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第三十三章 神々の全面戦争

後始末

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よろけてもたれた壁には剥がれた頭皮が張り付いており、それから離れようと動かした足は手首を踏み、ヘルメスは顔を真っ青にして避難所の扉から倒れるように廊下に出た。兵士達に受け止められ、背を摩られ、ゆっくりと呼吸を落ち着かせる。

『犬神……あの嫌味ったらしいクソアマ、いえ、クソ野郎に聞いた話では憎悪を糧とする呪いでしたか。主人にのみ忠実で主人の僅かな感情の起伏にすら反応することがあり、制御を効かせるのは至難の業。主人の手を離れた場合、または主人が憎悪に満ちた場合、虐殺を行う。にしても、これは……』

ベルゼブブは見覚えのある髪色を見つけ、掴み上げる。首には胴が繋がっておらず、背骨が僅かに飛び出しているだけだった。

『……顔見知りですら容赦なし。ヘルシャフト様、相当参ってますね』

男性の頭部を投げ捨てると扉をくぐり、涙目で水を飲むヘルメスを鼻で笑う。その隣に立った兵士に抱えられたヘルの頬をつつき、舌打ちする。

『呑気に寝てますが、起きたらまたやらかしますね。家に帰って先輩に何かあったら正気に戻ってもすぐ正気を失いますよ』

「じゃあ……安定、させてから……家に帰すの?」

ヘルメスは喋りながらも時々嘔吐く。赤黒い景色に相当参ったようだ。

『無理せず吐いた方が楽ですよ?』

「…………せっかく食べたのに吐いたらもったいないじゃん」

『王子のくせに貧乏性ですねぇ。でもま、同感です』

王宮に上がるまで毎日欠かさず食べられることも腹一杯食べられることもなかったヘルメスは「食える時に食う」精神が未だに息づいており、ベルゼブブはただ単に食への執着が強い。まぁまぁ気が合う二人だった。

『安定……安定、ね。精神安定剤とかあります?』

「うちの国にはないね」

『酒色の国のは麻薬ですし、娯楽の国のも麻薬。もうラリってた方がマシかもとか思いますけど、薬切れたら厄介ですしねー』

「クスリは良くないよ。そういうのならうちの国にもあるけど、大概廃人になる」

『なんか癒し効果のあるもの……先輩に押し付けるのがいい気がしてきました』

「先輩? 俺じゃないよね? 誰?」

『私の先輩ですよ。アルさん、アルギュロス先輩。私の方が歳上ですがヘルシャフト様の下僕歴は先輩の方が上なので』

「下僕歴……うん、まぁ、そうだね、ヘル君が一番落ち着いてるのって……結局、あの子の傍かもね」

ヘルメスはアルの首に下がっていた移身石を思い出しながら呟く。

『となれば早速帰ってヘルシャフト様の封印を行います。寝ている間にやっちゃいましょう』

「封印?」

二人と兵士達を包んで無数の蝿が飛び回る。ヘルメスはもう慣れたようだが、兵士達の中には虫嫌いなのか目を閉じて震える者もいた。蝿が消えるとヴェーン邸の中庭に立っており、ヘルメスと兵士達はキョロキョロと辺りを見回した。

『犬神が暴走して先輩を襲う可能性はもちろん、先輩は魔獣なのでヘルシャフト様が魔物使いの力を手当り次第に使ったら先輩が大怪我するかもしれません。それをヘルシャフト様が見たとしたら──どうです?』

「……自分で大事な子に怪我させたら、そりゃ」

『やばいでしょ? この国一つじゃ済みませんよ、そっちの国にも飛び火するかもしれません。自分の身を守るためにもヘルシャフト様の封印にご協力くださいな』

ベルゼブブはヴェーン邸に居た全員を集めた。隣国の戦争やそれによる山の消失でほとんどの店は臨時休業になっており、また外出を控えろとの警報も出ていて全員が家に居た。

『思い付く限りの封印を施します。外に出さないだけではなく、ある程度なら吸収の類も許可します』

『魔封じの呪と神性封印は出来るよ』

『俺は天使封印が使えるが……必要か?』

『魔力やらだけやのうて動きも止めた方がええんとちゃいます?』

『せやったら呪符書いて巻いとこか』

思い思いにヘルに封印の術をかけ、縛っていく者達をアルは不安そうに見つめていた。

『先輩、何かボーッとしてましたけど目ぇ覚めたんですか?』

「……少し前に。あの、ベルゼブブ様……これを見てください」

アルは前足で首飾りを持ち上げる。移身石にはドス黒い霧が渦巻いていた。

『…………封印したまま先輩だけに接触させて、その石の黒いのが引いたら封印を解きますか。見えるって便利ですね、兄君が居れば読心も可能なのですが』

『兄君は何処に?』

『知りませんけど、何かヘルシャフト様と口論になって拗ねて出て行ったらしいですよ』

それをトールが探している、という情報は渡さず翅を震わす。

『通信用の御子様で場所が分かりませんか?』

『……逃げた後食べたみたいですね。反応がありません』

二人は揃ってため息をついた。

『…………ヘルは何故、国を……一国の人間全てを、殺したのでしょう』

アルは召集された時に聞いた話を思い返しながら、ベルゼブブが舌舐めずりしながら語った凄惨な光景を思い描きながら、辛そうに呟いた。

『憎悪を膨らませて正気を喪失し、犬神の制御を失ったのです。その理由はよく分かりませんが、おそらく邪神ですよ』

『ヘルの意思ではない、そうですよね?』

『……どうでしょうね。無意識下で願っていなければああまで徹底した殺戮をたった一つの呪いが行えるでしょうか。その辺は鬼と話してください』

アルは十五年間の長い夢を思い出す。実際には夢ではなく別世界の思い出なのだが……

『ヘルはっ……優しい、優しい子です。自己犠牲の精神に満ちた、誰よりも何よりも優しい子なんです。同族を虐殺するなんて有り得ません』

捕えられた自分を助けに来たヘルが周囲の兵士を残虐な方法で殺害したのを思い出しながら、震える声を出す。
夢のはずなのに妙な現実味があって、人間を殺しておいて「ここに人間は居なかった」と本気で言ったヘルの目が恐ろしくて、アルは守るべき伴侶に怯えていた。

『…………ねぇ先輩、リン……でしたっけ? どうしてヘルシャフト様の知り合いが死んだことを話さなかったんですか? ヘルシャフト様がこうまで参ってしまったのはそのせいもあるんですよ?』

『ヘルが、傷付くだろうと……会う予定も無いのだから、話さなくても大丈夫だろうと』

『本当にそれが理由ですか?』

『…………失敗したと、恩人を死なせてしまったと言って……ヘルに嫌われるのが恐ろしくて』

二人の視線は自然とフェルの方へ向く。フェルは真剣にヘルに封印の術を施しつつ、クリューソスや茨木と談笑していた。

『呑気なもんですね……』

『…………ベルゼブブ様、少々相談事があるのですが……その、よろしいでしょうか』

『あーはいはいお好きにどうぞ。聞くだけは聞きますよ、聞かなきゃ分かりませんからね』

十五年間の別世界──アルにとっては長い夢。
夢の中のヘルは自分のために大量虐殺を行った。そしてその後、ゲームに勝つためだとか言って自分を犠牲にした。利用したように、裏切ったように、そう思うように暗示をかけた。
アルは自分も混乱している夢の内容をベルゼブブに丁寧に話した。

『私には分からないのです、ヘルの……心が。ヘルが何を考えているのか……私には全く分かりません』

『ただの夢なんでしょう?』

『それは、そうですが』

アルは夢の中のゲームが忘れられないでいた。愛しているだなんて嘘、利用するための嘘、そう言って自分を裏切ったヘルがこびりついていた。

『そんな夢を見る自分が信用ならない、とか面倒臭いこと言います?』

『…………それもあります。あの、ベルゼブブ様……私は本当に愛されているのでしょうか。ヘルは……本当に、私を』

『その首から下がってるのはなんですか? ヘルシャフト様は貴方に喰われた時だって喜んでたでしょ。食べて殺して腹に納めてとまで言われておいて何が信用出来ないんですか?』

『……全て、嘘……』

『有り得ませんね、メリットが皆無です』

『………………そうですね』

アルは呪符でぐるぐる巻きにされ、目と口まで塞がれたヘルの元に歩み寄る。いつもなら美しい魔力が漏れ出しているが、今は普通の人間よりも魔力が見えない。
そんなヘルにそっと額を寄せてアルは確信する。

『愛しているよ、ヘル……』

自分の恋心は食欲の勘違いでも、魔力だけに惚れた訳でもない。本当にヘルという人間を愛しているのだ。

『じゃ、後は先輩に任せますね。かいさーん』

気の抜けた解散宣言で集まっていた仲間達は邸内に戻り、思い思いに仲の良い者と談笑しながら散らばっていく。
ベルゼブブは嵐による被害や神降の国との国交を考えなければならない、正義の国の侵略の可能性も。
翅を震えさせ、触角を垂らし、手を擦り合わせ、その大きな赤い瞳を閉じてため息をついた。
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