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第三十五章 幾重もの偽物と閑話休題

結髪

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明くる日、獣臭いベッドでカーテンの隙間からの陽光を受け、僕を包んでいた獣達をすり抜ける。軽く伸びをしてベッドに視線を移す。金、銀、赤銅が入り乱れる不可思議な光景だ。先程まで白と黒と赤銅の翼が僕を包んでいて暑苦し……とても温かくて良い寝心地だった。

『……ほっとこ』

もう一度飛び込んでもふもふを堪能したいところだが、彼らを起こせば騒がしい。僕は一人で洗面所に向かった。
長く伸びた髪は床に引き摺られている、少し前まで引き摺りはしなかったと思うのだが、伸びる速度が尋常ではない。引き摺らないようにまとめたいが、僕にそんな技術はない。とりあえず髪の毛をそこらに引っ掛けないように持ち上げて、ブラシとヘアゴムを持ってダイニングへ向かった。

『おはよ、フェル。髪……頼めないかな』

『今忙しい、自分でやって』

無下に断られてしまった。
朝食準備中のフェルの背中を見ながら髪をまとめる技術を持つ人を待つ。

『……お兄ちゃんがこんなに早く起きるなんて珍しいよね』

『そう……かな。そうだね』

人でなくなってから睡眠時間が短くなったように思える。腹が減ったという感覚もまずない。上手い返しが思い付かず無言の時を過ごしながら、人間でなくなっていく恐怖に自分の肩を抱き締めた。

『おはよぉー。ぁ、だーりん起きてたの? 珍しいわね』

『……メル、おはよ』

『ボクも居るよ、おはよ!』

『セネカさん、おはようございます』

両肩越しに同時に覗き込まれ、無愛想な返事をし、席に座ろうとする彼らを見てふと思い付き声を上げた。

『待って! あの、二人とも……髪、これ、何とかしてくれないかな』

『髪? あぁ、まっかせて!』

そう言ってキッチン鋏を持ってきたセネカを追い返し、メルに希望をかける。

『分かってるわだーりん、ちゃんとした鋏持ってくるから待ってて』

『違う違う違う違う……引き摺らないようにまとめて欲しいんだ』

『そっち? じゃあ三つ編みでもする?』

『セネカ出来ないでしょ、不器用なんだから……』

二人とも肩に付くか付かないかのショートヘアだ、相談相手を間違えたかもしれない。身嗜みだとかの話なら一番良い相手だと思ったのだが。

『メルちゃんだってやったことないくせに』

『やったことがなくても出来るわよ。こういうのは女のコの嗜みだもの。だーりん、髪触るわよ』

『ぁ……うん』

『ボクだって今は違うけど女の子になるし! ボクもやる!』

メルと同じようにセネカも僕の髪を持ち上げた──つもりだったのだろう。力強く引っ張られて何本かちぎれた。

『痛っ』

『ご、ごめん……』

他人にブラシを通された経験はあるが、三つ編みをされた経験はない。ぐいぐいと引っ張られたりちぎられたり、案外と痛いものだ。

『よし、完成!』

『なんかすっごいぴょこぴょこ飛び出してるけど完成だよ!』

部分的に頭皮が引っ張られ、長い髪の重量が全てそこにかかっている。髪を編んでいる者は皆この痛みに耐えて生活しているのだろうか?

『出来たの? 見せて……うわ、下手くそだね』

『ひ、酷いやフェルシュング君!』

どうやらメルとセネカの合作の出来は悪いらしい。

『フェル、ご飯作り終わったなら……』

『終わってない。僕も髪いじったりできないし』

『…………誰がこういうの上手いか知らない?』

『だーりん! 今度はワタシ一人でやるわ、三つ編みくらい出来るから!』

『な、何言ってるのメルちゃん! ボクの方が上手いって!』

メルに担当されていた左側頭部の方はあまり頭皮が引っ張られてはいないから、メルはそれなりに出来るのだろう。だが、セネカと張り合っている以上まともな出来にはならない。

『……二人とも、ご飯何人分かは先に出来たみたいだし、先食べなよ。今日は早番でしょ』

『だぁーりぃん……違うの、ちゃんと出来るのよ?』

『分かってる、メルは上手いよ』

『ボクはボクは?』

『二度と髪触らないでください』

不服そうなメルと落ち込むセネカを傍目に手探りで三つ編みを解き、ブラシを通そうとするも、絡まり合った髪を梳くのは容易ではない。

「おはよ……うわ、何お前髪ぐっちゃぐちゃだな」

『ヴェーンさん、ヴェーンさんって髪いじるの得意?』

「え、いや、全然。人形のヘアスタイルはいくらでも弄れるけど人間はキツい」

『人間も人形も髪は大して変わらないよ、やってくれない?』

「一番の違い教えてやろうか? 痛覚だ。後な、人形は一回やれば終わりで人間は風呂だの寝るだのの度にやんなきゃならない、面倒臭い」

そう言いながらもブラシを受け取って絡まった髪を元に戻してはくれた。やはり手先はかなり器用だ。

「フェールー、スムージー俺にやらせろ」

『トマト以外も入れてくださいね』

頭皮の痛みも大分引いたし、これで元通りだ。アル達獣連中には期待出来ないし、ライアーを人型に戻そうか、彼は何でも出来そうだ。

『ただいまー……あら、頭領はん。また伸びはった? 髪ばっかりやねぇ』

『あ、茨木、おかえり。あのさ、疲れてるところ悪いんだけど、髪編んでくれないかな』

『頭領はんの? ええよ』

何と勝負をしていた訳でもないのに、何故か「勝った」という言葉が頭に浮かんだ。初対面の頃か、茨木は綺麗に髪を結い上げていた記憶がある、今は男装しているから後ろで結んでいるだけだけれど。片手でもあの見事な髪型が出来るのなら──と期待していると、ぶちぶちと耳の後ろで音が響いた。

『……変やねぇ』

『い、茨木? 待っ……痛いっ! 痛い痛い痛いって!』

『んー……? こうやね!』

『ぅあっ!? ぁ……首、なんか変な音……』

髪を思い切り引っ張られて首を捻るなんてことがあるだろうか。随分引きちぎられてしまったし……ハゲてはいないだろうか。

『堪忍なぁ頭領はん、酔うてんのか眠いんか、なんや上手に出来へんわぁ』

『い、いや、いいよ……ごめんね、ありがと。もう寝て……』

『茨木さん、昼に味噌汁作るつもりだから良かったら起きてきて』

『はぁい、おやすみー……頭領はんに弟はん』

ひらひらと手を振って去っていく。相変わらず見事な男装だが、やはり色気はあるな……なんて考えたり。
もうライアーに頼るしかない。彼は確かビニール袋に包んで枕元に寝かせていたはずだ。

『……うわぁ』

ダイニングを出て部屋に向かおうとしたが、玄関で倒れている赤髪の男を見つけ、足が止まった。一度ダイニングに戻ってフェルに水をもらい、あまり近付きたくない酔い潰れているであろう酒呑の傍に膝を折って座る。

『酒呑、酒呑、起きて。もう少し頑張って部屋行って。ほら、水』

『ぉー……おおきに、天女はん』

『悪いけど僕は地上の男だよ』

水を飲み干した酒呑は靴箱に背を預け、ぼうっと座り込んでいる。手を引っ張って立ち上がらせようとしていると不意に彼の目が僕に向いた。三白眼……いやもはや四白に近いその目は改めて見ると恐怖を覚える。

『頭領やんけ、何しとるんそんなもん持って』

明瞭に近付いた瞳は僕の顔から僕の手にあるブラシに移る。

『……兄さんに髪編んでもらおうとしたら君が倒れてたんだよ。肩貸すから部屋で寝て』

『髪? えらいぐっちゃぐちゃやのぉ』

『茨木のせいだよ……いっぱいちぎられたし、僕ハゲてないよね?』

よろよろと立ち上がった酒呑は僕の肩を掴み、後ろを向かせた。

『……何?』

『ええからええから』

ブラシを奪い取ると僕の髪を梳き始める。酔っ払った粗雑な男に手を出されたら茨木以上の大惨事になる、始めはそう思っていた。

『…………痛くない』

髪を弄られているのに少しも痛くない、それどころか心地好い。

『……おーい、箸! 箸寄越し!』

壁を叩くと扉からフェルが顔を出す。

『箸……今朝は使わないからいいけど、なんで?』

『ええから寄越し』

箸をフェルから奪い取ると僕の頭、と言うより結い上げた髪の塊の部分に突き刺した。

『んー……もう一本』

『え……? ぁ、うん……』

『ほい、完成や頭領』

『嘘、箸でこの量まとまるの!? 何これ……え、何? 魔術?』

鏡がないからよく分からないが、まとまっているらしい。恐る恐る頭の後ろに手を持っていけばたわんだ結髪に触れた。絶妙なバランスながらしっかりと留められており、少し頭を振った程度ではビクともしない。

『すごい……ありがとう酒呑! 全然期待してなかったけど間違いだったよ!』

『失礼なやっちゃな、何年茨木の髪結わされてたと思てん。礼やら詫びやら兼ねて晩酌……朝酌付き合え』

『まだ飲むの? 寝なよ』

『いいよいいよいくらでも飲んで!』

『ちょっと……お兄ちゃん。まぁ……いっか』

その後僕は真昼過ぎまで続いた彼の晩酌ならぬ朝酌に付き合うことになり、何度も同じ話を聞かされて少し後悔したのだった。
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