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黎明編(~8歳)
雪の日の邂逅⑫ 負ける理由
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ミックはグローブやブーツに埋め込んだ魔道具──今回は小さな銀盤に呪文を彫り込み、魔力を通すために砕いた魔力晶石を溶剤で溶かして塗り込んだ回路で組んである4センチ角程度の詠唱短縮の呪符──を一言二言の短い詠唱で次々と解放して、身体強化を図っていく。
いわゆる支援術になるが、個々人さまざまな術を仕込んでおり、多種多様だ。風の力で体を軽くしたり、土の力で地面への落下ダメージを軽減したり跳躍力をあげたりする。
魔力晶石は魔力のみが込められ、単体で魔術は発動しない。一方で魔道具は術式だけか封印されており、魔力の注入と指定の発動語で作動させられる。ただし、通常詠唱に対して消費魔力が一割~二割増える。
基本的に魔術は一詠唱につき一つしか使えず、同時には発動させられない。時限性のものはスライドしてかけていくが、戦闘中に支援的魔術を一つ一つ詠唱している暇はあまりないので、魔道具の補助を受ける。
ミックは手持ちの魔道具すべてを解放した。
アルバーン騎士団二番手ミックの決死の大一番になる。唇をすぼめ、ふぅーと息を吐き出し、サブ武器の幅広短剣を腰から引き抜き、器用にクルクルクルッと回して双剣モードに切り替える。さらに、右手の長剣、左手の短剣にも刻まれた呪符を発動し、耐久力をあげる。
すべてを、パトリシアは横目でじっと見つめていた。
ミックが二歩三歩前へ出たとき、周囲の魔獣が一斉に襲いかかってくる。
そこから、ミックは──魔術による全身強化、武器強化済みで──人間の範疇を超えた動きをする。
トンっと地面を蹴ってから、姿が霞んで見えないほどの速度で次々と魔獣を切り刻んでいく。
ふと、パトリシアは過去世の記憶を思い起こすのだ。過去世は物語を読むこと以外に、光る画面に映し出される人物を操作してモンスターを狩るゲームを日々嗜んでいた。それを、生で見ている気分になる。
一刀一撃で闘牛を絶命させ、振り上げられる大爪の灰爪熊を走りながら唱えた火魔術であぶっては喉元に深々と剣を突き立て、容易く引き抜いて次へ──。
迫る巨大な地竜黒炎竜すら、吐き出される大炎をかわして足元をかいくぐり、的確に腱を切り裂いて姿勢を崩させては目を貫いたのち、胸の急所をえぐり取る。
電光石火の快進撃と呼べば格好良いが、ミックは被ダメージ覚悟の突撃だ──衣服のあちこちが爪や牙で損傷し、小さな傷がついていく。サーコートの下に着込んだ鎖帷子のおかげで致命傷はないようだが、刻々とミックの体力は削られている。
パトリシアに近付こうとする魔獣は優先的に狩られ、そのたび目の前のミックの孤独な戦いをヒヤヒヤした気持ちで見守る。
あまりに未熟な自分を思い知るパトリシア……。
始めに集まっていた魔獣の八割が、ミックただ一人の剣と、彼の得意な火炎魔術で倒された。
辺りには魔獣の血が、消えゆきながら強烈な甘さをまき散らしていく。
念のため、腰の剣に手をかけて構えていたパトリシアだが、手を出すまでもなかった。正確には出しようがない。
さすが正規の、かつアルバーン騎士団で総団長チャドに継ぐ力量たるにふさわしい。
身体強化があって、ミックの動きは目で追うことすらパトリシアには難しい。今も、あちらで強力な蹴りで魔獣たちをドミノ倒しにしたかと思えば、後ろでもう武器強化して炎をまとわせた剣を大きく振って複数体同時に両断、斬り伏せていく。
いっせいに飛びかかられようとすれば、△森の自然の炎を簡易呪文で操り、容易く魔獣の進路をふさいで制御する。
まさに、ミック独壇場と言えた、が、さすがに百体、二百体、三百体を超えて滅したとき、ミックはガクッと膝をついていた。休みなく動き続けた疲労だ。
「ミック!」
パトリシアがそのもどかしい十歩ばかりを駆け出したとき、ミックの反対側から小さめの地竜が口を縦に開い襲いかかる。
それを目の端に捉えていたミックは体をぐるっと反転して飛び出し、パトリシアを抱えかばう。
──途端、目眩がしそうなほどの甘美な香りがパトリシアの飢餓感に火をつけた。思わず、ごくりと大きな音で唾を飲み込むほど……。
それが、パトリシアをかばって左腕を食いちぎられたミックの鮮血のせいだとわかった瞬間──声にならない悲鳴をあげた。
崩れゆくミックをしがみつくように抱き止めるパトリシア。しかし、装備もある成人男性は重く、パトリシアは一緒に地面に転がる。
横に、吐き出されたとみられる切断されたミックの左腕がゴロンと落ちてくる。
「──ミック…………ああ……ミック……!!」
動揺して名を呼び続けるパトリシア。腕をひろい、ミックの腕にくっつけようと近付ける。完全にパニック状態だ。
一方、ミックは血の気を失い、閉じてしまいそうなまぶたを上げ、ぶつぶつと呟いている。
ごうっとパトリシアとミックの周囲に炎の壁がうまれた。それは熱気がなく、パトリシアにも防護結界用の魔術だとわかった。
ドボドボと左半身を血に染めながら、ミックはそれでもと立ち上がりながらパトリシアをかばう。すでに片目が血で濡れてミックには見えていない。
二体の灰爪熊が炎の壁をかいくぐり、迫る。
どうにか踏み出して一匹を切り倒したとき、ミックは二匹目に左側から頭を殴られた。身をひきながら致命傷を回避する。
側頭部、顔に爪の切り傷がくっきりとついた。ギリギリ目や鼻は避けたらしいが、顔の半分も血に埋もれ、さすがに倒れかけるミック。最後の力をふり絞り、長剣を灰爪熊の口の中へ投げ込んだ。
そうしてミックはついに倒れ、気を失ったまま魔力を放出して魔術の壁を張り続けている。壁の向こうの魔獣はあらかた狩られている。が、遠くからこちらに気付いて少しずつ追加でやってくる。
「……ミック……どうしよう……ミック……わたし……………………あぁ………………」
──なんて、無力…………。
ほろほろと涙がこぼれ、ぎゅっと目を瞑った。すぐに開いて、上着のポケットから刺繍のあるハンカチを取り出し、骨が丸見えのミックの左上腕を止血の為に強く結んだ。その際、空腹でもないのにあまりの甘さに涎が湧き上がってくる。酷い嫌悪で強く唇を噛むパトリシア。
遠く、大穴の方で巨大魔獣がドオンと飛び出してきたのが見えた。
ミックが倒していた地竜黒炎竜のようだが、大きさが桁違いだ。十階建て、いや二十階建ての建物を見ているようだ。いや、そんな高層建築物は世界にない──過去世の記憶の中にはボコボコと建っていたビルサイズのイメージだ。
すぐに黒炎竜の足元が氷漬けにされているのが見えた。足だけでも建物に換算するなら五階相当の高さ、一度に広範囲へ氷の魔術が飛んだようだ。
いつのまにか、あちらこちらでも戦闘の声が聞こえてきている。ミックの狼煙でみな集まっていたのだろう。
しかし、聞こえてくるのは『二十五番隊殲滅!』『四角森側、全滅!』等ひどい報告だ。シンプルなのにあまりに胸が痛い。一体何人のアルバーンの民が死んでいるのだろう。
──だから……だから、だから…………甘くて目眩がしそうなのね……。
すでに、血の匂いが火災の煙や臭いを上回っている。
上空にごおおーっと噴きだす炎が見えた時、その黒炎竜の顔が下を向いた。いわゆる上位の上に変異種だ。本来、羽の無い種類だが、その背中に四本の腕がある。
体正面の本来の二手のうち、一つの手には誰かが足──下半身を捕まれているようだ。遠目ながら、その誰かの傍らで手に張り付く父ジェラルドの姿が確認できた。
手のある高さは十数階にあたる高さだ。身体強化で巨大な竜の体を駆け上がったのだろう。また、最初の氷漬けの魔術もジェラルドのものだろうと想像できた。出てきたばかりのところを瞬時に張り付けに出来るのは、パトリシアにも父しかいないとわかる。
体が巨大なら手も巨大──ジェラルドは手の中の誰かを助けようとしていた。
そこへも黒炎竜が火を吹きかけるのを、別の誰かが氷壁で防いでいる。
「あれ……ノエル!?」
成人男性ではない、少年の見慣れた後ろ姿。
「なんであんなところに……!」
──が、ノエルの氷の壁では大炎を防ぎきれない様子で、父が振り向き、炎の何倍もの勢いで氷の嵐を吹きかけた。父は防御も攻撃魔術でやってしまう……。
その隙に、捕まっていた誰かが一瞬で手の中に全身を飲まれる。目をみはるパトリシア。
──巨大な手はぎゅっと力を込めて握ったようで、遠く離れているのに、ゴキッという音が聞こえた気がした……。
パトリシアはひどい寒気と空腹感で吐き気がのぼってくるのを感じた。吐きたいのに吐けない気持ちの悪さ。
周りの魔獣たちが薄くなっていく炎の壁をじりじりと進んできていることも気にかかる。
すべての音が遠のいていく気分だ。
ジェラルドが巨大な地竜の腕を切り落とし、指を切りきざみ、内側からぐったりした誰かを──小柄に見える──引きずり出していた。
途端にパトリシアは唇を戦慄かせる。
父ジェラルド自ら危険をおかして救出し、ノエルまで協力していた──地竜に捕まっていたのが、クリフだったから……。
地竜黒炎竜の周りには、いつの間に現れたのか、成人の三倍の体長がある翼竜が蠅のようにたかっていた。
応戦していたノエルにジェラルドはぐったりしたままのクリフ預けている。
そうしてジェラルドはワイバーン複数体へ取り付き、飛び石の要領で次々と斬り伏せる。
だが、翼竜は次々とどこからか飛んでくる。振り回される黒炎竜の残り五本の腕も、溜め時間を置いてはいるが、たびたび吐き出される炎も巨体ゆえに厄介だ。
──もう……無理よ……。
血が失せていき、次第に冷たくなっていくミックを抱え、ついにパトリシアは絶望に飲まれた。
そんなパトリシアの脳裏にキィの声が届く。
『──キミはボクらのような血の瞳を嫌うけれど……』
静かな声だった。
『血は、力だよ。血は命だ』
突然、パトリシアが酔っている元凶の『血』の話をする。森中が騎士や兵士の血で濡れ、大気中には溶け込んだ魔獣達の血の匂いが染み付いている。
『──流されてしまった血を使うのに、躊躇いはいるかな?』
キィは知っているということだ。パトリシアが血を魔力に変えられるということを……。
『この男を助けたければ急いだ方がいい。あの男の子もきっと重傷だね。君の名を叫んで探してくれていた子でしょう? ──トリシア、いま、キミが何をしたらいいか、わかってるよね?』
甘さは一層増してクラクラする。泣きすぎて喉の奥が痛い。パトリシアはこの期に及んで問う。
「魔獣って……、なんなの……?」
『魔獣は……罰なんだよ……。あれは神の与える罰──神罰、天罰の形だよ……』
「……神の……罰──罪は闇の……」
『キミが、鎮めてやればいい』
闇の住処を出るとき、キィはパトリシアに魔術を二つ教えてくれた。
一つは住処から出るための通路を繋ぐ──パトリシアの左目を闇と繋ぐ魔術。
もう一つは──。
『さあ、その赤い瞳で見ればいい。その出口がキミの魔力を導き出してくれるよ』
パトリシアはミックを抱え、座り込んだまま呟く。
「……其は…………深遠、静謐なる棺を」
ボロボロとこぼれていく涙。止められない。
「──開き……」
ミックの流れ出た血液が、大気に溶けるように消えていく。同時にパトリシアの内側に温かい芯が宿る気がした。
──また、血から魔力を求めてしまう……。
『森にはこれだけ、騎士達、魔獣達の血で溢れてる……この触媒でキミは目覚めるんだ……そばで見られて、うれしいよ』
キィの言葉に悲しさで胸がちぎれそうになる。それをこらえ、パトリシアは魔術に集中する。
森中から血が集まり、パトリシアの内側を魔力が満たしていく……。
同時に、闇の住処と繋がる左目が、赤黒かった瞳が涙もあいまって光沢を帯びて輝く。
──血よりも赤く、力に満ちる。
ミックの血に塗れていたはずの、しかし今やすっかり元通りのきれいなパトリシアの外套をゆらりとのけ、左手を父と交戦する巨大地竜へかざした。
「永劫の安らぎを執行し──」
パトリシアはただ静かに詠唱を続ける。
キィの教えてくれた魔獣に対する闇属性最大の攻撃魔術──。
森中から魔力を集め、パトリシアの手の平には闇色の球体が紫の迸りをこぼしながら練り上げられていく。
近くにいた魔獣は触れた側からゴリッと削れ、血煙となり、一層、闇の球体に飲まれて消えていく。
球体はいつしか、三階建てほどの建物一つ分の大きさに練り上げられた。
パトリシアは震える唇で最後の一節を詠唱する。
「──我とともに、寂静の間へ導かん…………闇の繭」
手の中の闇は一気にぐぐんと大きさを増して、森をまるごと飲み込んだ。
そうして、パトリシアは血の誘惑に負けたのだ。
いわゆる支援術になるが、個々人さまざまな術を仕込んでおり、多種多様だ。風の力で体を軽くしたり、土の力で地面への落下ダメージを軽減したり跳躍力をあげたりする。
魔力晶石は魔力のみが込められ、単体で魔術は発動しない。一方で魔道具は術式だけか封印されており、魔力の注入と指定の発動語で作動させられる。ただし、通常詠唱に対して消費魔力が一割~二割増える。
基本的に魔術は一詠唱につき一つしか使えず、同時には発動させられない。時限性のものはスライドしてかけていくが、戦闘中に支援的魔術を一つ一つ詠唱している暇はあまりないので、魔道具の補助を受ける。
ミックは手持ちの魔道具すべてを解放した。
アルバーン騎士団二番手ミックの決死の大一番になる。唇をすぼめ、ふぅーと息を吐き出し、サブ武器の幅広短剣を腰から引き抜き、器用にクルクルクルッと回して双剣モードに切り替える。さらに、右手の長剣、左手の短剣にも刻まれた呪符を発動し、耐久力をあげる。
すべてを、パトリシアは横目でじっと見つめていた。
ミックが二歩三歩前へ出たとき、周囲の魔獣が一斉に襲いかかってくる。
そこから、ミックは──魔術による全身強化、武器強化済みで──人間の範疇を超えた動きをする。
トンっと地面を蹴ってから、姿が霞んで見えないほどの速度で次々と魔獣を切り刻んでいく。
ふと、パトリシアは過去世の記憶を思い起こすのだ。過去世は物語を読むこと以外に、光る画面に映し出される人物を操作してモンスターを狩るゲームを日々嗜んでいた。それを、生で見ている気分になる。
一刀一撃で闘牛を絶命させ、振り上げられる大爪の灰爪熊を走りながら唱えた火魔術であぶっては喉元に深々と剣を突き立て、容易く引き抜いて次へ──。
迫る巨大な地竜黒炎竜すら、吐き出される大炎をかわして足元をかいくぐり、的確に腱を切り裂いて姿勢を崩させては目を貫いたのち、胸の急所をえぐり取る。
電光石火の快進撃と呼べば格好良いが、ミックは被ダメージ覚悟の突撃だ──衣服のあちこちが爪や牙で損傷し、小さな傷がついていく。サーコートの下に着込んだ鎖帷子のおかげで致命傷はないようだが、刻々とミックの体力は削られている。
パトリシアに近付こうとする魔獣は優先的に狩られ、そのたび目の前のミックの孤独な戦いをヒヤヒヤした気持ちで見守る。
あまりに未熟な自分を思い知るパトリシア……。
始めに集まっていた魔獣の八割が、ミックただ一人の剣と、彼の得意な火炎魔術で倒された。
辺りには魔獣の血が、消えゆきながら強烈な甘さをまき散らしていく。
念のため、腰の剣に手をかけて構えていたパトリシアだが、手を出すまでもなかった。正確には出しようがない。
さすが正規の、かつアルバーン騎士団で総団長チャドに継ぐ力量たるにふさわしい。
身体強化があって、ミックの動きは目で追うことすらパトリシアには難しい。今も、あちらで強力な蹴りで魔獣たちをドミノ倒しにしたかと思えば、後ろでもう武器強化して炎をまとわせた剣を大きく振って複数体同時に両断、斬り伏せていく。
いっせいに飛びかかられようとすれば、△森の自然の炎を簡易呪文で操り、容易く魔獣の進路をふさいで制御する。
まさに、ミック独壇場と言えた、が、さすがに百体、二百体、三百体を超えて滅したとき、ミックはガクッと膝をついていた。休みなく動き続けた疲労だ。
「ミック!」
パトリシアがそのもどかしい十歩ばかりを駆け出したとき、ミックの反対側から小さめの地竜が口を縦に開い襲いかかる。
それを目の端に捉えていたミックは体をぐるっと反転して飛び出し、パトリシアを抱えかばう。
──途端、目眩がしそうなほどの甘美な香りがパトリシアの飢餓感に火をつけた。思わず、ごくりと大きな音で唾を飲み込むほど……。
それが、パトリシアをかばって左腕を食いちぎられたミックの鮮血のせいだとわかった瞬間──声にならない悲鳴をあげた。
崩れゆくミックをしがみつくように抱き止めるパトリシア。しかし、装備もある成人男性は重く、パトリシアは一緒に地面に転がる。
横に、吐き出されたとみられる切断されたミックの左腕がゴロンと落ちてくる。
「──ミック…………ああ……ミック……!!」
動揺して名を呼び続けるパトリシア。腕をひろい、ミックの腕にくっつけようと近付ける。完全にパニック状態だ。
一方、ミックは血の気を失い、閉じてしまいそうなまぶたを上げ、ぶつぶつと呟いている。
ごうっとパトリシアとミックの周囲に炎の壁がうまれた。それは熱気がなく、パトリシアにも防護結界用の魔術だとわかった。
ドボドボと左半身を血に染めながら、ミックはそれでもと立ち上がりながらパトリシアをかばう。すでに片目が血で濡れてミックには見えていない。
二体の灰爪熊が炎の壁をかいくぐり、迫る。
どうにか踏み出して一匹を切り倒したとき、ミックは二匹目に左側から頭を殴られた。身をひきながら致命傷を回避する。
側頭部、顔に爪の切り傷がくっきりとついた。ギリギリ目や鼻は避けたらしいが、顔の半分も血に埋もれ、さすがに倒れかけるミック。最後の力をふり絞り、長剣を灰爪熊の口の中へ投げ込んだ。
そうしてミックはついに倒れ、気を失ったまま魔力を放出して魔術の壁を張り続けている。壁の向こうの魔獣はあらかた狩られている。が、遠くからこちらに気付いて少しずつ追加でやってくる。
「……ミック……どうしよう……ミック……わたし……………………あぁ………………」
──なんて、無力…………。
ほろほろと涙がこぼれ、ぎゅっと目を瞑った。すぐに開いて、上着のポケットから刺繍のあるハンカチを取り出し、骨が丸見えのミックの左上腕を止血の為に強く結んだ。その際、空腹でもないのにあまりの甘さに涎が湧き上がってくる。酷い嫌悪で強く唇を噛むパトリシア。
遠く、大穴の方で巨大魔獣がドオンと飛び出してきたのが見えた。
ミックが倒していた地竜黒炎竜のようだが、大きさが桁違いだ。十階建て、いや二十階建ての建物を見ているようだ。いや、そんな高層建築物は世界にない──過去世の記憶の中にはボコボコと建っていたビルサイズのイメージだ。
すぐに黒炎竜の足元が氷漬けにされているのが見えた。足だけでも建物に換算するなら五階相当の高さ、一度に広範囲へ氷の魔術が飛んだようだ。
いつのまにか、あちらこちらでも戦闘の声が聞こえてきている。ミックの狼煙でみな集まっていたのだろう。
しかし、聞こえてくるのは『二十五番隊殲滅!』『四角森側、全滅!』等ひどい報告だ。シンプルなのにあまりに胸が痛い。一体何人のアルバーンの民が死んでいるのだろう。
──だから……だから、だから…………甘くて目眩がしそうなのね……。
すでに、血の匂いが火災の煙や臭いを上回っている。
上空にごおおーっと噴きだす炎が見えた時、その黒炎竜の顔が下を向いた。いわゆる上位の上に変異種だ。本来、羽の無い種類だが、その背中に四本の腕がある。
体正面の本来の二手のうち、一つの手には誰かが足──下半身を捕まれているようだ。遠目ながら、その誰かの傍らで手に張り付く父ジェラルドの姿が確認できた。
手のある高さは十数階にあたる高さだ。身体強化で巨大な竜の体を駆け上がったのだろう。また、最初の氷漬けの魔術もジェラルドのものだろうと想像できた。出てきたばかりのところを瞬時に張り付けに出来るのは、パトリシアにも父しかいないとわかる。
体が巨大なら手も巨大──ジェラルドは手の中の誰かを助けようとしていた。
そこへも黒炎竜が火を吹きかけるのを、別の誰かが氷壁で防いでいる。
「あれ……ノエル!?」
成人男性ではない、少年の見慣れた後ろ姿。
「なんであんなところに……!」
──が、ノエルの氷の壁では大炎を防ぎきれない様子で、父が振り向き、炎の何倍もの勢いで氷の嵐を吹きかけた。父は防御も攻撃魔術でやってしまう……。
その隙に、捕まっていた誰かが一瞬で手の中に全身を飲まれる。目をみはるパトリシア。
──巨大な手はぎゅっと力を込めて握ったようで、遠く離れているのに、ゴキッという音が聞こえた気がした……。
パトリシアはひどい寒気と空腹感で吐き気がのぼってくるのを感じた。吐きたいのに吐けない気持ちの悪さ。
周りの魔獣たちが薄くなっていく炎の壁をじりじりと進んできていることも気にかかる。
すべての音が遠のいていく気分だ。
ジェラルドが巨大な地竜の腕を切り落とし、指を切りきざみ、内側からぐったりした誰かを──小柄に見える──引きずり出していた。
途端にパトリシアは唇を戦慄かせる。
父ジェラルド自ら危険をおかして救出し、ノエルまで協力していた──地竜に捕まっていたのが、クリフだったから……。
地竜黒炎竜の周りには、いつの間に現れたのか、成人の三倍の体長がある翼竜が蠅のようにたかっていた。
応戦していたノエルにジェラルドはぐったりしたままのクリフ預けている。
そうしてジェラルドはワイバーン複数体へ取り付き、飛び石の要領で次々と斬り伏せる。
だが、翼竜は次々とどこからか飛んでくる。振り回される黒炎竜の残り五本の腕も、溜め時間を置いてはいるが、たびたび吐き出される炎も巨体ゆえに厄介だ。
──もう……無理よ……。
血が失せていき、次第に冷たくなっていくミックを抱え、ついにパトリシアは絶望に飲まれた。
そんなパトリシアの脳裏にキィの声が届く。
『──キミはボクらのような血の瞳を嫌うけれど……』
静かな声だった。
『血は、力だよ。血は命だ』
突然、パトリシアが酔っている元凶の『血』の話をする。森中が騎士や兵士の血で濡れ、大気中には溶け込んだ魔獣達の血の匂いが染み付いている。
『──流されてしまった血を使うのに、躊躇いはいるかな?』
キィは知っているということだ。パトリシアが血を魔力に変えられるということを……。
『この男を助けたければ急いだ方がいい。あの男の子もきっと重傷だね。君の名を叫んで探してくれていた子でしょう? ──トリシア、いま、キミが何をしたらいいか、わかってるよね?』
甘さは一層増してクラクラする。泣きすぎて喉の奥が痛い。パトリシアはこの期に及んで問う。
「魔獣って……、なんなの……?」
『魔獣は……罰なんだよ……。あれは神の与える罰──神罰、天罰の形だよ……』
「……神の……罰──罪は闇の……」
『キミが、鎮めてやればいい』
闇の住処を出るとき、キィはパトリシアに魔術を二つ教えてくれた。
一つは住処から出るための通路を繋ぐ──パトリシアの左目を闇と繋ぐ魔術。
もう一つは──。
『さあ、その赤い瞳で見ればいい。その出口がキミの魔力を導き出してくれるよ』
パトリシアはミックを抱え、座り込んだまま呟く。
「……其は…………深遠、静謐なる棺を」
ボロボロとこぼれていく涙。止められない。
「──開き……」
ミックの流れ出た血液が、大気に溶けるように消えていく。同時にパトリシアの内側に温かい芯が宿る気がした。
──また、血から魔力を求めてしまう……。
『森にはこれだけ、騎士達、魔獣達の血で溢れてる……この触媒でキミは目覚めるんだ……そばで見られて、うれしいよ』
キィの言葉に悲しさで胸がちぎれそうになる。それをこらえ、パトリシアは魔術に集中する。
森中から血が集まり、パトリシアの内側を魔力が満たしていく……。
同時に、闇の住処と繋がる左目が、赤黒かった瞳が涙もあいまって光沢を帯びて輝く。
──血よりも赤く、力に満ちる。
ミックの血に塗れていたはずの、しかし今やすっかり元通りのきれいなパトリシアの外套をゆらりとのけ、左手を父と交戦する巨大地竜へかざした。
「永劫の安らぎを執行し──」
パトリシアはただ静かに詠唱を続ける。
キィの教えてくれた魔獣に対する闇属性最大の攻撃魔術──。
森中から魔力を集め、パトリシアの手の平には闇色の球体が紫の迸りをこぼしながら練り上げられていく。
近くにいた魔獣は触れた側からゴリッと削れ、血煙となり、一層、闇の球体に飲まれて消えていく。
球体はいつしか、三階建てほどの建物一つ分の大きさに練り上げられた。
パトリシアは震える唇で最後の一節を詠唱する。
「──我とともに、寂静の間へ導かん…………闇の繭」
手の中の闇は一気にぐぐんと大きさを増して、森をまるごと飲み込んだ。
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