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第三十六章 怠惰の悪魔と鬼喰らいの神虫

家族の自信

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膝に乗せたクラールが僕の指を甘噛みしている。腹が減った訳ではなさそうで、遊びか何かだろう。

『噛み癖になる。叱れ、ヘル』

『噛み癖?』

『貴方の指を噛むのが癖になる。困るだろう?』

『別に……』

食事の時に咥えるものを食事時ではないから噛むなと叱るのも難しい。椅子や机の足なら困るけれど、オモチャやおやつを噛むようなものだろう、何の問題も無い。クラールを撫でながらそう説明するとアルは不愉快そうに唸る。

『今は良くても成長すれば痛いぞ』

『アルくらい大きくなっても平気だよ。あ、アルもしていいんだよ?』

『……貴方がそれで良いなら私はもう何も言わん。他の物を齧らないように躾はしろよ』

アルは拗ねたように机の下に戻った。

『…………叱る、躾……かぁ』

膝の上で仰向けに転がり、前足を添えて僕の指を噛むクラール。

『……悪いことしたら、叱らなきゃ』

服を噛んで破ったり、椅子の足を齧ったり? 叱るべき悪さとは何だろう。僕は何をしたら叱られたかな、思い出してみよう。

『…………寝てる間にシーツを落とした。長くて難しい植物の名前を噛んだ。聞かれたことに答えられなかった。じっと目を見た。目を逸らした。気に入らない動きをした。機嫌が悪いのに気付かずに視界に入った。ストレス発散にちょうどよかった。僕を殴ったら楽しかった……』

『あぅー? わぅ、わぅ!』

『……クラール、お父さん……君を叱れないかもしれない……だって、君のこと大切なんだ、大事なんだよ、叱ったりできない……』

あんな、痛くて怖くて苦しいことをクラールに味合わせるなんて出来ない。

『……ヘル、大切に思うなら叱る事も大切だぞ。悪さを全くしない子供など居ないのだから、今叱る事がなくても覚悟はしておけ』

『…………嫌だよ。だって、あれ痛いんだよ? 怖いっ……やだ、嫌だよっ! 髪、いっぱい抜けて、指折れてっ、いっぱい吐いて、顔へこんでぇっ! 僕クラールにそんなこと出来ないっ、僕そんなので笑ったりできない!』

『ヘル? 待て、何の話をしている』

『嫌っ、やだ、やだやだ嫌だぁっ! ごめんなさいっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ……』

『ヘルっ! 落ち着け、何の話をしている。クラールが怯えている……皆、貴方を見ている。どうしたんだ、突然……』

何の話? 躾の話だろう。叱る話だろう。僕にはどうしようもないことで、理不尽なことで、僕を悪い子にして嬲るんだ。

『……なにぃ少年……うるさーい、寝れないじゃん』

『…………狼はん、頭領はんどないしたん?』

『いや……よく分からん』

ひそひそと周りで話す声が聞こえる。隣で、背後で、向かいで、四方八方から、僕を嘲る声が聞こえる。
僕は何か妙な行動を取っただろうか。何故、今笑われているのだろうか。笑っているのは誰だろう、ここはどこだったか、周りに居るのは──

『……っ! クラール……!』

椅子の上で蹲って膝に近付いた僕の顔をクラールが嗅ぎ、舐め、肉球を押し付ける。僕はクラールを抱き締めて人の居ない方へ走った。

『お、おいヘル! 待て、どうしたんだいきなり!』

追ってきた怒号に足が竦む。部屋の隅にずるずると座り込んで、せめてクラールに痛みが訪れないようにと抱き締めた。

『…………ヘル、ヘル? 大丈夫か?』

目を閉じて痛みを待っていると頬を舐められる。目を開ければアルの姿があった。

『……アル? 何で……あれ? 僕…………何、してたっけ』

『…………クラールの育て方について話していたら貴方が突然訳の分からない事を喚き出して逃げたんだ。落ち着いたか?』

突然訳の分からないことを喚き出して逃げた?
僕がそんな奇行を?
にわかには信じ難い話だが、喉は痛いし口は乾いているし、ここは椅子の上ではなく部屋の隅だ。

『…………お父さん』

『おちょ、しゃ?』

『お父さん、大好き』

『おとー、たん。だぃ、ちゅき』

『…………よく出来ました』

『よきゅ、できまっちゃ!』

クラールが腕の中でアルの言葉を繰り返す。いや、僕に大好きと言ってくれている。僕を励まそうとしてくれている。

『……ごめんね、クラール、アルも…………迷惑かけて』

僕ほど親に向かない者も居ないだろう。突然喚いて走って泣いて……僕は異常者だっただろうか。正常や普通と呼ばれるモノから外れているとは分かっていたけれど、そこまでおかしな人間だっただろうか。

『ヘル、私もクラールも貴方が大好きだ。愛している……大丈夫、ヘル。独りで何かを恐がったりしないで、私が居る、私が守る……』

『……ありがとう。でも、自分でも何やったのか分からなくて、何怖かったのか分からなくて』

『…………私が貴方の辛い過去を思い出させてしまったんだろう。済まない、迂闊だった……』

過去? そうだ、僕はアルの「叱る」という言葉を聞いて自分が叱られた時のことを、幼い日を思い出していた。あの頃の僕は彼のストレス発散用の玩具だった。彼……誰? 誰に殴られたっけ。母親……違う、男だった。父親……違う、もっと若い。アレは誰だった?

『……兄君と和解しても過去は消えないな。今は、また別れてしまっているし……』

『…………兄? 僕、兄なんて……あっ、そうだ、兄さん。ライアー兄さん。ツヅラに操られたんだよね、効かなさそうだったのに意外だった。石に戻ったみたいだけど、呼んだら来てくれるかな』

僕の首を絞めて、その直後土に戻って崩れてしまったのは僕を守る為だったりしたのだろうか。だとしたら嬉しい。

『……ヘル? 兄君を忘れているのか?』

『ライアー兄さんでしょ? た、確かにさ、ちょっと忘れてたけど……ちゃんと呼ぶよ、せっかくのパーティだしね』

『………………その方が良いかもな』

アルも賛成してくれた。僕はシャツの中から黒い小石を引っ張り出し、見つめようとして土がないことに気が付く。床や壁や天井には土が使われているけれど、固まっているし使っていいものではない。僕に入られるのも困る。僕は明日アルメー宅を出てからライアーを呼び出すと決め、シャツの中に石を戻した。

『……ごめんねアル。なんか手間かけちゃって。夕飯まだ食べる?』

『…………いや、もう良い』

『じゃあ部屋行って寝よっか。こんなに騒がしくっちゃクラールも落ち着けないしね。幼虫用の部屋使っていいって言ってくれたからそこ行こ、僕昨日もそこで寝たんだよ』

睡眠は数時間おきに数十分ずつだったけれど、クッションが敷き詰められていたおかげで快適ではあった。自然と笑顔になって昨晩の出来事を話す僕をアルは愛おしそうに見つめてくれていた。


みんなへの挨拶を済ませて部屋に行く途中、アルは僕と別の道を行こうと言い出した。

『アル行ったことないだろ? こっちだってば』

『……そちらの道には貴方の匂いがない、こちらは濃くなっている……こっちだ』

生物として僕より優れている点を使って証明されては覚えがなくてもアルが選ぶ道を行かなければならない。
その後も三回ほどそんなことがあって、アルの言う通りに進んで行くと部屋に辿り着くことが出来た。僕が選んだ道の方が早く着いたと負け惜しみでもしておこう。

『……ほう、素晴らしい。これならクラールが走り回っても怪我はしないな』

『アルちょっと追っかけっことかやったげてよ』

『私は直ぐにムキになるからな……転ぶよりも私の追突が危険だ、貴方にとってもな』

ムキになると自覚しているなら何よりだ。僕はアルを部屋の端に誘導して寝かせ、クラールを敷き詰められたクッションの上に降ろし、クラールが喜びそうな遊びを考えながら毛並みを整えた。
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