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第三十二章 初めから失敗を繰り返して
全て失った
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藻掻くこともなく流されて、僕はいつの間にか洞窟から出て大海を漂っていた。『黒』の名を奪った僕には天使の力が宿っていて、海底に沈もうとも何日も漂流しようとも身体は少しも衰弱しなかった。
銀の鍵を眺めて日々をやり過ごす。漂っているのが海水でなく薔薇の香りのワインなら僕は大喜び出来るのだが。
「…………何、しようかな……」
兄が死んで、アルに見捨てられて、僕にはもう縋り付けるものがない。『黒』は何処に居るのかどころか存在すらあやふやだ、頼れるモノではない。
「死ねないし、消えないし……帰れないし、愛されないし……」
以前の時空で僕は自分を不幸な奴だと思っていたけれど、アルにずっと寄り添われて兄と再会したりして、仲間も集まって──本当は幸運に恵まれていた。
もう、僕には何も無い。
「誰か……愛してくれる人……」
僕に無償の愛を注ぎ続けられる人は居ないだろうか。
「…………あれ」
波に運ばれ、僕はいつの間にか陸地に流れ着いていた。数日ぶりに身体を動かし、岩に引っかかった服を破りながら地面に立った。
「身体、重いなぁ……」
久しぶりの重力というのもあるが、水を吸ったボロ布と化した服が重りとなっている。脱いでしまおうか、いや、僕は人が居ないからといって外で裸になれるような人間ではない。
姿を消してどこかから服を盗んでしまおうか、この力は盗みに便利だ。銀の鍵以外の荷物も失ってしまったし、僕を裁くことなど誰にも出来ないのだから、多少の日用品くらい──そう考え始めた時、僕の首に枷がはめられた。
「……え?」
振り返ろうとするも後ろから抱き締められ、その者の顔は見えない。感触から鎧を着込んだ女だと判断する。
『たぁちゃん……久しぶり。あぁ、まだ生きていたんだね、良かった……もう離さないよ』
蕩けた声で囁いて、流れるような手つきで僕の両手を身体の前で拘束する。首枷と手枷は同じ石で作られた鎖で繋がっており、身動きはかなり制限される。
「……オファニエル?」
『覚えていてくれたんだねたぁちゃん……嬉しいよ。あれ……苦しくないみたいだね』
「…………別に苦しくはないけど」
『そうか、やっぱり天使の力を封じるだけじゃ足りないのか……お願いだよたぁちゃん、逃げないで、私に捕まっていて、私だけを見て……』
首枷と繋がり手枷から伸びた鎖はオファニエルの手に巻き付いている。オファニエルは僕の前に回り込み、その鎖をぐいっと引っ張った。顎を持ち上げられ、とろんとした瞳を向けられ、身が強ばる。
「……よく見てよオファニエル、僕は君が好きな天使じゃない。人間だよ」
『人間に転生なんて堕天使みたいな手を使って……そんな脆い身体で君の退屈は癒せるとは思えないよ』
「よく見てったら! 全然違うだろ!? 顔も、性格も、性別も、何もかも違うのに間違えないでよ!」
『あぁ、間違えていないよ。たぁちゃん……私のたぁちゃん。もっと睨んで、もっと私を憎んでおくれ、その頭の中を私で埋めつくして……』
話が出来る精神状態ではない。どうしてこれだけ他者に執着しているのに堕天していないのか、本物の『黒』はどこで何をしているのか、僕は逃走を試みることもなく考え始めた。
『こんなボロきれは相応しくないよ、たぁちゃん。さぁ帰ろう、君だけの檻に……』
浮遊感を味わって数秒、僕は枷と同じ石で作られているらしい檻の中に居た。檻と言っても部屋は円形で数十人が眠れるほど広く、机や椅子やベッドもあって、ウサギが跳ね回っている。
「……ここは」
『月永石で作ったんだ。君でも簡単には逃げられないはずだよ。これだけの量を揃えて魔力を蓄えるのを待つのに何千年かかったか……気に入ってくれたかな、たぁちゃん』
「…………オファニエル」
『なんだい、たぁちゃん。何か欲しいものがあるのかな? 自由以外なら何でも用意するよ』
「君は、僕を……愛してくれる?」
『もちろん、初めて会った時から今の今までたぁちゃんへの愛情は膨らみ続けているよ。こうして向かい合っていると今にも破裂してしまいそうだ……あぁ、たぁちゃん、そんな顔初めて見るよ……人間に転生して表情が豊かになったのかな? とても美しいよ』
手甲を外し、分厚い手袋を外し、細長い指が僕の頬を恐る恐る撫でる。僕は目を閉じてその手を受け入れた。
『……たぁちゃん?』
僕が──いや、タブリスが逃げようとしないことにオファニエルは困惑しているようだった。『黒』はどうしてこんな心地好い空間を嫌ったのだろう、僕には理解出来ない。
「好きにしていいよ」
『え……? え? たぁちゃん?』
「逃げたりしないからさ、枷は外してくれないかな。重いし、寝転べないし……」
オファニエルは驚いた顔のまま枷を外した。監禁したがる割に素直なんて、そんな性格だから『黒』を捕まえられないのだ。
『……たぁちゃん、逃げないの?』
「君が愛してくれるなら逃げないよ」
『ぁ、あっ、愛してるっ! 愛してるとも!』
「じゃあ逃げない」
『ほ、本当? そんな……こんな簡単に、君が手に入るなんて。あぁっ……私は夢を見ているのか?』
恍惚とした笑みを浮かべ、僕を抱き締めようとするオファニエルを僕はそっと押し返した。
「鎧脱いでよ、痛い」
『ごっ、ごめんよ? すぐ脱ぐから……』
ガチャガチャと音を立てて鎧を脱ぎ捨て、これでいいかと腕を広げる。薄い白の無地一枚の女性をまじまじと見るのは気が引けて、目を逸らして頷いた。
『たぁちゃん! たぁちゃん、たぁちゃん……本当に、本当なんだね、やっと私のものになってくれるんだね!』
「ぅ、うん……」
薄着のまま抱き締められ、抵抗も何も出来ない。
「……ねぇ、オファニエル。君、加護受者居るんじゃないの?」
『ああ! 居るよ、居ると仕事が楽だからね』
天使はそんな理由で加護を与えているのか。
「仕事……行くの? 寂しいな」
『ごめんよたぁちゃん、出来るだけ少なくして出来るだけ素早く済ませるからね。私の使い……月永兎も居るからね、このウサギでどうにか寂しさを癒しておくれ』
オファニエルは近くに居た真っ白のウサギを抱き上げ、僕の膝の上に乗せた。温かな毛皮は感触こそ違うもののアルを思い出させて、自然と涙が零れた。
『たぁちゃん!? な、何? どうしたんだい? 何か気に入らないことが……あぁ、黒いウサギの方が好きだったかな』
「……うぅん、何でもない。何でもないから……傍に居て」
『あっ、ああ! もちろん!』
ぎゅうぎゅうと抱き締められ、呼吸を妨害される。けれどその肉体的苦痛を上回る多幸感が僕を支配していた。
無意識にオファニエルの背に腕を回していて、彼女はそれに感激して更に強く僕を抱き締めた。
檻の中には時間の感覚がない。
発光する石に囲まれて一日中明るいし、部屋を飛び回るウサギ達の眠る時間はバラバラで、窓はない。僕も眠りたくなったら眠るようにしているから昼夜逆転なのかすら分からない。
オファニエルは仕事の時以外はずっと僕の傍に居てくれる。眺めたり、撫で回したり、抱き締めたり、愛し方は時々で変わる。
僕は彼女に特別な感情を抱いている訳ではないし、彼女が本当に愛しているのは『黒』であって僕ではない。多幸感の中にも心の中心には冷たい欠片があって、僕の心身は完全には温まらない。
「…………ね、オファニエル。アルって……知らない?」
ある日、そう尋ねてみた。
「ほら、僕今は人間だろ? それで、ちょっと前にその魔獣に世話になってさ……今どうしてるか知りたいんだけど」
知りたいと思ってから口に出すのには時間がかかった。兄と過ごした経験もあって、他者の話題を出すのは危険だと思っていたからだ。しかし、オファニエルは兄とは違って他者の話題を出しても嫌がることはなかった。それどころか──
『調べてみるよ。どうすればいいかな、様子の報告だけでいい? 鏡でも用意して観察できるようにしようか、それともここに連れてくる?』
──素晴らしく協力的だ。
「……観察できるようにして欲しいな。あのさ、オファニエルは……僕が他の人のこと話すの、嫉妬したりしないの?」
『そりゃ、私だけを見ていて欲しいよ。でも、私はつまらない奴だから……たぁちゃんを退屈させちゃいけないから、たぁちゃんがここに居てくれるなら、私はそれだけでいいんだ』
何て献身的な……流石は天使だ。なんて騙されてはいけない、どれだけ心地好くともここは檻なのだ、彼女を満足させられていないからと僕が罪悪感を抱く必要はない。
僕は自分にそう言い聞かせ、ウサギを抱いてアルの情報を待った。
銀の鍵を眺めて日々をやり過ごす。漂っているのが海水でなく薔薇の香りのワインなら僕は大喜び出来るのだが。
「…………何、しようかな……」
兄が死んで、アルに見捨てられて、僕にはもう縋り付けるものがない。『黒』は何処に居るのかどころか存在すらあやふやだ、頼れるモノではない。
「死ねないし、消えないし……帰れないし、愛されないし……」
以前の時空で僕は自分を不幸な奴だと思っていたけれど、アルにずっと寄り添われて兄と再会したりして、仲間も集まって──本当は幸運に恵まれていた。
もう、僕には何も無い。
「誰か……愛してくれる人……」
僕に無償の愛を注ぎ続けられる人は居ないだろうか。
「…………あれ」
波に運ばれ、僕はいつの間にか陸地に流れ着いていた。数日ぶりに身体を動かし、岩に引っかかった服を破りながら地面に立った。
「身体、重いなぁ……」
久しぶりの重力というのもあるが、水を吸ったボロ布と化した服が重りとなっている。脱いでしまおうか、いや、僕は人が居ないからといって外で裸になれるような人間ではない。
姿を消してどこかから服を盗んでしまおうか、この力は盗みに便利だ。銀の鍵以外の荷物も失ってしまったし、僕を裁くことなど誰にも出来ないのだから、多少の日用品くらい──そう考え始めた時、僕の首に枷がはめられた。
「……え?」
振り返ろうとするも後ろから抱き締められ、その者の顔は見えない。感触から鎧を着込んだ女だと判断する。
『たぁちゃん……久しぶり。あぁ、まだ生きていたんだね、良かった……もう離さないよ』
蕩けた声で囁いて、流れるような手つきで僕の両手を身体の前で拘束する。首枷と手枷は同じ石で作られた鎖で繋がっており、身動きはかなり制限される。
「……オファニエル?」
『覚えていてくれたんだねたぁちゃん……嬉しいよ。あれ……苦しくないみたいだね』
「…………別に苦しくはないけど」
『そうか、やっぱり天使の力を封じるだけじゃ足りないのか……お願いだよたぁちゃん、逃げないで、私に捕まっていて、私だけを見て……』
首枷と繋がり手枷から伸びた鎖はオファニエルの手に巻き付いている。オファニエルは僕の前に回り込み、その鎖をぐいっと引っ張った。顎を持ち上げられ、とろんとした瞳を向けられ、身が強ばる。
「……よく見てよオファニエル、僕は君が好きな天使じゃない。人間だよ」
『人間に転生なんて堕天使みたいな手を使って……そんな脆い身体で君の退屈は癒せるとは思えないよ』
「よく見てったら! 全然違うだろ!? 顔も、性格も、性別も、何もかも違うのに間違えないでよ!」
『あぁ、間違えていないよ。たぁちゃん……私のたぁちゃん。もっと睨んで、もっと私を憎んでおくれ、その頭の中を私で埋めつくして……』
話が出来る精神状態ではない。どうしてこれだけ他者に執着しているのに堕天していないのか、本物の『黒』はどこで何をしているのか、僕は逃走を試みることもなく考え始めた。
『こんなボロきれは相応しくないよ、たぁちゃん。さぁ帰ろう、君だけの檻に……』
浮遊感を味わって数秒、僕は枷と同じ石で作られているらしい檻の中に居た。檻と言っても部屋は円形で数十人が眠れるほど広く、机や椅子やベッドもあって、ウサギが跳ね回っている。
「……ここは」
『月永石で作ったんだ。君でも簡単には逃げられないはずだよ。これだけの量を揃えて魔力を蓄えるのを待つのに何千年かかったか……気に入ってくれたかな、たぁちゃん』
「…………オファニエル」
『なんだい、たぁちゃん。何か欲しいものがあるのかな? 自由以外なら何でも用意するよ』
「君は、僕を……愛してくれる?」
『もちろん、初めて会った時から今の今までたぁちゃんへの愛情は膨らみ続けているよ。こうして向かい合っていると今にも破裂してしまいそうだ……あぁ、たぁちゃん、そんな顔初めて見るよ……人間に転生して表情が豊かになったのかな? とても美しいよ』
手甲を外し、分厚い手袋を外し、細長い指が僕の頬を恐る恐る撫でる。僕は目を閉じてその手を受け入れた。
『……たぁちゃん?』
僕が──いや、タブリスが逃げようとしないことにオファニエルは困惑しているようだった。『黒』はどうしてこんな心地好い空間を嫌ったのだろう、僕には理解出来ない。
「好きにしていいよ」
『え……? え? たぁちゃん?』
「逃げたりしないからさ、枷は外してくれないかな。重いし、寝転べないし……」
オファニエルは驚いた顔のまま枷を外した。監禁したがる割に素直なんて、そんな性格だから『黒』を捕まえられないのだ。
『……たぁちゃん、逃げないの?』
「君が愛してくれるなら逃げないよ」
『ぁ、あっ、愛してるっ! 愛してるとも!』
「じゃあ逃げない」
『ほ、本当? そんな……こんな簡単に、君が手に入るなんて。あぁっ……私は夢を見ているのか?』
恍惚とした笑みを浮かべ、僕を抱き締めようとするオファニエルを僕はそっと押し返した。
「鎧脱いでよ、痛い」
『ごっ、ごめんよ? すぐ脱ぐから……』
ガチャガチャと音を立てて鎧を脱ぎ捨て、これでいいかと腕を広げる。薄い白の無地一枚の女性をまじまじと見るのは気が引けて、目を逸らして頷いた。
『たぁちゃん! たぁちゃん、たぁちゃん……本当に、本当なんだね、やっと私のものになってくれるんだね!』
「ぅ、うん……」
薄着のまま抱き締められ、抵抗も何も出来ない。
「……ねぇ、オファニエル。君、加護受者居るんじゃないの?」
『ああ! 居るよ、居ると仕事が楽だからね』
天使はそんな理由で加護を与えているのか。
「仕事……行くの? 寂しいな」
『ごめんよたぁちゃん、出来るだけ少なくして出来るだけ素早く済ませるからね。私の使い……月永兎も居るからね、このウサギでどうにか寂しさを癒しておくれ』
オファニエルは近くに居た真っ白のウサギを抱き上げ、僕の膝の上に乗せた。温かな毛皮は感触こそ違うもののアルを思い出させて、自然と涙が零れた。
『たぁちゃん!? な、何? どうしたんだい? 何か気に入らないことが……あぁ、黒いウサギの方が好きだったかな』
「……うぅん、何でもない。何でもないから……傍に居て」
『あっ、ああ! もちろん!』
ぎゅうぎゅうと抱き締められ、呼吸を妨害される。けれどその肉体的苦痛を上回る多幸感が僕を支配していた。
無意識にオファニエルの背に腕を回していて、彼女はそれに感激して更に強く僕を抱き締めた。
檻の中には時間の感覚がない。
発光する石に囲まれて一日中明るいし、部屋を飛び回るウサギ達の眠る時間はバラバラで、窓はない。僕も眠りたくなったら眠るようにしているから昼夜逆転なのかすら分からない。
オファニエルは仕事の時以外はずっと僕の傍に居てくれる。眺めたり、撫で回したり、抱き締めたり、愛し方は時々で変わる。
僕は彼女に特別な感情を抱いている訳ではないし、彼女が本当に愛しているのは『黒』であって僕ではない。多幸感の中にも心の中心には冷たい欠片があって、僕の心身は完全には温まらない。
「…………ね、オファニエル。アルって……知らない?」
ある日、そう尋ねてみた。
「ほら、僕今は人間だろ? それで、ちょっと前にその魔獣に世話になってさ……今どうしてるか知りたいんだけど」
知りたいと思ってから口に出すのには時間がかかった。兄と過ごした経験もあって、他者の話題を出すのは危険だと思っていたからだ。しかし、オファニエルは兄とは違って他者の話題を出しても嫌がることはなかった。それどころか──
『調べてみるよ。どうすればいいかな、様子の報告だけでいい? 鏡でも用意して観察できるようにしようか、それともここに連れてくる?』
──素晴らしく協力的だ。
「……観察できるようにして欲しいな。あのさ、オファニエルは……僕が他の人のこと話すの、嫉妬したりしないの?」
『そりゃ、私だけを見ていて欲しいよ。でも、私はつまらない奴だから……たぁちゃんを退屈させちゃいけないから、たぁちゃんがここに居てくれるなら、私はそれだけでいいんだ』
何て献身的な……流石は天使だ。なんて騙されてはいけない、どれだけ心地好くともここは檻なのだ、彼女を満足させられていないからと僕が罪悪感を抱く必要はない。
僕は自分にそう言い聞かせ、ウサギを抱いてアルの情報を待った。
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