召喚士の嗜み【本編完結】

江村朋恵

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【Last】Summoner’s Tast

罪悪 ※流血表現

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(1)
 それが姿を見せたという事は、まさに驚天動地、世界中の人々が肝を潰しそうな出来事なのだ。
 “アルティノルド”は、この世界の“神”だ。
 アルティノルド叙事詩など、数々の神話からなる創世物語によって、人々に浸透している。召喚術の根源は、アルティノルドにある。召喚士の住む世界で、それを信奉しない者はない。
 アルティノルドと名乗って神を騙ったなら、処刑されて終わる。“神”は死という概念の外にあると言われている。殺してみれば良いのだが、処刑された者は皆死んだ。人間だったのだ。
 結局、降臨したという記録は1つも無い。
 今、シュナヴィッツとミラノの前に居るこの男は、クーニッドから飛んで来た大岩、“アルティノルド”の突端と言われる大クリスタルの中から、現れた。それも、形無き光として現れてから、人の形を取った。今も、光の粒がその白い姿の端々からこぼれ落ち、宙を浮き沈みしながら、きらきらと輝いている。七色の光が、人の姿になってもじわじわと染み出しているのだ。輝きは、溢れて止められない、そのように見受けられた。
 神々しい姿というものを、初めて目の当たりにした。シュナヴィッツは、兄ネフィリムがここに居たならばどうしただろうと、妙な方向に思考が飛んでしまいかねなかった。それを現実に引き戻したのは、アルティノルドの目だ。
 表情は、筋肉の使い方をまるで知らないかのように無表情だが、その目はじっとミラノを見つめている。
 相手が“神”だとわかっているのに、眉間にぎゅっと皺を寄せて睨んでしまった。何だこいつ、としか考えられなかったのである。
 アルティノルドは、白く艶やかな肌をしている。それに皺を作る事もなく、薄桃色の唇を動かす。
『あなたが我々を置いていかれた時は、必ず戻って来てくださると信じていました』
 2人の正面に居たアルティノルドだが、さらに一歩足をすいと進め、ミラノの正面に立った。“あなた”と言う際には、そっと右手を動かして、ミラノを示して見せた。
『ですが、いつまで経ってもあなたは戻られなかった。季節が、一つ、十、百、千、万、億を巡っても……』
 思い返しているらしく、一瞬動きが止まる。だがすぐにまた、その口は開く。
『──幾度巡っても、あなたは戻られなかった』
 ミラノは溜め息を堪えて、目を伏せた。意味が全然わからない。
 十の季節とやらまでは許容できても、百も千もの季節、つまり百年も千年も待たれる事はあり得ない。いくら適齢期を過ぎているとはいえ、ミラノはまだ27歳だ。百何歳やら何万歳やら、想像を遥かに超えた年数は生きていない。そんなに生きられるか、とミラノは表情を変える事なく心の内で呟いている。
 なぜなら、アルティノルドはこちらが口を挟む間も無い程、無表情のまま、声にも感情無く、延々と喋り続けているからだ。
『不思議な事に、待ちわびる気持ちというものは、萎みません。これはとても大きな発見でもありました。だってそうでしょう? それだけ私の力が増すという事なのだから。この想いは、ゆっくりと、しかし確実に、深く大きくなるばかりでした』
 アルティノルドは、ずい、ずいと近寄って、ミラノの半歩前、シュナヴィッツの真横まで来た。
『あなたに焦がれ、あなただけを想ってきました。これからも日々募る想いをあなたに……その傍らで伝え続けたい。お慕い申し上げております』
「………………」
「………………」
 ミラノは息を吐いた。
 どうやらただの愛の告白のようだ。しかも、間違いなく人違い。
 別次元の誰かと、勘違いしているのだろう。この“アルティノルド”とかいう光から人の姿に形を変えた、自分以上に正体不明のこの男は、どこをどう切り取ってみても、変人、いや、人とさえ思えない。変だ。
 アルティノルドは一つ息を飲み込み、さらにミラノをうっとりと見つめた。
 傾げたままの首を、ミラノは元に戻した。隣のシュナヴィッツは、男──“神”アルティノルドに顔を向けたまま、凍りついている。
 ようやっと一言発することが出来そうだ。
 やり取りも面倒なので、人違いを訂正するよりもさっさとフッた方が早そうだ。ミラノも、アルティノルドに負けぬ無表情かつ、淡々とした声で言う。
「私はあなたが何を言っているのかわからないわ。今、初めて会ったばかりだと思うの。アルティノルド……さん? 申し訳無いけれど、あなたの気持ちには応えられないわ」
 こういう断り方は、ミラノにとって初めてではない。いつも通りの台詞。ある日突然、知らない男に『ずっと前から好きでした!』と言われるのは、学生の頃によくあった。
 アルティノルドは無表情のまま、誰も居ない方を向いた。
『………………』
「………………」
「………………」
 しばし間を空けて、アルティノルドは再びミラノを見た。
『……そうですか、あなたのおっしゃりたい事はよくわかりました。それで、人間の言葉で誤り無く言うと、ですね──』
 アルティノルドは、丁寧にミラノへ右手を差し向けた。
『──つまり、わたしは、あなたが、好きです』
「……いえ…………あなたのおっしゃりたい事も、私には通じています。区切って、砕いて言って頂かなくても結構です」
 ミラノは顎を上げて、しっかりとアルティノルドの黒い瞳を見て続ける。
「私は今、誰に対しても、好きという感情を、持てません」
 ミラノの言う“好き”という言葉は、恋愛感情としての意味だ。ミラノは、シュナヴィッツの頬がひくりと動いているのを、視界の端に捕らえていたが、ややこしくなるだけなので無視を決め込んだ。
『……そうですか……ですが、わたしの好きという気持ちは、変わらないのですが、ご理解頂けますか』
「……ええ……理解しました。私がその気持ちに応えられないというのは、理解してもらえていますか?」
『…………え?』
「…………ですから、私はあなたの気持ちに、応えられません」
『…………え……え?』
「………………」
 アルティノルドは、うまく聞き取れなかったと言わんばかりに問い返してくる。ミラノに向けられていた右手は、少し下げた頭の、耳の後ろへ回されている。
 ミラノは無表情のまま、そっと目を逸らした。
 このリアクションは、初めてだ。何の会話を、どういった話をしていたのか、よくわからなくなってきた。
 何と言って帰ってもらおうか。ミラノは、一刻も早く、パールフェリカが居るであろう屋上へ行かなければならない。こんなところで遊んでいる暇は無いのだ。そんな事を考えていると、アルティノルドが、やはり無表情のまま、叫ぶ。
『ああっ、うるさい!!』
 大声に、ミラノもシュナヴィッツもつい、きょとんとアルティノルドを見上げた。
『これは、驚かせてすいません。どうにもレイムラースがうるさい。こっちへ来い来い、わたしを何だと思っているのだか。親に向かってあの口の利きようときたら、長男のくせにわがままで、しかも反抗的で困ります。最近など容姿まで変わって不良にでもなるつもりなのだか。少しお待ちください。レイムもあなたに用があるとは言っていましたが……わたしが先に会って来ますね』
 白い燕尾服の男──アルティノルドは、地を軽くトンと蹴り、少し飛び上がった辺りでしゅっと消えた。
「………………」
「………………」
 その消えた辺りを、ミラノもシュナヴィッツもただじっと見る事しか出来なかった。今のは一体何だったのか、と。
「あの……今の人について、何かご存知ですか?」
 ミラノの問いに、シュナヴィッツはついと視線を逸らした。
「いや、人ではない。この世界の、唯一絶対の“神”だと、教わった。世界そのものであり、その力で世界は満たされ、召喚術は成り立っていると……」
「…………それ、本当ですか」
 ただの、いや、変なナンパ男ではないのか。
「いや……僕も少し、自信が無くなりそうだ」
 ミラノはこの“世界”とやらが、ひどく胡散臭いものに思えてきた。




(2)※流血表現があります。
 炎に照らされ、その巨大な水晶の表面では、橙色や乳白色の輝きが滑るように光を返している。このクーニッドの大岩が空を横切るのを、パールフェリカもネフィリムも、もちろんその化け物も見ていた。化け物の丸い目が岩の動きを追った。
『来たか』
 パールフェリカは聖火台の淵につま先をはみ出して、一段低い屋上へ、前かがみに化け物を見下ろした。
「声は一つだけ聞こえたわ。こちらに、おられたか──だったかしら」
『アルティノルドが言いそうだ。ずっと探していたのだから』
 化け物の視線は空、大岩の飛んだ方を向いたままだ。
『──アルティノルド! 早くこちらへ。寄り道をしないでほしい。“神”を召還しよう』
 どこかへ語りかけている。化け物は、濃い茶色の毛がみっしり生えた太い狼の腕を、器用に組んで仁王立ちをしている。
 近い距離のまま、ネフィリムはその化け物を見上げた。
 黒い6枚の翼は、元通り化け物の背中へ戻り、ネフィリムを監視する事をやめた。隣にある事に変わりはないので、油断は出来ない。
 化け物はパールフェリカを見上げる。
『アルティノルドは近くに居る、どうせすぐに来るから、今すぐ召喚術を始めろ』
「…………え?」
『早く“神”を“召還”しろと言っている』
 パールフェリカは梟の目で睨みつけられながら、自分を指差し左右をきょろきょろと見た。自分以外、それを言われている人物は居ない。
「“神”様を召喚だなんて……で、できないわよ」
『お前だろう、“あの女”を召喚したのは』
「……ミラノ? ミラノならもう召喚してるわ……いまどこに居るのかはちょっと……わからないけど」
 パールフェリカがもごもごと言えば、化け物は吐き捨てる。
『あの女じゃない。“神”を“召還”しろと言っている。やれ!』
 パールフェリカのわからないと首をひねる仕草は、化け物を苛立たせるだけだった。
 ばさりと翼を広げ、先端の黒光りする大きな鉤爪を全て、ネフィリムに向けた。
『それほど身内を殺したいか?』
「………………」
 ネフィリムは瞬いて冷や汗を流す。
 この翼は、アルフォリスの命を容易く奪った凶器。
 この化け物は、人間を唾棄すべきもののような言い方をする。
 人の命など、そこらに転がっている石ころ同様、砕いても何とも思わぬ。それがわかっているから、ネフィリムは身を動かす事が出来なかった。
「や……やめ……! 待って! す、すぐ! すぐするから!」
 パールフェリカは何度も生唾を飲み込み、両手をわたわたと振った。
 どうしたらいいのかわからない、何をしたらいいのかわからない。
 “神”を“召還”しろと言われても、自分と魂の繋がった“絆”のあるミラノを召喚し、返還する術しか知らない。他の召喚術はまだ、何も使えない。
 パールフェリカはとにもかくにも、デタラメに魔法陣を展開する。
 何度も唾を飲み込み、瞬きを繰り返し、荒い息と震える手を抱き込み、がちがちと噛み合わない歯の隙間から呪文を吐き出している。
 化け物は、苦々しくその様子を見上げる。
「こんなに弱い。身内を盾に取られてうろたえる。なぜ“神”は、このような人間に“力”を与えた……」
 パールフェリカの魔法陣は、白い光を発して広がるも、瞬時に消える。
「も、もう一度、ちょ、ちょっと待って!」
 そう言い、パールフェリカは慌てて呪文を唱える。それを3度繰り返したのを見届け、化け物は静かに翼を動かした。
『ではとりあえず』
 翼の先の鋭利な6つの爪は音も無く迫り、ネフィリムの首、胸、胴を突き貫いた。
 あまりに唐突──ネフィリムには、声を発する間さえ無かった。
『これで気合は入ったか』
 冷え切った蛇の口から出て来るひび割れた声を、パールフェリカは聞いていない。
 無我夢中で聖火台から飛び降りた。
 聖火台から屋上へは、2階の窓から地面までの高さがある。それを、パールフェリカは両足両手をついて着地した。体が軽く柔らかかったので、怪我をする事は無かった。骨を突き抜けるような痛みはあったが、パールフェリカはそれを無視して立ち上がる。
 6枚の翼の爪を引き抜かれると、兄の体は支えを失い、両膝がとんと落ちた。そのまま前へ倒れ込む。パールフェリカは滑りこむように駆けた。
 喉の奥に詰まっていた何かを突き破るように、声を上げた。
「いゃぁぁああああああ! にいさま! にいさま!!」
 ──こんなのは現実じゃない。今、こんな事が起こっているはずがない。これは夢だ、絶対に現実なんかじゃない!
 パールフェリカは、地に伏して動かない、どくどくと血を地面に垂れ流す兄の背中に抱きついた。
 ──ちがう! ちがう!! ちがう!!! 絶対にちがう!!
 心の中で何度も叫び、痛みの残る両足を踏ん張り、両手をかけて仰向けにした。引き寄せ、その両頬へ、もう血にまみれた自分の両手を当てた。目は閉じられていて、いつもの綺麗な蒼色の瞳が見えない。
「にいさま!! ネフィにいさま!!!」
 揺すって名を呼んだが、反応は無かった。ひたひたと、まとめられた亜麻色の髪が、血溜まりで音を立て、その色に染まっていく。
『──穏やかじゃないですね、レイムラース』
 パールフェリカが兄の名を呼び続ける背後、化け物の傍に、一人の男が姿を見せる。
 これは人間ではない。
 真っ白の衣服に身を包み、全身から光をにじませている。彼は、化け物をレイムラースと呼んだ。
『きたか、アルティノルド』
 アルティノルドは相変わらず無表情のまま、パールフェリカとネフィリムの姿を見下ろした。
『人間は、召喚士はとても大切だという事を忘れたのかな? 君が人間を減らせば減らす程、わたしも獣の出生率を下げなければならない』
 2人はそのまま会話を続けようとしたが、パールフェリカの声が大きく、邪魔をされる。
 パールフェリカは呻く合間に、すーはーすーはーと努めて呼吸をした。吸って、吐く。順番を意識しなければ、やり方を思い出さなければ、息が止まってしまいそうだった。口元も手足も、全身をガタガタと戦慄わななかせ、荒い息で兄をさすっている。
 蒼白な顔をして「起きて」と、「ネフィにいさま」と何度も繰り返し叫ぶ少女を、人間ではない2つの存在が見下ろした。
 少女の声は、低い悲鳴から裏返り、その音量を増す。
「たすけて、たすけてミラノ、ミラノォオオオオオ!!!!」
 もはや絶叫となったパールフェリカの声。同時に、呪文も無く魔法陣はその足元に現れ輝く。だが、ミラノを喚び寄せようとする魔法陣は、化け物レイムラースに施された封印が飲み込み、すぐに消えてしまう。
『あの女を喚ぶのでは意味がない。あちら側を封じる方法は、無駄か。やはり“生霊”である事が問題なのだな』
 レイムラースが組んでいた腕を解いて、手をかざす。アルティノルドとレイムラースの眼前に、闇色の塊が生まれた。拳程だったそれは、どろりと広がると扉一枚の大きさに変わる。闇の真ん中に白い色が混じり、ぶるぶると揺れ、景色を映し始める。
 ──どこかの街並み。
 王都内とは様子が、趣が異なる。道の両脇にはみっしりと民家が立ち並ぶ。
 どうやら昼過ぎ、夕暮れのようだ。
 街路樹には朱色の陽が差している。
 王都の道は灰色の石が敷き詰められているのだが、映像の中の道は、黒色に塗り固められた石に白い線が引かれてあった。
 黒い坂を上り、木造2階建ての小さな建物が映る。
 景色は歩むように後ろへ流れた。
 視点は動き、建物の横にある赤い錆止めの塗られた鉄の階段を上る様子が映る。2階の狭苦しい廊下、いくつか並んだ鉄の扉の内の一つを、すり抜けた。
 小さな部屋。淡い藍色をした目隠し用2重カーテンが正面にぶら下がっている。その下へと、視点は向きを変えた。
 女が、うつぶせに倒れている。
 兄の体をさすっていたパールフェリカは、荒い息のまま顔をあげ、その闇の扉に映し出されている風景を見た。
 ただでさえ早くなっていた鼓動が、さらに一段上がる。胸を破って出てきそうな程、体を打つ。
 肩を揺らさなければ、うまく息が吸えない。
 ──だって、その背中に見覚えがあるから。その衣服に……スーツに見覚えがあるから。その髪留めを、見たことがあるから。
 視点は下がり、ゆらりと動いて、その女の横顔を映し出した。
「………………ミ、ミラノ…………」
 パールフェリカは、詰まった呼吸の合間に、ようやっと声を絞り出した。
 見たことがある。
 今朝見た夢。これとほとんど同じものを、見た。
『これがまだ、死んでいない』
 唐突に、今まで聞こえていなかった、否、聞こえなくなっていた周りの音──声がパールフェリカの耳に入ってきた。
「……え?」
 化け物をパールフェリカは見上げる。だが、あちらは闇の扉に映し出されたミラノを見下ろして、パールフェリカなどどうでも良いようだ。
 パールフェリカはもう一度、映像の中のミラノを見た。
 グレーのスーツの背中、ゆっくりと、本当にゆっくりと、胸の辺りが小さく上下している。
『とはいえ、この状態では、死ぬのも……僅か。しばらく待つとするか』
「…………」
 パールフェリカは、くらくらする頭でネフィリムに抱き付いた。兄の頬の自分の頬を寄せ、目線だけは映像から離せなかった。
 くらくらして、くらくらして、気を失ってしまいそうだった。
 衝撃に身を任せ、意識など失くしてしまいたいのに、現実は鮮明につきつけられて、目を背けられなかった。
 繋ぎ止めるのだ、脳裏に響く声が。
 ──“今”から逃げてはいけないの。
 その瞬間、やっと、ぽろぽろと涙がこぼれた。
 一度こぼれると、溢れて止まらない。口を引き結んで、必死で嗚咽を堪えた。震える唇を、開きかねないものを、内側から噛んでも閉じる。
 鼓動の無い兄の胸に額を当てた。
「にいさま…………にいさま……ごめんなさい……ごめんなさい」
 何が何だかわからない。
 だが、自分が何かを出来ないせいで、あの化け物はあっさりと兄の命を奪った。あの化け物は、エステリオの命も奪った。
 今何が起こっているのかわからない。でも、その事実が、現実がある。
「ミラノ…………」
 ──出来なくて、頑張らなくてはならないところで、出来なくて、大切な人が……。
 目の前に映る、ミラノの、本当の体が……。
「急には…………ムリよ…………」
 無理でも、目の前に起こる出来事は待ってくれなかった。
「ごめんなさい……」
 誰に謝っているのかもう、わからなかった。




(3)※流血表現があります。
 顔を見合わせ、肩を軽くそびやかしながらも気を取り直し、シュナヴィッツとミラノがその場を離れようとした、丁度その時。
 頭上、覆いかぶさるように大きな影が降りてきた。広げられた黒い6枚の翼には、見覚えがった。
 エステリオを殺し、パールフェリカを奪って窓の外に消えた、あの化け物だ。
「次は何だ」
 シュナヴィッツは刀を抜いてミラノの前に立つ。降りてきたのは、梟の頭と目、蛇の口をして、獣の大きな腕を持つ堕天使レイムラース……。
『──来い』
 言葉と同時、太い尾が床を打って勢いをつけ、伸びてきた。避けざま駆け出し、シュナヴィッツは一気に距離を詰めて化け物の首へ刀を振り上げる。尾とは反対側から、黒い翼が2枚迫り、鋭い爪がシュナヴィッツの背を狙うも、ミラノの生み出す魔法陣が盾となって弾いた。ミラノを狙い伸びてきていた太い尾も、同じように魔法陣が跳ねのけた。
 この化け物は、パールフェリカをさらい、ネフィリムが追った相手。それが今、単身ここに来た──。
 辿りついてしまった恐ろしい予測を振り払い、ミラノは化け物を見た。
 2人の安否が気遣われ、相手にしている時間も惜しい。ミラノは化け物の足元に魔法陣を広げて、どこぞへ飛ばしてやろうと考える。
 だが、パールフェリカの部屋でもそうであったように、魔法陣はパキッと音をたて、割られた。ほぼ同時、化け物は太い狼の腕を振り上げ、シュナヴィッツを吹っ飛ばす。彼の体は、背中から回廊の柵にぶつかって止まる。鎧の音が響いた。
 ミラノの正面に張られた魔法陣も、音を立てて壊れていく。
 化け物とミラノの間を遮るものは、何も無くなった。
 とんと地を蹴り飛び上がった化け物が、ミラノの目の前に迫り、その胴を掴もうと腕を伸ばす。
 化け物を挟んで反対側、シュナヴィッツは駆け寄ってその腕に取り付き、刃を突き立てた。青緑色の血がしゅっと飛び散った。
 ゆらりと、梟の瞳がシュナヴィッツを睨むと、鈍い、低い音がした。
 化け物が1歩さがって、ミラノの視界は開けた。もう、静かだった。
 シュナヴィッツの方を見て、ミラノは全身の力が抜けるのを感じた。
 彼の背中から胸へ、化け物の太い尾が突き破り、飛び出ている。尾がうねり、ずるりずるりと抜けると、そこには大きな風穴が開いていた。鎧など、この化け物の前では意味が無かった。
 力を失って膝をつく彼へ駆け寄ったが、ミラノには両腕が無く、支えてやれない。押し倒されるような形で転びそうになるのを、ミラノは身を避け、かろうじてぺたりと地面に座り込んだ。
 ミラノの膝に押しやられて、シュナヴィッツは横向きに倒れた。
 残っていた右の肩でぐいぐいと押しやり、ミラノはシュナヴィッツを仰向けにする。見下ろすと目があった。
 否、その目はただ、見開かれていたにすぎない。
「………………」
 透き通るような淡い蒼い瞳はもう、どこも見ていない。
 ミラノはただ、2度ゆっくり、頭《かぶり》を振った。目を細めるだけでは足りず、そのまま数秒閉じた。その後は、黒い瞳でしっかと見据えた。
 心音を確認しようにも、その胸の部分がもう無い。
 ミラノは精一杯肩を動かし、蒼い瞳を閉じさせようとしたが、上手く届かない。引き結んだ唇が少し揺れた。己への苛立ちか、悲しみか、判断がつかない。
 頬をシュナヴィッツの瞼の上に当て、下へ動かした。両方の蒼い瞳を閉じさせると、そのまま頬へ自分の頬を寄せ、唇を近づけた。唯一、その美しい面《おもて》を汚していた左口角の血を、ミラノはぺろりと拭った。舌に少しだけ触れたシュナヴィッツの唇は、まだ温かく柔らかかった。ミラノは目を細めた。
「あなたが命をかける程の価値なんて、私には……」
 呟くと、血の味が口の中に沁みて広がった
「いいえ──そうね。今からでも、その価値、手に入れるわ。そうでなければ、あまりにも──」
 まとまらない考えを漸う言葉にするミラノの耳へ、声が届く。
『こんなにも、こんなにも脆い……』
「…………」
 ミラノは膝を交互に寄せて、バランスを取りながらどうにか立ち上がり、化け物を見た。
 レイムラースも、ミラノを見下ろす。梟の眼光は鋭いが、ミラノが圧される事は無かった。
『“神”はこれほどまでに弱い人間に、なぜ、その“力”を与える。特別に扱う? そのせいで強い獣がないがしろにされ、地上の半分に押しやられている。人間になぜ、七大天使を付け、獣の死後を召喚獣として与える? そんなにも召喚士は重要か!? 利己的にも、ほどがある!』
 声を荒げるレイムラースを、ミラノは極寒の冷たさを湛えた瞳で見た。
「……あなたが、何を言っているのかわからないわ。だけど、弱い? 強い? 脆いと言って、簡単に踏み潰して……それであなたは、何様なの」
 丸い目がぎろりとミラノに向けられる。
『…………私はレイムラース。獣を守護し、封じる“天使”。人間との境界線。それが“神”に与えられた役割──だった』
 ほんの少し、ミラノは口を開いてしまった。“天使”と聞いて驚いたのだ。化け物のよう容貌をしているから。
 ミラノの知る“七大天使”は、人間によく似た容姿をして、光の鱗粉をまとい、厳かかつ神秘的な存在だった。
 ──だが、とミラノは嘆息を堪え、奥歯を噛んだ。
 天使だろうが神だろうが、人間だろうが獣だろうが、何であろうが、どうでもいい。
 ──べらべらと、相手に伝わりもせぬ物の言い方でよくしゃべる。
 知性はあるだろうに、レイムラースとかいう“天使”のした事には、納得がいかない。
 天使というものは、神の言う事を聞くものだとミラノは思っていた。だが、よく考えてみれば“堕天使”という言葉もあったなと思い至る。結局、“神”に創造され、“人間”との類似品である事に、違いない。
「人間を殺してはいけないとは言われなかった。そんなところ?」
 冷ややかで感情の無い声で問うが、化け物の声にも温もりは微塵も無い。
『確かに人間を殺すなとは言われていない。だからこそ、可能だ。禁じられていれば、実行不可能なのだから。アルティノルドの力に満ちたこの世界で、“神”に反することは出来ない。そのように創られている』
「自分にある役割に無い事、禁じられていなければ、出来るから、だから、してもいいと?」
『それだけの力がある。出来るのだから殺そうが問題無い』
「へぇ……そう……」
 禁止されていなければ、違反さえしていなければ何をやってもいいとは、どれほど傍若無人な振る舞いか。“神”とやらが支配するこの世界で、“神”が“人間”を優遇しているらしいと知っていながら、それを殺すらしい、このレイムラースは。なんと頭の悪い“天使”だと、ミラノは思った。
『私の守護すべき獣は、人間にモンスターなどと呼ばれている。人間などという弱く脆い存在と、地上を分かつ必要などない。それ程、獣は強い! なぜたった半分に甘んじなくてはならない! 召喚士がなんだというのだ?』
 “神”に対する疑問や不満を聞かされても、ミラノには何もしてやれない。理解も追いつかないが、それ以上に、どうでも良い。
 ミラノはただ静かにレイムラースを見る。
『お前は見なかったか? 巨大で、強い獣1体が、何十何百という人間を容易く殺せた。それこそが本来の人間と獣の関係だ。私が役割を放棄すれば、人間などこの地上から居なくなる。弱く脆い人間など、必要が無いという証明だ、正しく淘汰されるべきだ!』
 レイムラースが“天使”であった頃の役割は、獣の守護天使でありながら、人間を護るという矛盾を孕むもの。獣と人間の、バランスの調整者だった。
 獣達の大地である“モルラシア”から、人間達の大地である“アーティア”に獣が渡ったなら、追う。獣を“モルラシア”へ戻すか、殺してでも人間の大地への侵入を阻むという、役割だった。
 獣は体が大きい種も多数居る。それが地上の半分に、押しやられていた。
 矛盾は違和感を、違和感は確かな歪みを生じさせた。
「…………」
『私は“神”を待っている。私にこんな役割を与え、さっさと姿を消した──“神”を」
「…………」
『この世界の不公平な現状を、“神”は修正するべきだ』
 気に食わなければ世界が、社会が悪いと断じて、だだをこねる。与えられた役割さえ放棄して──ミラノはゆっくりと瞬いて、レイムラースを見上げる。
「…………」 
 ──もしかしたら、この“天使”に与えられた役割は……。
『待ってもなかなか来ない“神”は、今からよびだす』
 そう言い、レイムラースはミラノの胴をを掴んで引き寄せ、6枚の翼を一斉に動かし、飛び上がった。
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