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『母』
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母はダイニングではなくキッチンに居た。たった今開けたばかりのカップ酒をあおっている。
「……どういうつもりなんですか?」
ダイニングとリビングに壁などの境はない。セイカとアキには聞こえないように、念のために声を潜めた。
「セイカ様とゲームなんて」
セイカはタブレットを持ったまま母にリビングに引っ張られて行った、覗いてみると一人でゲーム中のアキの隣でタブレットを弄っている。
「……ママ上のこと怖がってるんであんまり構ってやらないで欲しいんですけど」
「あら……独り占め? ずるい子」
「そういう訳じゃ……ただ、セイカ様……怯えてて、見てらんないんでそ」
「……同じ家に住んでて、数ヶ月やそこらで出てくようなもんでもないんだし……普段離れのアキの部屋に居るからって、全然関わらないのもなーって……仲良くしようと思ったのよ」
酒を一口飲み、深いため息をつく。
「ムカついたわ、わざわざ私の方からそんな義理もないのに歩み寄ってあげたのに、怯えてどもって声小さくして……」
「……セイカ様はせめて不快にさせないようにって一生懸命なんでそ。息を潜めてるのに近寄ってこられたら、そりゃ困りまそ」
石の下の暗がりでじっとする気持ちの悪い虫の気分。わざわざ太陽の下に引きずり出して「キッショ!」と笑われるあの気分。キモオタの俺には覚えがあり過ぎる。
「髪、染めたでしょ。アンタを虐めてた時とは随分印象が変わったから結構イケたわ」
「レイどのグッジョブですな」
「さっき……殴ろうとなんかね、露ほども思ってなかったの。撫でようとしたのよ、百パーセント……義務感じゃなくてね。なのに……あんなに怯えるなんて」
母はじっと自らの右手を見た後、俺の頭を撫でた。
「アンタは怯えないし嫌がらないわよね」
「えぇ、まぁ……」
「……セイカくんは私に殴られると思ってるのかしら、いつも警戒してるの? それとも、手は撫でるのに使うものだってこと……あんまり馴染んでないのかしら」
「…………後者だと思いまそ。わたくしが触ろうとしても、本や勉強に集中しててわたくしの接近に気付いていないと……影がかかった瞬間ビックゥッ! ってしますし」
セイカは怯えるだけだから可愛いものだけれど、シュカは反撃の体勢を整えるしアキは先制攻撃を狙ってくるし、あの二人怖いんだよなぁ。
「そうよね、いっぱい殴られてきたのよねきっと。だから暴力のハードルが低いのよ……ねぇ、水月……セイカくんのこと、恨んでないの?」
「え、えぇ……全く」
虐待に気付けたのではと当時感じた不信感を思い出してからは、罪悪感でいっぱいだ。ゴミ屋敷の床が見えないように、もう頭の中に憎悪が見当たらない。
「…………なんか、哀れでね。いっつも怯えられると「加害者のくせに何怯えてんのよ」ってムカつくのよ、でもあの時はなかった」
母はまた自身の右手を見つめている。
「ダメよ、まだ十代の子供に……あんな防御姿勢極めさせるほど、暴力振るうなんて……そんなこと」
酒を飲み切り、深いため息をつく。
「…………可愛いじゃない、子供って。どんなに放ったらかしにしても、冷たい態度取っても、一途に母親慕って……可愛いじゃない、すごく。お母さん大好きって、言ってくれて……可愛いのに、どうして……なんで葉子、水月のがいいとか言うのよ、アキくん可愛いのに。なんであの女っ、セイカくんのこと殴ったりしたのよ……聡明な子なのに」
「ママ……」
「可哀想じゃない……一途に愛してるのに、返してもらえないなんて。本来親から先に渡してあげるものなのよ、人の愛し方教えてあげなきゃいけないの。なのに……はぁ、もう……落ち込むわー……アンタ産んでしばらくしてからホント、虐待死のニュースとか見てらんなくなっちゃったのよね」
「そう……なんですか」
「うん…………水月、セイカくん……よく攫ってきたわね。でかしたわよ、保護出来てよかったわ。よしよし……水月はほんとに優しい子。自慢の息子よ、大好き」
「…………私、も……その、大好きですよ、母さんのこと……」
男子高校生にとっては最も恥ずかしい言葉だ、顔が熱い、喉が痛くなってきた。
「水月……! あぁもう可愛いぃ~!」
「おわっ……だ、抱きつかないでくださいまし! ちょっと酔ってますな!?」
「この私が一本で酔うわけないじゃない」
「夕飯の時からビール飲んでたじゃないですか! あっこら、二缶目はダメでそ! 飲み過ぎ!」
「ケチー!」
諦めてコップに水を汲むまで冷蔵庫の前に立って母の飲酒を妨害し続けた。レイといい母といい、酒とはそんなにも美味いものだろうか。
「あ、そうそう水月、明日セイカくん試験じゃない。でも私その時間仕事なのよね、水月セイカくんを学校まで連れてったげてくれる?」
「はぁ、まぁもちろん構いませんが」
「ありがとー。必要な書類とか今のうちに渡しておくわね、ちょっと待ってて」
書類は全て大きな封筒にまとめられており、一枚だけ紛失するなんてことはなさそうだったけれど、それでも重要な書類を渡されるというのは緊張する。
「お願いね」
テストは国語、数学、英語の三教科らしい。一回五十分だろうから三時間弱待たなければならない。図書室が開いていればいいのだが。
《兄貴! 対戦やろうぜ》
「アキ、どうした?」
「ゲームしよって言ってんのよ、行ってやりなさい」
「ありがとうございまそ。いいぞアキ、どれの対戦するんだ?」
アキに引っ張られてダイニングへと向かいながら振り向くと、母が穏やかな表情で俺達を見つめていた。
「……どういうつもりなんですか?」
ダイニングとリビングに壁などの境はない。セイカとアキには聞こえないように、念のために声を潜めた。
「セイカ様とゲームなんて」
セイカはタブレットを持ったまま母にリビングに引っ張られて行った、覗いてみると一人でゲーム中のアキの隣でタブレットを弄っている。
「……ママ上のこと怖がってるんであんまり構ってやらないで欲しいんですけど」
「あら……独り占め? ずるい子」
「そういう訳じゃ……ただ、セイカ様……怯えてて、見てらんないんでそ」
「……同じ家に住んでて、数ヶ月やそこらで出てくようなもんでもないんだし……普段離れのアキの部屋に居るからって、全然関わらないのもなーって……仲良くしようと思ったのよ」
酒を一口飲み、深いため息をつく。
「ムカついたわ、わざわざ私の方からそんな義理もないのに歩み寄ってあげたのに、怯えてどもって声小さくして……」
「……セイカ様はせめて不快にさせないようにって一生懸命なんでそ。息を潜めてるのに近寄ってこられたら、そりゃ困りまそ」
石の下の暗がりでじっとする気持ちの悪い虫の気分。わざわざ太陽の下に引きずり出して「キッショ!」と笑われるあの気分。キモオタの俺には覚えがあり過ぎる。
「髪、染めたでしょ。アンタを虐めてた時とは随分印象が変わったから結構イケたわ」
「レイどのグッジョブですな」
「さっき……殴ろうとなんかね、露ほども思ってなかったの。撫でようとしたのよ、百パーセント……義務感じゃなくてね。なのに……あんなに怯えるなんて」
母はじっと自らの右手を見た後、俺の頭を撫でた。
「アンタは怯えないし嫌がらないわよね」
「えぇ、まぁ……」
「……セイカくんは私に殴られると思ってるのかしら、いつも警戒してるの? それとも、手は撫でるのに使うものだってこと……あんまり馴染んでないのかしら」
「…………後者だと思いまそ。わたくしが触ろうとしても、本や勉強に集中しててわたくしの接近に気付いていないと……影がかかった瞬間ビックゥッ! ってしますし」
セイカは怯えるだけだから可愛いものだけれど、シュカは反撃の体勢を整えるしアキは先制攻撃を狙ってくるし、あの二人怖いんだよなぁ。
「そうよね、いっぱい殴られてきたのよねきっと。だから暴力のハードルが低いのよ……ねぇ、水月……セイカくんのこと、恨んでないの?」
「え、えぇ……全く」
虐待に気付けたのではと当時感じた不信感を思い出してからは、罪悪感でいっぱいだ。ゴミ屋敷の床が見えないように、もう頭の中に憎悪が見当たらない。
「…………なんか、哀れでね。いっつも怯えられると「加害者のくせに何怯えてんのよ」ってムカつくのよ、でもあの時はなかった」
母はまた自身の右手を見つめている。
「ダメよ、まだ十代の子供に……あんな防御姿勢極めさせるほど、暴力振るうなんて……そんなこと」
酒を飲み切り、深いため息をつく。
「…………可愛いじゃない、子供って。どんなに放ったらかしにしても、冷たい態度取っても、一途に母親慕って……可愛いじゃない、すごく。お母さん大好きって、言ってくれて……可愛いのに、どうして……なんで葉子、水月のがいいとか言うのよ、アキくん可愛いのに。なんであの女っ、セイカくんのこと殴ったりしたのよ……聡明な子なのに」
「ママ……」
「可哀想じゃない……一途に愛してるのに、返してもらえないなんて。本来親から先に渡してあげるものなのよ、人の愛し方教えてあげなきゃいけないの。なのに……はぁ、もう……落ち込むわー……アンタ産んでしばらくしてからホント、虐待死のニュースとか見てらんなくなっちゃったのよね」
「そう……なんですか」
「うん…………水月、セイカくん……よく攫ってきたわね。でかしたわよ、保護出来てよかったわ。よしよし……水月はほんとに優しい子。自慢の息子よ、大好き」
「…………私、も……その、大好きですよ、母さんのこと……」
男子高校生にとっては最も恥ずかしい言葉だ、顔が熱い、喉が痛くなってきた。
「水月……! あぁもう可愛いぃ~!」
「おわっ……だ、抱きつかないでくださいまし! ちょっと酔ってますな!?」
「この私が一本で酔うわけないじゃない」
「夕飯の時からビール飲んでたじゃないですか! あっこら、二缶目はダメでそ! 飲み過ぎ!」
「ケチー!」
諦めてコップに水を汲むまで冷蔵庫の前に立って母の飲酒を妨害し続けた。レイといい母といい、酒とはそんなにも美味いものだろうか。
「あ、そうそう水月、明日セイカくん試験じゃない。でも私その時間仕事なのよね、水月セイカくんを学校まで連れてったげてくれる?」
「はぁ、まぁもちろん構いませんが」
「ありがとー。必要な書類とか今のうちに渡しておくわね、ちょっと待ってて」
書類は全て大きな封筒にまとめられており、一枚だけ紛失するなんてことはなさそうだったけれど、それでも重要な書類を渡されるというのは緊張する。
「お願いね」
テストは国語、数学、英語の三教科らしい。一回五十分だろうから三時間弱待たなければならない。図書室が開いていればいいのだが。
《兄貴! 対戦やろうぜ》
「アキ、どうした?」
「ゲームしよって言ってんのよ、行ってやりなさい」
「ありがとうございまそ。いいぞアキ、どれの対戦するんだ?」
アキに引っ張られてダイニングへと向かいながら振り向くと、母が穏やかな表情で俺達を見つめていた。
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