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準備編(8~12歳)【1】

めくるめく季節➅ 温かい眼差し、柔らかい腕

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 旅程は早くもなく、ゆっくりすぎることもなかったが、『それ』はパトリシアにとって初めてのことだった。

 晴天の中、二台の馬車と護衛の騎馬三十騎でアル・アイ・ラソン城を出た。
 時折冷たい風がふきつつも優しい日差しが注ぐ三月の終わり。
 山の雪は残っているが、平地に冬の名残はなく、むしろ春の足音が聞こえている。
 パトリシアはぼんやりと馬車の窓から外を眺めていた。

「最近はどう? 楽しく過ごせている??」
 双子のノエルやクリフ、シャノンの母親である叔母コーデリアは馬車に揺られながらパトリシアに問いかけた。

 隣に座る叔母を見上げれば、ノエルとよく似た少し垂れた優しい目があった。目尻にある小さなほくろは叔母の美貌を引き立てている。

「はい。いつも気にかけてくださってありがとうございます」
「あら。他人行儀なこと。トリシアってばいつの間にそんなに『大人』になってしまったの?」
「えぇ……??」
「五歳の頃だったかしら? 領に遊びに来てくれた時はほら、やっぱり退屈して──」
「いえ! いまは! まったく!」
 慌てて否定するパトリシア。
 過去世の記憶が蘇る前のパトリシアの言動は正真正銘『黒歴史』なのだ。
 ──もっ……、叔母さまは……! ノエルと同じことを……!!

「前のトリシアも、今のトリシアもお転婆具合では変わらないだろう。なんでそんなに慌てるんだ?」
 本当にわからないという風に、パトリシアと叔母の対面に座る伯父シリルが問いかけてくる。
 伯父の目元はクリフとよく似ているが、少しいかめしい。領内では『優しくも怖い領主様』で通っている。
 が、パトリシアからすれば『?』でしかない。
 口元は父ジェラルドと似ているし、パトリシアに厳しいことを言ったことは一度もない。

「前は……」
 パトリシアは視線を膝へおろした。
「前の私は、嫌いです……」
 どう言ったものか、攻撃的で対処しようのないワガママで傍若無人に振る舞っていた以前の自分について、そう言い表すことしか出来なかった。
 そんなパトリシアを叔母がそっと撫でてくれる。

「そんなに恥じないで……」

 ──恥…………そう、恥だ。
 パトリシアは『黒歴史』がもたらす感情の名前を改めて思い知る。

「あの頃のトリシアも可愛くて、自分の気持ちをはっきりと言い表せる賢い子だったのよ? 誰でもないトリシアが一番わかっていてあげて?」
「……でも」
 顔を上げて叔母を見るが温かな微笑みで迎えてられてしまう。あの頃の自分は叱られて然るべきなのに。

「五歳の子供に『ワガママに振る舞うな』というのは酷な話だ。その年頃で心を封じてしまえば逆にろくな人生を歩めない。反省はいいが、今の大人しいトリシアは逆に心配だよ。親馬鹿ぶりを隠しもしない兄上が何かっていうとすぐに飛んでくるのもよくわかる」
「ふふふ、文字通りにね」
 叔父シリルが言い、叔母コーデリアが口元に手を寄せてこらえきれないと笑っている。
 父ジェラルドの行動に対する見解は皆『破天荒』で一致している。

 行動を、過去世で悪役令嬢に繋がるワガママを今せっせと正しているのに心配されるとは、パトリシアにしてみれば驚きだった。
 しかしなるほど、パトリシアがワガママ放題だったことを咎めず見守ったバンフィールド家の方針もわかった気がする。

「…………でも、かと言ってどうしたらいいか…………」
 パトリシアが口を結ぶと叔母はただ撫でてくれる。
「思いのままでいいのよ。いずれ律するべき時も場面も学ぶことになるの。子供のうちは心のままでいいの。ね?」

 叔母をぽかんと見上げ、叔父シリルを見れば大きく頷いて見せてくれる。

 ──やっぱりバンフィールド家は誰も彼も優しい。
 いつだったか……あれは双子が自分達の誕生日なのにパトリシアの部屋にお菓子をたくさん持ち込んで現れた日──孤独ではなかったことを思い知って泣いたことを思い出してしまう。
「…………はい」
 知りうる運命は過酷なのに、ごく近しい人達は甘く優しい。その落差にいつも涙がこぼれそうになる。

 その時、ガッタンと馬車が急停止した。
 パトリシアは叔母コーデリアに包まれていて、前へ倒れ込むことはなかった。
「コーデリア、頼む」
「ええ」
 にこやかに、二人はにこやかにやり取りをしていた。ティータイムのカップを渡すときのような──。

 パトリシアはきゅっと抱きしめられながら叔父シリルが外へ出て扉をパタンと静かにしめるのを眺めた。
「…………」
「トリシアは少しだけ、耳を閉じていましょうね?」
「コーデリア叔母様……あの」
 柔らかく華奢な叔母の手がパトリシアの耳を塞ぐが、外から激しい剣戟の音と怒声は聞こえていた。

 初めて、人と人が切り結ぶ音を、人間が人間に殺される時の断末魔を聞く。
 パトリシアは口を戦慄わななかせ、ギュッと目を瞑った。

 ──甘い……また、血の甘い匂いがする。
 故意であったかなかったか、パトリシアは意識を手離した。





 ふっと目覚めると薄暗かった。既にカーテンはひいてあるらしい。
「…………なんじ……」
 そっと額に触れるものがある──視線を流せば母だ。母の手が額に触れている。

 母エノーラはゆったりとしたロングの寝衣ナイトウェアにガウンを羽織り、パトリシアと同じく豊かな金髪を横でくくって前に流している。母は枕元に腰をおろしていた。
 母の頬をカーテンの隙間から注ぐ月明かりがほのかに照らす。

「……お母様……」
 リラックスした母の姿の後に見回した天蓋付きの見慣れたベッド──。
 王都にあるアルバーン公爵邸のパトリシアの部屋だとすぐに把握できた。

「トリシア……」
 そっと上半身を起こせば母は両手を伸ばした。
「トリシア、ぎゅってしましょう?」
 穏やかで、優しい声だった。
 何の疑問もない、膝を進めて母のかいなへ潜り込むパトリシア。

 六歳で王都を、父母の元から離れてまる二年──。
 大掃討の最後、闇の繭ニルヴァーナ・コクーンが解けて父とたっぷり睨み合った末に抱き合った。が、その父の腕の中でパトリシアは意識を失い、数日眠りこけた。
 討伐後処理に年末年始の慌ただしさ──結局、目の回る忙しさの中で、弟のジェイミーもいてはパトリシアは母に抱きしめてもらうタイミングを逸していた。

 いま、母の柔らかな胸に顔を埋めて、その鼓動を聞いて、パトリシアは息が詰まるような気持ちになる。

 無意識に、甘えてはいけないのだと思い込んでいた。
 残酷な未来を回避しなければならないパトリシアには、時間はいくらあっても足りない。やるべきことが多くて、一つ一つの難易度も高い。
 馬車で一日の距離とはいえ、一人、両親から離れて領地で『未来』に立ち向かうことはパトリシアにとっては責務と言い換えても変わらない。

「おかえりなさい、トリシア」
 母の包み込むような声──。
 パトリシアの涙腺はあっという間に崩壊してボロボロと涙が溢れた。

 馬車が急停止して起こったことはだいたいわかっている。
 パトリシアはただの八歳児ではないのだ。
 何者かは知れずとも、盗賊なり暗殺者なりの襲撃があった。
 護衛の騎士はたくさんついていたし、あのクリフやノエルがこなす修行をすべて乗り越えた彼らの父シリルがいたのだから、襲撃者は追いはらったことだろう。

 ただ怖かった。また、血が甘美に思えたことが。人の血が流れたことも。

 闇の繭ニルヴァーナ・コクーンのことがあっても、何も変わっていなかった。
 もしかしたら血を使う力が枯れて使えなくなってくれているかもしれない……などと思ったりもしていたから。でも考えはひどく甘かったようで……。

 そうするうちに、後ろ側がずしりと沈み、月明かりを遮ってパトリシアをエノーラごと抱き込む影──もちろん、父ジェラルドがいた。

「おかえりなさい、ジェラルド」
「ただいま、エノーラ。トリシアも、おかえり」
 頭上から聞こえる両親の声に心底安心をした。

 過去世を思い出して知り得た『未来』をやはり話すことは出来ない。
 あの『未来』を回避する為に、公爵令嬢パトリシア・ラナ・バンフィールドであることを捨てようと思っている。その考えは今後も変わらない。
 変わらないが、切り捨てなければならないものがあまりに愛おしくて、手放せるわけがないと思いつつもそれでもやっぱり、だからこそ、離れなければならないと強く思えば思うほど涙が止めどなく次から次へと流れ出て、耐えられないと、パトリシアは声をあげて泣く。
 寂しい。寂しい。寂しい。

「怖かったね、トリシア。悪い奴らはみんな捕まえたから安心していいよ」
 帰宅してそのまま、騎士服のままの父ジェラルドは母ごとパトリシアをぎゅうぅっと抱きしめてくれる。

 ──ああ、嫌。嫌。離れたくない……大好き……お母様、お父様……大好きなの。

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