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夢を見せる怪異
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記憶の齟齬が、とてつもない違和感が、ゆっくりと消えていく。蛇の体内で溶かされるように何か大切なものがなくなっていく気がする。
「可愛いポストカード作れたな。美術部どうしようかな~、お前はどうする?」
俺がこの世界に馴染んでいくような感覚がある。不思議だ、心地いいのに恐ろしい。まどろみの中に居るような気分なのに、取り返しのつかないことが着々と進んでいる気もする。
「あぁ……どうしようかな、レンが入るなら入ろうかな」
「俺もお前が入るなら入ろうかなーって思ってたんだけど」
レンは俺の腕に抱きついている。下駄箱を出た辺りからずっとそうだ。レンは女の子だから誰も俺達に嫌な視線を向けない、せいぜい羨望の視線だ。もし俺が今朝寝ぼけて言ってしまったようにレンが男だったら、レンは奇異の視線に晒されていただろう。
「あ、そうなの……俺あんまり絵に興味ないしな」
「んじゃやめとくか。勉強頑張んなきゃだしな」
「うーん……でも帰宅部ってのもな、色気がないって言うか、思い出が出来なさそうって言うか」
「青春の思い出が俺だけじゃ不満か?」
「……ふふ、ううん、全然。そうだな、レンが居るもんな……うん、部活はいいや。俺にはレンだけでいい」
「熱烈だな、胸きゅんしちゃうぜ」
レンが女の子でよかった。幼い頃俺は彼にプロポーズをした、お嫁さんになってくださいと……女の子でないと知ったら俺はレンの気持ちも考えず泣き喚き、なんで女の子じゃないんだと責め立てただろう。そんなことになったら俺に惚れてくれたレンは酷く傷付く。レンが女の子でよかった。レンは、女の子だった方が幸せになれる。
「ただいま、母さん」
「おかえりノゾム、レンちゃんも一緒? 暗くなるまでに家に送ってあげなさいね」
「はーい」
母に挨拶が出来る、母に笑いかけてもらえる。当然の日常のはずなのに泣き出しそうなほど嬉しい。
「着替えてくる」
洗面所兼脱衣所に一人で向かい、制服を脱ぐ。ふと気になって胸や腹をさするも、何も引っかからない。ボディピアスどころか耳のピアスすら一つも空けたことがないはずなのに、どうしてピアスがある気がしたのだろう。
『もち!』
「うわっ! ぁ、レン……また、鏡に」
鏡に自分以外の者が映るなんて怪奇現象でしかないのに、俺は何故かあまり恐怖を感じなかった。レンの姿をしているからだろうか。
『早く目ぇ覚ませ、ここは夢の中なんだよ!』
「どうなってるんだよこの鏡……」
『聞いてんのかもち! もち、自分のもんじゃない夢の中に無理矢理入っちまったからか俺は鏡から出られねぇ。でも鏡から鏡へは移動出来た、ちゃんとした鏡だけじゃなく……映るものなら窓ガラスとかでもギリイケた。見させてもらったぜこの世界、随分と都合がいいじゃねぇか……』
「…………頭、痛い」
『両親健在で仲良しで! 根野はまともな教師でミチは吃音症じゃねぇし形州は不良の親玉じゃねぇ! 何より俺が女だ! こりゃいい世界だなオイ、何の憂いも悲しみもねぇじゃねぇか……これがお前の理想の世界か? 俺が男なのやっぱり嫌だったのかよ! そんなに女がいいのかよ!』
「何、言って……レンは、女の子で」
頭が割れそうに痛い。ちぎり捨てられたはずの記憶の欠片が脳に刺さっている。口から勝手に言葉が溢れる。
「俺が、お嫁さんになってって言ったから……なろうと、してくれて……俺の、せいで、苦しんで……何年も何年も、女の子になりたいって願い続けてて……俺の、せいで、俺がバカだったから、俺が最低のクズだったから……」
『もち……!』
「ごめん、なさい……ごめんなさい、好き……レンが、好き。レンが好きなんだ、俺……お嫁さんとか、女とか男とか、結婚とか、人の目とか……どうでもいいんだ、レンが好きなんだ……」
『もち、じゃあ戻ってこいよ! もち! 起きろよもちぃ! 夢なんだよこれは!』
「そう、どうでもいい……どっちでも、多分同じくらい好きになってて……だったら、レンは女の子の方が、レンは幸せになれそうで……」
『は……!? もちっ、おいもち! 俺の幸せ勝手に決めんなっ!』
ぺた、ぺた、と足音が聞こえる。
『俺の幸せはお前の傍にしかないんだ! 戻ってきてくれよもちぃ! 起きてくれよっ! お前が居ないと俺生きてけないんだよぉ!』
涙混じりの絶叫に、痛む頭を抱えるのをやめて顔を上げる。鏡には俺とレンが映っている。俺の背後に立ったレンはぎゅっと俺を抱き締めた。腕も身体も何もかも柔らかくて頼りなくて……なんか、物足りない。
「……レン」
『もち! もちぃ! 俺はこっちだ! こっちなんだってぇっ! 何なんだよその女っ、ふざけんなよぉ!』
「まだ着替えてないのか? もちぃ」
「レン……俺、ずっと傍に居るから」
『のぞむぅ……俺は、ここなんだって、そいつじゃない……帰ってきてぇ』
「なぁに急に。ふふ、嬉しい。ほら早く着替えて。鏡は俺に譲ってよ、髪型整えたくって」
髪型が崩れているようには見えないけれど、女の子は繊細な生き物だ、俺には分からない何かがあるのだろうと納得し、鏡から離れて服を着始めた。
「…………蛇、いや鬼か。勝手に入ってくるなんて、なんて礼儀知らずだろう」
レンは何やら独り言を言いながら髪を櫛で梳かしている。
「理解していると思うけれど、ここは月乃宮 望の夢の世界。如月 蓮が既にここに居る以上、君が夢の世界で実体化することは不可能だ。ずっと幽霊状態だよ」
『てっ、めぇ……てめぇが怪異の本体か、もちを返せっ!』
「捕まえてはないよ。月乃宮 望が望めば今すぐにでもこの世界は消え、僕は月乃宮 望から弾き出される。僕に出来るのは居心地のいい夢の世界を設計することだけ。夢の主はあくまで人間だ、僕の意思じゃ夢の世界は終わらない」
『ごちゃごちゃ言ってんじゃねぇ今すぐもちを返せっつってんだ!』
「月乃宮 望は随分と現実世界に不満があったみたいだね。差があり過ぎて夢に馴染むまでに時間がかかってるよ。可哀想にね、こんなにも現実と差があるなんて、なんて可哀想なんだろうね……酷い現実に引き戻そうとするなんて、惨い恋人だね」
『ふざけんなっ……! もちがこの夢を完全に受け入れた時点でっ、てめぇがもちを食い殺すっつーのは分かってんだよ!』
「現実で幸福に暮らせない人間を幸せな夢の中に浸ったまま死なせてあげてるんだ。他の怪異よりよっぽど優しいと思うなぁ……」
『何人も人殺してるヤツが何言ってんだ!』
「でも僕は人に望まれて生まれたんだよ? 都市伝説……って言うんだっけ。誰かがどこかに書き込んだ願いごと……ネットの海を漂流した希望、幸せな夢を見せながら死なせてくれる、海の怪異」
『……そうかい、てめぇの正体が分かったよ。わざわざ言ってくれてありがとうよ』
「一旦夢から出て対策調べてくるつもりなのかな……でも無駄だよ、口裂け女みたいに年季の入った怪異にはポマードやべっこう飴なんて対策が出来上がってるけど、僕はごく最近生まれた都市伝説で知名度も全然、設定も大して練られてないし僕の存在を唱える人達は僕から逃れたいと思ってないから対策なんて作らない」
『知名度のねぇ都市伝説がどうしてこんな力持ってんだよ』
「病んでるからだよ、人間社会が。知名度はなくても僕を望む一つ一つの想いが強い。量より質タイプなんだね僕は。優しく殺されたい人間が、楽な死に方を毎日検索してるような人間が、僕を作る」
『……そいつら食って力つけてるって訳か、このクソ野郎。絶対祓ってやるからな……もちに手ぇ出したこと後悔させてやるぜ』
「月乃宮 望が終わったら君にもいい夢を見せてあげるよ、期待していてね」
きゅっと頭の側面で髪を結び、ツインテールを作ったレンは自信たっぷりの笑顔で俺に向き直った。
「可愛いよ! レン!」
「だよな! 嬉しいぜもっちっち~!」
俺の胸に飛び込んできたレンを受け止めて抱き締める。やはり、違和感がある。レンはここまで華奢じゃなかったはずだ。レンはこんなに柔らかくなかったはずだ。レンは女の子じゃなかったはず……
「やっぱり女の子はツインテやってこそだよな」
「そうかな? 俺はレンならどんな髪型でも好きだよ」
女の子、だっけ。レンが自分で自分を女の子って言ってるんだから、女の子だよな。
「さ、部屋でたーっぷりイチャつこうぜもっちー」
きゅっと手を握られる。指を絡め合った俗に言う恋人繋ぎだ。手全体がぷにぷにと柔らかく、指は細い。女の子の手だ。物足りない。もっと骨がしっかりした手がいい……どうして? どうしてだろう。分からないけれど、そう思うんだ。
「可愛いポストカード作れたな。美術部どうしようかな~、お前はどうする?」
俺がこの世界に馴染んでいくような感覚がある。不思議だ、心地いいのに恐ろしい。まどろみの中に居るような気分なのに、取り返しのつかないことが着々と進んでいる気もする。
「あぁ……どうしようかな、レンが入るなら入ろうかな」
「俺もお前が入るなら入ろうかなーって思ってたんだけど」
レンは俺の腕に抱きついている。下駄箱を出た辺りからずっとそうだ。レンは女の子だから誰も俺達に嫌な視線を向けない、せいぜい羨望の視線だ。もし俺が今朝寝ぼけて言ってしまったようにレンが男だったら、レンは奇異の視線に晒されていただろう。
「あ、そうなの……俺あんまり絵に興味ないしな」
「んじゃやめとくか。勉強頑張んなきゃだしな」
「うーん……でも帰宅部ってのもな、色気がないって言うか、思い出が出来なさそうって言うか」
「青春の思い出が俺だけじゃ不満か?」
「……ふふ、ううん、全然。そうだな、レンが居るもんな……うん、部活はいいや。俺にはレンだけでいい」
「熱烈だな、胸きゅんしちゃうぜ」
レンが女の子でよかった。幼い頃俺は彼にプロポーズをした、お嫁さんになってくださいと……女の子でないと知ったら俺はレンの気持ちも考えず泣き喚き、なんで女の子じゃないんだと責め立てただろう。そんなことになったら俺に惚れてくれたレンは酷く傷付く。レンが女の子でよかった。レンは、女の子だった方が幸せになれる。
「ただいま、母さん」
「おかえりノゾム、レンちゃんも一緒? 暗くなるまでに家に送ってあげなさいね」
「はーい」
母に挨拶が出来る、母に笑いかけてもらえる。当然の日常のはずなのに泣き出しそうなほど嬉しい。
「着替えてくる」
洗面所兼脱衣所に一人で向かい、制服を脱ぐ。ふと気になって胸や腹をさするも、何も引っかからない。ボディピアスどころか耳のピアスすら一つも空けたことがないはずなのに、どうしてピアスがある気がしたのだろう。
『もち!』
「うわっ! ぁ、レン……また、鏡に」
鏡に自分以外の者が映るなんて怪奇現象でしかないのに、俺は何故かあまり恐怖を感じなかった。レンの姿をしているからだろうか。
『早く目ぇ覚ませ、ここは夢の中なんだよ!』
「どうなってるんだよこの鏡……」
『聞いてんのかもち! もち、自分のもんじゃない夢の中に無理矢理入っちまったからか俺は鏡から出られねぇ。でも鏡から鏡へは移動出来た、ちゃんとした鏡だけじゃなく……映るものなら窓ガラスとかでもギリイケた。見させてもらったぜこの世界、随分と都合がいいじゃねぇか……』
「…………頭、痛い」
『両親健在で仲良しで! 根野はまともな教師でミチは吃音症じゃねぇし形州は不良の親玉じゃねぇ! 何より俺が女だ! こりゃいい世界だなオイ、何の憂いも悲しみもねぇじゃねぇか……これがお前の理想の世界か? 俺が男なのやっぱり嫌だったのかよ! そんなに女がいいのかよ!』
「何、言って……レンは、女の子で」
頭が割れそうに痛い。ちぎり捨てられたはずの記憶の欠片が脳に刺さっている。口から勝手に言葉が溢れる。
「俺が、お嫁さんになってって言ったから……なろうと、してくれて……俺の、せいで、苦しんで……何年も何年も、女の子になりたいって願い続けてて……俺の、せいで、俺がバカだったから、俺が最低のクズだったから……」
『もち……!』
「ごめん、なさい……ごめんなさい、好き……レンが、好き。レンが好きなんだ、俺……お嫁さんとか、女とか男とか、結婚とか、人の目とか……どうでもいいんだ、レンが好きなんだ……」
『もち、じゃあ戻ってこいよ! もち! 起きろよもちぃ! 夢なんだよこれは!』
「そう、どうでもいい……どっちでも、多分同じくらい好きになってて……だったら、レンは女の子の方が、レンは幸せになれそうで……」
『は……!? もちっ、おいもち! 俺の幸せ勝手に決めんなっ!』
ぺた、ぺた、と足音が聞こえる。
『俺の幸せはお前の傍にしかないんだ! 戻ってきてくれよもちぃ! 起きてくれよっ! お前が居ないと俺生きてけないんだよぉ!』
涙混じりの絶叫に、痛む頭を抱えるのをやめて顔を上げる。鏡には俺とレンが映っている。俺の背後に立ったレンはぎゅっと俺を抱き締めた。腕も身体も何もかも柔らかくて頼りなくて……なんか、物足りない。
「……レン」
『もち! もちぃ! 俺はこっちだ! こっちなんだってぇっ! 何なんだよその女っ、ふざけんなよぉ!』
「まだ着替えてないのか? もちぃ」
「レン……俺、ずっと傍に居るから」
『のぞむぅ……俺は、ここなんだって、そいつじゃない……帰ってきてぇ』
「なぁに急に。ふふ、嬉しい。ほら早く着替えて。鏡は俺に譲ってよ、髪型整えたくって」
髪型が崩れているようには見えないけれど、女の子は繊細な生き物だ、俺には分からない何かがあるのだろうと納得し、鏡から離れて服を着始めた。
「…………蛇、いや鬼か。勝手に入ってくるなんて、なんて礼儀知らずだろう」
レンは何やら独り言を言いながら髪を櫛で梳かしている。
「理解していると思うけれど、ここは月乃宮 望の夢の世界。如月 蓮が既にここに居る以上、君が夢の世界で実体化することは不可能だ。ずっと幽霊状態だよ」
『てっ、めぇ……てめぇが怪異の本体か、もちを返せっ!』
「捕まえてはないよ。月乃宮 望が望めば今すぐにでもこの世界は消え、僕は月乃宮 望から弾き出される。僕に出来るのは居心地のいい夢の世界を設計することだけ。夢の主はあくまで人間だ、僕の意思じゃ夢の世界は終わらない」
『ごちゃごちゃ言ってんじゃねぇ今すぐもちを返せっつってんだ!』
「月乃宮 望は随分と現実世界に不満があったみたいだね。差があり過ぎて夢に馴染むまでに時間がかかってるよ。可哀想にね、こんなにも現実と差があるなんて、なんて可哀想なんだろうね……酷い現実に引き戻そうとするなんて、惨い恋人だね」
『ふざけんなっ……! もちがこの夢を完全に受け入れた時点でっ、てめぇがもちを食い殺すっつーのは分かってんだよ!』
「現実で幸福に暮らせない人間を幸せな夢の中に浸ったまま死なせてあげてるんだ。他の怪異よりよっぽど優しいと思うなぁ……」
『何人も人殺してるヤツが何言ってんだ!』
「でも僕は人に望まれて生まれたんだよ? 都市伝説……って言うんだっけ。誰かがどこかに書き込んだ願いごと……ネットの海を漂流した希望、幸せな夢を見せながら死なせてくれる、海の怪異」
『……そうかい、てめぇの正体が分かったよ。わざわざ言ってくれてありがとうよ』
「一旦夢から出て対策調べてくるつもりなのかな……でも無駄だよ、口裂け女みたいに年季の入った怪異にはポマードやべっこう飴なんて対策が出来上がってるけど、僕はごく最近生まれた都市伝説で知名度も全然、設定も大して練られてないし僕の存在を唱える人達は僕から逃れたいと思ってないから対策なんて作らない」
『知名度のねぇ都市伝説がどうしてこんな力持ってんだよ』
「病んでるからだよ、人間社会が。知名度はなくても僕を望む一つ一つの想いが強い。量より質タイプなんだね僕は。優しく殺されたい人間が、楽な死に方を毎日検索してるような人間が、僕を作る」
『……そいつら食って力つけてるって訳か、このクソ野郎。絶対祓ってやるからな……もちに手ぇ出したこと後悔させてやるぜ』
「月乃宮 望が終わったら君にもいい夢を見せてあげるよ、期待していてね」
きゅっと頭の側面で髪を結び、ツインテールを作ったレンは自信たっぷりの笑顔で俺に向き直った。
「可愛いよ! レン!」
「だよな! 嬉しいぜもっちっち~!」
俺の胸に飛び込んできたレンを受け止めて抱き締める。やはり、違和感がある。レンはここまで華奢じゃなかったはずだ。レンはこんなに柔らかくなかったはずだ。レンは女の子じゃなかったはず……
「やっぱり女の子はツインテやってこそだよな」
「そうかな? 俺はレンならどんな髪型でも好きだよ」
女の子、だっけ。レンが自分で自分を女の子って言ってるんだから、女の子だよな。
「さ、部屋でたーっぷりイチャつこうぜもっちー」
きゅっと手を握られる。指を絡め合った俗に言う恋人繋ぎだ。手全体がぷにぷにと柔らかく、指は細い。女の子の手だ。物足りない。もっと骨がしっかりした手がいい……どうして? どうしてだろう。分からないけれど、そう思うんだ。
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