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第三十四章 美麗なる妖狐は壮大な夢を見た

呪縛

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身体をぐるぐる巻きにしているのは呪符という物で、魔力封印の他にも筋肉の働きを制限する呪いがあるらしく、物理的な拘束の問題ではなく僕は指の一本も動かない。
目にも同じ物が巻かれているらしく、何も見えないし魔眼も使えない。カヤを呼び出すことも出来ない。形見の石の首飾りは別で封印して保管しているとアルが言っていた、ライアーに夢の世界で気を紛らわせてもらうことすら出来ない。

『…………ヘル? 起きた……のか?』

僕に分かるのはアルの重みと体温、声と舌の感触だけ。今は僕の隣に伏せて頬を舐めている。

『……済まないな、暫くはそのままだ』

呪符だとかの説明はアルがしてくれた。この部屋にはアルと僕以外に人は居ない、入っても来ない。もう何日も何も食べていないけれど僕が衰弱する様子はないし、それをアルが気にする様子もない。

『ベルゼブブ様は貴方の精神が安定するまでと言っていた。だが、話すら出来ないのに安定させることなど出来る訳が無い……貴方もそう思うだろう?』

アルは僕の頬を舐めたり顔を擦り寄せたりしている。この感触とそれによって妄想するアルの姿である程度は癒される。

『……私も貴方と話したい。だが、舌を噛むかもしれないと……な。貴方はそんな事はしないよな、私を置いて死のうだなんて……そうだろう?』

舌を噛み切って死ぬことは出来るのだろうか。頭を削られても身体中に穴を開けられても意識が朦朧とするだけで、死の恐怖は感じても死を確信することはなかった。

『筋力を制限してあるから真面に話せるかどうかも分からないな。顎や唇は動かせるか? 舌は動く筈だ、飲むと危険だからな……直ちに生命に関わる筋肉は動くぞ』

意識してどこかを動かすことは出来ない。

『……む? ロキか、部屋に入るなと聞かなかったか? そうか、今言った、出て行け……ぁ、やめろ! おい、やめないか!』

ベッドの上でアルが暴れる。ロキ……? ロキがアルに何かしているのか?
ビリビリと布を裂く音が聞こえ、身体に自由が戻り、視界も戻った。

『……何の真似だ、ロキ』

『いやいやお前らが何の真似だよ、何があったか知らねぇがこれは酷くね?』

胸ぐらを掴まれて引き起こされ、自分の身体を包んでいたであろう呪符の残骸を見た。

『何があったか知らないのなら口も手も出すな!』

『おーぉー牙剥いちゃって、整った顔が台無し…………でもねぇな、うん、狼ってこの牙剥き出しが格好良かったりするよなぁ。なぁお姫さん』

口に詰め込まれた布は外されていない。僕はとりあえず頷き、轡を解こうと硬い結び目を引っ掻いた。

『……っと、忘れてた。ほらよ』

ロキが轡と頬の隙間に指を差し込むと布は切れてはらりと落ちた。口に詰まっていた布を引っ張り出し、嘔吐く。

『ヘル……ヘル、大丈夫か?』

上目遣いで可愛らしいアルの頭を撫で、状況があまり理解出来ていないながらもロキに礼を言った。

『…………ヘル、悪いが、その……貴方は今暫く封印していなければ……ならなくて、だな』

『何で?』

アルはロキにあからさまな苛立ちを見せたが、特に何も言わず僕に向き直った。

『……犬神を始めとして貴方の力が暴走する可能性がある。だから、精神を落ち着かせなくてはならない』

『あんなぐるぐる巻きじゃ落ち着かねぇって、なぁ?』

『煩いぞ! 仕方が無いだろう、魔物使いの力が暴走すれば近辺の魔物は破裂しかねん!』

「…………破裂?」

僕が魔物の死を願った時、魔物の身体が破裂することがよくあった。そのことだろうか、今の僕はそれをアルにやってしまいかねないということだろうか。

『……あぁ、ヘル。聞いた通りだ。封印されていない貴方の傍に居るのは本当はかなり危険なんだ』

「…………で、出てって! 早く出てってよアル! 僕から離れて……ロキっ! アルを僕から離して!」

「ヘル! 駄目だ、興奮するな! 落ち着い……っ!? ぅ……だ、大丈夫……大丈夫だ、ヘル。何ともないぞ」

アルの右前足が反対に曲がった。すぐに再生したが、治る治らないの問題ではない。今のは僕がやった、自分で分かる、意識はしていないが手応えはあった。僕がアルを傷付けた。

「ぁ、あっ……ごめ……」

アルを傷付けてしまったという実感と罪悪感、焦燥に襲われてろくな思考が出来ないでいると、今度は黒い羽根が散った。

「……ち、ちがう……わざとじゃ……」

言い訳をしようとすれはアルは苦しそうに顔を歪め、その場に横たわった。背筋に氷水を垂らされたような寒気が走り、僕の隣に半透明の犬が現れる。

『我、幼稚にして陳腐な悪戯を企てし者。汝は平々凡々たる人間である、でなければ遊戯は愉しめない』

ロキは聞き慣れない言葉を呟いて僕の額をトンとつついた。

『……よし、これでお前はただの人間。魔物使いでも何でもない、呪いもない、食わなきゃ死んじまう人間だ。そう偽った。あんま俺の術を疑うなよ? 俺の術は万能だけど薄っぺらいからさ』

アルはゆっくりと起き上がり血を吐いた。その血を呪符の残骸で拭うと、僕の頬に頬を擦り寄せた。微かに生温く湿っており、鉄臭い。

「ごめん……ごめんねっ、アル、ごめん……」

『大丈夫、私は何ともないよ。わざとでは無いのだ、何を謝る事がある』

『いやわざととかわざとじゃないとか関係なく今のは酷ぇよ?』

『黙れ! 誰のせいだと思っている、貴様が封印を解くから……!』

『ぐるぐる巻きじゃあんまりだろ。こんなもん要らねぇ俺様の封印術使ってやろうと思ったんだよ、感謝しろ』

手際の悪さはともかくロキは善意でやってくれたのだ、結果も良好、彼を責めるのはお門違いだ。責められるべきは僕一人、そんな心持ちでアルを抱き締めるとアルはロキを威嚇するのをやめ、くぅんと鳴いた。

「……ロキ、ありがとう。この間は……何か、ごめんね。機嫌損ねちゃって……」

『この間……? あぁ、うん、別にいいぞ』

この反応、覚えていないと見た。

「…………ロキ、最近した悪戯言ってみて」

何かとんでもないことをやらかしている可能性がある。

『ん? んー……最近なぁ。書物の国戻ってあの子口説いてたから──何もしてねぇ!? このロキ様が……何も、してないっ!』

「そっか、良かった。ごめんね疑って……」

『良くねぇよバカ! 今すぐ何かしてくる!』

「えっ……ま、待ってロキ!」

ロキはカーテンと窓を乱暴に開けて出て行った。アルがため息をついて僕の腕から抜け、窓を閉めカーテンを閉じた。

「……どうしよう」

『どうもせんでいい。放っておけあんな邪神』

「邪神……」

邪神、そうだ……僕は、僕の神様との約束を果たせなかった。守ると言ったのに、ここに連れ帰ると言ったのに、力に驕って逃げる機会すら逃して彼を死なせてしまった。

「…………し……たい」

『ヘル? 何か言ったか?』

アルはベッドに飛び乗り、首を傾げて僕を見上げる。

『貴方の願いなら何でも叶えてやるぞ。私に出来る事なら……だがな。腹でも減ったか? 風呂に入りたいか?』

「死にたい」

『…………冗談はよせ。笑えない……』

「願いを叶えてくれるんでしょ? 叶えてよ、殺して」

『…………出来ない』

顔を背けて呟く。その姿は酷く弱々しく、罪悪感を煽られるものだ。
したくないの間違いだ……と言いかけてやめる。『黒』の力を奪った僕はきっとアルには殺せないのだろうと察した。

『ヘル……なぁ、ヘル、貴方は私を愛してくれているんだろう? なら、私の気持ちを考えてくれ。危険な戦いから退けられて、知らぬ間に伴侶が心身共に衰弱して、ようやく話せると思ったら…………死にたい等と、殺して等と、言われる……私の気持ちをっ、少しは……分かって』

胸に大きな頭が押し付けられる。
やはり僕はアルを傷付けることしか出来ない。いつまで経っても身勝手な子供のままだ。
守ったつもりだったのに、守りたかったのに、そう思えるものが沢山できたのに、何一つとして守り切れなかった。

「…………ごめんね、アル。大好きだよ」

『ヘル……分かってくれたか?』

「うん、分かったよ、アル。アルが大好きなのが僕じゃなくなれば解決するよ。もっとしっかりしてて強い人なら心配しなくてよくなるよ。魔物使いの力を使っていいようになったら、僕の記憶を消してあげるから……今度こそ良い人見つけてね」

『…………どうして、どうして分かってくれないんだ。貴方のそんな態度が私を最も苦しめるものだと、どうして……分からないんだ。私は貴方が好きなんだ……』

分かりたくもない。
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だから今度こそ大丈夫。アルだけは幸せに出来る。そうすればもう何もかもどうでもいい。魔物と人間が共存できるような理想郷を作っては死んだナイが可哀想だ。

あぁ……そうだ、いい事を思いついた。アルをロキかトールに任せてアスガルドに住まわせて、この世界は滅ぼしてしまえばいい。そうすればアルのためにもナイのためにもなる。
そして、僕の八つ当たりに近い復讐も果たせる。
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