捕まえて王国騎士団に突き出されていましたよ。そこからは気合の入ったジェラルド様陣頭指揮の元、盗賊団に乗り込んで殲滅したそうです」
「…………盗賊だったの?」
「はい。あの……昨夜遅くにジェラルド様とはお話されたのではないのですか?」
「…………そういうのは聞くと……心配される気がして……」
「あ~~わかります」
 サニーはしみじみと頷いている。
 パトリシアの父ジェラルド、自分は自他ともに認める破天荒なのに、娘が少しでも過激なことをしようものなら心配してすっ飛んでくるのだ。

「サニー、最初に入浴したい。お腹も空いた」
「はい。準備は出来ておりますよ」
 にっこりと微笑みかけられ、パトリシアは「ありがとう」と礼を告げる。

 タウンハウスのパトリシアの部屋も数部屋繋がった構成になっている。
 寝室を含む私室から連なるプライベートスペースには小さな水回りもある。領城のものより規模はどうしても劣るが、質は良い。何より可愛い。
 猫脚のバスタブと魔道具のシャワーセットはとんでもない贅沢品。
 パトリシアは一人で入ると言って体を流した。

 領に移住する前は確かに侍女らに入浴の補助をしてもらっていた。あちらに移ってからは様々なことを一人でこなす。
 入浴にしろ、着替えも……サニーは侍女の仕事を取るなと小言を言うが、冒険者が、一般庶民が誰かにやってもらうなんて話こそ聞いたことがない。過去世の自分も炊事洗濯まで自分でやっていた。

「…………あんなにコンパクトで回転式の洗濯道具なんて無いわよね、魔道具でも。……発明系チート…………でも私、肝心の魔力が無い……うーーん……」
 湯船でパトリシアはため息を吐いて顎まで浸かる。

 入浴剤で乳白色に染まった湯を両手ですくって顔にかけ、天井を仰いだ。
「…………このお風呂、こんなに小さかったかしら」
 しっかりと足を伸ばし座っていても余裕のある大きさだが、六歳で最後に入ってから今年九歳を迎えるいま、随分と成長したのだなと実感した。

 確か『物語』のパトリシアは九歳でエドワード王子と婚約をしていたはず。まず目先のその『イベント』を避けたいところだ。
 父ジェラルドは国王陛下に直訴するチャンスをくれるようだし、そこでは気合を入れて頑張らなければとパトリシアを両手を拳にする。

「…………それから」
 王都にいる間の走り込みパルクールコースも考えなければならない。組み手練習の相手がいないし魔術に関する勉強も止まってしまう。
「王都ったら不便……」
 王都在住の令嬢百人が聞いたら百人全員が二度見して耳を疑うようなことを呟き、パトリシアは湯船に沈み込みながらブクブクとため息を吐いた。



 手足がふやける寸前で上がり、髪はサニーの魔術ですっかり乾かしてもらって遅い昼食をとっていると、侍従がやってきて祖父のザカリーが来ていると告げて去っていった。挨拶をしておけという意味だろう。

 サニーに給仕をしてもらい昼食をとっていたパトリシア。シチューの肉を一切れ飲み込んでサニーを見上げた。

「お爺様が来ているの?」
「最近、ジェレミー様が週に一度ザカリー様と二時間ほどお話をされるのだそうです」
「…………」
 ちぎったロールパンをもぐもぐと咀嚼するパトリシア。

 父ジェラルドの父親にして現職の宰相ザカリー・ゼン・バンフィールド。
 名実ともにバンフィールド家のボスだ。何なら、王城での実務者ボスだ。





 一階の居間グレートルームや玄関ホール横、サンテラス側の応接室ドローイングルームを覗けば誰もおらず、そのまま足を伸ばして庭に面した談話室サロンへ。

 大きな窓が並ぶ室内は明るく、ソファには祖父ザカリーと弟がジェレミーが座って談笑していた。

「失礼いたします。お爺様、こちらにいらっしゃったのですね」
「おおぉっ! トリシア!」
 祖父は立ち上がると開け放ったままだった扉、パトリシアの方を向いた。
 パトリシアは丁寧にお辞儀カーテシーをして──。
「お久しぶりです、お爺様」
 そしてニコリ。

 そんなパトリシアに背も高くガッシリした体格のザカリーは背中を丸めて、眉尻どころか目尻もトローンととろかして笑っている。

「はぁぁあっ……久しぶりだ、本当に! ジェラルドが母似だった、孫のトリシアにまでジュリアの美貌がそっくり引き継がれるとは……トリシア、お婆様の幼い頃にそっっっつくりだ!!!」
 最後はペッチーンと額を打ってザカリーは感動している。熱量がすごい。
 真顔はいかめしく恐ろしいことで有名な祖父ザカリーだが、初恋からそのまま嫁にした祖母ジュリア似のパトリシアの前では完全にかたなしだ。

「あら、お爺様、ジュリアお婆様はどうされたの?」
「サザランド領の小さな城がえらくお気に召してな、ガーデニングに燃えまくっておる。社交シーズンギリギリまで王都には来るつもりないぞ、あれは」
「まぁ……お婆様にそんな趣味があったの??」
 ザカリーの手招きに応じてパトリシアは隣のソファに腰をおろした。
「うむ、先日──」
「お爺様」
 祖父の言葉を遮って、ジェレミーが立ち上がった。

「ジェレミー。ジェレミーも久しぶり。元気にしていた?」
 パトリシアは慌てた内心を隠してやんわりと話しかけたが、目線だけを送られてヒヤリとした。
「姉上こそ。久々の自宅はいかがですか?」
「……えっと」
 歳の差がギリギリ一歳以内という超年子の姉と弟である。
 ジェレミーは七歳なのだが、年頃には見えない。
 それこそ、パトリシアの前世が読みあさっていた『転生モノ』主人公で実年齢+前世享年を足して今三十路ですという顔をされている気分になる。
 過去世の読んだ『物語』ではこの実弟ジェレミーがパトリシアを罠にはめて絞首台ギロチンへと導くのだ。

 パトリシアと同じ父譲りの蒼色アイスブルーの瞳の冷ややかなこと……。
 組み手相手として頼もうかと思っていたのに、既にとりつく島は無いように感じられた。

 ──嫌味を言われているのよね? 私……。
 気付かぬフリでにこりとパトリシアは微笑むことにした。
「そうね、間取りを忘れてしまったみたい。迷子にならないように気をつけるわ」
「………………」
 対するジェレミーは長い沈黙だ。

 パトリシアは戸惑うしかない。
 五歳の頃、パトリシアは過去世に気付き、六歳になるかならないかで領へ移り住んだ。
 それまで、弟ジェレミーは身体が弱くしょっちゅう熱と咳を出して寝込んでいたのだ。

 過去世に目覚めるまでのパトリシアは侍女侍従や護衛騎士を振り回してほぼ毎日外へ繰り出してはドレスだぬいぐるみだのを買い漁るのショッピングに夢中だった。
 数日おきに本屋に寄っては色の綺麗な絵本を買って、その時だけパトリシアは弟のお見舞いをしていた……。逆に言うとそれぐらいしか会っていなかった。

 そして、年末年始に顔を合わせたとはいえ、二年以上の空白ブランク
 幼い二人にとって人生の四分の一会っていなかった姉弟。
 年末年始の時点でジェレミーも最近はすっかり病弱を払拭し、バンフィールド家の男児らしく鍛錬にも励んでいると聞いていた。
 ひとつ気になることがあるとすれば、パトリシアが邸宅タウンハウスから居なくなった途端、咳は消え、熱も稀になっていたという点だけ……。
 時折、思い出したかのように熱がある程度だと聞いていたが──。

「姉上には、うっ、ゴホッ──ゴホッゴホッ」
「ジェレミー!」
 慌てて駆け寄るパトリシア。
 さっと手で遮られる。
「いえ、いいです。お爺様、後で」
「うむ、帰る前にジェレミーの部屋へ寄ろう」
「はい。──では、姉上、ごゆっくり」

 胸を抑えてジェレミーは談話室サロンを出て行った。わざわざ閉められた扉の向こうから、一際酷い咳と侍女らの声が聞こえてくる。

「ふむ。咳はここ二年ほど全く無かったというのに……」
 ザカリーの声を聞きながら、パトリシアは嫌な予感めいたものが心の中に広がるのを止められなかった。
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