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第四十四章 海面より浮上する理想郷

あなたは誰

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シェリーの牙の跡が痛々しいツヅラは全身から血を溢れさせながらも起き上がろうとしていた。しかし折れた腕では上手く起き上がれず、倒れた。その隙を狙ったヘルメスが彼の頭に杖を叩きつけると彼は動かなくなった。

「ケリュケイオン、強制睡眠……もう一回殴らなきゃ起きないよ」

僕が過去にアポロンを殴った杖か。蛇が巻き付いた装飾には惹かれてしまうな。

「りょーちゃん! りょーちゃん……りょーちゃん」

牙による身体の穴がぽこぽこと生まれる肉によって埋まっていく。その光景はとても直視できるものではなかったが、零は気にせずツヅラの肩を抱き、揺さぶっていた。

「だから起きないって」

『……その剣貸してくれないかなぁ』

零はヘルメスが腰に差した剣を指刺した。あれも神具なのだろう、不思議な装飾がある。

「いいけど……俺じゃなきゃ切れ味鈍るよ?」

剣を受け取るとすぐにツヅラの首に当て、ノコギリのようにして切断し始めた。

「ちょっ……! ぁ、そっか……元々生首だったもんね」

『躊躇いないのは人としてどうかと思うな~』

ヘルメスはツヅラの下半身の魚の尾をじっくりと眺め、大きめの鱗を何枚か剥がしてポケットに入れた。

『……何してるんです、先輩』

「…………多分高く売れるから」

抜け目のない人だ。螺鈿に似た輝きを持つその鱗は確かに美しい。アルへのお土産にしよう。

『君も取るんじゃん』

『僕はプレゼント用ですから』

ヴェーンにアクセサリーに加工してもらおう。一枚ではダメだ、もう少し……

「…………人魚がよく狩られる理由が分かった気がするよぉ」

首の切断を終え、生首を抱えて立ち上がった零が僕達を見てため息をつく。仮面で分からないがきっと蔑んだ目をしているのだろう。

「まぁ、ここに置いておいても仕方ないしぃ、好きなだけ剥がしなよぉ」

零はそう言ってツヅラの生首を海水に浸し、バシャバシャと音を立て始めた。血を洗い流しているのだろうか。鱗を剥がす僕達は確かに醜いかもしれないが、躊躇なく首を切り落としそれを淡々と洗う零は気味が悪い。

「ポッケに夢いっぱい! さぁていくらになるかなー」

『ジャラジャラ言いますねこれ……でもアルが喜ぶなら……』

ツヅラを取り返すという当初の目的は果たした。後はナイを見つけ、ルルイエとかいうクトゥルフの居城の浮上を阻止するだけだ。だけと言っても簡単ではないだろうけど。

「神父さん、どうするー? 起こしとく?」

杖を振りながら零の元に行ったヘルメスは零の背を蹴り、転がした。直後、氷柱がヘルメスの足を掠って砂浜に刺さり、消える。

「魔物使い君! 敵!」

そう言いながら零の首根っこを掴み、僕の方に投げる。零を受け流してハスターに押し付け、影から天使の槍を抜く。しかし、海面から姿を現したのは天使だった、天使相手に天使の槍は無意味だ。
薄氷色の髪と瞳、真夏に着るようなワンピースにサンダル、氷で作られた光輪と翼──シャルギエル、雪を司る天使、零に加護を与えた天使だ。
凍るのなら水は使えない、ザフィの力はダメ、刀も簡単に折られてしまいそうだし、ここはオファニエルの力のお試しといこう。

『…………零』

「……天使様?」

『加護受者の叛逆は加護授者の責任』

シャルギエルが海面に爪先を触れさせて立つと海水は波の形のまま凍った。強力だ……是非とも欲しい。

『創造神を冒涜する者の顕在を手助けし、魔物使いと親交が深い……もう庇いきれない。始末する』

小さな少女の手に氷の剣が作られる。

「寒っ……」

『先輩、天使は任せて。神父様達を守ってください』

剣を構えたヘルメスを下がらせ、剣の代わりに盾を構えたヘルメスの前に立つ。

『……零、人魚を渡し、正義の国で奉仕活動に勤しむなら、処刑は免れるかもしれない』

その言葉は逆効果で、零は生首を更に強く抱き締めた。
夕暮れでは月の魔力はそれほど使えない、もう少し暗くなるまで凌がなくては。

『ねぇ、シャルギエル。君は加護の力を与えたことを後悔してるんだよね? 加護を与えるほど気に入った零さんが加護の力のせいで人と触れ合えなくなったことに、普通の暮らしを送れなくなったことに、罪悪感を抱いているよね?』

月が輝くまで会話で誤魔化す。これで納得して僕に取り込まれてくれる未来も期待しつつ。

『僕に君の魂をくれれば、君の加護は消える。僕が再び加護を与えない限り零さんは普通の人間のまま、普通に暮らしていける。どうかな、シャルギエル、君の罪を晴らす唯一の機会だと思うんだけど──』

上手く話せていると自画自賛しつつ、シャルギエルの瞳孔の収縮を観察する。効いている、迷っている、そう思っていた。しかし、腕の皮膚が破れ、中から赤い氷が露出したことで僕の甘さを知らされた。
シャルギエルは僕を氷漬けにしようと集中していたのだ、僕の話を聞くために僕の目を見つめていた訳ではない。零が傍に居て寒いからと温度を感じないようにしていたせいで気付くのに遅れた。やはり感覚は重要なのだ。

『魔物使い、優先度は零以上』

処刑の? そう呟くこともできない、凍ってしまって喉が震えない。シャルギエルが目の前に迫っても、氷の剣を振り上げても、身動きできない。痛覚も消してあるから砕かれても平気だが、再生に時間がかかってしまう、まずい、ヘルメスが天使を相手に長持ちするとは──

『……戯曲』

振り下ろされる氷の剣が僕の頭の真上で止まる。後数ミリ、というところで。
シャルギエルの腕には黒い触手が絡みついていた。

『黄衣の王……』

ふわりとシャルギエルを覆う黄色い衣。静かな時が流れ、太陽が水平線に溶けていく。完全に沈む寸前に再びふわりと黄色い衣が浮き上がり、シャルギエルがその場に座り込む。その頃には僕の凍りも解けていた。

『ご清聴ありがとうございました~』

浮き上がった黄色い衣はゆっくりと落ちながら人が被っているような形状になり、筒のような布の隙間から白い仮面が現れた。

『ター君ター君大丈夫~? 寒いよね~寒いよね~』

布に首から下を包まれる、布の内側に先程見えていた触手はなく、モコモコとした何か……羊の毛のようなものに覆われており、とても暖かかった。

『あ、ありがとうハスター、助かったよ……』

『僕着ときなよ~』

仮面が頭の上に乗り、顔以外を黄色い衣に包まれる。布は長方形のはずなのに僕の四肢をピッタリと包んだ。

『き、着れるんだ、君。ありがとう、あったかいよ』

着られる邪神とは一体……

『モコモコしてるのに動きやすい……えっと、シャルギエル、僕に魂を渡してくれる?』

座り込んだシャルギエルは頭を抱えてぶつぶつと何かを呟いており、僕の求めに応えない。勝手に取ってしまおうと手を伸ばした瞬間、シャルギエルがその手に氷の剣を生成し、僕の腹を狙った。しかし剣は僕に触れる寸前で砕けていった。

『……ありゃりゃ~、劇、微妙だったかな~……読んだの結構昔だったし、再現できてなかったかぁ~』

『……どうして』

『僕の属性風だもん~、僕を着た時点でター君は空気の鎧を着たようなものなんだよ~?』

空気の鎧……意味がなさそうな響きだ。

『空気の圧縮……? 神性……排除、対象』

『劇でみっちり教えたでしょ~? 君の人生の無意味さをさ~?』

どうでもいいが、ハスターの声はどこから出ているんだ? 仮面ではないし布でもない、僕の近くではあるが密着していない。不気味だ。

『……シャルギエル、月が昇った。僕はオファニエルも取り込んでるんだよ、君に勝ち目はない。大人しく魂を渡してくれたら痛くないよ』

シャルギエルは少し悩むような素振りを見せた後、胸元を摩った。この仕草は天使が魂を取り出す時の動きだ。数秒待つとシャルギエルの手に氷の真球が現れた。やはり氷だったか、水晶玉にも見えて美しい。

『ありがとう、シャルギエル──』

受け取る為に屈むとシャルギエルは真球を頭上高く投げた。真球は氷柱に変わり、零を狙って落ちる。

「アイギスの盾、本領発揮!」

「天使様、そんなに零を殺したいの……?」

氷柱は盾に防がれ、僕の手はシャルギエルの胸を貫いた。

『……君が諦め悪いのは意外だったよ』

内臓を毟り取る要領で魂を抉り出し、手のひらに収まる雪玉のような魂を口に押し込んだ。

『冷たっ……』

『さっきの透明のやつはブラフ~?』

『……だね。氷じゃなくて雪なんだから、まぁ、魂が氷の塊ってのはおかしかったよね……油断し過ぎだ、僕……』

春を迎えた雪だるまのようにシャルギエルの姿は消えてしまった。
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