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第三十五章 幾重もの偽物と閑話休題

奇異なるよろこび

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観測を諦めるのは顔が無かったからで、千あるものを産んだのは正常な物理法則なんてない場所で、笛と太鼓は単調で、踊っていて、幾何学だとか高次元だとか呼ばれる慰めは人間には分からなくて、原始がそこに在った、そう見えた。

『…………?』

創造神に遠い昔に創られた存在に成り代わって、その認識はどうなるだろう。他者のものも自分のものも矛盾だらけになるだろう。名前を奪ったことで元々の名前が消えるなら、名前が存在を表すものなら、きっとかつての存在は消えるだろう。
名無しが存在が不安定でやがて消える世界のバグだとしたら、そのバグに最も近いのは顔無しだろう。認識が固定される存在ではない、存在ですらない。


化身の一つに変えるつもりだったんだろう。

『誰を? 何の?』

存在を不安定にして苦痛を与え続ければそのうち顕現として使えるはずだった。

『何の話?』

旧神共の居ない世界線に、想像ではない世界線に、ようやく現実として干渉できるようになった。愛すべき人類と永遠に遊ぶためには、愛すべき人類に関わり続けるためには、その世界に固定された化身も必要だった。

『……誰?』

誰でもない。だって貌が無い。だから何者でもない。定義するとすれば無貌。未知のままに扱うしかない。既知になってはいけない。
それなのに、見るから。

『見る……? 誰が何を見たの?』

理解出来ないモノを、理解してはいけないモノを、キミは見た。
キミはボクの弟だし、とりあえずは修理しておくけれど長持ちはしないよ。禁忌を犯した罰だと思ってくれると好都合だ。

『弟……僕が? あなたは…………あれ? 僕、誰だっけ。え? ここどこ? いや、えっと……あれ……?』

未知を既知にしてしまったのなら見た記憶を消せば既知は未知に戻る。本来は不可逆だけれど誤魔化しはできる。
キミはボクの弟で、神の不安定な創造物に成り代わった魔物使い、そして──彼女の伴侶だ。




うるさい。
意識を戻して一番の感想はそれだった。

『……何か、んー? 何か変な夢見たような……』

頭に霧がかかったような気分だ。眠る前の記憶がストンと抜け落ちている。覚えている出来事を順番に並べるように頭の中で整理整頓を試みるも、いびきがうるさくて集中出来ない。そうだ、僕の目を覚ましたのはこの音だった。

『…………酒呑? 痛っ、いたた……腰、背中……いやもう全身痛い……』

表面を平らに切った石を敷き詰めた床に寝かされていたようだ。一応下に着物らしき布が敷いてあったけれど、それでも床の硬さは僕の軟弱な身体を容赦なく痛めつけていた。

『酒呑、酒呑ってば! しゅーぅてぇーんー! 起きて!』

僕の隣でロッカーに背を預けて座ったまま眠っていた酒呑、彼がいびきの元だ。彼なら多少乱暴にしても構わないだろうと揺さぶり、ロッカーに後頭部を何度か打ち付けるも、起きる気配はない。

『……酔っ払いめ』

どうせ酔い潰れているのだろう。そう考えた僕は彼を放って立ち上がり、周囲をざっと見渡した。ロッカールームのようだ。

『えーっと……確か、兄さんの石探しに行って……』

元アシュ邸でベルゼブブと別れてしまったのはハッキリと覚えている。その後アルと共にヴェーン邸の跡地に出かけると決めてからのことを覚えていない。
僕は外に出たのだろうか? それすらも分からない。邪魔な前髪をかき上げると酒呑の膝の上に赤い筋の入った黒い多面体を見つけた、ライアーの形見の石だ。

『あった! 良かった……おかえり兄さん……』

すぐにそれを拾って首にかけ、石は服の中に入れた。火事で焼失してしまったのではないかと心配していたが、紐すらも焼けていない。一体どこに保管されていたのだろう。
形見の石が戻ってきたのはいいが、今度はアルが居ない。出かけたことすら覚えていないが、記憶を失うようなショックが出先であったのかもしれない。そしてそのショックはアルが犠牲になるようなものだったのかも──

『……っ! ぅ……あ、うぅ…………酒呑! 酒呑っ! 起きてよ!』

最悪の妄想に不安に駆られてロッカールームから飛び出そうとするも、こんな訳の分からない空間から一人で出る勇気はない。僕は再び酒呑を起こす努力を始めた。

『…………あ、そっか……酒呑、 起 き ろ 』

頬を叩いたり髪を引っ張ったりしていると不意に自分が魔物使いであることを思い出す。この間抜けさは元々だろうか、記憶喪失と関係があるのだろうか。

『んー……? おぉ頭領、目ぇ覚めたか』

『ちょっと前からね。ここどこ?』

『更衣室や』

『どこの?』

『ホストクラブの』

ホストクラブ……? どうしてそんな所に。僕はホストになった覚えもホストにハマった覚えもない。

『家に寝ぇに帰ったら家なくなっとるわ頭領倒れとるわ……意味分からんわ。とりあえず頭領拾てここで寝てたんや。で? なんで家燃やしたんな、他のもんどこ行ってん』

『……家は、多分玉藻が燃やした。家に居たみんなはアシュの家だったところに移ったよ。で、えっと……僕は兄さんの形見探しに出かけたと思うんだけど、その辺の記憶無いんだよね』

ベルゼブブの話は元アシュ邸に全員が揃ってからにしよう。いや、ライアーが戻ったのならヴェーン邸を再生できるかもしれない。とにかく話は全員揃ってからだ。

『はぁ? 記憶無いてか。ほんっま……何やねん自分、まぁええわ。せや、その石拾て……あれ? 石あらへん、どっか行ってもた』

『あ、持ってるよ。見つけてくれたの酒呑なの? ありがと』

石を見せると酒呑は呆れたような安心したようなため息をつき、僕の頭を撫でて立ち上がった。

『怪我やらはしてへんな?』

『うん、ぁ、でもちょっと背中とか腰とか痛い』

『……じっとし。六根清浄…………どや?』

温和な表情が途端に真剣なものになり、鋭い爪が生えた太い指が僕の眼前で何かを描いた。

『治った……かな?』

『ほんまか? 何や変なもん仕込まれたんとちゃうやろな』

『うん、硬い床で寝てたから痛くなっただけだし』

『……は? はぁ……ふざけんなや頭領、疲れんねんで今の。そんなくだらへんもんに使わせな』

『使わせたつもりはないけど……ごめんね?』

ただ会話の種として言ったつもりだったのだが、酒呑は重篤なものとして受け取ったらしい。会話というのは難しいものだ。
疲れる術なら尚更申し訳ない。そうだ、詫びと労いを込めて血肉でも差し出そうか。

『食べていいよ。疲れマシになるかもだし、ほら』

『……ふざけんな』

『え? いや、ふざけてないよ。大丈夫、痛くもないし治るから、好きなとこ食べて』

『…………要らん』

酒呑は僕に背を向けてロッカールームを出ようとする。僕は慌てて彼の手を掴み、引き止めた。

『……な、なんで? 術使って疲れたなら食べたら疲れ取れるから……』

『要らん言うとるやろ!』

強い力で振り払われ、僕は寂しさと背中の痛みを覚える。ロッカーに叩きつけられた僕に酒呑は一瞬手を伸ばしかけたが、手を引っ込めて出ていってしまった。

『…………美味しいのにな』

簡単に離してしまった自分の手を蔑んで眺めていると、その手のひらにポタっと水滴が落ちた。

『……こんなことで、泣くなよ……馬鹿。そんなだから、約立たずなんだろ』

目を痛くなるまで擦り、下敷きにして眠っていた着物を拾う。埃まみれになった表の柄を見て酒呑がいつも羽織っていたものだと気が付いた。僕はそれを彼に届けるという大義名分を元にロッカールームを後にした。
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