召喚士の嗜み【本編完結】

江村朋恵

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【5th】the first kiss - Take it easy♪

キョウと黒いうさぎ

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(1)
 パールフェリカはくりくりの目を一層大きく見開く。口もキョウを見つけたときよりもっとあんぐりとして顎を落とした。
 黒い“うさぎのぬいぐるみ”を指差し、何度も瞬く。声を「あ、あ」と出そうとして、しかしうまくいかず、ただ空気だけを絞り出した。口の中を乾かしているばかりだ。夢の中のようなもどかしさでパールフェリカは下唇を噛んだ。
 これじゃいけない──と、堅く口を閉じ、もごもごと舌を動す。無理矢理乾いた口の中を湿らせ、パールフェリカは小さな声で、やっとの思いで「……ミラノ」と呟いた。
 黒い“うさぎのぬいぐるみ”は赤い瞳だけではなく体ごとパールフェリカに向けた。たるんと長い耳が揺れる。
 パールフェリカは顔を左右に振りながら、眉間にくっきりと皺を寄せた。
 涙声のような息を長く吐き出す。とにかく言葉に繋がらない。何から言っていいのかわからない。気ばかり急いた。
 だから、終いには口元を両手で覆い、ぎゅっと目を瞑った。
 隠した口は揺れながら『あいたかった』と動いた。
 付き従っていた護衛騎士のエステリオとリディクディは、眉尻を下げて困ったような笑みを見合わせる。
 ガミカ存亡の危機となった神の召喚獣大事件から──ミラノが居なくなってから、3ヶ月近くが経っている。パールフェリカがどれだけミラノを恋しがっていたか、2人はすぐ近くで見ていたから……。
 ミラノがいなくなってから、パールフェリカは人形師クライスラーに作らせた白い“うさぎのぬいぐるみ”を大事に扱うようになった。ミラノは人の姿の時以外、その“うさぎのぬいぐるみ”の姿をしていたから。片手で振り回したり、ぽーんと放り投げたりするような事は無くなり、今は形見か何かのように寝室に置かれている。寝相のあまり良くないパールフェリカは夜中自分で蹴飛ばしている事を知らない為、時々ほつれを見つけては「なんで!?」と嘆いていた。その事も、護衛騎士の2人は知っている。その寝相はどんな恨みがあるのかと聞きたくなるほど、耳を踏みつけ、もう一方の足で頭を何度も蹴っていたりするのだから非常にタチが悪い。
 とはいえ、意識がちゃんとある間のパールフェリカは以前からするとほんの少し変わった。
 はっきりと「ミラノに会いたい」とは言わなかった。ただ、ミラノの痕跡を大切そうになぞっては溜息をつく。そして一人でにぎり拳を作って「──私、がんばるわ!」と真面目な顔をして呟いていた。
 護衛騎士2人は声をかける事無く見守ってきた。ずっと、パールフェリカがミラノに会いたくてたまらないでいた事を──兄らの事もある──素振りを隠し、一言も言わず我慢していた日々を。
 エステリオもリディクデイも、パールフェリカのように態度には示さないものの、気持ちはそう変わらない。世界だけでなく、主だけでなく、それぞれ自分達の命の恩人だ。礼なら何度か言ったが、とても足りる気はしないのだから。今ある平穏な日々は、姿こそ“うさぎのぬいぐるみ”というひょうきんな格好だが、救世主とも呼べるミラノのおかげなのだと思っている。
「ミ、ミラ……ノ……」
 パールフェリカは「本当にミラノなのか」とは聞かない。今、本来の人の姿でも、以前の白い“うさぎのぬいぐるみ”の姿でもなかったが、わかるから。
 かつて、召喚士と召喚獣の絆で結ばれた事があった。
 パールフェリカにはちゃんと、わかる。どんな姿をしていたって、これはミラノだ。
 なんでこんな黒い“うさぎのぬいぐるみ”なのかとか、なんでそっくりな男がいるのかとか、あっちで結婚しちゃったのか、それじゃあもう兄様達をからかえないとか……聞きたい事やら言いたい事は山ほどあった。が、ぎゅうっと目を瞑って全部飲み込んだ。
 そうやって力を溜めて、パールフェリカは勢い良くキョウを両手で突き飛ばし、黒い“うさぎのぬいぐるみ”に覆いかぶさるように抱きついた。
「──ミラノォ!!」
「……ちょっ──」
 ミラノが声を出す暇もなく、パールフェリカの両腕は黒い“うさぎのぬいぐるみ”の首に伸びて──それはもう力強く締めた。
「あー……それじゃしゃべれなさそう……ぬいぐるみだとどうなんのかな」
 見かねたキョウが尻餅をついたままぽつりと言った。
「……えぇ?」
 感動の再会を邪魔され、パールフェリカは不機嫌な表情をキョウに向けた後、手を緩めて黒い“うさぎのぬいぐるみ”を見た。支えを失った“うさぎのぬいぐるみ”の首は、後ろへかくんと折れ曲がった。
「わ、わわっ!? ミ、ミラノ!? ご、ごめんなさい!!」
 へんじがない、ただのぬいぐるみのようだ。
「ミラノ……! ミラノ!?」
 パールフェリカは両膝をついたまま黒い“うさぎのぬいぐるみ”を抱きしめていた両腕を外した。くたりと、長い耳にひっぱられるように後ろへ倒れていく黒い“うさぎのぬいぐるみ”を横抱きにしてそっと支え直した。それからたっぷり60秒……待った。もちろん名前を呼びつづけ──。
「……だ、大丈夫だから。大きな声を耳元で出さないで」
 ゆったりと黒い頭が持ち上がり、聞きたかった声が聞こえた。
「よかったー」
 パールフェリカはほっと息を吐いてにこっと微笑んだ。
 エステリオは口元にそっと手を当て、申し訳なさに顔を背けた。
 ──復活にこれだけ時間がかかって……さぞ苦しかったでしょうに、ミラノ様。

 黒い“うさぎのぬいぐるみ”の姿をしたミラノは、身の危険を感じたわけではないのだろうが、その小さな歩幅で2歩退がり、パールフェリカから距離をとった。パールフェリカは気付く様子も無く立ち上がると膝の砂を払った。
 ミラノとパールフェリカの「お久しぶり」の挨拶もほどほどに、その場に居た全員が距離を縮めて声の届きやすい位置に自然と移動した。
 パールフェリカの後ろ、左右に青い鎧を身にまとったエステリオとリディクディが控える。両者ともに腰に長剣を佩いている。
 ミラノの隣にキョウが立っており、その半歩後ろに“光盾”の長ルトゥとレーニャが歩み寄った。
 改めて全員が顔を見合わせてから、輪の中心に居た黒い“うさぎのぬいぐるみ”が顔をあげる。
 黒色のベルベットを思わせる素材感の丸い手でゆるくキョウを示す。
「──見てわかる通り、弟よ」
「っはぁあ!?」
「ミテワカルトオリ!?」
 パールフェリカが声を発する前に、キョウの背後で2種類の声が上がった。“光盾”のルトゥと訛りに訛ったレーニャだ。
 冒険者というアウトドア全開の狩りで鍛えられた声量に、黒い“うさぎのぬいぐるみ”の頭がゆっくりとそちらへ向いた。赤い瞳が日に焼けた“光盾”長ルトゥの顔をひたりと見上げる。うるさいという事らしい。
「い……いや、な、何でもない」
 ぬいぐるみに睨まれ、謎の畏怖を感じてルトゥは首を小刻みに振った。黒い“うさぎのぬいぐるみ”は微かに頷いて、今度は隣のキョウを見上げる。
「京、挨拶」
「あ! ども、はじめまして。ヤマシタキョウです」
 お姫様に口きくってどんなもんだろうと思いつつも、山下京は普段のままの笑顔で名乗った。
 キョウの笑みにはミラノのような柔らかさよりも、さっぱりした爽やかさが前面にあったが、2人の顔が似ている事に違いは無く、パールフェリカの心を一気に解きほぐしてしまう。
 山下姉弟は目元が特に似ている上、ナチュラルメイクのミラノとノーメイクのキョウでは大きな差も無く、睫毛と目の縁、張りのある白い肌と潤んで光を返す黒目のバランスの絶妙具合はとろけるような印象で、これこそ瓜二つと言って差支えがない。
 ミラノの笑顔は雪解けの春──未だ残る雪やせせらぐ小川に煌く朝陽がきらきらとふりかかり、神秘的な輝きを放つ虹色の光。
 キョウの笑顔は夏の日差しの中に吹きこむ、澄んだ湖の上を自由自在に駆け抜ける風と強い反射光のよう。
 どちらも整った顔立ちに心根の良さが滲んで人の印象に強く残るものだ。
 だが、今、2人は“うさぎのぬいぐるみ”と人間の男にすぎない。
 パールフェリカは2人を見比べ、両肩をきゅうっと上げると満面の笑みを浮かべた。すぐに溜息のような歓声を上げ、顎の下で両手をぱんと打つ。そのまま手を組んでうっとりと言うのは──。
「そっくり!」
 ──どこが!?
 絶叫したいつっこみをこらえ、ルトゥとレーニャはただ目をまん丸にして顔を見合わせた。
 冒険者2人はパールフェリカに頷いて見せる黒い“うさぎのぬいぐるみ”と人間のキョウをこっそりと指差しチラチラと見比べている。
 外野の反応はおかまいなしで、パールフェリカはふっと手の力を抜いて黒い“うさぎのぬいぐるみ”を見下ろす。
「でもミラノ、何でまた“うさぎのぬいぐるみ”なの? 誰かに召喚された?」 
 言葉にはしないが『私以外の誰に召喚されるっていうの?』という心の声がはっきりと表情に出ている。不服そうだ。
 パールフェリカの蒼い瞳を受け止めて、黒い“うさぎのぬいぐるみ”はゆっくりと首を傾げる。
「そういうわけではないのだけど…………私の方が、知りたいのだけど」
 黒い“うさぎのぬいぐるみ”は困っているらしいのだが、相変わらずの淡々とした声で話していて、パールフェリカやエステリオ、リディクディにほんわりとした笑みを誘ったのだった


(2)
「いや、ミー姉、待って。俺のがもっと色々知りたいんだけど」
 キョウはその場にどかんと座った。
 目線を“うさぎのぬいぐるみ”にあわせる為だ。かいたあぐらの両膝にそれぞれ手を置き、聞く態勢をとった。
 黒い“うさぎのぬいぐるみ”の頭がゆっくり動くと赤い目がキョウを見る。
「……そうね。でもあなたなら──」
「てかさ、まじでミー姉なの? うさぎじゃん? それ、ぬいぐるみじゃん? いやもう、俺、既に色々呆れてんだけど、ここまで空飛んで来たし? てかさ、ミー姉、一体どっから出てきたの? いきなり現れたよね? どうやって登ってきたの?」
 短い交流ながら、ルトゥやレーニャにとっては聞いた事のないキョウの厳しい声音だ。パールフェリカらとミラノの再会を喜ぶ雰囲気が一瞬にして消し飛んだ。
「…………キョウ、他には?」
 対する黒い“うさぎのぬいぐるみ”から出てくる声は静かなものだった。
「え? えっと」
 キョウは右手を胸の前に持ち上げ、指折り数え始める。
「この“ぬいぐるみ”がミー姉かどうか、ここどこなのか、空飛んでたけど“召喚獣”って何なのか、いきなり出てきたミー姉はどこからどうやって来たのか……俺これからどうすればいいのか……? うん、多分こん位?」
 全部言い切る頃には、怒気をはらみかけていた声音が元のおっとりと軽いものに戻っていた。
「そうね。まず私が山下未来希であるかどうか、だけど──」
 黒い“うさぎのぬいぐるみ”は体ごとキョウに向き直って続ける。
「山下未来希だとしか言えないわね。私が山下未来希である前提でこれから他の事に答えるけれど、いい?」
「ん? いやぁ……ミー姉だってんなら、しゃーないっていうか、信じるしかないっていうか──声もリアクションもミー姉だなぁって思うし……てか、なんで“うさぎのぬいぐるみ”なんて格好してんの? 着ぐるみにしちゃ、ちょっとサイズ大雑把すぎね? てかちっちゃくなるってどういう事? どうやって入ってんの?」
「……増えたわね」
 顔を逸らしながら、黒い“うさぎのぬいぐるみ”はパールフェリカを見上げた。
 何故“うさぎのぬいぐるみ”の姿なのか。これはパールフェリカにも聞かれていた。黒い“うさぎのぬいぐるみ”は再びキョウを見る。
「順を追うわ」
「うん、うんうん」
 キョウは腕を組んで前のめりになって黒い“うさぎのぬいぐるみ”を見る。
「私が“こちら”へ来ようとしていた所にあなたが飛び込んで来たの。アパートの玄関での事、覚えているわよね? そのまま“こちら”へ移動してきて、あなたはあの大きな猪の上に落ちた」
「うん、さっきの事だし、ありえない事だったし、覚えてるよ。俺、ガス爆発かなんかだと思ったし、めっちゃ助ける気満々だったし」
 キョウがアパートの鍵を開けて部屋に入った時、ミラノはこちらへ自分の体を逆召喚する為、足元に虹色の魔法陣を広げていた。キョウはその時の事を言っている。
「……そうね、ありがとう。でも鍵……ドアを開けっ放しだったでしょう? あの後、私はこの黒い“うさぎのぬいぐるみ”にも関わらず鍵を閉めに戻って、それから猪に潰されそうになっていたあなたの所に来たのよ」
「………………ふむ……」
 質問に対してほとんど答えになっていない。
「…………」
「……え? いや、いやいや、待ってミー姉。そこで終わり? 何あっさりめいっぱい端折ってんの」
 キョウは半笑いで言うと左手の揃えた指先で黒い“うさぎのぬいぐるみ”の小さな肩をぽんと弾いた。ゆるいつっこみだ。
「………………わかるでしょう……」
 相変わらずの声音で言うミラノはゆったりとした動作でキョウの左手を払った。
「え? 面倒ってこと……? ちょっとしゃべる量増えるだけじゃん、悪いクセだよなぁ」
 後ろでパールフェリカが「クセなんだ……」と小さな声で呟いている。
「…………」
 黙ってしまった黒い“うさぎのぬいぐるみ”にキョウは一瞬渋い顔をした。が、すぐさま俊敏な動作で拝むように両手を打って頭を下げた。
「すいませんでした、俺が生意気でした。話を続けてください」
「──謝るときに棒読みになるのはあなたの悪いクセね」
 淡々とした声で言われて、キョウは顔を上げると眉をきゅっと寄せ、口角をほんのりと上げる。いたずらっぽく笑い──テヘっと笑ってペロっと舌を出しかねない表情をした。
 再び両手を膝の上に置いてキョウは言う。
「クセっつうか、謝る気がないっていうか?」
「……そう……」
 黒い“うさぎのぬいぐるみ”はパールフェリカの方に顔を向けた。
「何故、また“うさぎのぬいぐるみ”なのか、だけど」
「え? あは! うん?」
 話を振られ、笑みを挟んでから相槌を打つパールフェリカに、黒い“うさぎのぬいぐるみ”は小さく首を傾げた。
「まだはっきりと言える事は無いの」
「そ、そうなんだ……でも、元には戻れるのでしょう?」
「戻るつもりでいるわ。それで、パールにお願いがあるのだけど」
「え!? 何? 何何!? なんでもするわよ!」
 パールフェリカは頼られた事が嬉しいのか、両手を握り締めて身を乗り出した。
「“うさぎのぬいぐるみ”から元に戻るにはまだしばらくかかりそうだから、少しの間キョウを預ってほしいの」
「え……? 預かる? うん、問題ないけど……しばらくかかるって?」
「──アルティノルドが……──」
「え?」
「いえ──……もう行くわ」
「え!? 行くって??」
「やらなければならない事があるから」
「え!? にいさま達に会ってくれないの!?」
「……キョウを迎えに行く時では、駄目?」
「えっと……うーんと……それって、もとの世界にかえる寸前って事にならない?」
 パールフェリカの方が背が高いのだが、黒い“うさぎのぬいぐるみ”に対して顎を引いて上目遣いで言った。
「……そうね……」
「ミー姉、溜息我慢するの疲れない? いつも思ってるけど」
 キョウが口を挟んだが、黒い“うさぎのぬいぐるみ”は無視を決め込んでいる。ゆっくりパールフェリカを見上げた。
「七大天使とレイムラースとの話が済んだら少し時間を割けると思うから、その時に一度顔を見せるわ。キョウがお世話になるのに挨拶をしないというわけにはいかないから」
「そっか……待ってるわね。必ず会いに来て?」
「──ええ」
「ちょっとミー姉、俺抜きで話進めすぎてない? 俺の今後、含まれてるよね?」
 女同士の約束で、きらきらした光を放っていたお姫様と黒いぬいぐるみ。
 パールフェリカはもちろん大輪の花が開くような笑みを、またミラノが人であったなら柔らかく穏やかな笑みを浮かべていたであろう瞬間──に、キョウはざっくりと割って入った。
 黒い“うさぎのぬいぐるみ”はゆっくりとキョウの方を向いた。
「──あなたなら……」
「え?」
 キョウは静かな声と共に前にこちらに押し出される“うさぎのぬいぐるみ”の手を見た。その黒色の丸い手はキョウの頬にそっと触れる。
 質感はベルベットのようでふんわりと柔らかく、さらさらと頬の上を流れた。赤い瞳はゆっくりとキョウを見つめる。
 ──こ、これは……! 実は俺には何かすごい力があってカッコイイ事をせよ! みたいな、なんかそんなフラグ!?
 期待を込めてキョウは“うさぎのぬいぐるみ”の赤い瞳をじっと見つめてゴクリと唾を飲んだ。
「──お盆過ぎて9月も休みなんだから、いいでしょう?」
「え? ええ!? ちょっと待って、え!? 何? それってどういう意味?? 確かに9月一杯大学休みだけど、え!? それまでここに居ろっていうの!?」
「私のお盆休み、あまり長くないから急がないと……」
 そう呟いて黒い“うさぎのぬいぐるみ”はキョウに背を向けた。
 キョウは、ぶつぶつと「待って……俺みんなとバーベキューとか7日間海キャンプでマイちゃんと魅惑のキャンプファイヤーとか3日間山キャンプでユッコちゃんと夕暮れ湖のほとり大人の散策とか、アヤネちゃんと花火大会とかカナっちとサエちゃんとマッキーと北海道でドライブの旅とか、いっぱいキャッキャウフフなイベントが待ってるのに! 俺この夏休みの為に一杯バイトしたんだってば! ねぇ!? もう全部払ってんだけど!?」と訴えている。
 キョウは黒い“うさぎのぬいぐるみ”の腕をがしっと掴んだ。
 赤い瞳がその腕を見下ろしてから、“うさぎのぬいぐるみ”の顔がキョウの方を向いた。
「ごめんなさいね、キョウ。あなたに勘違いをさせてしまったばかりに……助けてくれようしてくれて──私が“こちら”へくる為の逆召喚に失敗した事であなたまで巻き込んでしまったみたいで。せっかくの夏休みなのに──3年生だもの、就職イベントにインターンと忙しいのに……」
「あ……いや、なんか……あれ? ミー姉、マジで怒ってる?」
「──いいえ?」
 その直後、黒い“うさぎのぬいぐるみ”の足元に漆黒の魔法陣がぎゅるっと生み出された。それと同時に“うさぎのぬいぐるみ”はキョウの手を振り払う。
 黒い“うさぎのぬいぐるみ”はストンと、魔法陣の中に飲み込まれるようにして消えた。
「えぇぇ!?」
 キョウは“うさぎのぬいぐるみ”の腕を掴んでいた手をニギニギとさせて目を白黒させている。
 慌てて地面に浮いた魔法陣に両手を伸ばして触れようとした。が、それさえシュンと消える。結局、キョウの手は岩肌を叩いていた。
「…………まじか……」
 ぼんやりと地面を眺めてからキョウは視線を横に逸らしつつ──。
「えー……うわー……あー……でも、うーん……しゃーない、のか?」
 こっそりと溜息混じりで呟いた。
 ──受け入れるしかない、という覚悟だった。この辺の割り切りの良さはキョウ自身、並より早いという自覚があった。
「けど、ミー姉が黒“うさぎ”なぁ……」
 なんとはなしに、元の人間のミラノの姿に“うさぎ”のイメージを重ねたキョウは、姉がバニーちゃんの格好をし、セクシーポーズをキメながら冷たい視線を投げかけてくる姿を思い浮かべた。
 黒いうさぎの耳を模したヘアバンドを付け、同色のきわどいレオタードを着てている。充実したアクセサリは、ふわふわの丸いお尻尾、蝶ネクタイの付け襟、手首周りだけの先の尖った付け袖。強烈な荒い目の網タイツ着用の上、ピンヒールをはいたコスチューム……。
 すぐに「げっ」と表情を歪めた。
 いかがわしくエロティックなコスプレをした姉という妄想も問題だがそれ以上に──。
「──だから、顔、俺とそっくりなんだから!」
 コスプレする姉という妄想がモーフィングしていく。
 体つきがスリムボディからムキムキの筋肉質になり、ふわふわ天然Fカップの胸が詰めたグレープフルーツに変わってしまう。
 女装してコスプレする俺という妄想になるのを、キョウはびしっとツッコミをいれて必死で止めた。
「くそキモイっての!」
 ミラノが心配しなかったように、楽天的なキョウは現状をものともしていなかった。



(3)
 両手両膝を地面に手をつき──四つん這いで苦い顔をしているキョウの正面にパールフェリカはすすすと回り込む。何故かへこんでいるキョウをしゃがんで覗き込んだ。
 両手は握りこぶしにして頬に添え、パールフェリカはくすくすと笑う。
「キョウはミラノと仲良いのね」
「え?」
 首を持ち上げてこちらを見てくるキョウの顔立ちは、やっぱりミラノと似ている。だが、形だけだ。パールフェリカにはわかる。
 パールフェリカの声に、キョウはすぐにほんわりとした笑みを浮かべた。
「や、まぁ、兄弟だし。あー……リオ姉はミー姉にピリピリしてっけど」
 声は男性らしい低音で、優しいというより柔らかい。印象が似ている。声の出し方に嫌味が欠片も無いのだ。
「ね、お姫様はミー姉と……ミラノ姉さんと知り合いなんですか?」
 キョウの問いにパールフェリカはにっこりと微笑んだ。
「お姫様じゃなくて、パールって呼んで?」
 キョウは四つん這いの姿勢から立ち上がり、風の向きを確認して、パールフェリカから離れてズボンの埃を軽く払ってた。埃が人のいる方に流れないように気を遣っているらしい。とても自然な様子でやっているので、そういう性格なのかもしれない。
「えっと、パールお姫様?」
 両手の埃も払って姿勢を正すキョウ。
 背は手の平一枚分、ミラノより高い。ミラノが女性にしては高いというだけで、キョウの身長は日本の成人男性平均身長よりは指3本分高い。
 パールフェリカも立ち上がり、キョウを見上げる。
「パールだけでいいわ。だってキョウはミラノの弟なんでしょう? そんなにミラノに似た顔でお姫様なんて言われたら、私ショックだわ」
 ミラノに胸を張れる自分になりたいのに、まだまだ近づけないでいるのがパールフェリカは悔しいのだ。それなのに「お姫様」だなんて。
 あれだけ気合を入れて変わろうと思ったのに、変わりきれない。強くなりたいと思っても、弱さばかり目にいく。正直なところ、どれだけ気持ちを奮い起こして立っていたって、ちっとも慣れない。
 お姫様と呼ばれる度、パールフェリカ自身ではなく、お姫様という価値の自分しか見てもらえていない気になってしまう。まだまだ、パールフェリカは自分を“パールフェリカ”だと言って胸を張れない。それだけの自分の価値を見つけられていない。ミラノのように言えない。
 ついさっきも、ミラノははっきりと言っていた。
『私がヤマシタミラノであるかどうか、だけど、ヤマシタミラノだとしか、言えないわね』
 ──彼女にとってはなんて事のない一言かもしれない。それが眩しい。
 憧れと同時に、劣等感のような重たい気持ちが胸の内にどろりと広がる気がする。
 がんばると決めたって、他人の陰口に心は簡単に揺らいで、自分なんて、自分の価値なんてあっさり見失ってしまう。そういう事は、普段考えないようにしているけれども。
「ふ~ん。そんなにミー姉はパールちゃんと仲良しなんだ。ミー姉って同性の友達少ないから、なんかすげぇ」
 キョウは自分の顎を撫でて笑った──ミラノがお姫様を呼び捨てで呼んでいるという辺りから、仲良し具合を判断しているようだ。
 パールフェリカはバレないように、しげしげとキョウを見る。
 嬉しそうだ。
 ミラノよりずっと表情がわかりやすい。キョウが再び顔を上げたので、パールフェリカは微かに視線を逸らした。
「パールちゃん、どうやってミー姉のハート掴んだの? 俺ミー姉の婚約希望者の皆さんにいっつも聞かれるんだよね、どうしたら振り向いてもらえるのだろうか!? って」
 キョウの言葉にパールフェリカは半眼になって「……やっぱり……」と呟いて両腕を組んだ。
 鼻の上に皺をきゅっと寄せて考え込む。
「やっぱり、やっぱりなんだわ。ミラノったらモテモテなのね……ふむぅ。ちょっとキョウ、私のにいさま達がね──」
「え? なになに?」
 パールフェリカは手を解いて、すととっとキョウの隣に駆け寄る。
 エステリオらから距離を取るように、実に親しげに会話を続けながら洞穴の方へ並んで歩いて行く。
 エステリオは慌てて付いて行き、リディクディはそれをちらりと確認して、“光盾”の長ルトゥの前に駆けた。
「ルトゥさん、すいません、急に。ネフィリム様からの依頼という事でお話がいっていると思うのですが──」
「ああ、聞いてる。4ヶ月前、あたし達が踏破したクーニッド南東のフラスト洞穴──ここの安全な場所だけをパールフェリカ姫に案内して欲しいって」
「ええ、お願いします。お忍びという形ですので、この事はくれぐれも──」
「その点は大丈夫さ。世界に名をとどろかせる“光盾”の、あたしが大将なんだからね。この事は誰の耳にも入らない」
 ルトゥは顔を持ち上げて胸をぐいと張ってから断言すると真っ直ぐリディクディを見返す。だが、すぐに肩を内に寄せ、ルトゥは口元に右手を添えると声をひそめる。
「それより、リディクディさん、さっきのあの黒い“うさぎのぬいぐるみ”だけど──あれが“ヤマシタミラノ”って……」
 リディクディは第3王位継承者であるパールフェリカ姫の護衛騎士だ。
 ガミカにおいて騎士は軍の花形の一つ。
 そんな騎士の憧れである王家直属の近衛騎士の中の選り抜きが、護衛騎士に選ばれる。エステリオやリディクディはこの護衛騎士だ。
 彼らは騎士としてのみならず、華やかな王子王女らに付き従って姿を見せる。
 なお、騎士になる事は貴族に仲間入りする事と同義だ。
 そもそも貴族というものは職業に値するものではなく、特定の諸特権を有する存在を指す。
 土地を所有して領主権による税収などで労働せずに収入を得る手段を持ち、官職制度によって官僚を世襲して多種多様な特権、公の支配権を持つ家などが貴族と呼ばれる。
 貴族になる為にはいくつかの道筋があるが、ガミカでは個人の能力で成り上がるたった一つの方法がある。
 戦闘向き、あるいは特殊な召喚獣、あるいは召喚霊を召喚出来れば、明日食う日銭にも困っていても騎士への道が用意される。
 ガミカは安穏として平和な国ではないので、命がけの騎士は高給取りだ。その金で土地を買う事も、より強い召喚獣を召喚する者の血を求める貴族と婚姻関係を結んで成り上がる事も出来る。
 ガミカではそういった道を用意したり、新貴族の参入に寛容である一方、貴族を総人口の2%程度に留める為、王家の強権や議院の権利によって貴族の地位はよく奪われた。
 貴族の貴族たる義務を果たせない貴族の存在は、徹底的に排除される。小国で常にモンスターの驚異にさらされていたガミカでは、実力を重視せざるを得ず、結果、他国に比べて貴族であり続けるには厳しい情勢になった。
 貴族であり続ける為、婚姻による家の統合、力のある者の血の取り込みは盛んに行われた。
 ガミカ王家の血は特に、強力な召喚獣を召喚するという理由からも、家柄を上げる為だけではなくとも貴族らの格好の標的になった。
 第2位王位継承者シュナヴィッツが幼い頃から辟易していた貴族らの行動も、彼らなりの生き残りを掛けた大真面目な博打だったのだ。
 そういった貴族社会に、庶民らも能力さえあれば入り込めるのがガミカだ。
 人間の大地“アーティア”の中では、海を挟んでモンスターの大地“モルラシア”と最も接するガミカは、常にその驚異に晒された。対抗する為の実力を重視し、血に関わらず、強力な召喚獣、召喚霊を召喚する者は重用された。
 第3位王位継承者パールフェリカの護衛騎士であるリディクディなどはその典型だ。
 実家は地方で、家の誰も代々冒険者ギルド向けの商店で下働きをしていた。経営者ですらなかった。そこでリディクディは唯一の存在と言われる空色のペガサスを召喚したのだ。
 空に透けるような青いペガサスは、風のように疾く飛ぶ。現状ガミカで最も足が早いのも、この青い聖《セント》ペガサスだ。
 実家の人間全員が冒険者ギルド絡みの仕事をしていた事もあって、リディクディ自身冒険者らと親しく話す。今も非番の時は気軽に冒険者ギルドやその周辺の人々らと情報交換を名目に遊んでいる。もちろん、第1位王位継承者ネフィリムが親しくしている“光盾”にも出入りしている。そういった事情で、リディクディと“光盾”長ルトゥは面識があった。
「込み入った事情がありそうですので、その事も、どうか口外しないで頂きたいんです」
 再会を果たしたミラノの様子がおかしいのはリディクディでもわかる。
 この世界にこっそりと来ていたらしい事には驚いたが、実はそれほど驚くような事ではなかったのかもしれないと思い至った。あれだけの──神の召喚獣を操ったり、多くの人の魂をこの世界に召喚して生き返らせたりする──事が出来る人で、自分の立場を解して自身の影響力を鑑みたならば、パールフェリカらの前には出てこなかったのも頷ける。彼女が居たら、この世界をガミカの支配下に置く事も夢ではないはずだ。
 それが、再び“うさぎのぬいぐるみ”の状態で、しかも弟を巻き込んだと言って姿を見せた。
 何らかの事情があるのは透けて見える。
 アルティノルドや七大天使、さらにはレイムラースの名をミラノは出していた。
 自慢の駿馬、空色のペガサスで王都へ取って返し、ラナマルカ王やネフィリム王子に即刻報告に赴いても誤りではない出来事だった。だが、リディクディはパールフェリカの護衛で、洞穴を降りる任務がある。調査済みの洞穴で道案内を付けているとはいえ、パールフェリカのそばを離れることは出来ない。
 日に日に増すパールフェリカの『もっと世の中を見たい、知りたい』というの欲求を、2ヵ月越しの交渉の末ようやっとネフィリムが許したというのが今回の遠出だ。今後もパールフェリカがこの欲求を満たす為にも、無傷で帰してやらねばならない。
 リディクディの中では、やはりほんの小さな頃からお守りしていた愛らしい姫パールフェリカの望みを叶えてやりたいという気持ちが勝った。
「あーそっか、なるほどねぇ。1個さ、思い出したんだけど。3、4ヶ月前、王都がモンスター襲撃にあって落ちかけたって時、あたしはプロフェイブ居たから後で聞いたんだけど、“未来の希望”ミラノの語源になった召喚士がいたって話──」
 リディクディは曖昧に笑った。
「ええ、その方で間違いありません。ですが、これもどうか」
 口元に人差し指を当て、リディクディは片目を閉じる。
「内密にお願いします。ミラノ様に関しては、既に出ている情報以上の拡散は控えるよう王命があります」
「えっ……ちょっと……! 国王陛下とも顔見知り?」
「ガミカを救って下さった方ですから」
「ぅあー……わかった。事情があるんだね」
 そう言ってルトゥはちらりとパールフェリカの背中を見て、リディクディに頷く。
「了解したよ。口外しない。約束は守る」
「助かります」
「そうじゃなくたってモンスター被害が減って、あたしら冒険者の仕事も激減したんだ。ミラノってのにはネフィリム殿下ももちろん一枚噛んでらっしゃるんだろう? 最大の“後ろ盾”の気分を損ねるようなマネはしないさ」
 そう言ってルトゥは肩をすくめて笑った。
 堕天使レイムラースの暴走によってガミカは滅びかけた。
 ミラノの調停によってレイムラースはモンスターの大地“モルラシア”に帰り、人間の大地“アーティア”への侵攻支援を停止した。
 これは同時に、モンスター被害に悩んでいた人々が減ったという事を意味し、そのモンスター討伐の依頼が冒険者に回らなくなった事を示した。
 ミラノが召喚されてからの一連の出来事から、ガミカは、この世界は大きく変わり始めていたのだ。
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