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第四十四章 海面より浮上する理想郷

血腥い邸宅

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血の匂いに吐きそうになり、嗅覚を捨てる。視覚と聴覚さえ働いていればアルは見つけられる。

『待て、吾も行く、吾が行く、魔物使い待て!』

レヴィがぺたぺたぱちゃぱちゃと裸足で血溜まりをの上を歩き、僕の後を追ってくる。自分の感覚が騙された衝撃で放心している兄もゆっくりとだが着いてきている。

『アルー! アールー! 出てきて、アルー!』

声を張り上げても静寂に吸い込まれていくだけ──いや、僕の呼び掛けに応えるように換気口から黒っぽい霧が吹き出し、僕の前で人の姿を取った。

「魔物使い! 魔物使いっ……」

『ヴェーンさん? わっ、ちょ、ちょっと……』

ところどころ破れたスーツを着たヴェーンに抱き着かれ、腹が減ったのかと首をかたむけてみるも噛み付く様子はない。ずるずると足の力を抜いて座り込み、僕の胴に腕を巻き付けて腹に顔を押し付けてくる。

『ヴェーンさん、何があったの? アルは? アルとクラールは無事?』

「わ、分からないっ……怖かった、怖かったんだ……魔物使い、目を、目を見せてくれ、目をっ……!」

顔を上げたヴェーンは僕の顔を掴んで目を見つめ、荒い呼吸を落ち着かせていった。

「……俺は地下に居たからよく知らないんだ。作業中、扉叩かれて……開けたらセネカの奴がいて、なんだって聞いても答えなくて……いきなり、腹蹴られて……内臓破れたやべぇってなって、作ってたタブレット食って……なんとか逃げて、ダクトに隠れてたんだ」

『セネカさんが? どうして……』

『分かんねぇよっ! 分かんねぇ……なんも、分かんねぇ……』

彼がここまで取り乱し、涙まで零すなんて相当なことだ。まぁ、事態の深刻さはこの血溜まりを見れば──血溜まり? 血溜まりなんてどこにある。

『……血が消えた』

ヴェーンを注視していた一瞬で廊下から赤が消えた。未だに呼吸が落ち着かないヴェーンを兄に任せ、血が消えた原因を探ろうと顔を上げると、レヴィが素早く僕の前に割り込み、突進してきた化け物を防いだ。

『……良し! 実に良し! やはり地上は、こうでなければ!』

くるくると巻いた薄桃色の毛に覆われ、一対の翼と二対の翼を生やし、羊のような角と猪のような顔を持つ獣。レヴィは素足でその獣を蹴り飛ばし、ケラケラと笑った。

『あれ、まさかセネカさん……? レヴィ待って、アレはセネカさんで……』

レヴィは僕の話を聞かずに追撃に走る。セネカだと思われる獣は三メートルはあろうかという巨体を人の頭程度の大きさの蝙蝠に変え、レヴィの手刀を避けた。僕に突進してくる。

『…… 止 ま れ !』

空中でピタリと静止し、ぽとりと床に落ちる。

『セネカさん、セネカさんですよね、セネカさん、大丈夫ですか?』

すぐに抱き上げて揺らしても鳴き声すら上げない。

『……なんだ、魔物使い、殺さないのか、食わせろ、腹が減った、食わせろ、蝙蝠でもいい、食わせろ』

蛇のように静かに隣に戻ったレヴィを無視し、セネカに声をかけ続けたが意味はない。心配だが、最優先はアルとクラールだ。セネカは兄に渡し、状態を見てもらうことにした。

『…………ん! 若い女の匂いだ! 美味そうな匂い……処女だ!』

レヴィは……レヴィの中のオロチは若い女の肉体を使っていると理解しているのだろうか。太腿がほとんど見えてしまうくらいにドレスを破ってしまったのだから理解していないか。

『魔物使い、こいつは? こいつは喰っていいだろ? なぁ?』

階段の影に倒れていた赤髪の少女を引きずり、ボールを取ってきた犬のように上機嫌に僕を見つめる。

『……メル。メルっ! メル、どうしたの、メル! にいさま早く治して!』

赤いドレスの真ん中、胸から腹にかけて広く深く抉れている。魔法によって傷が治っていく途中で目を覚まし、赤い瞳に僕を映した。

『メル……どうしたの?』

虚ろな瞳は僕を見てはいるが、僕だと認識していなさそうな雰囲気がある。そっと髪を整えてやるとメルは僕の頬を撫で、ゆっくりと首に手を下ろし、頸動脈を爪で裂いた。

『……っ、眠 れ !』

咄嗟にそう叫ぶとメルは床に横たわり、ピクリとも動かなくなった。僕を心配する兄にメルを押し付け、アルの捜索を再開する。

『…………おとーと、解析してみたんだけどさ……暗示か何かだと思う。目に映ったもの全て殺すようにって』

『ヴェーンさんは平気だったんですよね?』

「ぁ、あぁ……別に何も殺したくなったりしてないぜ」

リビングが血の海になっていたことや、その血に浮かんでいた羽根や毛皮からアル達もその暗示にかかったのは間違いない。アルやメル達に効いてヴェーンに効かなかったのは何故だ?

『にいさま、それ以上は分からない?』

『……過去数時間の記憶が徹底的に破壊されていてね、復旧は難しいよ』

『そっか……じゃあもう解析はいいからアル探して、探知は使えるよね?』

『うん、流石にそこまでは妨害されてないし、探知魔法は使ってみたよ。けど、アルちゃんもクラールちゃんもこの家には居ないね』

兄の手のひらに浮かんだ魔法陣がバツ印に変わる。意識して呼吸を整え、目眩を堪えて一歩進むと、たった今通り過ぎた部屋の中からカシャンと小さな音が聞こえた。

『……全員保護したらアルを探そう。にいさま、探知の範囲広げてアルの居場所を特定しておいて』

ここは確か酒呑の部屋だった、しかし酒呑は会議に出席している。居るとしたら──あぁ、やはり茨木だ。

『…………おかえりなさい、頭領はん』

にぃ、と微笑む彼女の手には煙管があり、寝間着らしい白い浴衣は赤く染まり、長い黒髪を顔を隠すように垂らしたその姿はいつか妖鬼の国で見た幽霊画のようで、妖艶な美さえ感じた。
ベッドに腰掛けていた茨木は背後に転がっていた毛布の塊を僕に投げて寄越した。黒髪がはみ出ているのを見つけて慌てて毛布を剥がすとアザゼルが気絶していた。

『……息はある。にいさま、お願い』

『ん、ちょっと首絞められただけみたいだよ、大丈夫』

治癒魔法をかけて改めて眠らせると後ろ髪を伸ばした触手に抱えさせる。

『にゃんこらはここ居るよ』

茨木が指したベッドの裏を覗けば、眉間に太い針が刺さったカルコスとクリューソスが転がっていた。

『……脳機能を停止させるよう打ち込んでん、難しかってんで?』

コアである賢者の石さえ破壊されていなければ問題はない。兄は獣達の頭の針を抜き、眠らせ、触手に抱えさせた。

『茨木……君は平気なの?』

『…………平気に見えはる?』

『……弟はんは悪魔はんの世話しに行っとったから無事やよ、なんや緊急事態や察して隠れてはるわ。まずおかしなったんが獣はんらで……うちの部屋来たんよ』

暗示をかけられてはいないようだ、急変した者達に襲われて迎え撃ち、行動不能に陥らせただけだと。

『…………キレーな歌声聞こえてなぁ、うち慌てて耳塞いだんよ。したら三体とも来やって……にゃんこらはなんとか止められたんやけど、頭領はんの奥さん強いわぁ……兄さんの術のせいで攻撃弾かれてまうしどうしようもあれへん。でも、爪甘いなぁ、仕留めた思てどっか行きはったわ』

そう言いながら茨木は腹に空いた穴を見せる。この傷跡には見覚えがある、アルが尾を突き刺したのだろう。

『……っ、なんで早く怪我してるって言わないんだよ! にいさま、お願い!』

『ふふ……びっくりした?』

『するよ! もぅっ…………でも、ありがとう。おかげで何があったか分かったよ』

歌声と来れば容疑者は一人しか居ない。ヴェーンに影響がなかったのは声が届かなかったからだ、彼は作業のために一室だけ異様に壁を分厚く作っていた。

『クトゥルフ……そうか、封印できたのは身体の方だけだったんだ。っていうか、星辰が戻されるのを見越して取り憑いておいたのかも』

今思えば不審点は多くあった、注意深くツヅラを観察していれば避けられたかもしれない。しかしそんな後悔は今するべきではない。

『にいさま、みんなを連れて一旦魔界に戻って。暗示なら兄さんが解けるだろうから』

保護した仲間達を連れて兄が消え、僕はレヴィと二人きりになった。

『……レヴィ、これ着てくれない?』

仕事着だろう酒呑のスーツを渡す。

『何故だ? 何も履かない方が動きやすい。拒否する。それと、吾は八岐大蛇、もしくは、伊吹大明神、そう呼べ』

『…………君の体は今レヴィだろ、女の子なんだよ、頼むから素足でウロウロしないで……』

『……分からない。若い女の生脚なら、喜ぶべきだ、男子おのこなら』

『僕お嫁さん居るの……! 頼むから履いてよ! 履いてくれたらオロチって呼ぶから!』

レヴィは渋々スーツに着替えた。目の前で着替えられるのも困るのだが──まぁ、仕方ないか。

『着た? あぁ、ベルトはこうやって留めるんだよ…………はい、できた。ごめんねワガママ言って、ありがとうオロチ』

『構わん。案外と動きやすい、人の皮膚は弱い、布で覆った方が効率的だ』

仮想の敵に向けてか何度か蹴りを放ち、笑顔で言った。ずっと昔の前世ではレヴィは恋人で、過去を巡った時は協力関係にあった。魂が別とはいえそんな彼女の笑顔が見られるのは何だか嬉しい。
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