自称不感症の援交少年の陥落

ムーン

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幸せは薄氷のように

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過去に遡っても父から愛情を注がれたことが皆無だったと分かって開き直ってしまったのか、母には産まれる前から愛されていたと知って救われでもしたのか、ここしばらく俺の人生は充実していた。
キョウヤとの夜の時間はもちろん、大学生活もそこそこ上手く回り始めて、一日のうち一瞬も嫌なことを思い出さない日があるほどだった。

「……うん、美味しい。上手くなったね、レイン」

ある日の昼下がり、俺は急須で入れたお茶をキョウヤに飲んでもらった。動機は単純、以前来客対応を任された際にお茶出しを失敗したからだ。

「キョウヤさんのお仕事手伝える?」

「したいのかい?」

「うん、何もせずに置いてもらってるだけってなんか嫌だし」

「そう……まぁ、そうだね、こんなに美味しいお茶を入れられるんだから、来客対応も覚えてもらおうかな。うちはまずサイトや電話で依頼を受けるから、急に人が来ることはないよ」

「ふーん……じゃあお客さん来る前にキョウヤさんが言ってくれるってこと?」

「そうだね、お茶を出したら三階に戻っていいよ」

仕事場に居させてもらうことは出来そうにないが、それは仕方ない。次に依頼人が来る日が楽しみだ。

「ん……? レインのかい?」

着信音が鳴り響き、自身のポケットに手を当てたキョウヤが俺を見つめる。

「あ、うん、ごめんねキョウヤさん」

「構わないよ、友達かい?」

俺に友達なんて居ない。電話をかけてくるヤツなんてアイツしか居ないのに、どうして俺は笑顔でスマホを手に取ったのだろう。ずっと幸せだったからだ、平和ボケしていたんだ。

「……出ないのかい?」

「出る、よ。もしもしー……?」

父という文字が表示されたスマホを握り締め、耳に当てる。キョウヤの声を聞いて癒されていた耳が大嫌いな声に穢される。

『明日家に行く、いつもの時間だ。金用意しとけよ、六十万だ』

「ろくじゅっ……!? な、なんで、四十五って話しじゃ……」

『この前俺の家に忍び込みやがっただろ、慰謝料だよ。百万払うだの言ってたんだから六十万くらい余裕だろ? 毎月六十にするか、今月はやっぱり百万もらおうかな。売れっ子だもんなぁ、はははっ!』

今月百万? 毎月六十万? 冗談だろ? そんな大金払っていける訳がない。キョウヤに隠れて身体を売ったとしてもそんなに稼げないだろうし、キョウヤにねだるなんて近親相姦の事実を伝えることと同じくらいに嫌だ。

「そんなに稼げないよっ……!」

『そうか……じゃあ仕方ないなぁ、お前とのハメ撮りどっかに売れないか知り合いに相談してみるわ』

「……待って。分かった、分かったから……頑張る、から」

雑に晒すのではなく販売ならキョウヤに見られるリスクは下がる。だが、この先俺がキョウヤの下で会計士として働いて、その中で誰かが俺のことを知ったらキョウヤにも──!

『分かりゃいい。じゃ、明日な』

一方的に通話が切られた。深いため息をついてスマホを下ろすと、心配そうな灰色の視線に気が付いた。

「レイン……電話の相手は誰だい? 何の話をしていたんだい?」

「なんでもない……気にしないで」

「レイン、話しなさい」

「なんでもないってば! 大したことじゃない、俺一人で何とかするから……キョウヤさんは気にしないで。ごめんなさい、いっぱい課題溜まってるから……今日はもう、ごめんなさい」

逃げるように三階に向かい、明日使わされるだろうワンピースを用意しておくためキョウヤが俺のためにと空けてくれたクローゼットを開く。

「……母さん……キョウヤさん」

母の形見のワンピース、キョウヤが買ってくれた服、ここには俺の大切な物ばかりある。

「どうしよぉ……お金、どうしよう……」

俺が産まれる前から俺を憎んでいて、俺を苦しめて金を搾り取ることしか考えていない父の説得なんて不可能だ。キョウヤに近親相姦の事実を隠して相談することも、キョウヤに知られずに大金を稼ぐことも不可能だ。
幸せになりたいのに、父からの電話があるまでは幸せだったのに、ようやく幸せになるための努力をする気になったのに、どうしてこんなにもどうしようもない状況に置かれているのだろう。



母の形見のワンピースを鞄に詰めて、普段と違う俺の様子を心配するキョウヤに行ってきますのキスをして、彼の手を振り切るように大学に向かった。
大学の何もかもが昨日までが嘘のように憂鬱で、キョウヤの事務所ではなく俺の自宅に向かうために電車に乗った時なんて泣き出してしまいそうだった。

「……ん、確かに六十万」

久しぶりの自宅で土下座しながら、俺は昨日の電話での百万円発言が父の笑えない冗談だったことに安心していた。

「来月も六十万な」

「えっ……な、なんで……先月は三十万だったじゃん、四十五でも無茶なのに、六十万なんて無理に決まってるだろ!」

「頭使え。おっさんに身体売ってばっかじゃなく、バカ女騙して風呂にでも落として金巻き上げろ。お前の歳ならそれくらいやるべきなんだよ」

「そんな……そんなこと、俺出来ない……」

「じゃあハメ撮り売るだけだ。あぁ……お前の好きな人とやらにはタダで見せてやろうな。どんなヤツなんだ? ん? 紹介しろよ、俺はお前のお父様だぞ。あぁ?」

詰んでいる。逃げられない。どうしようもない。
父に足蹴にされながらその三つの言葉が頭の中でぐるぐる回った。

「…………父さんの家燃やしても、俺のハメ撮りのデータ……完全には消せないんだよね」

「あぁ? あぁ、しっかりクラウドに保存してあるからな。だから消そうだなんて無駄だぞ、さっさと着替えろ」

「……はい」

父は俺が着替えるところを見ない。母になっていく過程を見ては女装した俺を母だと思い込みにくくなるからだろう。

「…………」

ズボンを脱ぎ、ベルトを抜き、ベルトの端を両手に巻いてしっかりと握り締め、俺は俺に背を向けている父に忍び寄った。

「着替えたか?」

「……もうちょっと」

「チッ……とろいな、早くしろ」

「…………今日はいつもと違うプレイしたいからさ、ちょっと座っててくれない?」

「はぁ? ったく……座位でもすんのか?」

「ううん、首絞めプレイっ……!」

素直に床に座った父の首にベルトを回し、思い切り締め上げる。

「……っ!? がっ……! ゔっ……」

手が痛い。手のひらに爪が刺さる。平べったいベルトは想像以上に握りにくい。

「暴れないでよっ! 重いっ……暴れるなっ、死ねよ、大人しく死ねっ! 死んでよお願いだから死んでっ! はやく死んでよぉっ!」

いつものようにぼんやりとではなく、明確に父の死を願った。父の首を絞めることに必死になる俺を斜め上から見下ろしている俺も心の中にいて、その俺は「死んで欲しいって願うなんて父さんと同じじゃないか」と俺を冷笑した。

「死ねっ……死ね、死んで、お願いだからはやく死んで…………死ん、だ? 父さん……死んだの?」

ピクピクと跳ねていた父の四肢が動きを止めた瞬間、俺は手を開いてベルトを離した。ここまで何かを必死に握ったのは生まれて初めてかもしれない。

「死んだ……! やった、これでもう……!」

金を要求される心配も、キョウヤに近親相姦がバレる心配もない。俺は晴れやかな気持ちでズボンを履き、父の首を絞めたベルトを腰に巻いた。
もう父に悩まされることがないという解放感に支配され、咳き込む声が聞こえる瞬間まではしゃいでいた。

「…………ぇ」

知らなかったんだ、首を絞めて動かなくなったら死んだ証だと思っていたんだ、ただの気絶の可能性もあるなんて知らなかった。絞首刑があるくらいだから首を絞めれば人間は簡単に死ぬと思っていたんだ。

「あっ……ぁ……! ぅあぁあああっ!」

殺される。起き上がった父に睨まれた瞬間にそう感じ、俺は鞄を置いて自宅から逃げ出した。
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