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恋慕

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彼が僕を好いてくれている。その思い込みは僕を大胆にさせた。

「あの……名前で、呼んでください」

「下の名前で、ってことですか?」

「は、はい……凪さん、凪さんは……下のお名前ですよね? 僕だけ螺樹木って……なんか、距離感じて」

もっと近くで、吐息がかかるくらい近くで、その甘く美しい声で囁いて欲しい。

「……涼斗って、呼んでください」

「…………分かりました、涼斗さん」

彼の口が僕の名前の形に動いた。甘い声が鼓膜を揺らし、脳を蕩かせる。ゾクゾクする、口が勝手に緩む。キスしたい、抱いて欲しい、そんな欲望が無限に湧き出てくる。

「ぁ、あっ……ありがとうございますっ!」

自慰し損ねたこともあってすっかり膨らんだ性器をジーンズ越しに手で押さえつけ、彼の視線が下に向かないように祈る。今は何も出来ない、玩具は使えないしトイレに駆け込んでも声や臭いでバレてしまう。いくら彼が僕を好いてくれているとしても、そんな性欲に忠実な人間だと思われたら嫌われてしまう。

「……あ、あの、差し支えなければ……どうしていつも手袋付けてるのか、聞いても?」

どうにか意識を逸らそうと気になっていた質問を投げかけた。

「…………指紋を残さないためですよ」

「しっ、指紋……?」

指紋をそんなに気にしているのか? どうして……まさか前科があったり? もしくはこれから?

「なんで、そんな……犯罪者みたいな」

「………………犯罪者だから、ですよ」

「……じょ、冗談……ですよね?」

微笑みが消え、真剣な青い瞳が僕を射抜く。今までとは別の意味で背筋にゾクゾクと寒気が走る。

「冗談……」

僕の足の横に手をつき、顔を近付ける。

「……です! 冗談に決まってるじゃないですか。そんな怯えた顔して……信じました?」

ぱっと笑顔を戻し、額をつつく。

「やっ……やめてくださいよもぅ! し、真剣な顔するからぁ…………本当に怖かったんですよ!?」

「ふふっ、もし本当だったらどうします? この手で何人も殺してたとしたら?」

目の前に黒い革手袋が揺れる。そっと首に添えられて、思わず手首を掴んだ。

「……本当、からかいがいのある人ですね。涼斗さんって」

「や、やめてくださいよぉ……」

鼓動がうるさい。今までのは全て冗談……なのだろうか。本当に、ただ僕をからかっただけなのだろうか。
どうしてこんなに怯えているのだろう。どうして冗談だという言葉を信じられないのだろう。

「手袋、気になります?」

疑い深く怯え続ける僕をよそに彼は中指を咥える。その口元に、その手袋の外し方に、怯えの鼓動は興奮に取って代わる。
彼は手袋を咥えたまま、真っ白い素肌の手を僕の目の前に広げる。

「……き、綺麗な、手ですね」

無意識のまま手を重ね、大きさを比べる。

「…………おっきい」

この手に組み敷かれたい、愛撫されたい、掻き回されたい。

「別に何もないでしょ? ただの趣味ですよ」

彼の口から離れた手袋が彼の太腿に落ちる。それを目で追っていると、重ねた手の指の間に何かが割り入る。

「……っ!」

彼の細い指が僕の指の間に挟まっていた。きゅっと優しく握って、離れて、また手袋に包まれた。
そんな気まぐれな行為に僕の脳は処理が追いつかなくなって、何もない空間に手を広げたまま静止する。

「……涼斗さん? 涼斗さん、どうかしました?」

声をかけられてようやく動けるようになって、僕はゆっくりと手を下ろし、ぎこちなく彼の微笑みを真似た。

「ところで、涼斗さんって大学──」

表情が上手く作れないことに落ち込んで視線を下げ、机の足の影にくしゃくしゃのティッシュを見つける。彼をカメラ越しに観察している時に漏れた蜜を拭ったものだ。
僕は彼の話も聞こえなくなって、慌ててそのティッシュを回収した。

「……?」

素早くゴミ箱に投げ、何もなかったかのように再び下手くそな微笑みを作る。

「あ……もしかして、途中でした?」

「…………え?」

「大学生ですもんね」

何を言っているんだ? まさか、まさか──バレた? 分かったのか? 今の行動で?

「若いっていいなぁ……」

「ちっ……違うっ! 違いますっ! 何もしてません! 何もしてませんでした!」

「別に隠さなくていいですよ? みんなしますし」

「ちーがーうぅ! 僕、僕はぁっ!」

「わ、分かりました分かりました、すいません変な話して」

信じられていない。彼は自分が来る直前まで僕がこの部屋で自慰行為に励んでいたと思っている。いや、間違いとも言えないけれど。

「……涼斗さんって彼女居ます?」

「へ? い、居ません……けど」

「あ、そうなんですか。大学生が微妙な時期に一人暮らし始めるのって恋人出来たからーってのが多いみたいなので、涼斗さんもそうかと思ったんですけど……まぁ、こんなアパートには女の子呼べませんよね」

彼女か……居たことがないな。僕のような気持ち悪い人間には男女問わず人が寄り付かないのだ。そもそも中学時代から前立腺の開発に勤しんでいた僕は恋人を求めたことがない、ずっと玩具だけで生きていけると思っていた。
まぁ……その考えは今目の前に居る彼に崩されてしまったけれど。

「…………凪さん、は?」

彼に恋人が居たら僕の恋が終わってしまう。

「居ませんよ」

終わらなかった。良かった。それもそうだ、僕を好いてくれている彼に恋人が居るわけがない、彼はそんな浮気者ではない。

「……この歳で恋人無しだと、そろそろ焦りを感じてくるんですよねー……弟が数年前に結婚して……子供まで…………はぁ……」

「凪さん弟居るんですか?」

「…………あっ」

彼は分かりやすく「しまった」という表情になる。完璧な美しさを持っていながらこの少し抜けた感じがたまらなく可愛らしい、守らなければと決意を固めさせてくれる。

「ぁー……聞かなかったことにしてください」

「え? どうして……」

「…………あまり、いい人間ではないので。あなたには聞かせたくありません」

もしかして先程の電話相手がその弟だったりするのだろうか。カメラを仕掛けそうな陰湿な変態……
もしそうなら、彼にとっては僕も彼の弟と同じく「いい人間ではない」のなら、僕が仕掛けたとバレたら嫌われるかもしれない。

「こ、この話やめましょっか」

「お気遣い感謝します。涼斗さんはしっかりしてますね……俺と違ってちゃんとした大人になれますよ」

「凪さんもちゃんとした大人ですよ。僕の憧れです」

「…………ふふっ、ダメですよ、俺みたいのに憧れたら」

憧れ、というか……抱かれたい、というか。平日の昼間から喫茶店に入り浸り、買い物以外の外出がないことから彼のダメな大人っぷりは何となく分かるけれど、それでも好きな気持ちに変わりはないし、就職したら養いたいなんて方向に膨らみ始めたりもする。

「……あ、そうそう涼斗さん。今日泊まっていいですか?」

「…………ふぇっ? と、とま、とままっ……泊ま、る? な、凪さん、が……? こっ、ここ、ここに?」

「……ダメならホテルにでも行きますけど」

「ホテっ……ぁ、いえいえ、大丈夫です! 泊まってください!」

泊まる!? 何で!? いや、カメラが気になるのか……当然だな。僕の責任だ、僕がしっかり彼を泊めなければ。

「と、とまっ……泊まるっ……ん、だったら、えっと……な、何? 何ですか?」

「さっきも言いましたけど冷房壊れちゃったんですよ、あんな中で寝たら死んじゃいますよね。着替えやタオルくらいはぱっと取ってくるので、お気遣いなく」

「凪さんが……泊まる」

「……涼斗さん?」

布団は一組しかない。一緒に眠るのか? 理性がもたない。いや、襲う心配はない、その前に心臓が破裂してしまう。今だって心臓が飛び出してしまいそうなほど騒いでいる、隣に寝転ばれたらそれだけで死んでしまう。

「………………何か、食べたいものあります?」

騒がしい鼓動と処理能力不足に陥った脳。何も考えられない中、混乱を極めた僕は何とか夕飯の希望を聞いた。
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