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その8:シンドリは旅に出る

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 「白状すると、逃げ出そうとしていたのです」

 食後のお茶を飲みながら、シンドリは言った。
 突然の彼の告白に、ブロックルは目をひん剥いて「なんですと?」と言った。

「私の師匠のニケは、失踪するような形で私に店を譲り渡しました。亡くなったという知らせが来て、初めて師匠が引退旅行に出て各地で豪遊をしていたことを知りましてね」
「ふっ……。まさか、それに憧れたのではありますまいな?」
「いや、そのとおりです。私も同じようにフラッといなくなって、旅に出ようと」
「ははははっ、勘弁してくださいよ」
「見て下さい、この手帳を。行き先がずらっと書いてあります。どこへ行って何を食べるとか。この温泉は腰痛に良いとか」

 シンドリが引退旅行を夢見ながら書いていた手帳を見て、ブロックルは吹き出した。つられてシンドリも笑いだし、ふたりは共に大笑いした。

「師匠の真似をして『仕入れに行ってくる』と言って去ろうとしたら、弟子が馬車を買ったから自分が仕入れに行くと言い出しましてね。仕入れにかかる交通費も安く上がるからと、私に行かせてくれないのですよ」

 ブロックルは腹を抱えてゲラゲラと笑っていた。

「それからもう一年ぐらい経ってしまって」
「シンドリ先生、なんなのですか、その面白い話は」
「参っちゃったなーと思っていたら、今日の話ですよ。もう去るどころの騒ぎではないでしょう」
「王都で店をやりながら旅行に出かけたら良いではありませんか。ペドロ君と同時にいなくならなければ良いのですよ」

 ブロックルの言うとおりだった。
 もう店を任せるつもりになっていたのだから、彼を残してたまに旅行をすれば良いのだ。

 「私も弟子を育てています。うちもひとり立ちしたようなものです」と、ブロックルは言った。

「そうでしたね」
「ゆるやかにいなくなれば良いのですよ。我々は不死身ではないのですから、いずれいなくなります。急にいなくなると騒ぎになるので、そおっといなくなる作戦ですよ」
「なるほど。そおっと」
「私が診察して処方箋を書く。たまに私の弟子がそれをやる。シンドリ先生が薬を調合する。しかし、たまにペドロ君がそれをやる。いずれすべて弟子だけでやるようになる。そのとき我々は旅先で美味いものを食べ、温泉に浸かっている。それで良いではありませんか」
「それもそうですなぁ」

 シンドリはまた長い髭を撫でた。

「そこに書かれているクランツ領のグレコルは私も行きたい場所の一つです」
「おお、ここは葡萄酒と肉ですぞ、ブロックル先生」
「昔、出張で行きましてね。出張先が戦場だったので、観光どころの騒ぎではなかったのです。今度こそと思っているうちに年を重ねてしまいました。途中の町にも美味いものがたくさんありますよ?」
「おお、ご一緒にいかがですか? 片道二週間かかりますが、生きている間に行く価値があります」
「望むところです。治癒師が一緒なら安心して旅もできましょう?」
「おお、なんと贅沢な」
「失踪するより、よほど良いでしょう」
「実は一人旅よりも二人旅のほうが、予約などもしやすいのです」
「シンドリ先生、我々は今日から旅の友ですな」
「こうしてはいられない! 計画を立てましょう」
「馬車は私が用意します。陛下から頂戴したグレンデルフィアレがあるのです」
「高級車の旅! なんと素晴らしい!」


 シンドリは今も店に立ち、セッセと薬を調合している。
 時々、神薙の宮殿から豪華な馬車が飛んできて、彼と弟子を乗せて街中を駆け抜けた。
 宮殿に着くと応接室に通され、そこでブロックルと合流して詳しい話を聞くと、大きな会議室を借りて薬を作った。
 行く日が決まっているときは、弟子が操縦する小さな馬車に乗って出向いた。
 車好きのペドロは、オーディンスから振動を極限まで減らす部品についての教示を受け、車を改造していた。おかげで乗り心地は劇的に改善され、年寄りにも優しい車になった。

 シンドリも神薙と直接会って話をする機会に恵まれた。
 ブロックルの言っていたとおり、可憐で朗らかな優しい女性だった。
 神薙の隣には常にオーディンスがいて、優しく愛おしげな視線を彼女に向けていた。

 「私もあと五十年、いや四十年若かったら、彼のように夢中になっていたでしょう」

 ブロックルがワインの栓を引っこ抜きながらニコニコして言った。
 シンドリは笑いながら広場で買ってきたチーズの紙を剥き、ナイフを入れて切り分けた。
 この日は二人とも白衣を着ていなかった。

「さあ、陛下と神薙様からお許しを頂いたことですし。ブロックル先生、いよいよですな」
「まさに。ここ一週間はソワソワしっぱなしでした」

 シンドリが窓から外を見ると、雲一つない真っ青な空が広がっていた。
 この大陸の空模様は、神薙と繋がっている。
 神薙が微笑むと空は晴れ、神薙が涙を流すと雨が降った。

 「微笑んでおられますなぁ」と、ブロックルが言った。
 「我々を祝福してくださっています」と、シンドリは言った。

「それではブロックル先生、ジジイ旅の始まりに」
「乾杯!」

 六人乗りの豪華な馬車で、二人はワイングラスを合わせた。
 約一ヶ月半に及ぶ旅の道中、ただの一度も天気が崩れることはなかった。


 旅から戻ると、シンドリはペドロの弟子を選んだ。
 まだ十六歳になったばかりの幼さが残る新弟子は、勤務初日に鼻息をフンフンと荒くして言った。

「お師匠様! シンドリ大先生を白髪の大魔王と呼ぶ不届き者がおります! 許せませんっ! それもこれも、ここの薬が臭くて不味いからです!」
 
 シンドリとペドロは顔を見合わせて吹き出した。
 「ペドロ、よぉーく教えてやりなさい」とシンドリが言うと、ペドロは「お任せください」と言った。

「いいか、薬は病や怪我を癒すためのもの。美味いか不味いかは二の次だ。ここの薬が不味いのには理由わけがある……」

 シンドリは店先に出て背伸びをした。
 彼が店を出した頃、しょぼくれて閑散としていたネスタ通り商店街は、今では飲食店が多く建ち並び、道具屋や武器と防具の店もある騎士団御用達の素晴らしい商店街になっていた。
 斜め向かいにある南部料理店は騎士に人気があり、時折オーディンスが仲間と一緒に入っていくのを見かけた。

「なかなかに良き人生。今日も素晴らしき天気かな」

 彼が見上げた空は、真っ青に晴れ渡っていた。
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