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心は折れない

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レイが逃げていく、姿が見えなくなっていく。もっと躊躇うと思っていたから、ちょっとショック……いや、これでいいんだ。

(逃げろっつってんのに逃げないヒロインとか、映画観ててもイライラしますもんな)

包丁を握った状態で右手を踏まれているから、左手に持ち替えるだとかは出来ない。とりあえず踏んでいる足を左手で掴んで、もう片方の足に両足を絡みつかせているけれど、この程度じゃ多分すぐに振りほどかれる。

(この後、わたくしをぶん殴ってまた気絶させて、レイどのを追うと思うんですよな。レイどの……ただ逃げずに警察とかに駆け込んでくだされ)

工場地帯はそこそこの広さで、交番や商店はこの地帯を抜けないとなかったはずだ。左腕は頭を庇って気絶までの時間を伸ばそうか。そうやって俺が悩んでいたのに、元カレはあろうことかスマホを持った。

「…………レイが逃げた。全員に伝えろ。今の髪色は紫、服も紫。ズボンは黒。無傷で捕らえろ」

まさか、電話の相手は子分か? しまった、そうだった、コイツは不良の親玉だ。ここで俺がコイツだけを止めたって、レイを追う者は大量に居るんだ。どうしよう、どうしようもない、レイが逃げ切れることを、どこかに逃げ込めることを、祈るしかない。

「……俺はあまりアイツらのことは信用していない、出来ればすぐにレイを追いたい」

「ぐぁっ……ぁ、ゔ……折れるっ、踏むな、クソっ……!」

元カレは俺の右手を踏んだまま屈み、俺の右手に更に体重をかけつつその大きな手で俺の頬をつまんで引っ張った。

「…………気絶させてしまうのはよくなかったな、一撃で沈めると格の違いが分かって逆らわなくなる者が多いんだが……意識を飛ばしてしまうと何があったか分からなくなる、だから俺のものを奪えるなんて勘違いをするんだ」

「レイはっ、物じゃない! 人間だ、少しはレイの気持ちも聞けよっ! レイは、お前が嫌いだ! 俺のことが好きなんだ!」

頬を離され、髪を掴まれ、地面に頭を叩きつけられた。

「……お前に付きまとわれるのは鬱陶しい。趣味じゃないが……これからお前を痛めつける、心が折れたら言え」

立ち上がった元カレは俺の右手をぐりぐりと踏み躙りながら背を曲げ、包丁を奪おうと俺の手からはみ出た柄をつまんだ。

「……離せ、刺さないとは約束しよう」

離してたまるか。コイツが俺から離れてレイを追わないのは刃物を警戒しているからだ、俺はもうボロボロなのだから俺の心を折るのを優先する必要はない、レイを捕まえてからゆっくり俺を嬲ればいい、それをしないのは包丁が怖いからだ。絶対に離さない。

「…………心が折れたかどうか、確かめやすくて助かるが……」

もう片方の足が胸に乗った。二メートル超えの巨漢の全体重が俺にかかっている。右手の指は本当にまだ折れていないのだろうか。

「……どうやったら諦めてくれる?」

元カレはまた屈んだ。ティンッ、と甲高い音がしたかと思えば、ライターの炎が揺らめいていた。高校生のくせにタバコに火を点けた彼は面倒臭そうに白い煙を吐き、俺にタバコを向けた。

「…………レイは蓮の花の穴だとか、不規則な水玉みたいな……そういう円がブツブツと大量にあるのが嫌いらしい、身震いがするとか言っていた」

「蓮コラっ、は……有名な、トラウマだからな……それが何だよっ、踏むな、重たいっ……何キロあるんだよお前っ!」

「……三桁はある。一つ考えたんだ、お前がいくら美形でも、口が上手くても、顔に気持ちの悪い斑点が無数にあればレイはお前と付き合うなんて言わなくなるんじゃないか、とな。鳴雷……お前、根性焼きの跡を見たことがあるか?」

漫画だが、ある。タバコを押し付けられた跡、小さな円形の火傷は大量にあると非常に気持ち悪い。

「…………他にも彼氏が居るんだろう? レイは諦めてそいつらを取れ。このままだと全員に逃げられるぞ?」

タバコがゆっくりと近付いてくる、灰が頬に落ちた、熱い、すぐに顔を振って払い落としたが、タバコはそうもいかないだろう。元カレの左手で顎を掴まれてしまった。

「……せっかく綺麗な顔に産まれたのにもったいないぞ。レイを諦めると言えばいいだけだ、ほら」

セイカも他のイジメっ子もタバコは吸っていなかったから、火傷を負わされたことはない。どんな痛みなのだろう、呼吸が荒くなってきた、涙が溢れてきた。

「…………顔じゃダメか、じゃあ目を潰すか?」

すっ、とタバコの先端が左目の方を向く。元カレの左手が顔を掴むように頭を押さえ、瞼を無理矢理開かせた。眼球の数センチ先にタバコがある。

「ひっ……!? ぃ、やっ、嫌だっ、嫌っ……!」

「……嫌なら」

「レイは渡さない!」

「…………目もダメか。難しいな、お前は」

元カレはタバコを咥えた。なんだコイツ、脅すだけ脅して全然やってこないじゃないか。取り返しのつかない怪我を負わせるのは怖いのか? なんて俺が元カレを舐め始めた頃、何の予告もなく顔を殴られた。

「いっ……!? ぁ、あっ……」

頬骨が折れたと勘違いするほどの痛みに身体を丸める。元カレはゆっくりと立ち上がり、右足から降りて俺の身体を蹴り転がした。

「……面倒臭い。拷問は趣味じゃない。人を殴るのだってそんなに好きじゃないんだ」

痛い。重い。腹に背中に腰に頭に与えられる蹴撃は、元カレの動きは石蹴りをする子供のようなのに、俺への衝撃や痛みはまるで交通事故だ。一撃一撃が骨に響く。

「ぅぐっ……! ぁあっ! はっ、はっ……うぁあああっ!」

これ以上蹴られたら本当にもう動けなくなる。最後のチャンスだ、足だけでももらってやる。全身全霊を込めて包丁を振る──

「……っと、まだまだ元気だな」

──あっさり避けられた。瞼を閉じてはいないのに目の前が真っ暗になった、これが絶望か。右手の力が緩む、その隙を逃さず元カレは俺の右手を蹴りつけ、包丁は地面をザーッと滑っていった。

「あっ……」

「…………得物は失くした訳だが、まだ諦めないのか?」

失くしてなんていない、立って数歩走れば届く距離にある。でも、立てない。じゃあ失くしたのと同じじゃないか。

「かた、す……」

「……お前歳下だろ? 形州……先輩、だ」

起き上がることも出来ないけれど、表情筋はまだ動く。俺はニヤリと笑ってみせた。

「二メートル超えとか、すごいよなお前。デカいほどエロいんだよ人間は。日焼けじゃない褐色とか……やべぇ、エロの権化。たまんねぇ雄っぱいしやがって。足も太くてイイ……そんな、エッロいお前に嬲られたってなぁっ! ご褒美なんだよ……ありがとうございますっ!」

「………………気色悪」

元カレは立っていて、俺は地に伏せっている。それだけ見れば俺の負けだろう。だが表情はどうだ? 俺は笑っていて、元カレは苦虫を噛み潰したような顔をしている、俺の勝ちだ。
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