上 下
228 / 352
10-4 POV:ヴィル

第222話:釣りの目的

しおりを挟む
 しばらくすると、クリスが戻ってきた。
 彼は戻ってくるなり「お前、ひどい顔をしているな」と言った。

「お前が早朝に叩き起こすからだろ」
「それだけか?」
「……ちょっと、フィリップのことを考えていた」
「あいつ元気にしているのか?」
「さあ。最近では調査に行った特務師から音もなく逃げる術を身に着けているそうだ。何の情報もない。手紙も来ない」
「ふぅん。で、あいつに何か用でもあるのか?」
「いや、彼がこの現状を知ったら呆れるだろうなと思っただけだ」
「どうだか。あいつも多少は大人になっているだろう」
「自分で蒔いた種だ。何かに執着したらこうなると分かっていた。……もう、思考が堂々巡りで」

 自分がひどい顔をしていることは予想がついている。
 気分はこれ以上なく落ち込んでいたし、体も重くて調子が悪かった。
 クリスは小さくため息をつき、俺の隣に来て賑わう夕市を眺めながら腕を組んだ。

「あのな、人は誰しも何かに執着している生き物だ。金、名声、家族、食、趣味、女、学問……人により色々だ。そして執着しているものを中心に物を考える。それを『価値観』と呼んでいるのだぞ?」

 「なんだよ、哲学の話でもしているのか?」と、俺は言った。

「ただの一般論だ。今まで何にも執着をせず、諦めの境地みたいなところにいたお前のほうが異常だ。俺はこの何か月か、ようやく人らしくなったお前を見て心底良かったと思っている。それと、お前が今すこぶる調子が悪いのは体調管理を怠っているせいだ。まともな食事をして、しっかり睡眠を取れ。話はそれからだ」

「その睡眠を妨げた奴が良く言うよ……」
「わはは! 今日は許せ!」
「俺って、今まで異常だったのか?」
「お前は金にも物にも執着がない。女は論外だし、これといって趣味らしい趣味もない。チェスをやるときに金を賭けないのはお前くらいのものだ。食になんかまるで関心がない。いつもつまらなそうな顔をしているのに、その割に何にも興味を持たない」
「まあ、そうかも知れないが」
「お前があのお父上に噛みついて、なおかつ叔父上殿に駄々をこねてまで欲しがったのは婚約者殿だけだ」
「む……う……」

 そう言われると本当に自分が異常だったような気がしてくる。

 「しかし、この悩みには出口がない。だからフィリップに頼りたくなるほど困っている」と、俺は言った。
 すると彼は、頭をガシガシかきながらさらに呆れた顔をした。

「あのな? いかなる悩みにも必ず抜け道はある。というか、悩みというのはごく普通の道の上にある幻想の壁だ」
「幻想? これは幻想などではないぞ」

「出口があることに当事者が気づかない、あえて気づきたくない、分かっていてもその道を選ぶことができない。そういう精神状態に陥り、高い幻の壁にぶち当たって苦しむことを『悩む』と言うのだ」

 眉間にシワを寄せる俺と、いつもどおり穏やかに笑っているクリスは対称的だったと思う。
 俺には幻だなんて到底思えなかった。

「ヴィル、これは存在論だ。悩みは発生と同時に出口ができているものだ。そうでなければ悩みとして存在できないし、苦しみが成立しないのだ」
「なぜそう言い切れる?」
「どこかへ行こうとするお前を誰かが物理的に邪魔をしたか? お前の自由を奪ったか? 違うだろう? お前は自由なはずだ。楽になる方法なんていくらでもある。すべて放り出してしまえばいい」
「いや、放り出すって……」
「王籍から外れちまえよ。そうしたら彼女のそばにいられるぞ」
「無茶だ。そんなことができるわけがない」

「そら見ろ、その壁はお前の精神の中にしかない壁だ。出口があるにも関わらず、そこへ行かないようお前が自ら作っている壁だ」
「好きで王甥になったわけではない」
「しかし逃げる方法はある。お前がその道を選ばないのは、彼女のそばにいることよりも王甥としての自分のほうが大事だからだ」
「そんなこと……俺は、彼女が……」
「そこは結論を急がずゆっくり考えろ。自ら作る壁はそうそう簡単に越えられない。なにせ自分が越えられない高さを知っていて作っているのだからな。だから苦しい。悩みとはそういうものだ。お前を苦しめているのはお前自身の価値観のぶつかり合いだ」

 習慣的に公人としての自分を最も大事にするように行動している。しかし、つい最近同じくらい大事なものに出会ってしまった。一つを立てればもう一方が立たない。
 クリスはいとも簡単に俺の悩みの正体を暴いた。

 「これは今後も起きるぞ。こういう時にどちらを優先するか、その時々に判断しなくてはならない」と、クリスは言った。

 俺はいいトシして目的地への行き方も、そして帰り道も分からなくなっている。

「俺は何をしたらいい……。どうしたらいい」
「教えてやる。お前が今日すべきことは、俺と出かけて高級魚を釣ることだった。そしてお前は完璧な成果を上げた」

 俺はポカンと口を開けていた。
 からかわれているのだろうか。
 いや、クリスは俺がこんな時にふざけるような奴ではない。

「ヴィル、お前はエムブラ宮殿の中が気にならないのか?」
「え?」
「子どもの頃のお前なら、叱られる前提でコッソリ覗きに行こうと言い出したはずだ。外でおとなしくショゲているのはお前らしくない。公人だろうが私人だろうが、人はまず自分らしく在るべきだ」

 俺はようやく合点がいった。

「釣りだの差し入れだのは、彼女の様子を見に行くための口実か?」
「当たり前だろう。お前が出入りできないのなら別の者に行かせればいいだけの話だ。お前の従者のキースなんか、食事だけしに行ってリア様と話したりもしているらしいぞ?」
「あいつ、そんなこと一言も……」
「お前がそんなんだから言いにくいのだろう」

 クリスはリアからの報告書とユミールからの連絡、それから俺の荷物を取りに行く口実で頻繁に出入りしている俺の従者から話を聞き取り、屋敷に魚を届けに行っても感染の危険性はないと判断していた。

「ま、あとはお前の健康のためもある。初めて人並みに悩んだからって塞ぎ込みやがって。体を壊したら元も子もないぞ?」
「ごめん……ありがとう」

 彼にはいつも助けてもらってばかりだった。

 「中の様子はどうだった?」と尋ねた。
 「想像以上で驚いた」と、彼は少し声を落とした。

「婚約者殿は訓練中で会えなかったが、とても例の病の患者を抱えているとは思えないほど屋敷の中は落ち着いていた。前に招待されて行ったときと変わらない。執事長と侍女長が和やかに対応してくれた」

 俺は黙って数回頷いた。
 中の様子を見るためだと気づいていなかったので致し方ないが、あの宮殿の使用人のことをクリスにも話しておいてやるべきだった。

 「実は、あそこの使用人は少し特殊で、そういうのが得意だ」と、俺は濁した。

 彼はピクリと眉を上げ、「まさか彼らは特務師か?」と小声で言った。
 相変わらずカンの良い奴だ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

美しくも残酷な世界に花嫁(仮)として召喚されたようです~酒好きアラサーは食糧難の世界で庭を育てて煩悩のままに生活する

くみたろう
ファンタジー
いつもと変わらない日常が一変するのをただの会社員である芽依はその身をもって知った。 世界が違った、価値観が違った、常識が違った、何もかもが違った。 意味がわからなかったが悲観はしなかった。 花嫁だと言われ、その甘い香りが人外者を狂わすと言われても、芽依の周りは優しさに包まれている。 そばに居るのは巨大な蟻で、いつも優しく格好良く守ってくれる。 奴隷となった大好きな二人は本心から芽依を愛して側にいてくれる。 麗しい領主やその周りの人外者達も、話を聞いてくれる。 周りは酷く残酷な世界だけれども、芽依はたまにセクハラをして齧りつきながら穏やかに心を育み生きていく。 それはこの美しく清廉で、残酷でいておぞましい御伽噺の世界の中でも慈しみ育む人外者達や異世界の人間が芽依を育て守ってくれる。 お互いの常識や考えを擦り合わせ歩み寄り、等価交換を基盤とした世界の中で、優しさを育てて自分の居場所作りに励む。 全ては幸せな気持ちで大好きなお酒を飲む為であり、素敵な酒のつまみを開発する日々を送るためだ。

【完結】『飯炊き女』と呼ばれている騎士団の寮母ですが、実は最高位の聖女です

葉桜鹿乃
恋愛
ルーシーが『飯炊き女』と、呼ばれてそろそろ3年が経とうとしている。 王宮内に兵舎がある王立騎士団【鷹の爪】の寮母を担っているルーシー。 孤児院の出で、働き口を探してここに配置された事になっているが、実はこの国の最も高貴な存在とされる『金剛の聖女』である。 王宮という国で一番安全な場所で、更には周囲に常に複数人の騎士が控えている場所に、本人と王族、宰相が話し合って所属することになったものの、存在を秘する為に扱いは『飯炊き女』である。 働くのは苦では無いし、顔を隠すための不細工な丸眼鏡にソバカスと眉を太くする化粧、粗末な服。これを襲いに来るような輩は男所帯の騎士団にも居ないし、聖女の力で存在感を常に薄めるようにしている。 何故このような擬態をしているかというと、隣国から聖女を狙って何者かが間者として侵入していると言われているためだ。 隣国は既に瘴気で汚れた土地が多くなり、作物もまともに育たないと聞いて、ルーシーはしばらく隣国に行ってもいいと思っているのだが、長く冷戦状態にある隣国に行かせるのは命が危ないのでは、と躊躇いを見せる国王たちをルーシーは説得する教養もなく……。 そんな折、ある日の月夜に、明日の雨を予見して変装をせずに水汲みをしている時に「見つけた」と言われて振り向いたそこにいたのは、騎士団の中でもルーシーに優しい一人の騎士だった。 ※感想の取り扱いは近況ボードを参照してください。 ※小説家になろう様でも掲載予定です。

旦那様が多すぎて困っています!? 〜逆ハー異世界ラブコメ〜

ことりとりとん
恋愛
男女比8:1の逆ハーレム異世界に転移してしまった女子大生・大森泉 転移早々旦那さんが6人もできて、しかも魔力無限チートがあると教えられて!? のんびりまったり暮らしたいのにいつの間にか国を救うハメになりました…… イケメン山盛りの逆ハーです 前半はラブラブまったりの予定。後半で主人公が頑張ります 小説家になろう、カクヨムに転載しています

聖女としてきたはずが要らないと言われてしまったため、異世界でふわふわパンを焼こうと思います!

伊桜らな
ファンタジー
家業パン屋さんで働くメルは、パンが大好き。 いきなり聖女召喚の儀やらで異世界に呼ばれちゃったのに「いらない」と言われて追い出されてしまう。どうすればいいか分からなかったとき、公爵家当主に拾われ公爵家にお世話になる。 衣食住は確保できたって思ったのに、パンが美味しくないしめちゃくちゃ硬い!! パン好きなメルは、厨房を使いふわふわパン作りを始める。  *表紙画は月兎なつめ様に描いて頂きました。*  ー(*)のマークはRシーンがあります。ー  少しだけ展開を変えました。申し訳ありません。  ホットランキング 1位(2021.10.17)  ファンタジーランキング1位(2021.10.17)  小説ランキング 1位(2021.10.17)  ありがとうございます。読んでくださる皆様に感謝です。

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

皆で異世界転移したら、私だけがハブかれてイケメンに囲まれた

愛丸 リナ
恋愛
 少女は綺麗過ぎた。  整った顔、透き通るような金髪ロングと薄茶と灰色のオッドアイ……彼女はハーフだった。  最初は「可愛い」「綺麗」って言われてたよ?  でも、それは大きくなるにつれ、言われなくなってきて……いじめの対象になっちゃった。  クラス一斉に異世界へ転移した時、彼女だけは「醜女(しこめ)だから」と国外追放を言い渡されて……  たった一人で途方に暮れていた時、“彼ら”は現れた  それが後々あんな事になるなんて、その時の彼女は何も知らない ______________________________ ATTENTION 自己満小説満載 一話ずつ、出来上がり次第投稿 急亀更新急チーター更新だったり、不定期更新だったりする 文章が変な時があります 恋愛に発展するのはいつになるのかは、まだ未定 以上の事が大丈夫な方のみ、ゆっくりしていってください

【完結】誰にも相手にされない壁の華、イケメン騎士にお持ち帰りされる。

三園 七詩
恋愛
独身の貴族が集められる、今で言う婚活パーティーそこに地味で地位も下のソフィアも参加することに…しかし誰にも話しかけらない壁の華とかしたソフィア。 それなのに気がつけば裸でベッドに寝ていた…隣にはイケメン騎士でパーティーの花形の男性が隣にいる。 頭を抱えるソフィアはその前の出来事を思い出した。 短編恋愛になってます。

お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。

下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。 またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。 あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。 ご都合主義の多分ハッピーエンド? 小説家になろう様でも投稿しています。

処理中です...