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【2nd】 ─ RANBU of blood ─

うさぎと僕の静かな時間

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(1)
 微笑を消して、ネフィリムは立ち上がる。
「パールの力が足りずぬいぐるみに入っておく以上、人形師のクライスラーと親しくしておくのはマイナスじゃない。ミラノ」
「──そうですね、それはわかります」
 “うさぎのぬいぐるみ”はやや下を向いて返事をし、ネフィリムもそれに頷いた。床に落ちたままの3冊の絵本を拾ってネフィリムはシュナヴィッツにぽいと渡し、“うさぎのぬいぐるみ”はパールフェリカに押し付けた。
「そういえばパール、なんで居るんだ? 勉強の時間は午後まであるだろう」
「え?……エヘヘ?」
 “みーちゃん”をきゅっと抱えて美少女スマイルでネフィリムを見上げた。
「スーリヤはパールに甘いから……」
 横から絵本を脇に抱えたシュナヴィッツが自分の事を棚に上げて言った。
「今日はぁ、晩にぃ、パーティがあるからぁ、お休みにしてくださいって言ったらぁ、いいですよ♪ って!」
 パールフェリカは無駄にクネクネしながらネフィリムに媚びている。左右に動く度、力の抜けたうさぎの足と耳がぷらんぷらん揺れた。
「へぇ。じゃあ、スーリヤの報酬カットを考えないとな」
 ネフィリムは表情を変えず言って部屋を出て行った。
「え!? 待って! にいさま! 私そんなつもりないってば!」
 パールフェリカはネフィリムの上着をわしっと掴んだ。呆れたポーズでネフィリムは振り返り、上着を直した。
「だったらすぐ戻って再開する」
「了解しました! にいさま!」
 パールフェリカは難しい顔をして敬礼付きで返事をすると、“うさぎのぬいぐるみ”を結局小脇に抱えて、駆け出した。
「シュナ、パールはエステリオもリディクディも連れずに来ている、頼む。私は少し、フラースと話す」
「はい」
 返事をしてシュナヴィッツはちょこちょこと駆けて行ったパールフェリカの後を追った。フラースはここ図書院の長官の名だ。ネフィリムはしばらくここに残るようである。


 シュナヴィッツが追いついた時には、パールフェリカは既にてくてくのんびりと歩いていた。“うさぎのぬいぐるみ”も両腕で抱えている。慌てる演技は早々に終わっているようだ。
「また召喚お披露目があるのですか?」
「今日のはねー、貴族の、うーんと、国の支配者層? の人達に、貴方達の上の人はこんなに凄い召喚が出来るんだぞーって見せる日なんだけどー」
「……大きくは間違っていないが……」
 追いついたシュナヴィッツは、あまりにもいい加減な説明に、やや呆れて言った。
「あれ? にいさま?」
「護衛もなしにうろうろするな」
 シュナヴィッツは空いた手で、ティアラをしていないパールフェリカの頭を遠慮なく撫でた。おそらくティアラは晩に着けるのだろう。
 首に少し力を入れて、腕の隙間からパールフェリカはシュナヴィッツを見上げた。
「ミラノの事はまだヒミツにするのでしょう? にいさま」
「ああ、そうなる。だから、今夜はミラノの召喚そのものを解除しておくか、“うさぎのぬいぐるみ”のままどこかに置いておくかだな」
 シュナヴィッツはパールフェリカの頭から手を離した。二人並んで歩き始める。
「はぁ~……確かににいさま達のティアマトとかと比べると大きさ的に? 見劣りするとは思うんだけど、“人”のミラノってカッコイ~から自慢したいんだけどなぁ」
 ぷぅっと白い頬を膨らませている。パールフェリカは、自分の召喚獣に対して“同性としての憧れ”みたいなものを抱いている。それがわかっても、ミラノはいい事なのか悪い事なのか判断が出来なかった。だからその事に関しては何も言わず、別の事を言う。
「パール、私を見世物にしないで──」
 先ほど“モチーフ”だの“モデル”だのと言われたばかりなので、“うさぎのぬいぐるみ”の声はやや疲れている。
 そんな“うさぎのぬいぐるみ”にパールフェリカはきゅっと眉を寄せた。むっとしている。
「何言ってるの、ミラノ。王族なんて“見世物”以外の何だって言うの?」
「え?」
「特に私なんて、いつかどっかに嫁いじゃうお姫様よ? せいぜい外見を磨いて一杯見られて可愛がってもらうしかないんだから」
「パール。僕達はそうは思っていない」
 シュナヴィッツがたしなめる。
 が、パールフェリカはすっと目を細めた。
「にいさま達やとうさまはそうかもしれないけど──私は本当の事を言っているだけよ」
 そう言ってすたすた足を早めたのだった。それからパールフェリカは部屋に着くまで、口を開かなかった。


 パールフェリカが部屋に戻ると、帰り支度を完璧に整え、出て行く寸前のスーリヤと鉢合わせた。
 スーリヤは王都にあるミイゼンテイム学院──ガミカ国で最も権威ある学校──の、学長を務めている。その傍らで、王家の相談役として招かれ、一環として、パールフェリカに様々な知識を与えてくれているのだ。──一般教養に関する学習は図書院の面々が日頃から授業をしてくれている。
 扉を入ってすぐ、パールフェリカは“うさぎのぬいぐるみ”をぽーんと放り投げ、スーリヤの胴に抱きついた。
「スーリヤ、ごめんなさい! 私ったら物凄い我が侭な子だったわ!」
 そう言ってパールフェリカはそっとスーリヤの顔を伺うように見上げた。スーリヤは両手を少し持ち上げて気持ち驚いた表情をしていた。
 彼は学長としては若く、40代前半の男だ。濃い茶色の髪は肩に付くか付かないかで、瞳の色は薄い茶色をしている。図書院の長官フラースの被っていた角《かど》の二つあるベレー帽に似た帽子の色違いを着用している。色は深い緑。着込んでいた外套も深い緑色で、白いラインが大きく1本真っ直ぐ中央に走っている。
 スーリヤは背が高く、シュナヴィッツとそう変わらない。
 パールフェリカの顔を見下ろして、スーリヤは柔らかく微笑んだ。皺のほとんど無い顔なので、下手をすれば二十代後半でも通りそうである。女顔の男性は老けるのが遅い、というのをそのまま実践している。
「どうなさいましたか? パール姫様は大変良いお子様でいらっしゃいますよ?」
 現在は妻子も居るので大人しくしているが、若い頃は美男子として浮名を流しまくった男である。フラース共々語彙が豊富で、しかしあちらと違ってこのスーリヤは弁舌さわやかなので──歯の浮くような台詞もさらりと言ってのけたので──大変モテた。ライバルは当時王子だった、現王ラナマルカだけだったというのは、今はもう昔の話である。
 ちなみに、天井近く放り投げられてしまっていた“うさぎのぬいぐるみ”は、後ろから来ていたシュナヴィッツに無事キャッチされている。
「スーリヤ、私ちゃんとお勉強するわ」
 パールフェリカはスーリヤを促し部屋の奥へと進み、侍女らに机を用意させたのだった。


 シュナヴィッツは休養を取るように言われていた事もあって、そのままパールフェリカの部屋に居座った。
 既に、城にはパールフェリカの召喚披露パーティに招待された貴族達が続々と集まって来ているはずなのだ。身分に不足の無い連中なら、珍しく城に留まっているシュナヴィッツの部屋へ来るに違いない。つまり、そういう連中と会いたくなくてシュナヴィッツはここに居た。
 城に戻ってもシュナヴィッツは寝る以外、パールフェリカの部屋に居る事が多い。部屋の片隅の本棚にはパールフェリカの興味など小指の爪程も無い兵法指南書やら世界の武具図版付き全巻やら渋いタイトルが並んでいる。これらはシュナヴィッツの本だ。
 窓のある方へ侍女らに机を設置させ、パールフェリカはスーリヤから何処かの国の、今の話や故事を聞かされている。教科書に沿わない教養部分を、スーリヤから学んでいるのだ。
 窓の外からは柔らかな陽射しが差し込み、さわさわと木々が風に揺らいでいる。とても良い天気のようだ。窓は開放していないのでわからないが、気温は上がりきらないものの、春の風が吹いているのだろう。これから夏に向けて、木々は一層その青さを増していく。森の中にある王都は、秋と冬が大変な季節で、春から夏にかけて、丁度今頃が一番過ごしやすい。
 シュナヴィッツはそのはめ殺しの窓から視線を正面に移した。
 自分の座るソファの正面には、“うさぎのぬいぐるみ”がちょこんと両足を投げ出して座っていて、絵本をめくっている。
 スーリヤはこの“うさぎのぬいぐるみ”を見て表情を崩して驚きはしたがすぐに“パールフェリカの召喚獣”として受け入れた。
「パール姫様を、よろしくお願いいたします」
 そう言って、“うさぎのぬいぐるみ”に深く一礼したのである。
 シュナヴィッツがまだ内々だと告げると、彼は「そうでしょうね」と微笑んだ。
 絵本には、1ページに5、6個カラーで絵が描かれていて、下にその名前が大きな文字で書いてある。正真正銘幼児向けの図鑑タイプの絵本である。ふと、シュナヴィッツは“うさぎのぬいぐるみ”に“人”の時のミラノの姿を重ねて見てみた。それで、一人でフッっと笑ってしまった。
「──何か?」
 うさぎが顔を上げた。
「いや……文字、覚えられそうか?」
「──前途多難のような気もしていますが、覚えます」
 淡々とした声で“うさぎのぬいぐるみ”は言って再び顔を絵本へ向けた。
 しばらくして、お腹は空いていないという淡々とした声を除いた、パールフェリカ、シュナヴィッツ、スーリヤの3人で食事をとる。晩のパーティがあるので量は控えめである。
 ──それから、シュナヴィッツが本を2冊読み終えた頃。
 夕方の寸前。窓の向こうにオレンジの一線が抜けた。
 空を割ったのはネフィリムのフェニックス。サルア・ウェティスへ飛び立ったようだった。




(2)
 パールフェリカの部屋の入口に居たリディクディの元に、エステリオがやって来た。
 リディクディは怪我もあるので2、3日休む予定だったが、午前中にパールフェリカが抜け出して、捜索の為呼び出され、そのまま残ったのだ。エステリオは細かく気の付く女性の護衛騎士という事で、リディクディが居る間にあちこち動き回っていたようだ。
 よく見れば侍女達もさわさわとあちらこちらへと扉を出たり入ったりしている。
 ミラノは右腕の先、“人形の手”の指を器用に動かして、絵本のページをゆったりとめくった。
 シュナヴィッツにも問われて答えたが、文字を覚えるのは時間がかかる気がした。自分は、何語を話しているのだろう、と頭を抱えてしまいたい所でもある。つまり、絵本にはミラノも知っている形、例えばりんごが描かれていたりするのだが、その下にはよくわからない記号が並んでいる。くっついてるのか離れてるのかよくわからない5つ程の記号のような図案──これがこの国の文字なのだろう──が描かれている。りんごを表す言葉なのだろうが、一音一文字ではないらしい。うさぎもあったが、3文字には見えない。
 溜息は我慢して、ミラノは眺めるところから始めてはいるが、王立図書院とやらで知り合いを作って調べてもらった方が早いのかもしれないと、脳内会議の多数決でさっさと決定しそうだ。
 はめ殺しの窓の向こう、夕日でオレンジに染まり始めた。
 こんなにのんびりと本──といっても解読出来ない絵本──を読んだのは久しぶりかもしれない。最近はインターネットゲームに夢中だったし……。
 ミラノはきゅきゅっと右手の指を動かした。右利きではあるが、キーボード操作で鍛えられた左手の方がなめらかに動くのに──そんなどうでもいい事を考えていた。
 そうこうしていると、寝室へ移動して着替えていたパールフェリカが出てきた。
 キラキラしたスパンコールを沢山あしらった、はっきりした空色のふわっとしたドレスを着ている。スカートは膝丈よりやや長めで、少女らしさが出ている。召喚お披露目は無い事からいつもの動きやすそうな、ミラノの観点からするとややアラビアンっぽい格好ではない。
 頭には、耳から頭頂部、そして反対側の耳までを覆うような大きめの銀のティアラが乗っかっている。亜麻色の髪はおろされていて、腰辺りまで流れている。毛先はくるくるに巻いてあってあちこちへ遊んでいる。髪の毛にもキラキラのスパンコールをあしらったチュール地のベールのようなものが銀のティアラから伸びている。
 じっと見ていた“うさぎのぬいぐるみ”と目があうと、パールフェリカは口角を上げてから、目元にふわりと笑みを浮かべた。沢山の、色とりどりの花が、部屋中で一斉に咲いたような、甘い香りすら漂ってきそうなとびきりの笑顔だった。
 ミラノはひょいとソファから降りてパールフェリカに近づいた。正面で足を止め、見上げて数秒後、ミラノはパールフェリカの深い蒼い瞳と目をあわせた。
「とっても素敵」
 ミラノの、温かなその声を聞いて、パールフェリカはうっすら頬を染め、目を細めた。だがすぐにハッとした。
「ミ、ミラノ! もしかして今の、笑顔で言ってない!?」
「……そうね、“人”の形をしていたらそうだと──」
「っふぁぁぁあああああああ!!!」
 叫びつつ、パールフェリカは“うさぎのぬいぐるみ”の頭を両手で掴んで勢いよく高々と持ち上げた。
「また……! しまった……あぁ……あぁあ……」
 一転して泣きそうな顔で言葉にならない声で呻くパールフェリカに、ミラノの冷静な声が注がれる。
「パール、言いたい事は大体わかってるから、今回は諦めて。“人”にしてもらってもし私が魔法陣を出してしまったら、貴女は倒れてしまうのよ? パーティの主役が貴女なら、私はうさぎで居る方がいいの」
 手足をぷらんぷらんさせながらミラノはパールフェリカを真っ直ぐ見下ろしている。望まないままに魔法陣が出てしまって、そうする事でパールフェリカの“召喚士の力”とやらを引き抜いてしまっては……彼女が倒れてしまっては困る。ミラノが初めて魔法陣を出した時は無意識だった。どんな拍子で出てしまうかわからない。
「うぅ」
 パールフェリカは呻いた後、素直にミラノを降ろした。
 ふと、パールフェリカは本を書棚に戻してからこちらへ来るシュナヴィッツを見た。
「にいさまはその格好でいくの?」
「僕はただのおまけだからこれで十分だ」
 パールが主役だろう? そう言っている。
「ふ~ん……。でもどっちにしてもきっとまた囲まれちゃうかも?ティアマト演舞とぉ、ワイバーンが来た時、空中戦を見せちゃったんでしょう? 絶対ファンが増えてるわ! きっと──“きゃー! シュナヴィッツさまぁ! こっち向いてぇーん!!”とか、熟女系に“あちらで少しお話しませんか?”なんて暗がりに妖艶に誘われちゃったりなんかして!?」
 妹は欲求不満を、兄をからかう事で発散するつもりらしい。何も知らなさそうな顔をして、この妹、実はここに居る兄よりも耳年増なのかもしれない──ミラノはパールフェリカを見上げてそう思った。
「…………だからイヤなんだ。どうせなら戦った後の汗臭くて返り血まみれでドロまみれの汚い姿を見せておきたい……」
 それでも近寄ってきて嫌な顔をしない者ならまだ少しは話をする気にもなれる。おめかしで着飾って、臭いは香水で隠して、上辺の口だけ作り笑いだけ、だなんてシュナヴィッツの一番厭う所だ。
 シュナヴィッツは遠い目をする。パーティに出るのが嫌でたまらないのだ。


 パールフェリカは結局“うさぎのぬいぐるみ”のミラノを両腕に抱えている。横にはシュナヴィッツ、後ろにリディクディとエステリオ、その後ろに侍女が4人、ついて来ている。
 パーティ会場は、3階。
 廊下に居ても、既にパーティ会場のざわつきが聞こえる。パールフェリカは最後に登場する手順なので、廊下で侍女達が囁きあって打ち合わせている。
「ミラノ、うさぎのフリお願いね」
「動かなければいいのでしょう? 大丈夫よ、多分」
 あくせく働いていた日々を思えば、今日はなんて楽なんだろう──ミラノは脳がとろけるんじゃないかと逆に不安にもなってきていた。せいぜい、絵本で見た図形でも思い浮かべて復習らしきものをしつつ、こちらの人間を観察でもしておこう、そう心に決めた。
 どうやら音楽は付き物らしい、中からパーカッションの軽快なリズムが聞こえてきた。
 パールフェリカが大きく息を吸い込んだのがわかった。そっと見上げると、真剣な顔で口を何度かもごもごと動かし、目をばちばちと瞬いている。侍女がさわさわと動いて扉の横についたので、ミラノは何も言わず、正面を向いてぬいぐるみのフリを開始した。
 ──両開きの扉が、大きく開かれた。
 中は、光の洪水を廊下に流し込むように明るい。
 ワイバーン襲撃後、ミラノが屋上からティアマトで連れてきてもらってパールフェリカを探した場所だ。今は、あちこちからカラフルな布が垂れ下がり装飾されている。立食形式でいくつも並んだテーブルにはコンビニ弁当が主食だったミラノからするとヴァーチャルリアリティでデータとして再現されたものかカタログでしか見た事の無いような豪勢なメニューがドでかい皿に盛られている。暑い寒いはわからないが、匂いならわかる。だが、パールフェリカに召喚されてからというもの空腹を感じた事が無いせいで──さすがに妙だとは思うが──この豪勢な料理を見てもやはりお腹は空かず、魅力を感じなかった。
 会場の100人を超える男女がこちらを見ている。女性は、現在のパールフェリカよりは地味目に抑えられたドレスを纏った少女から婦人まで。何処の国も男性の正装は全体的に均一的で地味なのだと思わせるシックな色合いの上下と、華美でないアクセサリーで身を飾っている。動きやすい王子の普段着スタイルであるシュナヴィッツの方がまだ華がある──これは本人の持つもののせいかもしれないが。
 部屋の一番奥、より沢山の、光沢のある白と紫と金の布が垂れ下がっている場所がある。そこにこれまた豪奢な装飾の施された椅子が2脚ある。1脚の前にはラナマルカ王が微笑みをたたえて立っている。パールフェリカは父と目を合わせた。瞼を下ろしつつ、父は微笑を浮かべたまま頷いてくれた。背筋を伸ばしたパールフェリカの表情は笑みを浮かべる。
 パールフェリカは“うさぎのぬいぐるみ”をエステリオにドスッとそちらを見ないまま押し付けるように渡し、前へ歩み出た。まるで、役者か何かのように、つま先でツイツイと。首をゆるやかにあちらこちらへ向け、視線を投げかけている。
 そして──。
「こんばんは! みなさん! 今日はパールフェリカの為に遠くから集まって下さって、本当にありがとう!」
 両手を広げ、満面の笑みで会場全員の顔という顔を見渡してパールフェリカは声を張った。少女らしい元気で可愛らしい声に、皆笑みを浮かべ、パールフェリカ姫を受け入れた。


 そして、ラナマルカ王の隣の豪奢な椅子の横に、ミラノは会場を見渡す向きで、腰で折り曲げた座った姿勢で置かれた。エステリオなりに見えるように置いてくれたらしい。
 貴族、というものの概念がいまいちわからないまま、ミラノは眺めていた。パールフェリカはずっと誰かしらに囲まれている。隙間から時折見えるパールフェリカは、必ず笑顔だ。笑い声すら上げているようだ。一方シュナヴィッツは眉間に皺を寄せ、“近寄るな”オーラを力いっぱい発してバルコニーでグラスを傾けている。遠巻きに、着飾った少女達が顔を赤らめてシュナヴィッツの背中をうっとりと眺めていたりする。
『王族なんて“見世物”以外の何だって言うの?』
 パールフェリカの言葉がミラノの脳裏を横切った。
 誰かに話しかけられて、さっと両目と口が同時に笑みの形を作る。
 今振りまかれている彼女の笑顔は──。
 ミラノは、見抜いてしまって申し訳ない気持ちになった。一般的に、心から、あるいは無意識の笑みというものはまず口元に浮かび、その後に目にも表れるのだ。同時に笑みが浮かぶならそれは──“作り笑い”
『せいぜい外見を磨いて一杯見られて可愛がってもらうしかない』
 彼女はそう言った。
 本当の気持ちを、どこに隠しているのだろう。出来上がるそれは心底の笑顔にしか、見えないのに。ころころと鳴るような笑い声も。嘘偽りの無い、素直で可憐な姫の姿にしか見えない。
 会場に入る直前、パールフェリカが何度も口を動かして目を瞬いていたのはこの為のストレッチだったのかもしれない……ミラノはそう思い至った。


(3)
 それでも何人かの貴族らと会話を、バルコニーに居たままシュナヴィッツは交わしていた。話しかけられてまでぞんざいな対応はしない。時折笑顔を交える程度の事はする。城に居る間はむっとした顔で居る事が多いので、それなりに効果があるらしい事はもう学習済みだ。共に戦線に立つ騎士や兵士らにはシュナヴィッツの笑顔はそれほど珍しいものではないのだが。
 とはいえそれも30分程でシュナヴィッツは我慢の限界に来たらしい。ラナマルカ王の元にやって来て退室を告げた。
「そうか、わかった。しっかり休みなさい」
「──あら、シュナ様、もう退がられますの?」
 どこに居たのやら、アンジェリカ姫が現れた。彼女は招待されて来ているわけではない。大国プロフェイブの王女として顔パスでここまでやって来ている。
 艶のある赤い髪は先日と同じく縦に巻いてある。相変わらず濃い目の化粧であるのは、プロフェイブ流とも言える。素顔とのギャップがややありそうだが、美人には違いない。それ以上目の輪郭を塗ればパンダのように見えなくも無い、しかし愛らしい垂れ目には自ら光を発するエメラルドグリーンの宝石の瞳を宿している。ネフィリムに言い寄りまくって“婚約者候補第一位”というわけのわからない立場を“婚約者”だと言い張って周囲に認めさせている。公的にそういうものは存在しない。ごり押ししたり無理矢理言わせているのではなく、天然でそう思い込んで自ら吹聴してしまくって、周囲に思い込ませるという害の無いタチの悪さだ。
 シュナヴィッツは気だるい気分をなんとか持ち直して声をかけて来たアンジェリカを見た。
「ええ。連日戦いが続きましたから」
「そうですか、ですがネフィリム様は今日も前線へ行ってらっしゃるのでしょう?」
 アンジェリカとしては、ただ愛しのネフィリム様を持ち上げる事しか頭に無いのだが、人によってはこれは嫌味にも取れる。シュナヴィッツはこの点──アンジェリカがネフィリムに熱を上げすぎている事──は把握しているので聞き流す。彼女が単にネフィリムに会いたかったという気持ちを隠して言ってみた結果だとしても『僕が行けば喜んで頂けましたか』とは言わない。
「僕が言うのもおかしな話ですが、兄上はアンジェリカ姫のおっしゃる通り大変秀でた王子ですので、不出来な弟を庇ってくれているのです。僕は兄上には感謝してもしきれません。──では、失礼しますね」
 アンジェリカに対しては、本人かネフィリムを褒めておけばそれだけで喜ぶ。案の定、アンジェリカは満足そうに頷いている。
 シュナヴィッツはラナマルカ王にも一礼して下がる。その背にラナマルカが声をかける。
「シュナ、パールのうさぎも持って戻ってやってくれないか。ダンスも始まるだろうし、白いのだから踏まれて汚れては後でパールも哀しむ」
 そう言って王はちょいちょいと指を動かしシュナヴィッツを招き寄せた。
「全く動かないでいるのは疲れるだろう?」
 小さな声で囁き、シュナヴィッツは小さく頷いた。王はミラノを気遣っている。
 シュナヴィッツはもう一つの、パールフェリカ用の椅子の横に置かれた“うさぎのぬいぐるみ”をひょいと拾い上げ、小脇に抱えた。30分以上、微塵も動かないでいたという事を改めて考えると、大した精神力だとシュナヴィッツは思った。
 パーティ会場の扉を抜け、廊下の角を何度か曲がる。3階から上下階へは移動していない。城のより奥側は中庭を囲むように、ロの字で建っており、その形で上へ伸びている。パーティ会場は城前広場に面してバルコニーがあるが、反対側まで行くと中庭を臨む形で小さなバルコニーがいくつか並んだ廊下に出る。バルコニーに対してはガラスの扉がある。両開きのそれを開き、バルコニーに出た。
 小さなバルコニーには4、5人が掛けられる程度の白い猫足のベンチが置いてあるだけだ。シュナヴィッツは“うさぎのぬいぐるみ”をそこに座らせ、自身は柵にもたれ中庭を見下ろした。今日は城に招かれる者達があるという事で、様々な木々や花が植えられた中庭はライトアップされている。
 喧騒は遠く聞こえる。明るい音楽が聞こえ始めて、王の言っていた通り、ダンスが始まったのだろう。
「ここまで聞こえていたんだな」
「……そのようですね」
「ミラノは“人”で出たいと思わなかったのか? パールのようにめかしこんだり……女性はそういうのが好きだと聞いた事がある」
「私はパールに無駄な力を使わせたくないだけ。あの紫色の顔で倒れたのは、昨日の事ですよ? 本当は、まだ元気とは言えないはずです」
 やはり静かな淡々とした声で“うさぎのぬいぐるみ”は言った。
「そうか。でもパールは残念そうだったが。“人”のミラノを皆に自慢したいんだろう」
「パールがもし本当にそうしたいと言うなら、私は構わないけど。出来るなら避けてあげるべきだと、思っています。年長者として。あの子はまだ、自分をちゃんとコントロール出来ないみたいだし。多分……」
 言っている事はどこまでもパールフェリカの事を考えた、冷静な大人の対応と言える。断定もしない辺り、柔軟な思考を用意している構えだ。パールフェリカ自身の気持ちを反映しているかどうかは別として。
「……なんだか想像がつかないな」
「何の?」
「ミラノにも、パールと同じ13歳の頃があったのだろう?」
 ──母上を亡くしたばかりの頃の兄上にも、あったように。
「だが、想像が出来ない」
 そう言ってシュナヴィッツは笑った。パーティで見せていた笑顔と違って、随分と爽やかなもの。
「人をバケモノか何かみたいに、言わないで?」
 やや力の抜けた声がした。
「私だってそれ相応の、13歳という時間を過ごしてきたわ。だからこそ、気にかかるのよ、13歳……本人は、一人前で居るのだから」
 シュナヴィッツはただ黙ってミラノの言葉に耳を傾けている。一瞬迷ったが、ミラノは続けた。
「……その時が過ぎれば、不思議ね、誰かのそれは危なっかしい。自分だって何だかんだと乗り切って、通り過ぎてきたのに。でも、13歳から今に繋がって私がいるのは、差し伸べてくれた人の手があった事は間違いないわ──無かった人もあるでしょうけど……。当時は、気付きもしかった。だけど、だから、次は私が手を差し伸べる番。ただ、そう思っているだけよ」
「……なるほど。パールは、落ち着きが足りない所があるから、ミラノが傍で見ていてくれるなら僕も安心だな」
「認めてくれるのはありがたいのだけれど、私はここの事をよく知らないし──“人”性能の、ただの召喚獣でしょう? 役に立つのかしら」
 “ただの”かどうかは別として──シュナヴィッツは笑った。
「役に立たない召喚獣なんていない」
 何よりもパールフェリカが、父や兄、そして自分以外であんなになついている姿を見るのは初めてだ。パールフェリカとミラノの間には、確かに“召喚士”と“召喚獣”を繋ぐ絆がある──だが、それだけでは説明出来ない精神的な部分で、パールフェリカは姉か母親でも求めるような目で、ミラノを見ている。
「残念だけど、私は燃費が悪いみたいだから」
 “人”になるだけ、に関しては問題なさそうなのだが、魔法陣を出した瞬間、パールフェリカはかくりと力を失う。派手な事をすると倒れてしまう。
 ふと足音がして、“うさぎのぬいぐるみ”が動きを完全に止めた。ぬいぐるみのフリを始めたようだ。
 カタリと、半開きだった戸が大きく開かれたのだ。


 廊下から、見事なメタボリック貴族Aが現れた。
 あからさまにシュナヴィッツが嫌そうな顔をした。
 “うさぎのぬいぐるみ”はシュナヴィッツがどのコマンドを選ぶのか観察していた──たたかう、ぼうぎょ、にげる……。
 貴族Aは貼り付けたような笑顔をしている。弓形の目は薄気味悪ささえ漂っている。ぎりぎり、脂は拭き取られているようだ。あとヒゲでも付けば胡散臭さは完璧である。
「これはこれはシュナヴィッツ様、こちらにおいででしたか」
 シュナヴィッツは視線を逸らす──探し回ったのだろうに。
 近寄ってきた貴族の男は艶のある黒の上下を着ているが、色の効果で締まって見える事は無い。ぎりぎり禿げ散らかっていない髪は撫で付けてある。50前後の男だ。シュナヴィッツにはうんざりするほど見覚えのある顔である。
「僕はもう部屋に退がる。あちらで自由にしてくれていたらいい」
 シュナヴィッツは“うさぎのぬいぐるみ”をベンチから取り上げ、小脇に抱え歩き始める。
「殿下! シュナヴィッツ殿下。少しお話が──」
「僕には無い」
 そう言って立ち去ろうとするシュナヴィッツの前にその男は回り込んだ。
「殿下にはとても良い、お話です。もう20歳におなりでしょう、その歳ですとラナマルカ王はもうご結婚なさっていましたよ? シュナヴィッツ殿下にも──」
 男はひそめるような声で顔を前後させ、声に奇妙な抑揚を付けて言う。こういうセリフは聞き飽きている。見慣れている。
「そうか、わかった、だが不要だ」
 そう言って通り抜けようとしたが、貴族の男はさらに回り込んできてシュナヴィッツの“うさぎのぬいぐるみ”を抱きこんでいる左腕を掴んだ。シュナヴィッツはその腕を睨め付けるが、男の顔は別の方を向いている。仕方が無いので空いている右腕で強く払った。
「ファーナ! ファーナ! おいで」
 ファーナというのは名前のようだった。男の声に、はっきりした金色の髪を縦に巻いた少女がやって来る。この縦ロール、現在ガミカでは流行の兆しは全く無い。年の頃なら16、7。目元は濃い位にメイクしている。全体的に派手な印象だが、垢抜けていると言えなくも無い。どこかアンジェリカで見慣れた大国プロフェイブの女性を思わせる。
 シュナヴィッツの正面にやってくると、少女は頬を赤らめ目を合わせてくる。そして、高めの鈴の鳴るような声を発する。いわゆる作り声だ。
「先日、花の都であるシャントリアへの留学から戻りました。フィルファーナと申します」
 そう言ってドレスの裾をつまんで膝を曲げた。正装した女性の会釈だ。シュナヴィッツはさらさらの前髪に指を突っ込んで髪をかきあげた。男は自慢気に娘の背を押してシュナヴィッツによく見えるよう立たせる。
「娘のフィルファーナでございます。ミイゼンテイム学院を特級で卒業し、この春まで学園都市シャントリアへ留学しておりました。器量に関しましてもプロフェイブの者達との交流から最先端の美しさを──」
 ──売り物か何かかと、吐き気がする。
「わかった。覚えた。もういいな? 連日戦っていた、疲れている。一人になりたいんだ」
 そう言い捨てて、シュナヴィッツはさっさと立ち去った。


 廊下を通り過ぎてしばらくして、シュナヴィッツは緩やかに足を止めた。
「……やはり疲れる──兄上とサルア・ウェティスに行くんだった……」
 逃げ口上の“疲れる”とはまた別の意味だ。そう呟くシュナヴィッツに対して、小脇に抱えられた“うさぎのぬいぐるみ”は、“ぬいぐるみ”のフリを決め込んだままなのか斜めの姿勢のまま音を発する。
「パールは、笑っていましたよ?」
 淡々とした感情の無い声は、逆により多くの事を語っているようにシュナヴィッツには聞こえた。
 口を閉ざすしかなかった。
 答えるべき言葉が無い。それでただ中庭から臨める月に視線を飛ばした。
 遠く、パーティで奏でられる楽器の明るい音楽と、人々の囁きが聞こえた。
 ああいう断り方をしている間は、いつまでもこの状況が、続くのかもしれない。何も変わらない、立ち止まったままに、なるかもしれない──ミラノはそれを、示唆している。


 人の気配が完全に消えてから、“うさぎのぬいぐるみ”がにょきにょきっとシュナヴィッツの腕から逃れ、ひょいと飛び降りた。
「ミラノ?」
「一人になりたいのですよね?」
 そう言って3歳児サイズの“うさぎのぬいぐるみ”はひょこひょこと、大きな頭だろうがバランスを崩すことも無く歩いて離れて行く。
「え、いや……ミラノは“人”じゃないだろう……」
 それはやや消極的な声で、背後から聞こえて“うさぎのぬいぐるみ”は足を止めた。呆れた笑みのようなものがこみ上げたが、それを表には出さず、ミラノは言う。
「私はパールの部屋へ戻ります」
「道、わかるか」
「はい」
 先日エステリオに付いて会場から戻った際と、そして今回やってくる時に通路は見ている。大体覚えている。シュナヴィッツからすると非常にゆっくりな、しかし“うさぎのぬいぐるみ”としては早い回転でスタスタと足を動かして立ち去る。
 シュナヴィッツは、それを抱え上げる事も無く後ろを付いて来ている──両手両足で必死に登る階段だけは見かねたらしく持って上がってくれた。
 来る時の倍以上の時間をかけてパールフェリカの部屋の前に到着した。
「覚えてたんだな」
「ええ。それに、忘れていてもその辺で“ぬいぐるみ”のフリをしておけば、この“みーちゃん”はパールのものだと皆さんご存知のようですから、いずれ戻れたでしょうし」
「そういう事か」
 扉の両サイドには衛兵が立っているが、彼らに“うさぎのぬいぐるみ”で頼むのもなんだか妙な気がして、ミラノは両手を高く上げて扉の柄の長いノブを引っ張る。自分で扉を開けようとしたが、微塵も動かない。ぬいぐるみの力は弱く扉を開けられないようだった。すぐにシュナヴィッツが気付いて開けてくれた。
 ひょこひょこと、灯りがついていない薄暗い部屋へと“うさぎのぬいぐるみ”は進んだ。扉辺りでシュナヴィッツには帰ってもらおうと一人だけ中に入りミラノは振り返る。
「──ありがとう。……傷の具合は……どうなのですか」
 ミラノなりに、あの炎渦巻く中に居て、にも拘らずシュナヴィッツの様子は重症には見えないので気になっていた。
「ティアマトで相殺したり、反射して返しているからあまり届いていない。僕自身は召喚獣が防げずに抜けたものを食らうんだ。だから、大した怪我は本当に無いんだ。リディクディの方が、あれの召喚獣は移動が高性能な分、あちらこちらと駆けずり回って兵を助けていたようだから、よっぽどダメージは大きい。防御性能は低めなのに、随分と頑張ってくれていた。とはいえ僕の方も、さすがに“神”の使いはとんでもなかったな。フェニックスを借りてすらまともに攻撃が届かなかった……いい経験をした」
 薄暗いせいなのか、シュナヴィッツはよくしゃべった。
 灯りのスイッチなんていうものはあるのだろうか、そう思ってミラノは壁を見回す。侍女が居れば、衛兵同様“うさぎのぬいぐるみ”のミラノの事もわかっているので気軽に声をかけられたのだが。
「ですが、怪我は怪我ですから。大事になさってくださいね──みんなパーティへ行っているのですね」
 ミラノは今朝の反省を少しだけ踏まえて言葉を選んで告げた。その事にシュナヴィッツが気付いているかどうかまでは、後半をしゃべっている間に視線を部屋の中や壁に移してしまっていたのでわからない。
「……主役はパールだからな。その侍女ともなれば総出でも忙しいだろう」
 窓からの月明かりを頼りに、ミラノは部屋の奥へと進みスイッチを探してみる。このままでは本を読めるレベルではない。スイッチの類で灯りは制御されているのだろうか。ランタン? 火? 油?
 ふと、後ろ、扉を閉めて、シュナヴィッツが部屋の中に入って来ている。
「……? 一人になりたかったのではないのですか」
 と、シュナヴィッツの気持ちを知っていながらの、2度目の問い。
「…………………………………………」
 シュナヴィッツはゆらゆらと歩いて、月明かりの窓際、そっと楽器に近付いて、ギターと琵琶の中間のような楽器を手に取った。シュナヴィッツは手元だけを見て、奏でる。パーティ会場で流れていた軽快なリズムの音楽ではなく、ゆったりとして低音の効いた温かい音楽。“うさぎのぬいぐるみ”のミラノはスイッチを探すのを止め、逆光のシュナヴィッツを一度だけ見上げた。そして、ソファに移動してぽとりと座った。
 どの程度の腕前なのかは、ミラノ自身楽器を覚えていないのでわからないが、日頃聴いていたプロが演奏しているような音楽と遜色なく、滑らかで聴き心地が良かった。音の端々にどこか“男っぽさ”が見え隠れしていて、ミラノは少し面白いと感じた。
 曲が終わって──。
 “うさぎのぬいぐるみ”のぽふぽふぽふという軽い拍手。ソファの上に立って、窓際のシュナヴィッツを見た。
「──ネフィリムさんの話では、戦いの前線が趣味のように聞こえていましたが」
「この程度なら、覚えさせられるんだ」
 シュナヴィッツの声は何気ない、軽いものだったが、ミラノは一瞬止まってしまった。妙に、パールフェリカの言葉が頭を離れない──王族なんて“見世物”以外の何だって言うの?──、ミラノは左手を口元に当てるだけに留め、他の言葉や仕草を封じた。
「そうですか。パールも弾けるのでしょうか」
 楽器を元の位置に戻しながら、シュナヴィッツはちょっと笑った。噴出して笑うのを堪えたようにも見える。
「聴いてみたらいいと思うぞ」
「……そう言われると想像はつきますが、聴いてみたいですね。元気いっぱいでしょう? きっと」
「ああ」
 ふとした間に、“うさぎのぬいぐるみ”は周囲を見回す仕草をして見せた。
「明かり、つけ方わかりますか?」
 シュナヴィッツは気付いた風だけで返事らしい返事はせず、召喚術らしい、何かぶつぶつと唱えた。その足元に彼の金色の魔法陣が浮かび、拡散して壁に吸い込まれる。すると壁が廊下と同じように光を宿した。夕暮れ時より少し明るい程度の明るさになる。
 ミラノは、なるほどそうかと納得した。それほどこの世界では“召喚術”は定着しているのかと。こちらに電化製品が無い事を引き合いに出して頭の中で価値観を整理した。
 明るくなってミラノは書棚へとことこと歩み寄って、よじ登る。借りていた絵本を1冊取り出して、ぴょんと飛び降りた。
「……絵本か」
「文字を覚えたいので」
「ニホンと文字は大きく違うのか?」
「かなり……違うようです。そうですね、10日位で覚えられたらよいのですが……」
 ハードだろうなと思いつつ、文字を覚えた後には“調べる”というコマンドが残っているのでその位で終わらせたいのだ。
「10日……随分急いでるんだな」
「……言葉が通じていますから……でも、難しいでしょうか」
「違いがどの位か想像も付かない。やってみるしかないのだろう? ミラノは、ニホンでは庶民だと言っていたな。ニホンでは庶民はどの程度“勉強”に勤しむのかでも違うだろうが……」
「一庶民です。長く学生をしていましたね。ちゃんと戸籍もありましたし、税金も納めていました。一人前の成人した、大人として」
 ふと、“うさぎのぬいぐるみ”の首が下を向いた。
「……ここでは、私はパールの召喚獣で、人では無いようですね……自立が出来ていない状態というのは、不安だったのですね。──ままならない事が……。少し、思い出しました」
 ──だから、帰らなくては。このままでは27年精一杯生きてきた時間が、自分という存在が、コケにされているような気にも、なるのだから。
 ミラノにとっての問題は、元の世界を捨てるか捨てないかなどという陳腐な極論ではない、自分自身であり続けるかどうか、だ。過去の延長線上の自分を、これからも続けられるかどうか。今までの人生とこの嘘のような世界との交差を、現実のものとして受け入れ、その上で元の世界へかえり、自分の人生を引き続き確かに歩む為、だ。
 “鉄の女”と人に囁かれたミラノでも、やはりこの状況──唐突に召喚された見知らぬ世界──を乗り切るにはそれなりにストレスを感じていた。だから、こうして沢山の事をまとめて話した後なので、つい、ぽろりと弱音を吐いてしまったのだが。シュナヴィッツはミラノにとって弱音を吐いていい相手ではない事を、この時はつい忘れている。ミラノは後で後悔をするだろう。
 シュナヴィッツはと言えば、そういう違いに気付いたり出来る程、人の心の機微に聡くも無く、彼は彼自身の感覚でものを考え、そして、彼もまた、思わずぽろりと、言葉をこぼした──。
「人として生活していたのだとしても、召喚されたのなら──」
 しかし、シュナヴィッツはそこで気付いて口をつぐんだ。そして話を逸らす為、顔を上げた。
「ミラノは、召喚獣になるのが嫌だったか? 僕は、ティアマトや兄上のフェニックスだとか、心から召喚士に仕える召喚獣しか知らない」
「……残念だけれど、否応なく私はここに居るから、答え難いわ。でも、前にも言ったけれど、現状は現状ですし、特に嫌ではないのですよ。──そろそろ、読んでもかまいませんか?」
 嫌ではない、否定するだけ馬鹿馬鹿しい──これが無視の出来ない現実なのだから。
 遠く、軽快な音楽が聞こえる。パーティはまだ続いているようだ。
「ああ……僕も何か……」
 言いながらシュナヴィッツは昼間と同じようにパールフェリカの部屋の本棚をさぐる。召喚獣に関する本を手に取ると、“うさぎのぬいぐるみ”の対面のソファに腰を下ろした。
 パーティの喧騒が消え、くたくたになったパールフェリカが戻るまでの、ささやかな時間。
 時折言葉を交わしながら、静かな時間が、ただ淡々と、流れた。
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