召喚士の嗜み【本編完結】

江村朋恵

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【1st】 Dream of seeing @ center of restart

召喚獣リヴァイアサン

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(1)
 北の要所と呼ばれるサルア・ウェティスは、海に面している。
 荒涼とした大地なのは、遠い昔から人とモンスターが争い、その血で穢れてしまった為だと言われている。血の穢れで草木が育たないのだと。それは遠方の、前線に立たない者達の──遺された者達の──感傷とロマンであり、それこそファンタジーだ。遠くで聞こえる戦いの音に妄想を働かせ、吟遊詩人が歌にする、人々は涙し、鼓舞される。それが広まっただけにすぎない。
 そこで戦う者は知っている。苛烈なぶつかり合い、炎が、吹雪が、毒が、槍が、怒号が飛び交う。蹴り飛ばされ、削り取られる大地に、生命が芽吹く余地など無いだけだ。
 海の向こうには別の大陸がある。
 そこは──人が立ち入る事の出来ないモンスター達の住む大陸。彼らの侵攻を受け、押し留めているのが北の要所サルア・ウェティス。
 回収される事の無い遺体が積み重なる、聖なる墓所。
 聖なる、などと美化したところで、現実は昔から何も変わらない。
 モンスターの、兵士達の躯が、砕かれ焼かれ、風に流される──大地。
 赤茶けた土や岩がゴロゴロと、衝撃ででこぼこと起伏のある大地は、広大だ。
 ガミカ国にとって国土の1/6に相当するのがこの焦土。ただし、ガミカは国土と認めていない。ただ護っているにすぎない、欲しいなら他国にくれてやる、そういう意思だ。だが、召喚獣に恵まれたガミカ国だからこそ、この大陸へのモンスターの直接流入を防げている現実がある。他国が奪っても護りきれない。
 ガミカ国を落とす為にモンスターを流入させようとここからガミカの兵を追いやったとしても、ガミカが落ちればそのモンスターは大陸中に広がる。貧乏くじはガミカが引いていればいい、そう考える国が多い。さらにこの地に援軍を寄越す国は少ない、まず無い。ガミカがよっぽど困窮しない限りは。
 史上一度も無いが、万が一モンスターが全て駆逐された時、この召喚古王国が人間の国へ侵攻したならば、その時の覇はそう簡単には止められそうにない。だから周囲の国々は、ギリギリの均衡が保たれるのをただ見守る。
 残酷とも取れるその周辺国の政策の結果とでも言うべきか、ガミカの国力はあまり大きくはないままだが、滅びもしない。ガミカ召喚古王国が長く生き延びている理由の一つでもある。
 焦土は、端から端を見渡せぬ広さがある。
 この広大な焦土と、それを臨む砦をまとめて北の要所サルア・ウェティスと呼ぶ。
 昨日の昼から砦に詰めていたネフィリムは、王都ではゆったりと束ねていた髪を、今日は三つ編みにしている、バラけにくいようにと。
 砦の中央辺りだけ背が高い、6階建てである。その屋上からさらに5メートル程の高さで設置されている歩哨台──何も無いそこの広さは3畳程だ──の柵に腰を預けて、ネフィリムは無表情で生温い風を受け、海を睨んでいた。
 砦はその中央から左右に広く、ゆうに1kmはある。3階建で広がり、各階にはびっしりと砲台が用意されている。召喚獣が戦闘に適していなくとも、兵役は様々にある。その良い例なのが、北の要所で活躍する砲兵だ。破壊力甚大の大砲を数名の班で動かす。前線で戦う召喚騎兵や召喚獣を、後方から最大限に支援し、敵モンスター・害獣を駆逐する。撤退時には煙幕弾を一斉に展開して味方を支援する。
 ──だが、それの6割が現在崩れ落ち、使い物にならない。幸いなのは、それらを扱っていた砲兵らは全員生き延びたとの事。育成が困難な貴重な専門技術職である砲兵が無事と聞いてほっとはしていたが。
 昨日昼に到着した折りには、シュナヴィッツの護衛にしてガミカ国でもエリート騎士であるスティラードと、王都から帰していたブレゼノの召喚獣が既に一暴れした後だったらしく、ほぼ沈静化されていた。フェニックスの飛翔でそこに辿りついたネフィリムが加勢すると、モンスターらは──一昨日王都を襲撃したであろうワイバーンの残りも含め──一斉に撤退をした。
 ──それよりもと、ネフィリムは腕を組んで空を見る。
 昨夜、どこからともなく現れた光の魔法陣が、海上、ぐるぐると、ゆっくりと回転しながら、その直径を広げているのだ──既にその直径は100メートルに届きそうだ。人の作る魔法陣は大きくても直径3メートル程度である事を考えれば、異常だ。
 色はと問われれば白だと答えられた、昨夜の内は。朝になるとそれが七色に煌きながら輝いているのだ。陣の形を見れば、召喚魔法陣だとわかるが、これほど巨大な魔法陣があるものだろうか──考えられるとしたら……。
「ネフィリム殿下、こちらにおいででしたか」
 歩哨台の梯子をカンカンと音をさせて、男が登ってきた。一昨日、シュナヴィッツが空中演舞の為に王都に戻る際、護衛に同行していたブレゼノだ。梯子の真ん中辺りに居る。ネフィリムはそちらを見た。
「ああ、いい。降りる」
 腰に刀1本挿している程度の軽装なのでネフィリムはその刀に手を当て、そのまま飛び降りた。すとんとほとんど音もさせず着地する。梯子の真ん中から、ブレゼノも飛び降りた。こちらはがしゃんと鎧の音をさせた。
 歩哨台の下にはネフィリムの護衛であるアルフォリスも居た。パールフェリカ生誕式典の際、聖火台でネフィリムが戻るのを待ち、さらにワイバーンの王都接近をその召喚獣レッドヒポグリフで確認に走ったエメラルドグリーンの瞳をした男だ。パールフェリカの護衛であるエステリオの兄にあたる。こちらもしっかり鎧を着こんでいる。手にはネフィリムの鎧やら小手やらを持っている──早く着て下さいと追い回していた辺り、妹のエステリオと同じく小姑臭い所がある。
 ブレゼノもアルフォリスも兜は外して、首の後ろに倒してあったので顔がちゃんと見えている。
 ネフィリムはアルフォリスを見た。
「アルフ、レザードは戻ったか?」
 アルフォリスの押し付けてくる鎧をぐぐっと押し返しながらネフィリムは問う。
「まだ戻りません、あれの召喚獣はあまり速くないので」
「そうか。あの魔法陣に何らかの変化がある前に戻ってもらいたいんだが。それとも増援を連れてきてくれるのか」
 考え深げに言っているが、ネフィリムは小手を無理矢理つけにかかってくるアルフォリスの腕を力いっぱい捻りながら押し返している。
「ネフィリム殿下」
「ああ、すまない、ブレゼノ。どうした?」
「レザードが戻りましたら、私はクーニッドへ行きたいのですが」
「──クーニッド?」
「ええ、シュナヴィッツ様とパールフェリカ様が今朝そちらへ向かわれたと」
 ぱっと手を離し、どうしようかと視線を巡らせ考える。アルフォリスは反動でネフィリムに突っ込みそうになりどうにかこうにかバランスを取った。
 空にある魔法陣も気にかかるので強力な飛翔召喚獣マンティコアを操るブレゼノの戦力は大きくとても惜しい、が、シュナヴィッツとパールフェリカは我が身の一部と言っても過言ではない、必ず護りたい。仕方が無い。空を見たまま口を開き──。
「わかった。お前は──……」
 そこでネフィリムの動きが一瞬止まった。そして、口角を上げ目を細めた。
「発つ必要はない」
「──はい………………えっ?」
 当然行けと言われると思って返事をしたブレゼノだったが、耳を疑う。そのブレゼノへ、ネフィリムをあちらを見てみろというジェスチャー、視線を投げる。ブレゼノは後ろを振り返る。
 ──雲が出始めた空を鮮やかに切る、空色のペガサスと赤のヒポグリフを伴った、白銀のドラゴンの姿があった。


「──それで、なんでお姫様も一緒なのかな?」
 腕を組んで見下ろすネフィリムの前には、シュナヴィッツの影に体を半分隠すパールフェリカがあった。その後ろにエステリオとリディクディが控えている。
「…………」
 パールフェリカは心なし頬を膨らませて下を向いている。その目元は、やや赤く腫れている。
「申し訳ありません、兄上。どうしても行くと言ってきかなくて──」
 シュナヴィッツが眉間に皺を寄せ、苦々しく言っている。
「そりゃ泣きつかれたらシュナはパールの言う事を聞いちゃうだろうな。で、パール、なんで来たんだい?」
「──わからない」
 目を逸らしてパールフェリカは拗ねたように言った。
「へぇ?……理由はそれでいいかい?」
「…………」
 押し黙るパールフェリカからネフィリムは視線を外すとエステリオを見た。
「エステリオ、パールを城へ──」
 ネフィリムが言いかけると、パールフェリカがシュナヴィッツの横から駆けて来てしがみ付く。
「ネフィにいさま!」
 見上げてくるパールフェリカをネフィリムは無表情で見下ろしている。
「理由も無く置いておけるわけがない。ここは危険だ、とてもね。護ってあげられる余裕はない」
 その声は驚くほど冷たく、パールフェリカはびくりと慄いた後、目に一杯の涙を溜め、ぼろぼろとこぼした。
 ──どういう言葉で伝えたらいいのかわからない……一度召喚獣を得た召喚士が、それを失ってしまう気持ちは、ここに居る誰もわからない。パールフェリカの、ミラノを見失った不安は誰にもわからない。離れたくない、誰からも。伝え方が、わからない──
 何も言わなくなったパールフェリカの亜麻色の髪は、ネフィリムの肩より下辺りでふわふわと揺れている。しがみ付く力だけがしっかりとしている。ネフィリムは一度ゆるく視線を泳がせた後、シュナヴィッツを見た。ネフィリムの機嫌はあまり良くない。
「クーニッドに向かっていたのではないのか?」
「クーニッドの長老マルーディッチェから、大岩から光が発し魔法陣が生まれこちらへ飛んだと聞かされました」
「なるほど。それがあれか」
 ネフィリムは首だけを後ろへ向け海の上に広がる魔法陣を見た。シュナヴィッツも見る。
「──あれが、神の──」
 ネフィリムは再びパールフェリカを見た。
 ──神が召喚したとされる“使い”がどのようなものかはわからない、創世をした神の“使い”、創世を手伝った獣の霊、そう考えると勝てる気がしなくなる。敵はどれ程のものかわからない。ここに置いておけるはずがない。
 ヒステリックにはならない、声を大きく上げる事はない。だが、じくじくと涙を零すパールフェリカは顎を引いて、おでこをネフィリムの胸に当て、下を向いている。両の拳は強く握られていて、左手は“うさぎのぬいぐるみ”の耳と一緒に捕まれている。その左の耳の綿は既にぺったんこだ。引き結んだ唇、両方の口角が下がっている。何かを堪えるように、ひくひくと時折声を漏らす。
 この小さく、脆く柔らかな妹を──和やかで幸福の象徴なのだ、戦地にある身からすれば、それを──危険に晒すわけにはいかない。ネフィリムがそっと息を吸い込んで、突き放そうとした時。


 ──…………レ……ヌシ……──……──…………──


 声が。
 何種類もの、それこそ老若男女何百人をも合わせたように反響する声が、聞こえた。
 全員が声のした方を一斉に見た。
 ──海上の巨大な魔法陣が、ゆっくりとまわっていた魔法陣が、その文様が見えなくなるほど高速に回転していた。その回転音のようにも思われた。


 ──ド…………………………──……──レル……──




(2)
 急回転しながら、その魔法陣が拡大した。その回転する魔法陣に煽られ、波が大きくなる。渦を巻く。
 先ほどまでネフィリムが見ていたものの倍以上の直径に膨れ上がった頃、それはギュと停止した。
 海上10メートル、直径で200メートル以上。
 白色と紺色に荒れ狂う波の上、白い魔法陣が煌々と光を放つ。その光が大きくなり──魔法陣の中央に、黒い影が浮かび上がり始める。
 ごんごんと、ごんごんと、天地大気を揺るがす何かが響いている。
 急激に悪化していく天候、どす黒い雲が続々とどこからともなく現れる。その、雲の中を幾筋もの雷光が駆け巡る。
 パールフェリカは、空を見上げ、息苦しさを覚えた。ぎゅっとネフィリムにしがみつく力を強める。鼓動すら聞こえそうな程近く、抱きつく。その頭に、ネフィリムの手がぽんと乗った。
「にいさま……」
 か細い声で見上げると、ネフィリムはこちらを見ていて、困ったような微笑を浮かべた後、再び魔法陣を見た。パールフェリカもそれに倣った。
 パールフェリカは肩で息をした。あの魔法陣を見ていると、どうしようもなく、ドキドキする。

 暗雲が太陽を覆い隠し、夕闇ような黄昏の焦土が広がる。
 時折、稲光が走り辺りを照らす。その度に体の芯を揺るがす轟音が大地を叩く。
 辺りが暗くなるほど、白く光る魔法陣がより際立つ。その中心から、黒光りする、紺色の鱗がせりあがってくる。
 巨大な何かが、魔法陣の上に姿をおどろおどろと見せはじめる。
 魔法陣と海の間は10メートルは開いているというのに、その空白を無視するように、魔法陣からもドゴドゴと海水が溢れ出ている。
 白い水しぶきと白い光に囲まれ、その全容が、顕になる。
 ──海竜である。
 体長は長い、だがそれを引き寄せ3重程とぐろを巻いているような形で宙に浮き上がってくる。その状態で、巨城エストルクの数倍、一山はありそうだ。
 顔面は優美なティアマトと比較して、あからさまに獰猛さがにじみ出ている。三角に釣りあがった目は長く、粘着質ささえ感じられる。白目は無く、瞳は全身と同じ、深い紺。──慈悲の欠片も見えない冷酷な瞳。鼻先から額まで、鱗が長く変質し、先へ行く程尖っている。額の中央には一際大きな鱗が、巨大な槍のように尖り、刃となっている。
 常に海水を浴びる全身は、ぎっちりとした太さがあり、そこを埋める鱗がぬらぬらと魔法陣の光りを反射する。背と呼ぶべきか、こちらも棘だらけの翼がある。尾に近い方にも翼があり、こちらも棘まみれだ。
 あまりに巨大。それだけで人は畏怖に支配され、身動きが取れなくなる。
 “神”の召喚する獣? 聖なる獣? そのような印象など無い。
 凶悪かつ、狂暴ささえあるのではないかと戸惑う。“神”の意思がそこにあるのか──と。

 魔法陣が未だ消えぬので、“神”の召喚術はまだ終わっていないのだろうが、その姿がほとんど現れた時。
「──にいさま、あれ!」
 皆がその神の“使い”に気取られている時、パールフェリカが焦土の端を指差した。
 薄暗い海岸沿いをドロドロと何か動いている。
「アルフ!」
 ネフィリムはアルフォリスを呼ぶ。彼は双眼鏡持って来て、ネフィリムに渡した。数瞬それを見たネフィリムは、その双眼鏡をシュナヴィッツに放った。シュナヴィッツもまた、パールフェリカが指差した辺りを覗き見る。
「面倒な話だ。──本当に頭が悪いなあいつらは」
 ネフィリムの声は平静さを装ってはいるが、言葉には苛立ちがはっきりと現れている。“使い”に便乗してモンスターどもが上陸してきている。それも数千、数万規模だ。ざっと見る限り、空を飛べない地上を這うタイプばかり。人型が多く、彼らなりの知恵が“便乗”という形をとらせたか、虎視眈々と狙っていたタイミングを今だと決めたらしい。多くが、黒い体に赤い目の食人鬼オーガ、大きな耳と一つしかない目の巨人トロル、陽がかげったせいか太陽を厭う半猪半人のオークなどの二足歩行である程度武装する連中だ。
「にいさま」
 パールフェリカはネフィリムを見上げるが、ネフィリムは聞いていない。シュナヴィッツの方を見ている。
「──数に任せているように見える。こちらが惜しむ事を知っている」
 ネフィリムのその言葉にシュナヴィッツは頷きながら双眼鏡を下ろした。
「兄上、パールをお願いします。僕は準備をします、ここには予備の装備がありますから」
「ああ。頼む」
 その横からエステリオが一歩前に出た。
「ネフィリム殿下、今からでも私のヒポグリフで姫様を──」
「もう遅い」
 ネフィリムは一言で断じ、張り付いているパールフェリカの肩に両手を置いて剥がした。
「だが、エステリオはパールに張り付いていつでも逃げられるようにしておけ。パール、悪いがリディクディは借りるぞ。リディクディはスティラードの下に付け。ブレゼノ、スティラードを連れて来い。私は“炎帝”を出すからここで指揮を執る」
 そして、ネフィリムはやっとアルフォリスから鎧など防具類を受け取ったのだった。

 “神”の召喚術が終わった時。
 “使い”は長い束縛から抜け出したと待ちかねたとばかりに、その巻いていたとぐろを大きく開放した。その尾で、腹で海を殴り、蹴り飛ばす。水しぶきは巨大な津波となって海岸沿いを襲う。
 進軍の遅れているトロルなどが巻き込まれ、そこに撃ち下ろされ、振り回される尾に薙ぎ倒される、吹き飛ばされる。海の色は一瞬彼らの体液の青緑色に染まるが、すぐに元の色にまぎれてしまった。
 そして──“使い”は体を引き絞って、その顎を天上へ向け、咆哮を上げた。
 天地が揺れた。


 エステリオに押し付けられていたパールフェリカは、彼女の胴にしがみ付いていたが、その咆哮に震えた。
 エステリオとパールフェリカは、ネフィリムらと同じ屋上に居るままである。その方が護りやすい分、安全だという事だ。
 下唇を噛んで震えるパールフェリカには、全てが膜を一枚張った向こうの出来事のようにぼんやりとし始めている。
 兄らの声も、全て遠い。
「海からは全員退避させていい! 地上でモンスターを払え。──シュナ、いけるか」
 いつ戻ったのか、重そうな様子もなく、全身を濃紫のシャープなラインの鎧で覆われている。がしゃっと音を立てて、シュナヴィッツが前を通り過ぎていく。彼はそのままぶつぶつと呪文を唱える──召喚術。唱え終わると、彼は兜を下ろし、ゴーグルの位置を調整した。外から見たら鎧ででしかシュナヴィッツであると判別出来ない。
「──いけます」
 背筋を伸ばしてそう言うシュナヴィッツの足元には金色の魔法陣が輝く。
「私はここから指揮を執りながら“炎帝”を出す、存分に使え」
 ネフィリムも召喚術を唱える、足元に緋色の魔法陣が広がりギュルッと回転する。
「──はい」
 シュナヴィッツは現れたティアマトに、鞍は付けない。空中演舞の時ほどのサイズだ。それに乗り、そのまま砦上空へ駆け上る。パールフェリカの見る前で、それはぐんぐん巨大化する。
 ティアマトの魂が記憶する、最大サイズでの召喚。10階建てのビルに相当する大きさで、砦の上空に舞う、白銀のドラゴン。もう、シュナヴィッツがどの辺りに乗っているのかわからない。
 そして、ネフィリムの足元で小鳥サイズの火の鳥が生まれる。それは一度、掲げられた典雅なネフィリムの指に止まる。彼はそれを自分の顔の前に近付け、何か告げた。そして、放る。
 放たれた火の鳥もまた、上空へ駆け上がりながら巨大化していく。
 見る間に巨城エストルクと同等の大きさにまでなった。翼を大きく広げたならば、あの神の“使い”とやらとほぼ同じ大きさになる。
 同時に、ティアマトとフェニックスが天高らかに咆哮を上げる。
 砦の下から、地を轟かせるガミカ兵の鬨の声が湧き上がった。


 全てが遠い。
 カチカチと歯を鳴らして震えるパールフェリカ。
「姫様、お寒いですか?」
 エステリオはそう言って自身の外套もパールフェリカにかけた。エステリオの真横には既に赤いヒポグリフが控えている。彼女もまた武装が済んでいる。
 じっとエステリオの鎧を見ているパールフェリカだが、視界にしょっちゅうブレスや熱光線の明りが差し込んでくる。その度、震えた。

 パールフェリカの目は、半開きでやや虚ろだ。
「──うぅ………………………──……──ミラノ──」
 急激な寒気に、震える。
 ミラノ、温かな、私の召喚獣。私だけの──……

 ──ウウ………………………──……──レ……──

「え──」
 今、声が、聞こえた。
 パールフェリカの呟きの後に、あの何百人も合わせたような声が響いたのだ。パールフェリカはエステリオに体を摺り寄せながら、周囲を見渡す。エステリオがこちらを見ている。
「…………エステル…………また……あの声、聞こえる」
「え? 声? 何も聞こえませんが……?」
 あんな大きな声、なんで聞こえないの──パールフェリカは不思議でたまらない。こんなにも大きく聞こえるのに。
 ふと、意識がふわりと飛びかけて、パールフェリカはあわあてて首を左右に振った。今、気まで失っては足手まとい度はぐっとアップしてしまう。だが、すぐに激しい眩暈が襲ってくる。ぐらりとゆれながら、口が勝手に呟く。
「──どこに…………──………………──いるの──」
 ──ド………………──……オ………──……ル──

 ──ミラノ、助けて……。
 パールフェリカは心の内で何度も呟く、助けてと。
 一度繋がった絆が途絶えた。その苦痛を、パールフェリカはどう表現したらいいかわからない。
 幼い、赤子だった頃の、記憶。……いや、ただの、柔らかな感触。その思い出。目に涙が浮かぶ。
「…………かあさま…………」
 パールフェリカの瞳孔がぐらぐらと揺らぐ。
 体まで揺れて、足元に置いてある“うさぎのぬいぐるみ”の左耳を少し踏んずけた。それでも、口が何かを呟く。
「────………おいて、いかないで………────」
 ────………オイテ、イカナイデ………────
 先ほど酷い寒気がしたかと思えば、今度は激しい熱が体の中心から湧き上がる。
 パールフェリカの息が次第に荒くなる。さすがにエステリオも気付き、パールフェリカの正面に中腰で立ち、肩を掴んだ。
「パール姫様!?」
 パールフェリカの様子を見て、エステリオが首を小さく左右に振った。
「──これではまるで……“霊”の召喚……降霊術ではないか。……いや……ちがう…………トランス状態に入っておられる──のか!? こちらから飛び越えて、召喚獣・霊達の世界に──!?」



(3) 
 “使い”は、その長大な胴を大きく振り回し、地面さえ抉り取りながら、海をモンスターを、人を薙ぎ倒していく。その頭辺りを狙って大きさに比例して威力の増したフェニックスの熱光線がコーッと走る。それに対して“使い”は巨大な牙がびっしり生える口をがばっと開き、火炎を吐き出す。同時に鼻からは黒煙が立ち登っている。
 ばさりばさりと“使い”の正面に翼を広げ、兵を護るようにその上空でフェニックスは熱光線を巧みに操る。短いものをいくつも吐き出し、ホーミングレーザーのように“使い”を追いかける。対象は巨大なので当たりやすいが、その硬い濃紺の鱗はダメージを受けている様子が無い。フェニックスのレーザーミサイル、弾幕の隙間を縫ってティアマトが機動性を最大限活かし、“使い”に近寄る。外装が硬いなら、目──基本だ。
 ティアマトは、熱光線をかわし、火炎ブレスを吐き終え、自身の黒煙で視界を悪くしている“使い”の正面へ回り込み、滑らかに大きく口を開くと、ガガガッガガガッと先の尖った礫のようなものを何十本何百本と吐き出した。一つ一つは人の振るう大剣、バスタードソード級の大きさだ。
 礫は“使い”の顔面を襲い、両目にそれぞれ10本以上突き立った。
 しかし、一度の瞬きで全て落ちる。穴の開いた瞬膜はどろりととろけ、涙のようにこぼれる。その傍から、新しい瞬膜が生まれている。
 感情があるのか無いのか、どこから聞こえているのかわからない低い──例えるなら腹の虫の音のような──不吉な音が辺りを満たす。
 ティアマトは顎を上げ、羽ばたき、軽く上昇した後、後退する。
 “使い”はフェニックスを、その向こうに居るネフィリムを睨みすえ、大きく息を吸い込む。海水が巻き上がる。歯の隙間から黒煙と炎が溢れ──その喉の奥からエネルギーの塊が吐き出された。


 これだけ離れていてもわかる。“使い”のこれまでに無い超巨大火炎ブレス──この焦土全てを焼き尽くしてしまいそうだ。
「──っ」
 呻いたネフィリムはこちらを振り返るフェニックスと目を合わせる。
 ──いけ。
 静かに、しかし迅速に声を飛ばした。
 その火炎ブレスが届く前、フェニックスが両方の翼をバサリと大きく広げ、最大長の大きさになる。自らを巨大な、一枚の盾とする。
 シュナヴィッツの眼前、“使い”との間に遮るようにフェニックスの翼が割り込む。ティアマトは高度を下げ、さらに砦側へと退く。
 燃え盛る体と、“使い”のブレスがぶつかり、弾ける。
 ──空が赤く、オレンジに染まり、輝く。
 爆発は目を開けていられない程の光と、吹き抜ける熱風を辺りばら撒く。
 本来の“使い”の火炎と熱風を、フェニックスが抑え切れなかったものが溢れてきているのだ。焦土に居たガミカ兵も、モンスターすら、この空を埋め尽くす巨大なブレスからは免れ、あらかた無事であった。
 低空に移動していたシュナヴィッツは砦側に避難していた。眩い空に手をかざし、“使い”と“炎帝”を見守る。
 火炎ブレスとフェニックスの燃え盛る体がぶつかりあい混ざり合い──両方が大気に消えた。
 相殺をしたのだ。
 シュナヴィッツはティアマトの頭を返して、砦屋上を振り返った。
「──兄上!」
 遠く、ガクリと膝をつくネフィリムが見えた。そちらへティアマトを操る。


「……に、にいさま……!」
 遠くからシュナヴィッツの声、さらに近くからパールフェリカの声が飛ぶ。
「兄上!」
 上空までやって来たティアマトからシュナヴィッツの声が降ってくる。
 ──フェニックスは消滅した。フェニックスが持つ本来の耐久度を超えるダメージに、召喚士の作り出す召喚獣の実体が消滅したのだ──強引な、外側からの解術。そのダメージは召喚士に比率で返る。
 ネフィリムはくらくらする頭を抑え、膝を立て空を見上げ叫ぶ。その空にはシュナヴィッツが居る。
「気を抜くな! あちらも消耗は大きいはず、手を休めるな!」
 シュナヴィッツは頷き、再び“使い”へティアマトを飛ばす。
 パールフェリカはよろよろとエステリオから離れ、ネフィリムの傍に来ていた。同時にエステリオも駆け寄る。
「ネフィリムさま!」
 あの火炎ブレスで、パールフェリカのトランス状態は解けている、だがどこか熱っぽい眼差しでネフィリムを見上げる。
「にいさま……」
「ああ……大丈夫だから、さがっておいで。大人しくしてるんだよ」
 言葉は優しくそう言うが、顔でわかる。
 パールフェリカはすぐに退った。
 ──今、邪魔だと言われたのだ。
 ネフィリムは再び立ち上がると、ぶつぶつ唱え、先ほどと同じ程のサイズのフェニックスを召喚しなおした。さすがに肩で息をしている。召喚するだけで、これだ。“使い”の火炎を押し返すのに力の大半をもっていかれた。あちらも同じ程度には、ダメージを受けていてくれるといいのだが──ネフィリムは“使い”を睨む。
 “使い”の鼻からは黒い煙のような呼気がふしゅふしゅと小刻みに溢れ出ていた。息が、上がっているらしい。
 そこへシュナヴィッツのティアマトは襲いかかり、再び召喚されたフェニックスが援護弾幕を張り巡らせる。
 ──体力勝負のように見えて、これは……。
 ネフィリムが無い打つ手のどこに勝機を作り出すか思案していた時、見張り兵が走って来て報告を一つ持ってくる。
 それにネフィリムは大きく眉間に皺を寄せる。
 シュナヴィッツの要請でリディクディが行くはずであった王への伝達を任されていたクーニッドの長老マルーディッチェと、ネフィリムがこの砦から魔法陣の件について王へ報告に行かせていた護衛騎士レザードが、大国プロフェイブからの援軍とともここへ来るのだという。
「──プロフェイブから? アンジェリカ姫か、余計な事を。こんな事で借りは作りたくない──」
 ネフィリムは苦いものを口に含まされたような顔をした。
 ──国の、大陸の存亡にも関わりかねない“使い”の来襲を、こんな事と、ネフィリムは言った。


 巨大ブレスに驚いて一度我に返ったパールフェリカだったが、一度退ると再びあの眩暈が波のように襲い来る。パールフェリカ自身は、この状況に正気を保っていられないのだと思い込んでいる。そんな自分に精一杯渇を入れながら、心の内でミラノの名を呼び続ける。
 見上げればフェニックスの熱光線と“使い”のブレス、そして攻撃のチャンスと見てはその懐に飛び込むティアマトの姿。砦の下は押し寄せるトロルやらオーガやら、闇の眷属とガミカ兵と召喚獣が剣を牙を打ち鳴らしている。
 正面を見れば、背筋を伸ばしながら、額に汗が流れる兄ネフィリムの姿がある。ほのかに開いた口から荒い息がわかる。眉間の皺は取れそうに無い。
「……こわい……」
 パールフェリカは傍に居るエステリオにも聞こえないような小さな声で呟いた。



 先ほどから焦土を、周囲を見回していたパールフェリカが、ぶつぶつとなにか言っている。
「パール姫……?」
 つい先ほどのトランス状態──人としての意識を保ち、召喚術を行使する状態を一歩飛び越えて、召喚獣や召喚霊の居るとされる“霊界”へ意識を投げ出し直接語りかける──であったパールフェリカをエステリオは心配している。トランス状態は一歩間違えば意識を持っていかれ、残った体は魂を失って、つまり死ぬ。
 トランス状態になれば、日頃は呼びかけても声が届かないような霊にさえ繋がる。
 パールフェリカの体がまた、ぐらりと傾げる。
 エステリオは、パールフェリカの小さな体をとっさに支え、膝立ちで抱きとめた。パールフェリカはエステリオにぐったりと寄りかかったまま、ぶつぶつと何か呟いている。
「──イカナイデ……オイテイカナイデ……」
 パールフェリカの脳裏には、羽虫のように、ノイズまじりに“神”の魔法陣から溢れていたあの声が聞こえている。
 ──ワタシヲ……ヒトリニ……──
 そう、私を──
「──私を……一人に……しないで……──」
 そして、パールフェリカの握り締める、床に転がったうさぎのぬいぐるみが白い魔法陣で包まれる。
 パールフェリカの虚ろだった瞳の片方に──唐突に意識の光が戻る。
「私は、こっち──!」
 半分をトランス状態にしたまま、パールフェリカはエステリオを押しのけ這い出し、“使い”へ小さな体を向け、冷静な声で叫ぶ。
「──こっちよ! ミラノ!」
 そのはっきりした意志の宿る大きな目をさらに見開いて、“使い”の目をギラリと睨んで手を伸ばした。
 パールフェリカの深い蒼い瞳と、“使い”の黒光りする紺色の瞳が、正面からぶつかる。
 パールフェリカは一度奥歯を噛み締め、顎に──言葉に力をこめる。
「──お前になんか──渡さない──!!」
 ハッキリと、強い口調でそう言い切った。
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