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第三十四章 美麗なる妖狐は壮大な夢を見た

恒久的な別れ

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真っ白な空間で目を覚ました。どこまでも何も無い、地平線も壁も見えない。僕は井戸の中に居たはずなのに。

「……井戸、そうだ、井戸!」

井戸に落とされて水を入れられて身体が冷えて、どんどんと震えて、冷たい水に肺が侵されて──どうなったっけ?

『死んじゃった』

突然目の前に赤と黒の違った瞳が現れ、飛び退く。

「くっ、く、く……『黒』! 今までどこに居たんだよ、僕ずっと君に名前を返さなきゃって、消えちゃってないかなって、ずっと……心配で」

『…………ねぇ、ヘル。僕って馬鹿だと思わない? 指輪が欲しいなら自分で買えば良かったんだよ、僕が君に渡せば良かったんだ』

「名前、名前どうやって返せばいいの!? 僕何にも分かんないよ、どうすればいいの? 『黒』が消えるなんてダメだよ、僕が死ぬべきなんだよ!」

『何で君に渡されることに拘ってたのかな……忘れちゃった。きっと大事な理由があったんだろうけどね、どうして指輪が欲しいのかも分かんなくなってさ……ダメだね、もう、本当に記憶が朧気で……』

話が噛み合わない。
『黒』は僕の唇に人差し指を立てて当て、黙らせた。

『左手出して、そう、薬指』

僕の手は水に冷えて青白くなっていたはずなのに、『黒』に持ち上げられた僕の左手はいつもより血色がいい。

『……見て、お揃い』

「…………ごめん。僕がやらなきゃいけないのに」

『気にしないで、ヘル。僕はこうやって君と同じ指輪を同じ指に付けたかっただけなんだ、僕が留まりたかった理由はそれだけ。少なくとも、今はそう。君と愛し合った証拠が欲しかっただけ』

飾り気のない銀色の指輪、僕達はそれを付けた左手同士を繋ぎ、どちらともなく唇を重ねた。

『……ヘル、浄化してあげる』

「…………浄化?」

『そう……顔無しに汚染されてるだろ? 天使としての最期の仕事さ』

その言葉を聞いて僕は嫌な予感が膨らみ、『黒』の手を払った。

『…………ヘル、君にとってあの邪神はなんだい?』

「僕の神様……彼の為に、この世界を──」

『君の最初の目的は何だった?』

「…………思い出せない」

頭に黒いモヤがかかっているように、何もかもを黒で塗り潰されたように、僕は何も思い出せなくなっていく。

「ぇ……あれ? 僕……僕は、ぁ……ここどこ? アルは………………アルって、えっと……」

『……重症だ。ほら、浄化してあげる。僕の全てを君に移して、その分の君の穢れを僕に移すんだ。大量虐殺を願ったのは僕だ、君じゃない。君の罪と罰は全て僕のもの……そうすれば僕はようやく消えられる。最期に君の為に力を使えるんだ、こんな幸福なことはないよ』

「…………誰?」

黒と白と灰が混ざった髪、赤と黒の左右違った瞳。見覚えのある美しい少女が僕の頬を撫で、顎に手を添えた。

『ヘル……きっと僕はずっと消えたかったんだ。創られた時から、ずっとね。僕を恨んでいいよ、ううん、恨んで。ずっと、ずーっと、恨んでいて。君に会えてとても幸せだった……君は僕の唯一の幸せだったよ、愛してる』

一瞬だけ唇が重なって、僕の頭の中の黒いモヤが晴れていく。そして目の前の少女の姿も薄くなっていく。

「ぁ、あっ……待って」

名前は何だった? 思い出せない。彼女は誰? もう少しで思い出せそうなのに、出てこない。

『…………さようなら、愛しい人』

「待って、待って……!」

真っ白な空間が存在もあやふやな端から黒い外の空間に向かって崩れていく。

「行かないで!」

少女の姿が完全に見えなくなって、この白い空間に立つのは僕だけになって、床が消えると同時に頭の中の黒いモヤが全て晴れた。

「……『黒』ぉっ!」

真っ黒な空間に手を伸ばして飛び込んだ。
何も見えない、何も聞こえない、何も感じない──


──数秒か、それとも数時間か漂っていた。燐光を見つけ、そこに『黒』が居るのだろうと必死に手を伸ばし、僕の身体は光に包まれた。

「……『黒』っ! 『黒』……?」

伸ばした手がもふんと毛に埋まる。アルよりは短く、硬い。

「………………カヤ?」

そう呟くと半透明の犬が飛び込んできた。僕の口周りを舐め、ちぎれんばかりに尻尾を振り、前足で空気を掻いて後ろ足で地面を何度も踏みしめた。

「……『黒』は?」

手を繋ぐように前足を握って問いかけるとカヤは舌を出してハッハッと息を荒らげながら首を傾げる。

『ご無事で何よりです主君!』

何故か僕は土まみれになっていた。いや、それどころか穴の中に居る。カヤの助けを借りてよじ登り、土を払いつつここはどこだろうと周囲を見回していると、どこからか元気な声が聞こえた。

「え……何、誰? どこ?」

声はすれども姿は見えず……

『ご主人様っ、ご主、人様……コこ』

後ろ足で立ったカヤが前足を僕の腹にたしっと置く。ここと言われても指差しは出来ていないぞと思いながら見下げるとカヤの頭の上で飛び跳ねる黒い小鳥を見つけた。

「……え?」

『主君! 状況を説明致します。主君は水責めにあい生命活動を停止なされました! しかし、私共は諦めず憎き女狐を追い払い主君を掘り出しました! 狐を仕留め切れなかった私共は本来なら切腹が筋かと思われますが、主君の判断を待とうと生き恥を晒していました!』

「…………ごめん、ちょっと待ってくれる?」

『はっ! いつまでも!』

主君と呼んでいるのは僕のことだろう、となればこの小鳥は魔物だろうか。じっと観察しても普通の鳥との違いは見当たらないが、確かに人の言葉を話している。
忠誠心はあるようだし、カヤとも仲が良さそうだ。状況把握も申し分がない、僕の理解力が低くなければ意識を失っていた間のこともよく分かっただろう。

「……まずさ、君誰?」

有能そうだし、可愛らしい。怪しくなければこのまま受け入れよう。

『はっ! 私は長さ二尺七寸九分二厘反り一寸二分三厘元幅一寸七厘の或る宝剣の二分余りの写太刀小烏!』

「……は? え、ごめん、何て?」

『長さ二尺──』

「そこはいいそこはいい、一番聞き取れなかったけど聞き取れても多分分からないからそこはいい。えっと、名前は?」

『小烏!』

「………………え?」

聞き覚えのある名だ。気のせいだろうと思いつつ影に手を翳し、刀を呼ぶ。

「えっと……これ?」

『はっ!』

「…………何それ」

呼ぶと勝手に飛び出て来るし、勝手に敵を切るし、ただの物ではないと思っていたけれど──

「まさか妖怪が取り憑いてたなんて……まぁ、いいや。改めてよろしくね」

『私は妖怪ではありません!』

「そう? まぁ何でもいいよ。ほら肩おいで、肩に鳥乗せるの夢だったんだよね……」

猛禽類が理想だったけれど、まぁ小鳥でもいいだろう。

『……ご主人様』

「カヤは、えっと……乗せてくれる?」

『ご主人様……!』

足をしっかりと胴に絡め、首に腕を回す。カヤは僕の指示通り壁を蹴って王城の頂に立った。

「お菓子の国……ではあるんだよね、えっと……井戸で溺れてどうなったんだっけ?」

『生命活動を停止なされました!』

「耳の横では普通に話してね。えっと、死んだの?」

『今は主君の心臓は早鐘を打っております!』

「うるさいよ高いところ怖いんだよ。耳の傍で叫ばないでってば」

死んだ……か。『黒』の力を奪っていたから死んでも生き返った、いや、仮死状態が続いていたと判断した方がいいか?

「……玉藻は逃げたんだって?」

『はっ! 取り逃しました!』

「そっか、まぁいいよ。どうせまた来る。その時に潰す」

頭がスッキリしている。魔物使いとしてどうだとか、僕は生きていていいのかだとか、そんな悩みが綺麗さっぱり消えている。一時的なものでなければ良いのだが。
これが『黒』の言っていた浄化だろう、自分の生命と引き換えに僕をナイから救ってくれたのだ。『黒』はきっともう居ない、感覚で分かる、力が漲っている、『黒』の力が完璧に僕に移ったのだ。

「……潰さなきゃならないゴミがたくさん居る」

仇討ち? いや、八つ当たりだ。大義名分なんて要らない、魔性の王なら動機は「気に入らない」で十分、むしろそれが至高。

「…………カヤ! 小烏! 遍く敵を討ち滅ぼすまで、この魔性の王ヘルシャフト・ルーラーに忠誠を尽くすと誓え!』

カヤから降りて尖った屋根の頂点に立ち、翼や角など『黒』に貰った全てを解放する。

『ご主人様! 一生、傍、に!』

『お傍で尽くします!』

気合いの入った応答を貰い、それからしばらく沈黙が続く。

『…………なんか恥ずかしい』

格好付け方を間違えた気がする。
僕はカヤの背に乗り、酒色の国に戻るよう伝えた。
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