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10-4 POV:ヴィル
第222話:釣りの目的
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しばらくすると、クリスが戻ってきた。
彼は戻ってくるなり「お前、ひどい顔をしているな」と言った。
「お前が早朝に叩き起こすからだろ」
「それだけか?」
「……ちょっと、フィリップのことを考えていた」
「あいつ元気にしているのか?」
「さあ。最近では調査に行った特務師から音もなく逃げる術を身に着けているそうだ。何の情報もない。手紙も来ない」
「ふぅん。で、あいつに何か用でもあるのか?」
「いや、彼がこの現状を知ったら呆れるだろうなと思っただけだ」
「どうだか。あいつも多少は大人になっているだろう」
「自分で蒔いた種だ。何かに執着したらこうなると分かっていた。……もう、思考が堂々巡りで」
自分がひどい顔をしていることは予想がついている。
気分はこれ以上なく落ち込んでいたし、体も重くて調子が悪かった。
クリスは小さくため息をつき、俺の隣に来て賑わう夕市を眺めながら腕を組んだ。
「あのな、人は誰しも何かに執着している生き物だ。金、名声、家族、食、趣味、女、学問……人により色々だ。そして執着しているものを中心に物を考える。それを『価値観』と呼んでいるのだぞ?」
「なんだよ、哲学の話でもしているのか?」と、俺は言った。
「ただの一般論だ。今まで何にも執着をせず、諦めの境地みたいなところにいたお前のほうが異常だ。俺はこの何か月か、ようやく人らしくなったお前を見て心底良かったと思っている。それと、お前が今すこぶる調子が悪いのは体調管理を怠っているせいだ。まともな食事をして、しっかり睡眠を取れ。話はそれからだ」
「その睡眠を妨げた奴が良く言うよ……」
「わはは! 今日は許せ!」
「俺って、今まで異常だったのか?」
「お前は金にも物にも執着がない。女は論外だし、これといって趣味らしい趣味もない。チェスをやるときに金を賭けないのはお前くらいのものだ。食になんかまるで関心がない。いつもつまらなそうな顔をしているのに、その割に何にも興味を持たない」
「まあ、そうかも知れないが」
「お前があのお父上に噛みついて、なおかつ叔父上殿に駄々をこねてまで欲しがったのは婚約者殿だけだ」
「む……う……」
そう言われると本当に自分が異常だったような気がしてくる。
「しかし、この悩みには出口がない。だからフィリップに頼りたくなるほど困っている」と、俺は言った。
すると彼は、頭をガシガシかきながらさらに呆れた顔をした。
「あのな? いかなる悩みにも必ず抜け道はある。というか、悩みというのはごく普通の道の上にある幻想の壁だ」
「幻想? これは幻想などではないぞ」
「出口があることに当事者が気づかない、あえて気づきたくない、分かっていてもその道を選ぶことができない。そういう精神状態に陥り、高い幻の壁にぶち当たって苦しむことを『悩む』と言うのだ」
眉間にシワを寄せる俺と、いつもどおり穏やかに笑っているクリスは対称的だったと思う。
俺には幻だなんて到底思えなかった。
「ヴィル、これは存在論だ。悩みは発生と同時に出口ができているものだ。そうでなければ悩みとして存在できないし、苦しみが成立しないのだ」
「なぜそう言い切れる?」
「どこかへ行こうとするお前を誰かが物理的に邪魔をしたか? お前の自由を奪ったか? 違うだろう? お前は自由なはずだ。楽になる方法なんていくらでもある。すべて放り出してしまえばいい」
「いや、放り出すって……」
「王籍から外れちまえよ。そうしたら彼女のそばにいられるぞ」
「無茶だ。そんなことができるわけがない」
「そら見ろ、その壁はお前の精神の中にしかない壁だ。出口があるにも関わらず、そこへ行かないようお前が自ら作っている壁だ」
「好きで王甥になったわけではない」
「しかし逃げる方法はある。お前がその道を選ばないのは、彼女のそばにいることよりも王甥としての自分のほうが大事だからだ」
「そんなこと……俺は、彼女が……」
「そこは結論を急がずゆっくり考えろ。自ら作る壁はそうそう簡単に越えられない。なにせ自分が越えられない高さを知っていて作っているのだからな。だから苦しい。悩みとはそういうものだ。お前を苦しめているのはお前自身の価値観のぶつかり合いだ」
習慣的に公人としての自分を最も大事にするように行動している。しかし、つい最近同じくらい大事なものに出会ってしまった。一つを立てればもう一方が立たない。
クリスはいとも簡単に俺の悩みの正体を暴いた。
「これは今後も起きるぞ。こういう時にどちらを優先するか、その時々に判断しなくてはならない」と、クリスは言った。
俺はいいトシして目的地への行き方も、そして帰り道も分からなくなっている。
「俺は何をしたらいい……。どうしたらいい」
「教えてやる。お前が今日すべきことは、俺と出かけて高級魚を釣ることだった。そしてお前は完璧な成果を上げた」
俺はポカンと口を開けていた。
からかわれているのだろうか。
いや、クリスは俺がこんな時にふざけるような奴ではない。
「ヴィル、お前はエムブラ宮殿の中が気にならないのか?」
「え?」
「子どもの頃のお前なら、叱られる前提でコッソリ覗きに行こうと言い出したはずだ。外でおとなしくショゲているのはお前らしくない。公人だろうが私人だろうが、人はまず自分らしく在るべきだ」
俺はようやく合点がいった。
「釣りだの差し入れだのは、彼女の様子を見に行くための口実か?」
「当たり前だろう。お前が出入りできないのなら別の者に行かせればいいだけの話だ。お前の従者のキースなんか、食事だけしに行ってリア様と話したりもしているらしいぞ?」
「あいつ、そんなこと一言も……」
「お前がそんなんだから言いにくいのだろう」
クリスはリアからの報告書とユミールからの連絡、それから俺の荷物を取りに行く口実で頻繁に出入りしている俺の従者から話を聞き取り、屋敷に魚を届けに行っても感染の危険性はないと判断していた。
「ま、あとはお前の健康のためもある。初めて人並みに悩んだからって塞ぎ込みやがって。体を壊したら元も子もないぞ?」
「ごめん……ありがとう」
彼にはいつも助けてもらってばかりだった。
「中の様子はどうだった?」と尋ねた。
「想像以上で驚いた」と、彼は少し声を落とした。
「婚約者殿は訓練中で会えなかったが、とても例の病の患者を抱えているとは思えないほど屋敷の中は落ち着いていた。前に招待されて行ったときと変わらない。執事長と侍女長が和やかに対応してくれた」
俺は黙って数回頷いた。
中の様子を見るためだと気づいていなかったので致し方ないが、あの宮殿の使用人のことをクリスにも話しておいてやるべきだった。
「実は、あそこの使用人は少し特殊で、そういうのが得意だ」と、俺は濁した。
彼はピクリと眉を上げ、「まさか彼らは特務師か?」と小声で言った。
相変わらずカンの良い奴だ。
彼は戻ってくるなり「お前、ひどい顔をしているな」と言った。
「お前が早朝に叩き起こすからだろ」
「それだけか?」
「……ちょっと、フィリップのことを考えていた」
「あいつ元気にしているのか?」
「さあ。最近では調査に行った特務師から音もなく逃げる術を身に着けているそうだ。何の情報もない。手紙も来ない」
「ふぅん。で、あいつに何か用でもあるのか?」
「いや、彼がこの現状を知ったら呆れるだろうなと思っただけだ」
「どうだか。あいつも多少は大人になっているだろう」
「自分で蒔いた種だ。何かに執着したらこうなると分かっていた。……もう、思考が堂々巡りで」
自分がひどい顔をしていることは予想がついている。
気分はこれ以上なく落ち込んでいたし、体も重くて調子が悪かった。
クリスは小さくため息をつき、俺の隣に来て賑わう夕市を眺めながら腕を組んだ。
「あのな、人は誰しも何かに執着している生き物だ。金、名声、家族、食、趣味、女、学問……人により色々だ。そして執着しているものを中心に物を考える。それを『価値観』と呼んでいるのだぞ?」
「なんだよ、哲学の話でもしているのか?」と、俺は言った。
「ただの一般論だ。今まで何にも執着をせず、諦めの境地みたいなところにいたお前のほうが異常だ。俺はこの何か月か、ようやく人らしくなったお前を見て心底良かったと思っている。それと、お前が今すこぶる調子が悪いのは体調管理を怠っているせいだ。まともな食事をして、しっかり睡眠を取れ。話はそれからだ」
「その睡眠を妨げた奴が良く言うよ……」
「わはは! 今日は許せ!」
「俺って、今まで異常だったのか?」
「お前は金にも物にも執着がない。女は論外だし、これといって趣味らしい趣味もない。チェスをやるときに金を賭けないのはお前くらいのものだ。食になんかまるで関心がない。いつもつまらなそうな顔をしているのに、その割に何にも興味を持たない」
「まあ、そうかも知れないが」
「お前があのお父上に噛みついて、なおかつ叔父上殿に駄々をこねてまで欲しがったのは婚約者殿だけだ」
「む……う……」
そう言われると本当に自分が異常だったような気がしてくる。
「しかし、この悩みには出口がない。だからフィリップに頼りたくなるほど困っている」と、俺は言った。
すると彼は、頭をガシガシかきながらさらに呆れた顔をした。
「あのな? いかなる悩みにも必ず抜け道はある。というか、悩みというのはごく普通の道の上にある幻想の壁だ」
「幻想? これは幻想などではないぞ」
「出口があることに当事者が気づかない、あえて気づきたくない、分かっていてもその道を選ぶことができない。そういう精神状態に陥り、高い幻の壁にぶち当たって苦しむことを『悩む』と言うのだ」
眉間にシワを寄せる俺と、いつもどおり穏やかに笑っているクリスは対称的だったと思う。
俺には幻だなんて到底思えなかった。
「ヴィル、これは存在論だ。悩みは発生と同時に出口ができているものだ。そうでなければ悩みとして存在できないし、苦しみが成立しないのだ」
「なぜそう言い切れる?」
「どこかへ行こうとするお前を誰かが物理的に邪魔をしたか? お前の自由を奪ったか? 違うだろう? お前は自由なはずだ。楽になる方法なんていくらでもある。すべて放り出してしまえばいい」
「いや、放り出すって……」
「王籍から外れちまえよ。そうしたら彼女のそばにいられるぞ」
「無茶だ。そんなことができるわけがない」
「そら見ろ、その壁はお前の精神の中にしかない壁だ。出口があるにも関わらず、そこへ行かないようお前が自ら作っている壁だ」
「好きで王甥になったわけではない」
「しかし逃げる方法はある。お前がその道を選ばないのは、彼女のそばにいることよりも王甥としての自分のほうが大事だからだ」
「そんなこと……俺は、彼女が……」
「そこは結論を急がずゆっくり考えろ。自ら作る壁はそうそう簡単に越えられない。なにせ自分が越えられない高さを知っていて作っているのだからな。だから苦しい。悩みとはそういうものだ。お前を苦しめているのはお前自身の価値観のぶつかり合いだ」
習慣的に公人としての自分を最も大事にするように行動している。しかし、つい最近同じくらい大事なものに出会ってしまった。一つを立てればもう一方が立たない。
クリスはいとも簡単に俺の悩みの正体を暴いた。
「これは今後も起きるぞ。こういう時にどちらを優先するか、その時々に判断しなくてはならない」と、クリスは言った。
俺はいいトシして目的地への行き方も、そして帰り道も分からなくなっている。
「俺は何をしたらいい……。どうしたらいい」
「教えてやる。お前が今日すべきことは、俺と出かけて高級魚を釣ることだった。そしてお前は完璧な成果を上げた」
俺はポカンと口を開けていた。
からかわれているのだろうか。
いや、クリスは俺がこんな時にふざけるような奴ではない。
「ヴィル、お前はエムブラ宮殿の中が気にならないのか?」
「え?」
「子どもの頃のお前なら、叱られる前提でコッソリ覗きに行こうと言い出したはずだ。外でおとなしくショゲているのはお前らしくない。公人だろうが私人だろうが、人はまず自分らしく在るべきだ」
俺はようやく合点がいった。
「釣りだの差し入れだのは、彼女の様子を見に行くための口実か?」
「当たり前だろう。お前が出入りできないのなら別の者に行かせればいいだけの話だ。お前の従者のキースなんか、食事だけしに行ってリア様と話したりもしているらしいぞ?」
「あいつ、そんなこと一言も……」
「お前がそんなんだから言いにくいのだろう」
クリスはリアからの報告書とユミールからの連絡、それから俺の荷物を取りに行く口実で頻繁に出入りしている俺の従者から話を聞き取り、屋敷に魚を届けに行っても感染の危険性はないと判断していた。
「ま、あとはお前の健康のためもある。初めて人並みに悩んだからって塞ぎ込みやがって。体を壊したら元も子もないぞ?」
「ごめん……ありがとう」
彼にはいつも助けてもらってばかりだった。
「中の様子はどうだった?」と尋ねた。
「想像以上で驚いた」と、彼は少し声を落とした。
「婚約者殿は訓練中で会えなかったが、とても例の病の患者を抱えているとは思えないほど屋敷の中は落ち着いていた。前に招待されて行ったときと変わらない。執事長と侍女長が和やかに対応してくれた」
俺は黙って数回頷いた。
中の様子を見るためだと気づいていなかったので致し方ないが、あの宮殿の使用人のことをクリスにも話しておいてやるべきだった。
「実は、あそこの使用人は少し特殊で、そういうのが得意だ」と、俺は濁した。
彼はピクリと眉を上げ、「まさか彼らは特務師か?」と小声で言った。
相変わらずカンの良い奴だ。
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