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第十章 死の病 10-1 POV:ミスト

第201話:非番のメガネ

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 エムブラ宮殿は社会の縮図のような現場だ。
 王と並ぶ神薙がいて、その婚約者の王甥を筆頭にあらゆる身分の人々がいる。

 貴族の屋敷の中は往々にして差別による嫌がらせがあった。貴族が使用人を虐げる場合もあれば、使用人同士のいざこざもある。
 メイド長によれば、ここも初めはそれなりにおかしな使用人がいたようだ。しかし、最初の一か月でそれらはすべて排除されたらしい。

 私が訓練所で度々目にしていた横暴な態度の騎士は一体なんだったのかと思うほど、ここにはマトモな騎士しかいない。
 第一騎士団という組織がすごいのか、それともこの現場の統制が取れているからなのか。いずれにせよ私の騎士に対する価値観は天と地がひっくり返るように変わった。
 ヘルマンを含むここの主要な使用人達は騎士とも仲が良い。

 主の人間性が宮殿全体に影響を及ぼしているとヘルマンは考えているようだ。
 他の使用人も、最近では偉そうな王甥ですら態度が軟化してきていると話していた。
 しかし、よくよく聞けば、軟化したと言っても「お礼を言われた」程度の話だ。根本的な人間性が変わったわけではない。

 王甥は騎士団員や貴族が相手だと身分を問わず友好的に話していたが、平民の使用人はそもそも眼中にない様子だ。
 あのヘラヘラとした気色の悪い微笑みに騙されている者もいるが、修羅場をくぐってきた人間にそんなものは通用しない。
 私達は人を騙す専門家だ。
 使用人の中の一部は王甥に対しては良い印象を抱いていない。

 私はリア様のことは大好きだ。
 生き神とはいえ、驚くほど普通の感覚を持っている。
 努力家で尊敬に値する人だ。
 ただ、どうして夫に王甥を選んだのか、それだけは理解できなかった。
 親しいから肩を持つわけではないけれど、願わくはメガネを選んでほしかったと思う。
 王甥は度々わけの分からない馬鹿げた行動をしてリア様を困らせていた。
 メガネなら絶対にそんなことはしないのに。


 ある日、出かけようとしているメガネを王甥が呼び止め、封筒を渡しながら何かを頼んでいた。

 「お出かけですか?」とメガネに声を掛けた。
 非番の日の彼は、朝、必ず真っ白な愛馬ペール号に乗って出かける。

「いつもどこに行くの?」
「いかつい店主が淹れる美味い珈琲を飲みに。ただ、今日は行けなくなった」
「なんか頼まれてたでしょう」
「王宮の総務にいるツルッパゲに書類を届けることになってしまった」
「書類を出すだけなら代わりに行くけど?」
「いや、団長の代わりに軽く説明もしないといけない」
「それはお気の毒に」
「どの道、今日は免状の更新手続きで王宮にも行く予定だった。ついでに全部やっつけて来る」
「気をつけて」
「リア様を頼む」
「了解」

 この会話を境に、私はしばらくメガネとは直接顔を合わせられなくなった。


 騒ぎは翌日の早朝から始まっていた。
 朝食を済ませて歯を磨き、いつも通り一階のホールへ降りて行くと、なんとなく全体がざわついていた。

 「何かあったんですか?」と執事長に声をかけた。

「どうも騎士団で何かあったようです。まだこちらにまで情報が来ていません」
「へえ。オーディンス様は?」
「そう言えば、まだお見かけしていないですねぇ」
「もうリア様の部屋の前にいる時間ですよね?」

 リア様の部屋がある三階を見上げると、ジェラーニ副団長と思しき人影が見えた。そこに人が集まっている。
 団員が一人、中央の階段を駆け下りてきた。顔なじみの隊長だ。

「ミスト!」
「どうしたんですか?」
「昨日、オーディンス副団長が出かける前に話していたよな?」
「ああ、はい」
「どこに行くとか、誰と会うとか、話していたか?」
「んん?」

 首を傾げた。
 てっきりリア様のところで何か起きているのかと思ったが、何か違うようだ。
 まさかメガネが帰っていないとか?

「王宮に行くと言っていました。団長の代わりに書類を出しに行くと。それで、用件は分かりませんが、何かを軽く説明をすると」
「誰に?」
「えーと……名前は言っていませんでしたが相手は総務の人で、特徴を少しだけ。ただ、あまり良い言葉ではないので、ちょっとアレですけど」
「何と言っていた?」
「言っても問題になりませんか?」
「内々での確認だ。外に伝えるわけではない」
「それなら言いますけど、そのぉ……『総務のツルッパゲ』と言っていました」

 笑うか呆れるか怒るかするのだろうと思っていたけれど、そうではなかった。
 彼は唇をわなわなと震わせながら「ベルージェ様だ」と言った。

「ちょ……何があったんですか?」

 私の問いに彼は震えながら「詳しくは後で話す」と言って、階段を駆け上がっていった。
 私は執事長と顔を見合わせた。
 何か良くないことが起きているのだろうが、それが何なのか想像もつかなかった。

 頭上から名を呼ばれた。
 上を見上げると、ジェラーニ副団長が手招きをしていた。
 階段を駆け上がる。

「何事ですか?」
「アレンがお前を呼んでいる」
「あ、はい。どこで?」
「アレンの部屋の前まで行け。ただし、扉には触るな」
「え?」

 扉には触るな。
 反芻した。
 『扉には触るな』
 どういう意味だ?

 彼の部屋は同じ三階にある。
 よく分からないまま向かうと、騎士団の連絡係が扉の前に膝をつき、メモを片手に扉に向かって頷きながら返事をしていた。

「今、ミストさんが来ましたので代わります! 私は今聞いた話をジェラーニ副団長に伝えて参ります!」
「何事ですか?」
「ミストさん、扉には触れないように話をしてください」
「あ、はい」

 連絡係が走り去ってしまったので、一人になった。
 離れたところではざわついているけれど、私の周りは静かだった。

 クルミ材の扉越し、何を話せば良いのだろう。
 さっきここで人が話していたということは、そのドアの向こう側にメガネがいるのだろうけど。
 なぜ部屋から出てこないのか……。
 嫌な予感が脳裏をかすめたが、それについてはあまり考えたくない。

 とりあえず早朝だし、「おはようございます」と声を掛けた。

「ミスト……」

 下のほうからくぐもった声がした。
 ドアの向こうで、メガネは床に座っているようだ。
 少しかがんで「何が起きてるの?」と尋ねた。

「詳しいことはフィデルさんから説明するが、リア様をここから避難させる。嫌だと駄々をこねたら力づくで連れ出せ」
「う、うそ……それって……」

 体の力が抜けて、廊下に膝をついた。
 嫌な予感は的中していた。

「俺の代わりを頼む。リア様を支えてくれ」
「できるわけない。あんたの代わりなんて誰にも無理だよ」

 なぜ。
 どうして彼が……
 彼は一番報われるべき人ではないの?

 扉の向こうで、死の影がアレン・オーディンスを飲み込もうとしていた。
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