76 / 80
終章 けじめと別れ
一話 別れ
しおりを挟む
龍穴神社のイチョウが黄色く色づいている。数日ぶりの現世は肌寒い。
着物の上に羽織ったショールをかき寄せ、美桜は隣に立つ翡翠を見上げた。
「買い出しに付き合ってくれてありがとう」
礼を言うと、
「俺も現世に買い物に来るのは楽しい。気にするな」
との答えが返ってくる。
二人は、芙蓉に希望されたマカロンを作るための材料を仕入れに、現世へやって来たのだ。
「今日もでぱぁとに行くのだろう?」
「うん。だけど……その前に、少し行きたい場所があって。翡翠、付き合ってくれる?」
美桜は、ためらいがちに頼んだ。翡翠は一も二もなく、
「美桜の行きたい場所なら、どこでも付き合おう」
と、了承をしてくれる。
「それはどこだ?」
「ここから、地下鉄で三十分ほどかかる場所」
「ちかてつ?」
「現世での移動手段だよ」
「移動ならば、俺が飛んで連れて行こう。その方が早いだろう?」
確かに、地下鉄に三十分乗るよりも、翡翠の背に乗って行く方が早いに違いない。
「それなら、お願いできる?」
「承知した」
翡翠の姿が立派な龍へと変わる。その背に跨がると、美桜は空へと飛び立った。
***
ありふれた外観のその家は、三ヶ月前と何ら変わりなく、住宅街の中に建っていた。
懐かしいという気持ちは、不思議と沸き起こってはこない。
美桜の隣には、人間の姿をとった翡翠が立っている。
「この家は……?」
緊張した面持ちの美桜に、翡翠がそっと問いかけた。
「――以前、私が住んでいた家」
美桜は、ぽつりとつぶやいた。翡翠が軽く息をのむ。
「私、けじめをつけたいの」
叔父と叔母に何も告げず、美桜は家を飛び出した。おそらく、自分は行方不明者扱いになっているだろう。もしかすると、二人は心配をしてくれているかもしれない。
(私は、翡翠と共に幽世で生きて行くと決めた。そのことを、叔父様と叔母様に伝えておきたい。それから、今まで育ててくれてありがとう……って)
「翡翠、ここで待っていて」
美桜は翡翠の腕に軽く触れると、一歩、踏み出した。門に手をかける。柵がギイと音を立て、内側に開いた。鍵はかかっていない。
日本家屋の玄関扉の前に立つ。すると、足元でニャーンと声が聞こえた。見下ろすと、尻尾が二股に分かれた黒猫が、美桜の足首にすり寄っていた。
「猫ちゃん」
この家に住んでいた時、何度も美桜を慰めてくれた猫又だ。
「元気だった?」
声をかけると、黒猫は「元気だよ」とでも言うように、もう一度、ニャーンと鳴いた。
黒猫に勇気づけられるように、美桜はチャイムを押した。しばらくの間の後、足音が聞こえ、玄関扉が引き開けられた。パサパサに乾燥した髪を無造作に一つにくくり、スウェットとジャージという部屋着を来た千雅が、そこにいた。美桜を見て、驚いた顔をしている。
「あんた……」
「叔母様。お久しぶりです」
美桜は極力落ち着いた声で挨拶をした。千雅の表情がみるみる険のあるものに変わり、
「今までどこに行ってたの! 勝手に家を飛び出して! 私たちがどれだけ迷惑したと思ってるのよ!」
と、大声を上げた。
「ごめんなさい。私、とある場所にいました」
以前と同じ怒鳴り声。この家に住んでいた頃は怯えていたが、今は怖いとは思わない。
「とある場所ってどこよ! どうせ、どっかの男の元にでもいたんでしょ。恥知らず! 私たちが近所の人になんて言われたか分かる? 虐待していたんだろう、行方不明だなんておかしいって、警察に通報されたのよ! 私たちが、あんたに何かしたんじゃないかって、警察から事情聴取までされて! 恥ずかしくって、外も歩けやしない」
まくし立てる叔母の表情は醜悪で、美桜の胸に憐憫の情が浮かんだ。
「ちょっと、あなた、来てちょうだい! 美桜が戻ってきたのよ!」
千雅が家の中に向かって叫ぶと、リビングにでもいたのか、隆俊が玄関に出てきた。やはり、スウェットにジャージというくたびれた格好をしている。美桜の姿を見て、眉間に皺を寄せた。
「お前、どこへ行っていたんだ? お前がいなくなってから、家の仕事をしなければならなくなって、千雅は大変だったんだぞ。千雅の作る飯はまずいし、洗濯は下手くそだし……」
「あなた! ずいぶんな言いようね!」
千雅が隆俊の腕をバシンと叩く。
「やってもらっておいて、何よ、その言い草」
「俺が悪いのか? それもこれも、こいつがいなくなったせいだろうが」
隆俊に睨み付けられたが、美桜は凜とした態度で、その視線を受けとめた。
「叔父様、叔母様。今日はお礼とお別れに来ました」
美桜は静かに語り始めた。
「私は今、とある場所でお世話になっています。仕事もしています。これからは、そこで生きて行こうと思っています」
「はぁ?」
「とある場所とはどこだ?」
千雅と隆俊が怪訝な表情を浮かべる。
「この世界ではない、別の世界――龍神やあやかしたちの住む世界です」
美桜は包み隠さず話す。美桜の言葉に、千雅と隆俊が奇妙な者を見る目をした。
「その世界で友達ができました。私のことを、愛していると言ってくれる人もいます。私は今、幸せです」
胸に手を当て、目を伏せる。
「叔父様、叔母様。七年間もの長い間、私を育てて下さってありがとうございました」
美桜が心から礼を言い、深く頭を下げると、千雅と隆俊は面食らった顔になった。まさか「ありがとう」と言われるとは思っていなかったのだろう。
美桜は二人に向かって、にこりと笑いかけると、
「できれば、真莉愛さんにもお礼と……それから、謝罪をしたいのですけど、今、どこにおられますか?」
と、尋ねた。
「真莉愛は……いつものスタジオに、今日も撮影に行っているけど」
思わずといった体で答えた千雅に、美桜は「分かりました」と頷いた後、
「では、真莉愛さんのところへ行って来ます」
と、もう一度、お辞儀をして踵を返した。千雅と隆俊は、ぽかんとした様子で美桜を見送っていた。
美桜は最後まで背筋を伸ばしたまま、千雅と隆俊の前から去ると、門の外で待っていた翡翠の元へと戻った。
「お待たせ、翡翠」
心から大切に思う人に笑いかける。
「もういいのか? 美桜」
「うん。お別れはすませたから」
美桜と翡翠が話していると、先程の黒猫が近づいてきた。名残惜しそうに美桜の足に体を擦り付ける黒猫を見て、美桜は、
「猫ちゃん、もし良かったら、一緒に来る?」
と話しかけた。黒猫は嬉しそうにニャーンと鳴いた。
黒猫を抱き上げ、美桜は、
「いいかな?」
と翡翠に問いかけた。翡翠が、
「もちろん」
と答える。そして、二人は肩を並べて、美桜が育った家を後にした。
着物の上に羽織ったショールをかき寄せ、美桜は隣に立つ翡翠を見上げた。
「買い出しに付き合ってくれてありがとう」
礼を言うと、
「俺も現世に買い物に来るのは楽しい。気にするな」
との答えが返ってくる。
二人は、芙蓉に希望されたマカロンを作るための材料を仕入れに、現世へやって来たのだ。
「今日もでぱぁとに行くのだろう?」
「うん。だけど……その前に、少し行きたい場所があって。翡翠、付き合ってくれる?」
美桜は、ためらいがちに頼んだ。翡翠は一も二もなく、
「美桜の行きたい場所なら、どこでも付き合おう」
と、了承をしてくれる。
「それはどこだ?」
「ここから、地下鉄で三十分ほどかかる場所」
「ちかてつ?」
「現世での移動手段だよ」
「移動ならば、俺が飛んで連れて行こう。その方が早いだろう?」
確かに、地下鉄に三十分乗るよりも、翡翠の背に乗って行く方が早いに違いない。
「それなら、お願いできる?」
「承知した」
翡翠の姿が立派な龍へと変わる。その背に跨がると、美桜は空へと飛び立った。
***
ありふれた外観のその家は、三ヶ月前と何ら変わりなく、住宅街の中に建っていた。
懐かしいという気持ちは、不思議と沸き起こってはこない。
美桜の隣には、人間の姿をとった翡翠が立っている。
「この家は……?」
緊張した面持ちの美桜に、翡翠がそっと問いかけた。
「――以前、私が住んでいた家」
美桜は、ぽつりとつぶやいた。翡翠が軽く息をのむ。
「私、けじめをつけたいの」
叔父と叔母に何も告げず、美桜は家を飛び出した。おそらく、自分は行方不明者扱いになっているだろう。もしかすると、二人は心配をしてくれているかもしれない。
(私は、翡翠と共に幽世で生きて行くと決めた。そのことを、叔父様と叔母様に伝えておきたい。それから、今まで育ててくれてありがとう……って)
「翡翠、ここで待っていて」
美桜は翡翠の腕に軽く触れると、一歩、踏み出した。門に手をかける。柵がギイと音を立て、内側に開いた。鍵はかかっていない。
日本家屋の玄関扉の前に立つ。すると、足元でニャーンと声が聞こえた。見下ろすと、尻尾が二股に分かれた黒猫が、美桜の足首にすり寄っていた。
「猫ちゃん」
この家に住んでいた時、何度も美桜を慰めてくれた猫又だ。
「元気だった?」
声をかけると、黒猫は「元気だよ」とでも言うように、もう一度、ニャーンと鳴いた。
黒猫に勇気づけられるように、美桜はチャイムを押した。しばらくの間の後、足音が聞こえ、玄関扉が引き開けられた。パサパサに乾燥した髪を無造作に一つにくくり、スウェットとジャージという部屋着を来た千雅が、そこにいた。美桜を見て、驚いた顔をしている。
「あんた……」
「叔母様。お久しぶりです」
美桜は極力落ち着いた声で挨拶をした。千雅の表情がみるみる険のあるものに変わり、
「今までどこに行ってたの! 勝手に家を飛び出して! 私たちがどれだけ迷惑したと思ってるのよ!」
と、大声を上げた。
「ごめんなさい。私、とある場所にいました」
以前と同じ怒鳴り声。この家に住んでいた頃は怯えていたが、今は怖いとは思わない。
「とある場所ってどこよ! どうせ、どっかの男の元にでもいたんでしょ。恥知らず! 私たちが近所の人になんて言われたか分かる? 虐待していたんだろう、行方不明だなんておかしいって、警察に通報されたのよ! 私たちが、あんたに何かしたんじゃないかって、警察から事情聴取までされて! 恥ずかしくって、外も歩けやしない」
まくし立てる叔母の表情は醜悪で、美桜の胸に憐憫の情が浮かんだ。
「ちょっと、あなた、来てちょうだい! 美桜が戻ってきたのよ!」
千雅が家の中に向かって叫ぶと、リビングにでもいたのか、隆俊が玄関に出てきた。やはり、スウェットにジャージというくたびれた格好をしている。美桜の姿を見て、眉間に皺を寄せた。
「お前、どこへ行っていたんだ? お前がいなくなってから、家の仕事をしなければならなくなって、千雅は大変だったんだぞ。千雅の作る飯はまずいし、洗濯は下手くそだし……」
「あなた! ずいぶんな言いようね!」
千雅が隆俊の腕をバシンと叩く。
「やってもらっておいて、何よ、その言い草」
「俺が悪いのか? それもこれも、こいつがいなくなったせいだろうが」
隆俊に睨み付けられたが、美桜は凜とした態度で、その視線を受けとめた。
「叔父様、叔母様。今日はお礼とお別れに来ました」
美桜は静かに語り始めた。
「私は今、とある場所でお世話になっています。仕事もしています。これからは、そこで生きて行こうと思っています」
「はぁ?」
「とある場所とはどこだ?」
千雅と隆俊が怪訝な表情を浮かべる。
「この世界ではない、別の世界――龍神やあやかしたちの住む世界です」
美桜は包み隠さず話す。美桜の言葉に、千雅と隆俊が奇妙な者を見る目をした。
「その世界で友達ができました。私のことを、愛していると言ってくれる人もいます。私は今、幸せです」
胸に手を当て、目を伏せる。
「叔父様、叔母様。七年間もの長い間、私を育てて下さってありがとうございました」
美桜が心から礼を言い、深く頭を下げると、千雅と隆俊は面食らった顔になった。まさか「ありがとう」と言われるとは思っていなかったのだろう。
美桜は二人に向かって、にこりと笑いかけると、
「できれば、真莉愛さんにもお礼と……それから、謝罪をしたいのですけど、今、どこにおられますか?」
と、尋ねた。
「真莉愛は……いつものスタジオに、今日も撮影に行っているけど」
思わずといった体で答えた千雅に、美桜は「分かりました」と頷いた後、
「では、真莉愛さんのところへ行って来ます」
と、もう一度、お辞儀をして踵を返した。千雅と隆俊は、ぽかんとした様子で美桜を見送っていた。
美桜は最後まで背筋を伸ばしたまま、千雅と隆俊の前から去ると、門の外で待っていた翡翠の元へと戻った。
「お待たせ、翡翠」
心から大切に思う人に笑いかける。
「もういいのか? 美桜」
「うん。お別れはすませたから」
美桜と翡翠が話していると、先程の黒猫が近づいてきた。名残惜しそうに美桜の足に体を擦り付ける黒猫を見て、美桜は、
「猫ちゃん、もし良かったら、一緒に来る?」
と話しかけた。黒猫は嬉しそうにニャーンと鳴いた。
黒猫を抱き上げ、美桜は、
「いいかな?」
と翡翠に問いかけた。翡翠が、
「もちろん」
と答える。そして、二人は肩を並べて、美桜が育った家を後にした。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
193
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる