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第三十六章 怠惰の悪魔と鬼喰らいの神虫

許されるのは殉教のみ

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アルメー宅の外、結界を張るため、酒色の国に帰るため、僕はライアーを呼び出そうとしていた。結界の見届けや僕達の見送りにと大勢の人達が来てくれている。

『……ダメだ』

それなのにライアーは石の中から出てきてくれない。土の体が崩れた時、確かに黒い霧は石に吸い込まれた。中には居るはずなのだ。

「あの黒い青年はその中に居るのか? 君の仲間は相変わらず不思議だね」

『…………すいませんウェナトリアさん。皆さん集まってもらっちゃってるのに……ツヅラが来たってことは、正義の国が狙ってるってことは、ツヅラが帰ってこなかったら天使とかが来るかもしれないのに……』

「まぁ、まだ悪魔様の呪いが効いているはずだから大丈夫……ですよね?」

木に背を預けて眠っているベルフェゴールに話しかけても当然のように返事はない。

『…………何で出てこないんだろ、兄さん』

『……アレのせいだな』

クリューソスは翼を広げて僕達を包み込む球状の結界を張り、顎で原因とやらを示す。木の影で何かが蠢いている。

「…………ツァールロス、姫子とロウ君を連れて中に。アルメーのお嬢さん方、避難誘導を」

「お前はどうすんだよ! ってか先に何なのか説明しろよ!」

「心配するな、戦いはしないさ、私に出る幕はない。入り口を塞いでおくだけだよ」

「十分危ないじゃないかふざけんな!」

騒ぐツァールロスは姫子とアルメーの少女に引っ張られ、アルメー宅に引きずり込まれた。状況は分かってはいるのだが、その絵面の面白さに笑みを零さずにはいられなかった。

「……あの」

袖を引かれて振り向けば透け翅の蝶の少女が立っていた。

「お気を付けて、私の救い主さま」

僕の頬に唇を触れさせ、走り去る……救い主か、大層な呼び名だ。

『………………モテるなぁ、ヘル?』

『アル? どうしたの、不機嫌だね』

『…………ふんっ』

避難が完了したのを確認して、アルメー宅の入り口を八本の脚が塞いだのを確認して、クラールをアルの背に置いて刀を抜く。

『あぅー? わぅ、わふ』

『……あぁ、私だよ。大丈夫、お父さんは直ぐ戻る』

アルはクラールを翼で隠して茨木の隣まで下がる。クラールを渡せば僕の盾になりたがるアルを楽に下がらせることが出来るのは思ってもみない利点だった。

『出てこいよ』

腕を伸ばして刀を鋒を不気味な影に向け、威嚇する。
ずる、ぺた、ぐちょっ、びちゃ……と不快な音を立て、ところどころに鱗や鰭を生やした人型にも見える肉塊が木の影から出てきた。

『ひっ……!?』

『怯むな、頭領。目ぇ逸らしたら負けや』

『はっ、吐きそ……』

『目ぇ逸らすな』

酒呑に頭を後ろから掴まれ、無理矢理肉塊の方を見せられる。

『……下等生物の兄を封じるのに尽力し、一晩では治らず俺達へのテレパシーも微弱……と言ったところか、俺の結界で止めていられるぞ』

クリューソスの結界は先頭に立った僕からアルメー宅の入り口までを範囲に入れて球状に広がっている。

『くっ、クリューソス、様……あれ何か分かるの?』

『当然だ下等生物め。虫の多いこの島でアレだけが魚臭いだろう』

相も変わらず口が悪い。しかし、魚か、そうか、ツヅラだ。通常、再生能力を持っている者でも心臓や脳を破壊すれば明確な死が訪れる。合成魔獣達で言うならコアだ。だから粉々に潰したツヅラも死んでいると思っていたのだが──

『人魚にそんな力あれへん……共喰いしよったな』

ピク、と肉塊が跳ねる。

『頭領、人魚の血肉食うたら不死の呪いがかかる。禁忌に触れた罰則言うわけや。で、その上共喰いっちゅう禁忌も重なって……穢れの塊や。ああなっとったらもう血の一滴でも体内に入れたあかん』

それは簡単なようで難しい。口を閉じていればいいという話ではない。目も鼻も塞がなければ、肌に付着するのすら怪しい。運良く体内に血を入れずに倒せたとしても血塗れの手はいつまで洗えば血が消えたことになるだろう、皮膚の微かな隙間に乾いた血が残って、それが体内に入るなんてのは十分の可能性を持っている。

『ケ、ガ、レ……?』

肉塊が蠢く。真っ赤な芋虫が表面を履い回っているかのような蠢きだ。背筋にゾワゾワと寒気が走り、昨日のタコが食道を逆流し始める。

『ぅ…………き、昨日のタコ、大丈夫だったの?』

『地面や血で汚れとるとこは取ってへんわ。昨日までの穢れやったらまだ食っても……せいぜい長寿くらいやったやろうし』

不死や長寿が呪いというのもおかしな話だ。不死は人間の夢だなんて謳う国家は多いだろうに。
血を一滴も体内に入れるなと言うなら刀は使うべきではない。魔物使いの力を使って──破裂? ダメだ、刀より悪い。昨日侵入して来ていたことからツヅラに『堕落の呪』が通じないのは分かっている。血が蒸発するほどの熱──ダメだ、そんな技を使えるのはライアーくらいのものだ。
ツヅラの動きが鈍いのをいいことに長考していると、酒呑が僕の肩を掴んで乱暴に引き下げた。

『頭領、力俺に回せ。血の一滴も自分らに飛ばさんと倒したるわ』

『酒呑……分かった、任せる。ダメそうだったらすぐに言ってよ』

大人しく引き下がり、魔眼の対象を酒呑に置く。

『……魔物使いの名を持って移し替える。カルコス、アルギュロスの魔力を酒呑童子に』

一度振り返って位置を確認し、目を閉じて頭の中で三つの点を線で結ぶ。

『……っし、行くで──八つの丘に八つの谷を巻く八つの頭に八つの尾の水神よ、貴神が申し子の申し出を受け給う──開け竜宮!』

膨大な魔力が酒呑に流れ込み、それが消費されているのが分かる。カルコスとアルの分だけでは足りず僕の分まで持っていかれている。だが、まだ、足りない。

『……ベルフェゴールっ! 寄越せ!』

『ん……? ふぇっ!? な、なになになに?』

強大な悪魔であるベルフェゴールの魔力を少し奪う、あまり彼女から吸い過ぎるとウェナトリアに害が出る。

『くっ……ツヅラぁっ! お前のも寄越せ!』

ツヅラの半分は僕にも操れる妖怪のモノ。彼の魔力も合わせて酒呑に送ると、ポツポツと雨が降り始めた。

『……い、ぁ…………いあ』

雨足は次第に強まり、大きな雨粒が額に落ちる。眉毛や睫毛で止まりきらなかった水が目に入り、激痛を与える。

『しょっぱっ! 何これ!』

背後でセネカの間抜けな声が聞こえる。僕の口にも雨粒は侵入した、これは海水だ。酒呑に魔力を注ぐ為には視線は逸らせないが、島の周りに竜巻でも起こって巻き上げた海水が落ちてきているのだろう、風も強まってきている。

『……アル! クラールを連れて中に!』

返事は聞こえないけれど、僕の声は魔物に届くはずだ。

『竜宮よりの八つの門、冥府より八つ首を寄せよ!』

『クトゥ……ルー……』

『……惜しかったなぁ人魚、俺の方が早かったわ』

魔力の消費が突然減る、アル達から流れ込む魔力が僕に溜まっていく。慌てて魔物使いの力を消し、雨粒だけを透過し空を仰ぐ。八本の水柱が意思を持っているかのように動き、くねくねと曲がってこちらに──ツヅラの元に落ちていく。

『……我が主よ、この身を、捧げます』

蠢く肉塊から妙に澄んだ声が聞こえた。しかし、それもすぐに水柱に飲み込まれて再び上空へと持ち上がる。

『ふーっ……おおきに、親父』

『…………酒呑。アレでいいの?』

『……あぁ、水神の浄化や。ある程度呪いも剥がれるやろ。水流で体もさらに細こうなるやろうし……これで終わりや』

水柱が引くと共に雨も上がり、黒雲も引いた。一部とはいえ天候を操っていたのならこの魔力消費量も頷ける。
びちゃっ! と黒い塊が落ちてくる。恐る恐る観察してみれば、それは人の形を保っているツヅラだった。いや、下半身は魚だから人の形というのも──まぁいいか、とにかく形を保っている。

『治った……? 浄化したからやろか、えらい丈夫やな。頭領よう壊せたなこんなもん』

あの水柱に飲み込まれて無傷? 元々肉塊に近かったのに? 崩れるどころか再生した? 馬鹿な。

『…………ツヅラさん?』

『……ん、ふぁあ…………ぁ、おはよう』

伸びと欠伸をしたツヅラは感情の読めない瞳で微笑み、軽く首を傾げた。
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