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第九章 婚約

第185話:無茶振り

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「また準備でリアが忙しくなってしまう」

 ヴィルさんは特大のため息をつきながら、わたしにスリスリと頬ずりをした。
 ヨシヨシしてあげると、彼は拗ねた声で「俺はもっと二人きりで過ごしたい。ずっとこうして穏やかな日々を送りたい」と言った。わたしもまったく同じ気持ちだ。

「リア、ダンスは?」と、彼が顔を覗き込んできた。
 そんな高尚なものは前の世界でも経験がない。
「何もかもゼロから教わらなければなりません」と答えた。

「少しやってみて、無理そうだったら二人で断りに行こう」
「そんなことが許されるのでしょうか」
「大丈夫。王宮を火の海にしてでも……」
「断れない感じですね……」

 踊るしかない。
 この世界で生きていくためにダンスが必須であろうことは、侍女たちの会話から薄々気づいていた。
 そもそも結婚という大イベントを控えているわりに、なんでもかんでも周りにやってもらっていて、わたしは楽をしすぎている。仮にイヤミなお姑さんでもいたなら、言葉の彫刻刀を二~三本投げつけられながら、こう言われるだろう。
「ちょっとリアさん、あなたダンスくらい習えるのではありませんこと?」
 はい、仰るとおりです。架空のお義母様(誰だよ)
 早々に習い始めることを伝えると、彼はパンダの霊を脱ぎ捨てて爽やかに微笑んだ。

「良い知らせもある。正式に婚約の承認が下りたよ」
「わぁ~、おめでとう、わたし達」
「これで手続きをすれば、晴れて正式な婚約者だ」

 彼は懐のポケットから陛下のサインが入った承諾の書類と、正式な婚約の手続きをするための申請書を出して見せてくれた。
 申請書の証人欄には、すでにお義父様と陛下のサインが入っていた。あとは当人同士の欄にサインをして出せば良いだけになっている。
「わたし達もここで署名してしまいますか?」と聞くと、彼は「望むところだ」と言ってペンを差し出した。

「あら? このペン……」
 手にしっくり馴染むそれは、紛れもなくアレンさんから借りて使っていた『フギンの二番』だ。キャップに付いていた小さな傷が同じだから間違いない。自分のペンを買った後、アレンさんに返したはずなのに。
「白状すると、これはアレンに渡した俺のペンだ」と、彼は少し申し訳なさそうに言った。

 わたしがこの世界に来た日から、すべての行動が彼に筒抜けだったと聞いたのは、つい最近のことだ。アレンさんとのワン・オン・ワン対決とか、何も分かっていなかった頃の黒歴史も彼に知られていた。
 わたしに団長だとカミングアウトするまでの間、くまんつ様とアレンさんを交えて「相当コソコソやっていた」と言っているので、このペンもそのうちの一つなのだろう。

「むむっ、さてはおぬし謀ったな」と、剣を抜くジェスチャーでキャップからペンを引き抜く。
 彼は笑いながら「ダンスの次は剣を教えようか」と言って、わたしの額に小さなキスをした。

 署名をし終えると、部屋にあるバーからミニサイズのシャンパンを出した。
「また忘れられない日が一つ増える」と、彼が栓を抜く。
 くまんつ領で作られた「終わらぬ愛」という銘柄のシャンパンが、ポンと音を立ててわたし達を祝ってくれた。

「クランツ領のワインは、どれもこういうキザな名前ばかりだ。領主も民もひどくロマンチストでね」
「もしかして、婚約のお祝いだから、これを選んでくれたのですか?」
「ピッタリだろう? 俺も相当ロマンチストだよな」

 エメラルドの瞳が優しく微笑んでいた。



 ふと会話が途切れると、彼はワイングラスをじっと見ていた。
 すでにシャンパンを飲み終え、彼は別の赤ワインを飲んでいた。彼がグラスをいじり回すせいで、グラスの中の残り少ないワインが翻弄され、クルクルと回っている。

「何か、言おうかやめようか迷っていますか?」と尋ねると、彼はグチャッとバーカウンターに突っ伏した。どうやら図星のようだ。

「ごめん。俺の悪い癖だ」
「そんなことはないですよ? 最近はわたしも分かるようになりましたから」

 彼はくまんつ様やアレンさんには何でも素直に話すけれど、わたしには言うべきか否かをモニョモニョ考えていることが多い。
 こうして何かをいじって黙っているときがその兆候だ。こちらから声を掛けてあげれば、ぽつりぽつりと話してくれる。

「かなり格好の悪い話なのだが……いいか?」と、彼は言った。
「もちろんです」と言うと、彼はまた少し考えてから口を開いた。

「実は、ポルト・デリングの旅をやり直したいと思っている」
「どうしてですか?」
「一緒にバーに行きたかった。船も一緒に乗りたかった。もっと一緒にいたかった。大人げないが、アレンから話を聞いて、悔しくなってしまった」

 わたしもポルト・デリングには未練があった。
 彼が仕事で忙しかったのは仕方ないとしても、予定を一部キャンセルして帰ってきてしまったのが気にかかる。その中に、現地の貴族に会って挨拶をする予定が含まれていたので、なおさら申し訳ない気持ちになった。

「王都には、ああいう洒落たバーはないのですか?」と聞いてみた。
「いや、あの手のバーならいくつかある」
「それならポルト・デリングには改めて行くことにして」
「うん?」
「王都のバーでデートをするというのは?」

 彼はパッと表情を明るくして「そうしよう」と言った。

「なぜ今までこういうことを話さなかったのだろう。こんなに一瞬で解決するのにな」
「わたし、話しづらいでしょうか?」
「いや、格好良く見られたいという下心があったからだろうな。それが格好悪い結果を生むことに気づいていなかった」
「ヴィルさんは、何もしなくても十分すぎるくらい素敵ですよ」
「こら……ずるいぞ。急にそんなことを言うのは」

 彼はゲームに負けたときのような顔をしてグラスを置いた。そのまま抱き寄せられ、溶けてしまいそうなほど甘くて長いキスが落ちてくる。彼にすっぽりと包まれた。

 ほわほわしながら「わたしのやりたいことも言っていいですか?」と尋ねた。
「もちろん」と、彼は答えた。

「初めてのデートで行けなかったレストランに行ってみたいです。あと、北の庭園も改めて行きたいですし」
「あー、それもあったな。……他にも思い出した。忘れないうちに書いておくか」

 彼はポケットから手帳を取り出して開くと、二人でやりたいことを箇条書きにした。
 レストランで食事、バーに行く、魔法植物園、観劇、北の庭園やり直し、ポルト・デリングやり直し、珈琲の店、一緒に服を作りたい、ダンス……

「まだまだある。思い出したら書いていこう」
「そうですね」
「しかし、まずは……」

 彼は手帳を指でトントンと叩いた。
 わたし達は、ほぼ同時に「ダンスだな」「ダンスですね」と言った。
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