1 / 53
夏の夢
しおりを挟む穏やかな晩夏の午後。
日差しは真夏の名残を残して眩しいけれど、木陰に吹きこむ風は乾いて、汗ばむ肌に心地よい。
青い空に浮かぶ白い雲。草の緑の中に顔を覗かせる可憐な野草たち。
久しぶりの領地だからと、馬車を出して少し遠出のピクニック。はしゃぎつかれた小さな彼女は、今は僕の膝を枕に夢の中だ。
くるくるとした毛先が光を弾く淡い金色の巻き毛。白くて柔らかな肌に影を落とす長い睫毛。バラ色の頬。今は閉じられている、早春の木の葉のような明るい緑の瞳。小さく寝息を漏らす果実色の唇。
完璧に整い美しいけれど、冷たさの感じられない優しい表情から『春の女神』と称される、彼女の母親そっくりの容姿。
大切な、大切な小さな従妹。
シルヴェーヌ・ベアトリス・リューシュエ。
愛と祝福で作られた、僕の小さな春の女神。
そんな彼女を幸せな気分でみつめながら、汗で額についた前髪を片手で払い、作業を続ける。
「花冠を作るの!シルヴィお姫様になるんだもん」
そう言っていたのに、ご飯を食べて早々に眠ってしまった彼女の為、花冠を作っている最中だ。
彼女を飾るものだから、花弁のなるべく美しいものを。色や配置も考えて。
目覚めた時、真っ先にこれを見た彼女は、嬉しそうに微笑むだろうか。それとも、自分が作りたかったと、むくれるだろうか。
どんな表情をしても、可愛いのだけれど。
そんな楽しい想像をしていると、同じように草の上に直にピクニックシートを広げた貴婦人が二人、こちらを見て笑った。
「本当に仲良しね」
「ええ。ヴィルには本当にお世話になっているわ」
「…ううん。ヴィルこそシルヴィがいてくれて良かったって思ってる」
彼女たちは、僕の母上とシルヴィの母上で実の姉妹。
もっとも、とある事情でシルヴィが三つの頃から四年もここにいるから、僕にとっては二人ともが母みたいな感覚ではある。
元々仲の良い姉妹は、それぞれ嫁いでいても、また今みたいに同じ家に暮らしていても、時間の許す限り一緒にいる。それは、時に使用人たちが、双方の旦那様方を気の毒に思ってしまうほど。
「ああでも、やっと領地に帰ってきたって感じね」
空を見上げながらの母上の言葉に、叔母上が笑う。
「そうね。帝都もいいけれど、暑さがね…」
「本当よね」
今年のシーズンも終わり、貴族たちは皆、領地へと戻る。
石造りで熱のこもる帝都を出て5日。僕たちも、昨日ようやく領地へと帰って来た。
「でも結局、すぐに帝都にとんぼ返りなのでしょう?もうすぐ学校も始まるものね」
「そうね。ヴィルももうそんな年になったのね。心配したけれど、間に合ってくれて良かったわ」
眠っている子供に気遣い音量は小さいものの、距離が近いので内容は聞こうとしなくても耳に入ってくる。
学校というのは、皇立イムブルト学園。その名の通り、帝国の皇立の学園で魔導科、普通科、専科、騎士科の4つの科からなる。
男女共学で貴族の子弟が中心だけれど、優秀な平民もかなりいると聞く。入学が許されるのは13歳からで、カリキュラムは6年。最大8年までは在学できる…らしい。勿論、飛び級制度もあるので、一緒に入学した皆が、皆一緒に卒業というわけでもない。
「ヴィルは結局専科なのね」
「ええ。才があるから魔導科と悩んだけど。エイシェンフォルトは代々文官の家柄だから」
「フランツお義兄様も宰相ですしね。やはり、そちらにってことでしょうね」
「ヨアヒム兄様はがっかりしていたけど。まあでも、手の空いた時に見て下さるって話だから」
姉妹の実家は、ヘルンブルク領にあるヴァイスヴァルト公爵家。帝国の中で4家しかいない公爵位を持ち、また有名な魔導の一族でもある。現在の当主は彼女たちの実兄ヨアヒムで、彼は公爵でもあり、国の魔導使いとしても最高位にある。
「まあ、兄様が見て下さるなんて…。ヴィルの為にはいい事なのでしょうけど、甥をだしに、お姉さまに会いに来たいだけじゃないのかしら?」
…姉妹の兄であり、僕の伯父上にあたるヨアヒム様は非常に優秀な魔導使いなのだが、残念なくらい二人の妹を愛するシスコンだ。
僕の魔導の才に期待してくれ、わざわざ魔導の塔の主が…というよりも、単に兄として姉妹に会いたいから指導を買って出た、というところだろう。
あの方は本当に、忙しい方なのだろうか?
疑問に思うのは、僕だけではない。現に叔母上の指摘に、母上も同意して肩をすくめた。
「私もそう思うわ。でも、残念ね。お兄様は、貴女にも会えると思っていたでしょうに」
「仕方ないわ。王命ですもの」
「あんな弱小国で王命ねぇ…」
叔母上は出身こそ帝国だが、すでに嫁いでいる。帝国から国を間に一つ挟んだ小国、ベルフォレ王国。その国のフェルール公が伴侶だ。恋愛結婚で結ばれたらしいが、確かにそうでもなければ、公爵同士とはいえ一緒になることなどできなかっただろう。
それほど、帝国とベルフォレでは力に差がある。そんな国の王族の出す王命なぞ、母上からすれば確かに失笑ものなのだろう。
明らかに侮蔑を含んだ口調に、叔母上が美眉を下げて苦笑する。
「それでも、王命は王命なのよ」
「それで婚約?王太子だっけ?子供はその子だけなの?」
「そう」
婚約…。王命…。
その言葉が、やけにゆっくりと頭の中に浸み込んでくる。
そして、それを理解した瞬間、穏やかだと思っていた時間が凍り付く。
婚約…勿論、夫であるフレデリック叔父上といった、伴侶のいる叔母上の話ではない。
では?
叔母上の子供はシルヴィだけだ。
妻を溺愛というか、盲目的に崇拝している公爵には愛人もいないし、隠し子もいない。
と、なれば……。
「でも普通、王太子の婚約者なんて、外国から娶らせるものじゃない?国同士の関係を重視するものでしょう?」
「そうなのよ。でも今大陸の中でも、釣り合う年齢でまだ婚約者のない方って、帝国の王族くらいなのよ。帝国が出すと思う?あんな小国に」
「…メリットないわね」
「でしょう?だからシルヴィなのよ。次代はまず、国内で王家の求心力を高めようって話らしいわ。うちも子供はシルヴィだけだから、王家に取られるのは、本当は困るのだけど」
「じゃあやっぱり養子を?」
「ええ。旦那様の親類から。でも、公爵としての勉強はともかく、正式な養子になるのは、シルヴィが結婚した後ということだけど」
やはり……。
二人の話を聞きながら、僕は視線を下に落とす。
膝の上で眠るのは、大人の思惑なんてまるで知らず、あどけない寝顔を見せる僕の春の女神。
僕の、僕だけの。
彼女が三つの頃から一緒にくらしてきた。たとえ学園で寄宿舎に入っても、週末や長期の休みには一緒にいられると、当たり前みたいに思っていた。
このまま大人になっても、今みたいな幸福な時間が続くと。
なのに…。
彼女が、自分以外の誰かのものになる。
頭の中が瞬時に真っ白になり、未だ成熟しきっていない自分の器の中を、かつて感じた大きな力が渦を巻いて駆け巡る。
その衝動に飲まれそうになる自分を、拳を握りしめて必死に抑えた。
今ではない、と。
激情も怒りも、流されるのは今ではない。
己の爪が手のひらに傷を作る。自覚なく震えるそれを抑えようと、もう片方の手で押さえると、持っていた花冠が手から離れ、眠るシルヴィの頭付近に落ちた。
「ん……?」
軽いものだから痛くはなかっただろうけど、何かが当たったという感触に、シルヴィが身じろぐ。どうやら起こしてしまったようだ。
色づいた唇がむにゃむにゃと動き、次いで長い睫毛が震え、ゆっくりと目が開いていく。やがて現れた新緑のペリドットの色をした瞳が、目の前の僕を認め……。
シルヴィは笑顔を見せる。いつものように。
花がほころぶ瞬間なんて、実際は見たことはない。でもきっと、見るとこんな気持ちになるのだろう。
暖かくて、優しくて、愛おしい。純粋に綺麗な、ただただ綺麗な存在。
「……にーさま」
甘えを存分に含んだ、舌ったらずの声が耳朶をくすぐる。その声に、さっきまでの身を焼き尽くすかと思われた衝動が、静かに収まっていく。
今では…今ではない。
そう…今ではない。
もう一度自分に言い聞かせる。
彼女が自分にとっての唯一無二である以上、失敗はできない。かつてのように自分の力量を見誤って、永遠に失うわけにはいかないのだから、慎重に慎重を重ねていかなければ。
勿論、いずれは返してもらう。
その日が来たなら、誰にも何も言わさない。彼女本人にすらも。
だから。
周到な罠を張り巡らし、一国の王をもねじ伏せる力を手に入れる。
何としても。
将来の、自分の目で見る事になるだろう映像を頭に思い描き、笑みが唇に浮かぶ。
いまはまだ妄想だ。
だが、いずれ……。
1,285
お気に入りに追加
3,223
あなたにおすすめの小説
皇太子の子を妊娠した悪役令嬢は逃げることにした
葉柚
恋愛
皇太子の子を妊娠した悪役令嬢のレイチェルは幸せいっぱいに暮らしていました。
でも、妊娠を切っ掛けに前世の記憶がよみがえり、悪役令嬢だということに気づいたレイチェルは皇太子の前から逃げ出すことにしました。
本編完結済みです。時々番外編を追加します。
好きだと言ってくれたのに私は可愛くないんだそうです【完結】
須木 水夏
恋愛
大好きな幼なじみ兼婚約者の伯爵令息、ロミオは、メアリーナではない人と恋をする。
メアリーナの初恋は、叶うこと無く終わってしまった。傷ついたメアリーナはロメオとの婚約を解消し距離を置くが、彼の事で心に傷を負い忘れられずにいた。どうにかして彼を忘れる為にメアが頼ったのは、友人達に誘われた夜会。最初は遊びでも良いのじゃないの、と焚き付けられて。
(そうね、新しい恋を見つけましょう。その方が手っ取り早いわ。)
※ご都合主義です。変な法律出てきます。ふわっとしてます。
※ヒーローは変わってます。
※主人公は無意識でざまぁする系です。
※誤字脱字すみません。
婚約者が実は私を嫌っていたので、全て忘れる事にしました
Kouei
恋愛
私セイシェル・メルハーフェンは、
あこがれていたルパート・プレトリア伯爵令息と婚約できて幸せだった。
ルパート様も私に歩み寄ろうとして下さっている。
けれど私は聞いてしまった。ルパート様の本音を。
『我慢するしかない』
『彼女といると疲れる』
私はルパート様に嫌われていたの?
本当は厭わしく思っていたの?
だから私は決めました。
あなたを忘れようと…
※この作品は、他投稿サイトにも公開しています。
結婚して5年、冷たい夫に離縁を申し立てたらみんなに止められています。
真田どんぐり
恋愛
ー5年前、ストレイ伯爵家の美しい令嬢、アルヴィラ・ストレイはアレンベル侯爵家の侯爵、ダリウス・アレンベルと結婚してアルヴィラ・アレンベルへとなった。
親同士に決められた政略結婚だったが、アルヴィラは旦那様とちゃんと愛し合ってやっていこうと決意していたのに……。
そんな決意を打ち砕くかのように旦那様の態度はずっと冷たかった。
(しかも私にだけ!!)
社交界に行っても、使用人の前でもどんな時でも冷たい態度を取られた私は周りの噂の恰好の的。
最初こそ我慢していたが、ある日、偶然旦那様とその幼馴染の不倫疑惑を耳にする。
(((こんな仕打ち、あんまりよーー!!)))
旦那様の態度にとうとう耐えられなくなった私は、ついに離縁を決意したーーーー。
婚約者が他の女性に興味がある様なので旅に出たら彼が豹変しました
Karamimi
恋愛
9歳の時お互いの両親が仲良しという理由から、幼馴染で同じ年の侯爵令息、オスカーと婚約した伯爵令嬢のアメリア。容姿端麗、強くて優しいオスカーが大好きなアメリアは、この婚約を心から喜んだ。
順風満帆に見えた2人だったが、婚約から5年後、貴族学院に入学してから状況は少しずつ変化する。元々容姿端麗、騎士団でも一目置かれ勉学にも優れたオスカーを他の令嬢たちが放っておく訳もなく、毎日たくさんの令嬢に囲まれるオスカー。
特に最近は、侯爵令嬢のミアと一緒に居る事も多くなった。自分より身分が高く美しいミアと幸せそうに微笑むオスカーの姿を見たアメリアは、ある決意をする。
そんなアメリアに対し、オスカーは…
とても残念なヒーローと、行動派だが周りに流されやすいヒロインのお話です。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
この婚約は白い結婚に繋がっていたはずですが? 〜深窓の令嬢は赤獅子騎士団長に溺愛される〜
氷雨そら
恋愛
婚約相手のいない婚約式。
通常であれば、この上なく惨めであろうその場所に、辺境伯令嬢ルナシェは、美しいベールをなびかせて、毅然とした姿で立っていた。
ベールから、こぼれ落ちるような髪は白銀にも見える。プラチナブロンドが、日差しに輝いて神々しい。
さすがは、白薔薇姫との呼び名高い辺境伯令嬢だという周囲の感嘆。
けれど、ルナシェの内心は、実はそれどころではなかった。
(まさかのやり直し……?)
先ほど確かに、ルナシェは断頭台に露と消えたのだ。しかし、この場所は確かに、あの日経験した、たった一人の婚約式だった。
ルナシェは、人生を変えるため、婚約式に現れなかった婚約者に、婚約破棄を告げるため、激戦の地へと足を向けるのだった。
小説家になろう様にも投稿しています。
【完結】白い結婚成立まであと1カ月……なのに、急に家に帰ってきた旦那様の溺愛が止まりません!?
氷雨そら
恋愛
3年間放置された妻、カティリアは白い結婚を宣言し、この結婚を無効にしようと決意していた。
しかし白い結婚が認められる3年を目前にして戦地から帰ってきた夫は彼女を溺愛しはじめて……。
夫は妻が大好き。勘違いすれ違いからの溺愛物語。
小説家なろうにも投稿中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる