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夏の夢

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 穏やかな晩夏の午後。

 日差しは真夏の名残を残して眩しいけれど、木陰に吹きこむ風は乾いて、汗ばむ肌に心地よい。

 青い空に浮かぶ白い雲。草の緑の中に顔を覗かせる可憐な野草たち。

 久しぶりの領地だからと、馬車を出して少し遠出のピクニック。はしゃぎつかれた小さな彼女は、今は僕の膝を枕に夢の中だ。

 くるくるとした毛先が光を弾く淡い金色の巻き毛。白くて柔らかな肌に影を落とす長い睫毛。バラ色の頬。今は閉じられている、早春の木の葉のような明るい緑の瞳。小さく寝息を漏らす果実色の唇。

 完璧に整い美しいけれど、冷たさの感じられない優しい表情から『春の女神』と称される、彼女の母親そっくりの容姿。

 大切な、大切な小さな従妹。

 シルヴェーヌ・ベアトリス・リューシュエ。

 愛と祝福で作られた、僕の小さな春の女神。

 そんな彼女を幸せな気分でみつめながら、汗で額についた前髪を片手で払い、作業を続ける。

「花冠を作るの!シルヴィお姫様になるんだもん」

 そう言っていたのに、ご飯を食べて早々に眠ってしまった彼女の為、花冠を作っている最中だ。

 彼女を飾るものだから、花弁のなるべく美しいものを。色や配置も考えて。

 目覚めた時、真っ先にこれを見た彼女は、嬉しそうに微笑むだろうか。それとも、自分が作りたかったと、むくれるだろうか。

 どんな表情をしても、可愛いのだけれど。

 そんな楽しい想像をしていると、同じように草の上に直にピクニックシートを広げた貴婦人が二人、こちらを見て笑った。

「本当に仲良しね」
「ええ。ヴィルには本当にお世話になっているわ」
「…ううん。ヴィルこそシルヴィがいてくれて良かったって思ってる」

 彼女たちは、僕の母上とシルヴィの母上で実の姉妹。

 もっとも、とある事情でシルヴィが三つの頃から四年もここにいるから、僕にとっては二人ともが母みたいな感覚ではある。

 元々仲の良い姉妹は、それぞれ嫁いでいても、また今みたいに同じ家に暮らしていても、時間の許す限り一緒にいる。それは、時に使用人たちが、双方の旦那様方を気の毒に思ってしまうほど。

「ああでも、やっと領地に帰ってきたって感じね」

 空を見上げながらの母上の言葉に、叔母上が笑う。

「そうね。帝都もいいけれど、暑さがね…」
「本当よね」

 今年のシーズンも終わり、貴族たちは皆、領地へと戻る。

 石造りで熱のこもる帝都を出て5日。僕たちも、昨日ようやく領地へと帰って来た。

「でも結局、すぐに帝都にとんぼ返りなのでしょう?もうすぐ学校も始まるものね」
「そうね。ヴィルももうそんな年になったのね。心配したけれど、間に合ってくれて良かったわ」

 眠っている子供に気遣い音量は小さいものの、距離が近いので内容は聞こうとしなくても耳に入ってくる。

 学校というのは、皇立イムブルト学園。その名の通り、帝国の皇立の学園で魔導科、普通科、専科、騎士科の4つの科からなる。

 男女共学で貴族の子弟が中心だけれど、優秀な平民もかなりいると聞く。入学が許されるのは13歳からで、カリキュラムは6年。最大8年までは在学できる…らしい。勿論、飛び級制度もあるので、一緒に入学した皆が、皆一緒に卒業というわけでもない。



「ヴィルは結局専科なのね」
「ええ。才があるから魔導科と悩んだけど。エイシェンフォルトは代々文官の家柄だから」
「フランツお義兄様も宰相ですしね。やはり、そちらにってことでしょうね」
「ヨアヒム兄様はがっかりしていたけど。まあでも、手の空いた時に見て下さるって話だから」

 姉妹の実家は、ヘルンブルク領にあるヴァイスヴァルト公爵家。帝国の中で4家しかいない公爵位を持ち、また有名な魔導の一族でもある。現在の当主は彼女たちの実兄ヨアヒムで、彼は公爵でもあり、国の魔導使いとしても最高位にある。

「まあ、兄様が見て下さるなんて…。ヴィルの為にはいい事なのでしょうけど、甥をだしに、お姉さまに会いに来たいだけじゃないのかしら?」

 …姉妹の兄であり、僕の伯父上にあたるヨアヒム様は非常に優秀な魔導使いなのだが、残念なくらい二人の妹を愛するシスコンだ。

 僕の魔導の才に期待してくれ、わざわざ魔導の塔の主が…というよりも、単に兄として姉妹に会いたいから指導を買って出た、というところだろう。

 あの方は本当に、忙しい方なのだろうか?

 疑問に思うのは、僕だけではない。現に叔母上の指摘に、母上も同意して肩をすくめた。

「私もそう思うわ。でも、残念ね。お兄様は、貴女にも会えると思っていたでしょうに」
「仕方ないわ。王命ですもの」
「あんな弱小国で王命ねぇ…」

 叔母上は出身こそ帝国だが、すでに嫁いでいる。帝国から国を間に一つ挟んだ小国、ベルフォレ王国。その国のフェルール公が伴侶だ。恋愛結婚で結ばれたらしいが、確かにそうでもなければ、公爵同士とはいえ一緒になることなどできなかっただろう。

 それほど、帝国とベルフォレでは力に差がある。そんな国の王族の出す王命なぞ、母上からすれば確かに失笑ものなのだろう。

 明らかに侮蔑を含んだ口調に、叔母上が美眉を下げて苦笑する。

「それでも、王命は王命なのよ」
「それで婚約?王太子だっけ?子供はその子だけなの?」
「そう」

 婚約…。王命…。

 その言葉が、やけにゆっくりと頭の中に浸み込んでくる。

 そして、それを理解した瞬間、穏やかだと思っていた時間が凍り付く。

 婚約…勿論、夫であるフレデリック叔父上といった、伴侶のいる叔母上の話ではない。

 では?

 叔母上の子供はシルヴィだけだ。

 妻を溺愛というか、盲目的に崇拝している公爵には愛人もいないし、隠し子もいない。

 と、なれば……。

「でも普通、王太子の婚約者なんて、外国から娶らせるものじゃない?国同士の関係を重視するものでしょう?」
「そうなのよ。でも今大陸の中でも、釣り合う年齢でまだ婚約者のない方って、帝国の王族くらいなのよ。帝国が出すと思う?あんな小国に」
「…メリットないわね」

「でしょう?だからシルヴィなのよ。次代はまず、国内で王家の求心力を高めようって話らしいわ。うちも子供はシルヴィだけだから、王家に取られるのは、本当は困るのだけど」

「じゃあやっぱり養子を?」
「ええ。旦那様の親類から。でも、公爵としての勉強はともかく、正式な養子になるのは、シルヴィが結婚した後ということだけど」

 やはり……。

 二人の話を聞きながら、僕は視線を下に落とす。

 膝の上で眠るのは、大人の思惑なんてまるで知らず、あどけない寝顔を見せる僕の春の女神。

 僕の、僕だけの。

 彼女が三つの頃から一緒にくらしてきた。たとえ学園で寄宿舎に入っても、週末や長期の休みには一緒にいられると、当たり前みたいに思っていた。

 このまま大人になっても、今みたいな幸福な時間が続くと。

 なのに…。

 彼女が、自分以外の誰かのものになる。

 頭の中が瞬時に真っ白になり、未だ成熟しきっていない自分の器の中を、かつて感じた大きな力が渦を巻いて駆け巡る。

 その衝動に飲まれそうになる自分を、拳を握りしめて必死に抑えた。

 今ではない、と。

 激情も怒りも、流されるのは今ではない。

 己の爪が手のひらに傷を作る。自覚なく震えるそれを抑えようと、もう片方の手で押さえると、持っていた花冠が手から離れ、眠るシルヴィの頭付近に落ちた。

「ん……?」

 軽いものだから痛くはなかっただろうけど、何かが当たったという感触に、シルヴィが身じろぐ。どうやら起こしてしまったようだ。

 色づいた唇がむにゃむにゃと動き、次いで長い睫毛が震え、ゆっくりと目が開いていく。やがて現れた新緑のペリドットの色をした瞳が、目の前の僕を認め……。

 シルヴィは笑顔を見せる。いつものように。

 花がほころぶ瞬間なんて、実際は見たことはない。でもきっと、見るとこんな気持ちになるのだろう。

 暖かくて、優しくて、愛おしい。純粋に綺麗な、ただただ綺麗な存在。

「……にーさま」

 甘えを存分に含んだ、舌ったらずの声が耳朶をくすぐる。その声に、さっきまでの身を焼き尽くすかと思われた衝動が、静かに収まっていく。

 今では…今ではない。

 そう…今ではない。

 もう一度自分に言い聞かせる。

 彼女が自分にとっての唯一無二である以上、失敗はできない。かつてのように自分の力量を見誤って、永遠に失うわけにはいかないのだから、慎重に慎重を重ねていかなければ。

 勿論、いずれは返してもらう。

 その日が来たなら、誰にも何も言わさない。彼女本人にすらも。

 だから。

 周到な罠を張り巡らし、一国の王をもねじ伏せる力を手に入れる。

 何としても。

 将来の、自分の目で見る事になるだろう映像を頭に思い描き、笑みが唇に浮かぶ。

 いまはまだ妄想だ。

 だが、いずれ……。



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