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一章 幽世へ

十九話 封印するべき言葉

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 湯船を出ると、早雪が脱衣所で待っていて、浴衣の着方が分からない美桜に着付けてくれた。花の匂いがする化粧水とクリームを塗られ、基礎化粧品など一度も使ったことのない乾燥気味の美桜の肌が潤い、つややかになった。
 髪にオイルを付け、布で丁寧に拭き上げた後、早雪は、

「さあ、お部屋へ参りましょう」

 と言った。

「あっ、はい」

 湯上がりの身だしなみを早雪に任せてしまった美桜は、早雪の手を煩わせてしまったことに罪悪感を抱きながら脱衣所を出た。

(翡翠様に、使用人の皆さんに、私のことは気をつかわないで下さいって言ってもらおう。でないと、申し訳ないし……)

 早雪だって、きっと他の仕事もあるだろう。

 桜の間へと戻ると、

「美桜。風呂はどうだった?」

  翡翠が座卓の前に座って茶を飲んでいた。

「お風呂、とっても気持ち良かったです。露店の岩風呂で、素敵でした」

 美桜が感想を言うと、

「そうか。ならば良かった。次は食事だ。軽いものを作らせた」

 翡翠が美桜を手招いた。

「では、私は失礼します」

 早雪が畳に両手をつき、お辞儀をした後、部屋を出て行く。

「こちらへおいで」

 翡翠が自分の隣の座布団を叩いたので、美桜は近づいて行くと、遠慮がちに腰を下ろした。座卓の上には盆が置かれていて、おにぎりと卵焼き、味噌汁がのせられている。それを見た途端、美桜の腹が、ぐ~っと鳴いた。

「あっ、す、すみません、私……」

 恥ずかしさで赤くなっていると、翡翠が、ふっと唇の端を上げた。

「可愛い音だった。さあ、おあがり」

 さらりとそんなことを言われ、美桜の頬が赤くなる。

(夕食は食べてきたはずなのに……)

 風呂にも入り、緊張が解けて、空腹を感じたのだろう。体は正直だ。
 空腹には逆らえず箸を取り、翡翠の「おあがり」という声に背中を押されて、「いただきます」と手を合わせる。卵焼きを口に運んで、美桜は目を丸くした。

「おいしい……」

 半熟気味で、ほのかに甘みがある。疲れた体にしみるような優しい味だ。
 今度はおにぎりを手に取り、ぱくりと齧り付く。中は昆布だった。
 三つあったおにぎりはどれも違う具で凝っている。無心に食事をとっている美桜を、翡翠が柔らかい表情で眺めている。

 料理を平らげ「ごちそうさまでした」と手を合わせた後、美桜は急に恥ずかしくなり、

「すみません、私……こんなに食べてしまって……図々しくて……」

 と、小さな声で謝った。

「図々しくはない。美桜は腹を空かせていたのだから」

 翡翠が「気にするな」と言ったが、

「でも……私なんかのために、こんな親切にしていただいて……ごめんなさい」

 それでも、美桜が申し訳なく思っていると、

「『私なんか』と言ってはダメだ。自分を卑下するな。俺は、美桜だから、君を助けたいと思った。それから、『すみません』も『ごめんなさい』も禁止だ。俺は美桜に喜んでもらいたくて、こうしている。それを感じ取ってくれるなら、謝罪よりも『ありがとう』と言われた方が、俺は嬉しい」

 と、注意をされた。
 美桜はハッとした。親切でしてくれたことに対し、『すみません』や『ごめんなさい』と返すのは、相手の好意を否定した、失礼な言葉だ。それに気がつき、美桜は自分を恥じた。

「ご、ごめんなさ……」

「美桜」

 翡翠が、「その言葉は封印」とでも言うように、美桜の唇に指をあてた。美桜は口走りかけた謝罪の言葉を飲み込むと、

「あ、ありがとう……ございます」

 と、礼を言った。翡翠の顔に、ふっと笑みが浮かぶ。

「どういたしまして」

 感謝の言葉に、感謝で返す。今まで、叔父や叔母、いとこに対し「ごめんなさい」しか言ってこなかった美桜は、優しい言葉の連鎖に、胸の中が熱くなった。

(『ありがとう』って素敵な言葉)

 これから自分は、たくさん「ありがとう」を言っていこう。そう心に決め、美桜は翡翠に笑いかけた。
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