召喚士の嗜み【本編完結】

江村朋恵

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【1st】 Dream of seeing @ center of restart

“みーちゃん”の行方

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(1)
 モンスター達は空高く飛翔し、さらに上空へ逃げた。
「あれだけ高いなら、いけそうだ」
 ネフィリムが会心の笑みを浮かべた。
 どういう意味かと問う前に、ネフィリムはフェニックスに駆け寄り、その体の中へ飛び込んだ。あっと思う間もない。フェニックスの体の中へ透けて入ってしまった。
 しかし、熱そうな様子も無く、火の鳥の腹の辺りに悠々と、悠然と椅子に座るような姿勢をとった。椅子など無いのに。燃え盛る火炎の中、フェニックスの顔が腹の中のネフィリムをじっと見つめる。ネフィリムは微笑みながらそれを見つめ返している。それはほんの数瞬。
 フェニックスがその巨大な翼を一度大きくばさりと広げた。火の粉が舞い散るが、それは熱くなかった。何度か羽ばたいて真上へと飛び上がる。
 フェニックスはワイバーンらを熱光線を飛ばしてなぎ払い、木々よりさらに上空、大空には火花が散るのだった。


 “人”のミラノが加わってからの戦闘は1時間余りだったが、今はもう巨城エストルク上空に翼を広げるフェニックスを見上げるのみ。
 その威容は凄いの一言に尽きる。
 敵ワイバーンは最早撤退ムードで、逃げ遅れているものは片っ端からフェニックスの熱光線でぴーっと焼かれて炭と消えている。それでもフェニックスはこの真上からは動けない──聖火維持という名目だろう、動かない──ので、射程内の敵を上に捕らえて、自身はやや下に位置を取り、空へ向けるように熱光線を撃っている。
 華やかでしなやかな羽ばたきは、展開すると100メートルを超えるのではないだろうか、炎をばらまくような羽ばたきなので、シルエットが固定せずしっかりとは計れない。ばらまかれる炎は決して木々に引火するような事は無かった。
 まだ歩兵隊が瀕死の状態で地上をうごめくワイバーンのトドメを刺してまわっているとはいえ、大空で神秘的に羽ばたくフェニックスの様子に、城下町から広場、城内の人々にはには完全に勝利ムードを感じ始めていた。
 実際、ミラノの背後、聖火を護る男らもやんややんやとハイタッチなどしながら安堵と喜びに満ちている。
 ミラノもそれを眺めて、ほっと一息ついた。柵の傍に転がっている“うさぎのぬいぐるみ”を拾い上げてパンパンと埃を払った。
 “人”にされた時は心底どうしようかと戸惑ったが、何とかなってしまうと自然顔も綻んだ。
 そこへ、ふぁさりふぁさりと柔らかな風の音がした。
 あれだけの戦闘をしながら、汚れもせず白銀に輝く鱗を煌かせる、ティアマトが前方上空から近づいてくる。
 ドラゴンと言えば爬虫類の親玉のようなイメージを少なからず持っていたミラノは、それを間近に見て、考えを改めさせられた。
 呼吸をしているのかゆったりと上下する体、それによって角度が変わる鏡のように光を照り返す鱗。見下ろしてくる大きな目は静かで、知性すらはっきりと感じられる。その金色の瞳はあまりに温かい。ものをしゃべりそうなものなのに。獣だというのなら、人語を解さない、のだろう。穏やかで高潔、清浄な姿。
 ミラノは柵の傍から聖火台──聖火自体は真上で燃えているフェニックスである──まで、後ろ歩きで下がった。羽ばたきに風が舞い上がるので、片手でスカートを、片手で肩甲骨の下辺りまで降りてしまった黒髪をゆるくまとめて首の横あたりで手で絡めて押しとめた。
 やがてティアマトが屋上に着地、羽ばたきをゆっくりと収めた。風も止み、ミラノはスカートを押さえていた手を髪へ移し、軽く手櫛を通した。
 ティアマトの首の裏、翼の根本より少し上、肩の辺りだろうか、鞍からシュナヴィッツが屋上にひょいと飛び降りてきた。着地の時には鎧ががちゃりと鳴った。
 シュナヴィッツは、ゴーグルを外し、兜を取ってそれら脇に抱えながらミラノの前にツカツカと歩み寄ってきた。疲れている足取りではないようだ。
 相変わらずしゃきっと立つミラノの正面1.5歩の距離でシュナヴィッツは足を止めた。なんとも微妙な距離だ。
「……ミラノ」
 汗でまっすぐの亜麻色の髪が額や頬に張り付いているようだ。唇に髪を噛んでいる。ミラノは一歩前に出て手を伸ばし、自分より高い位置にあるその口元へ寄せた。
「髪、噛んでるわ」
 そう言ってそっと人差し指で亜麻色の髪を避けてやる。シュナヴィッツはひんやりとした指先に頬を小さくびくりとさせた。
 持ち主の元へ戻るその手を、厚手のグローブに覆われたシュナヴィッツの手は捕らえ、ぎゅっと掴んだ。ミラノの手はすぼまって親指の先が薬指の第一関節辺りに押し当てられた。シュナヴィッツの手はグローブ越しにもかなり温い。
「…………」
 濁りの無い澄んだ淡い蒼色の瞳がミラノを見下ろす。この熱量──たった今まで戦っていた、というだけではない熱気──を、ネフィリムが居たらくくっと笑うのだろう。
「……なに?」
 真っ直ぐ漆黒の瞳で見返して、ミラノは言った。
「いや……」
 シュナヴィッツはそう言って手を離し、目を逸らした。
 つい髪を避けてやった事を、ミラノは少し後悔した。わかりやすすぎてこちらの方が困る。
 ──わかっている。こういう場合、こういう男はまだ、自分で気付いていない。だからどうしたってバレバレなのだ。やれやれと、ミラノは思う。自分は45日以内に帰らなければならない、愛着を持たれても困る。吐き出したい溜息は我慢した。
 惑うように視線を下げた時、どこかに落としたのか、捨てたのか、シュナヴィッツの背にあった盾がなくなっている事にふと気付いた。
「──……」
 シュナヴィッツの腰周りには昼前に見たようなジャラジャラとした装飾はほとんど無く、刀や短刀が挿してある。微妙にその太さが異なる太めの皮のベルト3本がそれらを留めている。その少し上、右腰やや後ろ。鎧の隙間3cmほど、生地の硬そう布地が裂けている。血痕を、見つけた。
 細い傷。
 小さく、ミラノは息を飲んだ。日本、というよりこちらの人々が“異界”と呼ぶ自分の世界でのワイバーンの伝承を思い起こしていた。細い尻尾のギザギザには猛毒があった事を。傷の周辺はすぐに麻痺させられ、その毒を受けた者は気付かないという──。
 ミラノはシュナヴィッツを見上げる。
「そのドラゴン、乗せてもらえますか?」
「ティアマトか? 今は汚れているから」
 これで汚れているのかとミラノは思った。充分きらきらと輝くほどに美しいのに。ふと、シュナヴィッツの口の端に照れ笑いのようなものが見えた。
 ──この人、勘違いを。
「空の散歩だとか、したいわけじゃないわ。3階バルコニーへ連れてって。急いでいるの」
 ミラノはいつも以上に淡々と言った。
「……ああ」
 シュナヴィッツは頬をひくりと引きつらせ、ティアマトの背に乗ると手を伸ばしてミラノを引き上げた。
 ミラノは鞍の前に横抱きに引き寄せられる。鞍には掴めるように棒がある。太いベルトも何本か垂れている。これで体を固定していたのだろう。が、それはそのままにシュナヴィッツはミラノの眼前、腕を伸ばしてティアマトの首を軽く撫ぜた。それだけでティアマトはゆっくり羽ばたく。大きく隆起する背の、慣れない揺れにバランスを崩しそうになって、ミラノは抱えてくれているシュナヴィッツの腕に体重を乗せるしかなかった。
 重そうなティアマトだが、ふわりと風に乗り、軽やかに柵を超えて空に舞った。
 3階のバルコニーは広い事もあって、ティアマトごと降りられた。ティアマトは一度動きを止めた後、頭をぐっと下げてくれた。これなら飛び降りれるとミラノが思っていると、シュナヴィッツが先に飛び降りた。彼は下からティアマトの体に足をかけ、ミラノに手を伸ばしてくれた。
「降りれるか?」
「大丈夫です」
 そう言いつつも、これを無視するのも失礼だと思い、シュナヴィッツの手に自分の手を預け、ミラノはそっと飛び降りた。パンプスのつま先がほんの少し痛かった。支えなく降りたなら、もっと痛かったのかもしれない。
 椅子やスピーチ台がここに置かれて式典が催されたのはほんの数時間前の話だ。奥に入ると広間で、そこはテレビで放送されるような広々としたパーティ会場、結婚式場サイズのようだった。家具の類は無く、豪奢な絨毯が敷いてある。天井は高く、大小のシャンデリアがいくつも垂れ下がっていた。
 ──人が居ない。
 広い部屋をまっすぐ駆け抜けて廊下に出ると、パールフェリカを抱えたエステリオがいた。その横に初めて見る、小柄で初老の男が座っていた。青白い割烹着に似た服を着ていて、生地の薄いベレー帽のような帽子を被っている。廊下に出たミラノをシュナヴィッツがおしのけた。
「パール! トエド、パールはどうしたんだ!?」
 シュナヴィッツが駆け寄り、しゃがみ込んだ。
 広間からの扉は開けたままで、ティアマトが乗り込んで来ていて、こちらを覗いている。どこか愛らしい仕草のように思われた、巨大だが。
 エステリオが抱えるパールフェリカ、その隣にトエドという男が居り、正面にシュナヴィッツが両膝をついてパールフェリカを見ている。ミラノはその後ろで中腰になってパールフェリカを見下ろした。黒い髪がさらりとこぼれて、シュナヴィッツの亜麻色の髪と混ざる。
「──パール」
 ミラノの声に、エステリオの腕の中、ぎゅっと瞑っていた目をパールフェリカは開いた。
「……ミラノ……」
 か細い声でミラノを呼んだ。真っ青な顔をしている。
「ムリをしないで……?」
 先ほど謁見の間で“人”になった時も言った言葉だった事を、ミラノは思い出していた。


 ミラノはトエドとシュナヴィッツの間に割り込み、額をパールフェリカの顎の辺りに近づけた。息吹がパールフェリカの顔にかかる。
 ミラノのその表情はあまりに優しくて、切ない。
 きっとミラノは気付いていない。召喚主と獣の間には、言葉を必要としない強い絆が生まれる。魂と魂を強く結びつける何か。だから、ミラノがこうしてそっと近寄る事も、彼女にとっては無意識の行動なのだ。きっとその感覚をミラノは、儚げに微笑む年下の少女を、守ってやらなければと思っているはずだ。その程度の自覚だろう。
「みんなは……」
 パールフェリカが問うと、ミラノは顔をあげて微笑んだ。無表情が標準だと思われていたのに。
「もう大丈夫、安心していいわ」
「ミラノ、ありがとう……」
 ミラノはこの衰弱ぶり対して一つの見当をつけている。
「いいえ、貴女がみんなを助けたの、貴女の力よ」
 ミラノの言葉に、パールフェリカは花がそっと開くように微笑んで、そして気を失った。


(2)
 トエドと呼ばれた小柄の男は、ミラノとその奥に居るシュナヴィッツに体を向けた。
「召喚術による消耗が激しいようです。一日か二日も休まれたら元に戻られるかと」
 トエド──エステリオが何度か口にしていた“トエド医師”という名前をミラノは思い出していた。城へ帰ってすぐ彼女はトエド医師にパールフェリカを診せようとしていた。
 ミラノはゆるりと首を回して、トエドを見た。
「あなたが、医師?」
「はい、トエドと申します」
「そう。パールは大丈夫なのね。──では……」
 ミラノはそう言って横に居たシュナヴィッツの腰辺り、鎧との間の上着のをばさっと無遠慮に持ち上げた。
「これを、急いで診て欲しいの」
「おい!」
 シュナヴィッツは慌ててその厚手のシャツを下げる。が、トエドがそれに飛びついて引き上げる。ミラノはトエドとシュナヴィッツに挟まれて身じろぎした。
「これは……水を!」
 ミラノを挟み込んでる事に気付く事もなく、トエドは近くに居た彼と似たり寄ったりの格好をした青年に半ば叫ぶように言った。ミラノの事はもうトエドの目には入っていないらしい、さらにドンと押されてシュナヴィッツに激突してしまう。頭をその肩あたりに押し付けられる形になって「ごめんなさい」とミラノはシュナヴィッツにさらりとした小さな声で言った後、身を後ろへ下げた。トエドとシュナヴィッツの間から抜け、床に手を付いて立ち上がり、ティアマトの居る広間に近い扉の方へ1歩さがった。
 トエドは廊下の壁側に立てかけていた大きな黒い鞄をがばっ開き、小瓶やら注射器やらを取り出している。
 シュナヴィッツが眉間にしわを寄せた。
「トエド……?」
「シュナヴィッツ殿下、このような場所で大変失礼ではございますが、うつぶせて横になってください」
 かろうじて、タオルらしき布を廊下に敷いた。
「なんで僕が──」
 言いかけるシュナヴィッツをミラノが睨んだ。既に例のモデル立ちである。
「怪我をしているわ、細く、深く。──ワイバーンの尾に、触れていない?」
 ミラノがそう言った瞬間、シュナヴィッツの顔から表情が消えた。
「大人しくしている事ね」
 そう言ってミラノは、ティアマトを見上げた後、パールフェリカを抱えるエステリオを見た。
「召喚士は、召喚している間も消耗をするの?」
「はい。召喚をする際、召喚している間、返還する時、それぞれ消耗を強いられます」
 ミラノはティアマトの金色の瞳と目を合わせる。ティアマトは小さく頭を前に倒した。そして、そこに闇色の魔法陣が生まれ、瞬時にティアマトが飲まれ、姿を消した。
「何をした!?」
 横になりかけていたシュナヴィッツが腕立ての姿勢のままで叫んだ。
「還しただけよ、戻すのにも力がいるのでしょう?」
 その場に居た全員が、閉口した。
「人の召喚を、還すだなんて……初耳です……前代未聞すぎます」
 エステリオが呟くように言った。
「ミラノ……お前本当に、何者なんだ……なんでそんな事が」
 驚愕した様子でシュナヴィッツがミラノを見る。片眉を下げている。ミラノの正体がわからない。“獣”でない、“霊”でもない、“人”ですら無いような気が、してきたのだ。それに対してミラノは、黒の瞳を一瞬泳がせた。溜息は、吐き出されはしなかった。
「本当に、私が一番わけがわからなくて困っているんだけど……なんだか色々と……」
 ミラノはそこで言葉を区切って、疲れたと言う風に視線を床に流した後、首を緩く捻って目を細めて──ぷっと吹き出すように微笑った。何か自分自身に呆れているような、しかしどこか突き抜けていて、ほのかに爽やかな表情をして、言う。
「やれば出来るものね」
 男ならドキリとするような、鮮やかな印象を残す笑みだった。
 シュナヴィッツの脳裏には、ミラノが“うさぎのぬいぐるみ”の状態の時、その柔らかい足で顎を蹴り上げてきた事がよぎった。あの時は無表情の“うさぎのぬいぐるみ”でわからなかった。けれど、こういう風に笑って言っていたのかもしれないと思い直して、ミラノを見つめていた。が、その瞳はゆっくりと閉じられていき、腕立ての姿勢だった体ががくりと床に落ちた。
「──何をしたの?」
 ミラノは再び無表情に戻りトエドに問う。
「戦闘の直後ですし……横になる前、鎮静剤を飲んで頂きました」
「傷はやはり……?」
 トエドは絨毯が水浸しになるのも構わずシュナヴィッツの傷口をピンセットにガーゼを何度も取り直して洗っている。水であらかた洗い流すと、つんとした臭いのする薬瓶から色の付いたガーゼを取り出し、また何度も傷口に当てている。
「ワイバーンの毒です、ミラノ様と、おっしゃいますか、よくぞ気付いて下さいました。ワイバーンの尾の毒は、傷を付けながら麻酔効果も植えていきます。この攻撃を受けた者は、気付くことなく、戦闘中、突然息耐えてしまうのです。間に合って良かった……本当に良かった」
 基本的な処置は済んだのか、ほうと体から力を抜くように、シュナヴィッツの横にトエドはしゃがみ込んだ。
「処置は?」
「敵がワイバーンという事は伺っておりましたので、特効薬は用意してございました。それも処方させて頂きました」
「そう、ならば後は様子を見ながら安静にさせておけばいい、といったところかしら?」
「はい」
 言いながら、ミラノはなんだか随分と偉そうな自分がある事に気付いた。これは良くない、自重しようと思いつつ、なんだか今更低姿勢になるのも変だな──何せ自分はただの召喚獣だ──と思ってとりあえずそのまま変に偉そうなミラノ像で行くことにした。
「……パールの具合は──まだ、もつかしら?」
 ミラノは、自分が“人”の姿である事がパールフェリカの負担になっていないかと問うている。
「1時間程度でしたら、今とそう変わりはありませんよ」
 これにはトエドではなくエステリオが答えた。召喚士として、召喚術による消耗の疲労度は心得ているといった様子だ。
「そう、ならばパールを部屋へ連れていきましょう、廊下というのも衛生的ではないわ。シュナヴィッツさんはトエド先生達にお任せしてもよろしいかしら?」
「かしこまりました。シュナヴィッツ殿下は私どもが責任持ってお部屋までお連れし、処置を続けます」
「お願いしますね。エステルさん、私はパールの部屋がわからないの、一緒に付いていっても?」
「はい、一緒に来て頂けると助かります」
 エステリオはパールフェリカをお姫様だっこで抱え、先を歩いた。
 ミラノは“うさぎのぬいぐるみ”を片手にその後ろをかつかつと歩いたが、一瞬眩暈を感じて、廊下の壁に手をついた。緩く頭を振るとすぐ持ち直したので、エステリオの後を追った。疑問には思ったが、ただの疲れか、空腹と感じないでも食事を摂った方が良い合図か、いずれにしろ日頃通りの眩暈だろうと無視をする事にした。女として生きていれば、軽い眩暈などちょいちょい経験する事だ、大きな問題ではない。
 部屋へ戻ると、侍女らが一斉に集まってきた。本日2度目だ、パールフェリカは倒れた状態で寝室へ運び込まれた。エステリオは後を侍女らに任せ、ソファの側に居るミラノに言った。
「ミラノ様、そのお姿なのですが──」
「ちょっと待って」
 ミラノはエステリオを止めると、ティアマトを戻した時のように、自分も“うさぎにもどれ”と念じる。すると黒い魔法陣が現れ、ミラノの姿を一気に飲み込み、消えた。ぱさりと床に落ちた“うさぎのぬいぐるみ”の耳が、ひくっと動いた。エステリオがびくっと1歩後ろにさがる。
「お待たせしました。パールの体調のことですよね、これで大丈夫だと思うのですが」
 “うさぎのぬいぐるみ”は立ち上がりながら言ったのだった。人型“ヤマシタミラノ”を召喚しっぱなしという負荷から、これでパールフェリカも開放されるはずだ。“うさぎのぬいぐるみ”でここに居る事も負担ではあろうが、かえり方も消え方もわからない。人型よりずっとマシだろう。
 エステリオは無理矢理唾を飲み込もうと苦戦している。ようようゴクリと飲み込むと戸惑いを隠せないまま、口を開く。
「え……ええ…………。ミ、ミラノ様は一体……先ほどティアマトを還したのも、あれは召喚士の術なのに……他人の獣を返す術なんて聞いた事もありませんし……。なぜ、召喚獣であるミラノ様が使えてしまうのですか……??」
「そう言われても……だから……」
 困惑したように呟いた後、ミラノはやや辟易としてきた。だから私が聞きたいと、言いたいところなのだ。ミラノは淡々と言う。
「やれば出来た、それだけよ?」
 そして、ふいと窓の方を向いた。これ以上の詮索には答えない、そういう意思表示である。
 窓から外を見ると、空に大きなオレンジの翼が見えた。かなり上空だ。
 オレンジから赤に燃え上がるその火の鳥は、ごく普通の鳥と比較すると、とんでもなく巨大だ。あの大きさなら、街の人々にもよく見えている事だろう。
 それが、容易くワイバーンを焼き殺していく。
 慌てて逃げるワイバーンをあらかた追い払うと、フェニックスは屋上へと降りてくるようだ。
 この巨城エストルク屋上の聖火台上空からは離れられない、あれは上下には動き回ってはいるが、本来台座にあるはずの聖火そのものなのだから。
 窓に張り付いて見上げていた“うさぎのぬいぐるみ”のミラノは、屋上を、この角度から見えなくなるまでフェニックスが降りてくる様子を見守った。
 ──……もう、大丈夫そうね。
 ほっとした瞬間、窓にもたれかかったまま“うさぎのぬいぐるみ”はずるりと、床にすべり落ちたのだった。
 パールフェリカにとっては侍女の中でも姉のような存在であるサリアが通りかかり、“うさぎのぬいぐるみ”に気付いて拾い上げた。
 “うさぎのぬいぐるみ”は眠っているような様子もなく、以前までのただの“ぬいぐるみ”だった頃と全く同じ物のようにサリアには思われた。軽くゆするが一切の抵抗が無く、耳がゆらゆらと揺れた。
 一度首を捻りはしたものの、サリアは“うさぎのぬいぐるみ”を寝室へ持って行き、パールフェリカの横に並べたのだった。


(3)
 唐突に、ふうっと意識が戻ってきた。
 ほんの少しの気だるさが体を引っ張っていて、起きようという気を奪う。
 見慣れた、白地に赤と金と濃紺の糸を主に使った刺繍のある天蓋、その天井が見えた。蝶だか鳥だか、不思議な形で数珠繋ぎに描かれている。それの数をぼんやりと数えた。何個あるかなんて、もうとっくに知っているのに。
 ごろりと横向きになると、いつものように“うさぎのぬいぐるみ”が真上を向いて転がっていた。3ヶ月ほど前、シュナヴィッツが連れてきた人形師に作ってもらったのだ。パールフェリカのリクエストは、「シンプル」で「頑丈長持ち」で、「絶対になくならない」事。
 パールフェリカは腕を伸ばし、引き寄せてぎゅっと抱きしめた。
「……………………」
 しばらくそのままだったが、次第に頭がはっきりしてきた。今何時なのかだとか、ワイバーンの襲撃はどうなったのかだとか、色々と考えられるようになってきた。そして。
「……あれ?……」
 言ってから、“うさぎのぬいぐるみ”の顔を覗き込んだ。
「“みーちゃん”……?」
 上半身を起こして“うさぎのぬいぐるみ”の両脇に手を入れ持ち上げて上下にゆすった。
「…………あれ?…………え?…………」
 そして、きょろきょろと周囲を見渡し、“うさぎのぬいぐるみ”をベッドに投げ捨てて飛び降り、部屋の中を走り回る。
「……え……」
 寝室から飛び出た。
 奥、楽器やらを置いている辺りには大きな窓がある、そこから光が差し込んでいる。鳥のぴちゅぴちゅという声が聞こえる。早朝らしい事はわかった。が、パールフェリカは誰も居ない自分の部屋をドタドタと走り回った。
「うそ…………なんで…………?…………どこ!?」
 無駄にソファの上の掛け布を放り投げ、椅子を蹴飛ばした、そんな所は探すべき場所じゃない。
「……やだ…………どこ…………?……ミラノ!」
 涙声になっていた。


 侍女らが来て着替えた後、パールフェリカはしょぼしょぼと朝食をとった。それからすぐ、シュナヴィッツが部屋にやって来た。
 パールフェリカはソファに一人腰掛けている。部屋の内側の入り口にはエステリオが立っていた。
「パール、大丈夫か?」
「シュナにいさま、おはようございます!」
 パールフェリカはすたっと立ち上がると、入り口から入ってきた兄の下へ駆け寄った。昨日の昼に来た時と似た、紫の衣服を身に纏っている。が、腰のジャラジャラとした装飾具がいつもより少なく、刀は腰に佩かず、手に持っていた。
「にいさま! にいさま!」
「なんだ?」
「ミラノを見てない? いないの」
「……? お前の召喚獣なのだから、召喚していたらどこにいるかわかるだろう?」
 召喚士と召喚された獣あるいは霊の間には、目に見えぬ強い糸で繋がれていて、召喚士側からは、召喚されたものがどこに居るか容易く掴めるという。召喚獣、召喚霊との間のこの絆は、召喚士としては常識中の常識。しかし位置把握も何も、召喚士と召喚獣が別行動をするのは、本来稀だが。
「んー……」
「召喚は解いたのか?」
「んーん……返還術、成功しなかったし」
「そういえばそんな事を言っていたな」
「失礼致します」
 エステリオが歩み出た。
「ミラノ様は昨日ご自身で“みーちゃん”に戻っておいででしたが、パール様、“みーちゃん”はどうされたのですか?」
「は? ……いや、あり得ない……とは、言えないか……」
 シュナヴィッツの呟きをよそに、パールフェリカは兄からぱっと離れて寝室へ走った。パールフェリカが寝室の扉から飛び出して来た時には、シュナヴィッツはソファに深く腰を下ろしていた。召喚獣は召喚士に返還術を施されて始めて元の場所に還る、それが常識中の常識である。
 寝室の扉の前で、パールフェリカが“うさぎのぬいぐるみ”を両手で前に突き出した。
「いないの」
 “うさぎのぬいぐるみ”の手足は反動でぷらんぷらんと三度程、耳は一度たるんと揺らしただけだった。首は頭が重いので若干斜めになった状態で下を向いている。
「ミラノは自分で還ったんじゃないか、もう一度召喚してみたらどうだ?」
 他人の召喚獣を還すなどという荒唐無稽の事をやってのけたのだ、自分で勝手に還る召喚獣かもしれないじゃないかと、シュナヴィッツはやや投げやりに思ったのだ。
「うん……やってみる」
 そう言ってパールフェリカはシュナヴィッツの腰掛ける向かい側のソファに“うさぎのぬいぐるみ”を寝かせてから、すぐ横に移動して、両足を少し開いて構えた。初召喚とそれ以降の召喚や、召喚士自身の能力や流派で術式ややり方が多少異なる。パールフェリカは脇を広げ、胸の前で両手を合わせた。ぴったりと合わせたのではなく、指の先だけを合わせ、手首の辺りは拳一つ分開いている。両手の平の間には卵1個がすっぽり収まりそうな形だ。そして「んー」と口を尖らせ目を瞑った。
 しばらくして、真剣な面持ちでゆっくり目を半分開き、ぶつぶつと呪文を唱える。
 ふわりと、絨毯の上、パールフェリカの足元に白い魔法陣が浮かび上がる。


 30分程して、ネフィリムも姿を見せた。
「シュナ……なんでここにいるんだ……お前は」
 呆れつつも少し笑っている。ネフィリムはその笑いを無理矢理殺して厳しい顔をした。
「起きれるようになったんなら、いや、いずれにしても、父上への報告が何よりも先だと、何度言わせるんだ? 昨日もウェティスから到着して、先にこっちに来ていただろう?」
 ネフィリムはめっと言わんばかりだ。ウェティスとは北の要所サルア・ウェティスの事で、シュナヴィッツが配属されている砦だ。
 シュナヴィッツは昨日からパールフェリカの生誕式典ドラゴン編隊の空中演舞の為と一時的に戻っていただけにすぎない。
「それは……気をつけます」
 シュナヴィッツはついと視線を逸らして言った。
 パールフェリカは相変わらずソファの横に立っていたが、ネフィリムの視界に飛び込み、すがるように見上げた。
「──ネフィにいさま、ミラノが居ないの」
 パールフェリカがそう言うと、ネフィリムは「ん?」と近寄り、その頭を撫でた。
「具合はどうだい? お姫様」
「にいさま……!」
 語調を強めたパールフェリカに、ネフィリムがふっと微笑んだ。
「ミラノは、これだろう?」
 そう言ってソファから“うさぎのぬいぐるみ”の耳を掴んで取り上げた。だがすぐに、あまりの抵抗の無さに瞬いた。
「ただの、ぬいぐるみなの。“みーちゃん”は」
 “うさぎのぬいぐるみ”からパールフェリカに視線を移してネフィリムは問う。
「召喚術は?」
「何度も試したんだけど、声が届かないみたいで……」
「…………やってる事が……持っている能力がデタラメで、獣なのか霊なのか、存在もむちゃくちゃだったからな。よっぽど高位の“神”か“獣”か。とにかく今までよばれた事のない何かなのだろうね」
「それは、パールの力が足りなくて、初召喚以外の召喚に反応してもらえていないという事ですか?」
 シュナヴィッツがソファに腰かけたまま問う。
「それ以外考えにくい」
 ネフィリムはけろりとした態で言った。間違い無く、この妹は自分達と同じ、“唯一”の存在を召喚している。
「……パール、もう一度やってみろ」
「でも……」
「“やれば出来る”かもしれない」
 シュナヴィッツは、“うさぎのぬいぐるみ”の赤い瞳を見てそう言った。根拠はゼロだが。
「?」
 パールフェリカはきょとんとしながらも頷いた。
「兄上、僕らも手伝う事はできますか?」
「……そんな術、聞いた事もないが」
「僕らもミラノを召喚する術を使ってみるんです。結局は、初召喚で絆のあるパールにしか呼べない存在ですが……」
 シュナヴィッツは至って真面目に“うさぎのぬいぐるみ”を見てそう言った。それを見てネフィリムはにや~と笑ってしまった。シュナヴィッツとパールフェリカには気付かれないようにこっそりと。
 パールフェリカは胸に手を当ててシュナヴィッツを見つめている。
「シュナにいさま、私とミラノの為に…………ありがとう!」
 そう言ってシュナヴィッツに駆け寄りしがみついた。「いたっ……」「あれ? にいさま怪我してるの?」「……大した怪我じゃない」──その、微笑ましいばかりのやり取りにネフィリムはさらにくくくと笑って「いや、本当に兄弟と居るのは楽しいなぁ」と言ったのだった。
 ワイバーンの毒はそんな優しいものじゃなかろうに、朝も早よからやって来て、“彼女”がいないならなんとかしてやれないかと言うし、その真意に一切気付かない妹もまた何とも可愛らしい。
 ぷぷぷっと笑いのおさまらないネフィリムをさすがにシュナヴィッツがいぶかしむ。
「どういう意味です、兄上?」
 シュナヴィッツの肩にネフィリムは笑いを堪えながら手をぽんと乗せた。
「試してみようか」
 そう言ってネフィリムは持ち上げていた“うさぎのぬいぐるみ”を元のソファに転がした。“うさぎのぬいぐるみ”を中心にして、パールフェリカはそのままソファの横、シュナヴィッツもそのまま、ネフィリムは“うさぎのぬいぐるみ”と同じソファの奥隣に腰掛けた。
 パールフェリカはまだ座って召喚術を行える程器用ではない。
 立ったままの姿勢を正したパールフェリカがぶつぶつ唱えだすと、兄二人もそれに追従した。
 白色と金色と緋色の魔法陣がうさぎの下に浮かび上がりギュルっと回る。
 3人が見守る中、魔法陣はしばらくぎゅるぎゅると回っていたのだが──。
「…………」
「…………」
「…………」
 召喚術の呼び出し時間が切れて、魔法陣はふいと空気に溶けるように消えた。失敗だ。
「“やれば出来る”というのは、簡単には当てはまらんか。
 期待をさせて悪かった、パール」
 提案者のシュナヴィッツが謝ると、パールフェリカは目を細めて2度首を横に振って、微笑んだ。
「シュナにいさま、ありがとう」
 ネフィリムはひょいと立ち上がり、シュナヴィッツの肩に手を乗せた。
「試すのは悪い事じゃない。さあシュナ、気も済んだろう? 父上の所に行こう」
 二人が部屋を出て行った後、パールフェリカはエステリオと二人きりになった。
 それからすぐ、パールフェリカはきりっと顔をしかめて召喚術を試す。
 部屋に入り口に居たエステリオが気付いて駆けて寄り、パールフェリカの合わせていた手を両手で包むように掴んだ。
「姫様……ほどほどになさいませ。昨日は2度も、召喚術による疲労で倒れられたのですよ?」
「…………でも……! 今、やめたくないの……!」
 エステリオをすがるように見上げた。
「………………」
「……ねぇ、エステルにはわかる? 自分の召喚獣に、自分の声が届かない、気持ち……」
「……姫様……」
「……にいさまたちなら、わかってくれるかなぁ、また話きいてほしいなぁ」
 ネフィリムがフェニックスを安定した召喚状態を維持出来るようになったのは9年前、彼が16歳の時で初召喚から3年かかっている。シュナヴィッツに至っては2年前、実に5年がかりだ。召喚術を行っても力が足りず、呼び出せず…………身を清め、何日も力を溜めて挑んで、少しずつ召喚士として成長して、ようやっとまともに呼べるようになるのだ。二人とも、“唯一”の召喚獣が相手であったせいで、会得するまで時間がかかった。
 エステリオは、最初から何も考えずに、ごく小さなサイズだが彼女の召喚獣ヒポグリフを呼べていたので、わかってやれないのだ。
「…………姫様……」
 エステリオの声を聴きながら、パールフェリカは長い睫を下げ、深く蒼い瞳を隠した。
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