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第三十一章 月の裏側で夢を見よう
うろ覚えの呼吸
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見渡す限りの人、人、人……目眩がしてきた。何も集団の中に紛れるのが初めてという訳では無い、もっと大勢が賑わう街中を歩くこともある。
しかし、同じ服を着た人間が大勢居るというのは、後ろから見ても見分けがつかないというのは、気持ち悪い。
「ヘル、どうした。顔色が悪いぞ」
ここは学校だと意識すると呼吸が不規則になる。辞めさせられた、その後も虐められた、退学になったせいで母に殺されかけた、ずっと兄に殴られてきた。
「ア……ル。アルっ、アルぅっ……」
「ああ、私は此処だぞ。やはり体調が悪いのか? 保健室まで連れて行こう、歩けるか?」
「…………誰? アル……アルは? アルはどこ?」
「私なら此処に居るだろう? ほら、立て」
銀髪の少女が座り込んだ僕の腕を引っ張る。この子は誰だっけ? アルはどこだろう。どうして傍に居ないのだろう。僕がこんなに苦しんでいるのに。
「よっ……と、ヘル、私の鞄も持ってくれ」
見知らぬ少女に横抱きにされる。胸の上に鞄が二つ置かれる。無数の視線が僕に向けられていると感じる、嘲笑が聞こえる。
怖い。
苦しい。
気持ち悪い。
嫌だ、こんな場所に居たくない。僕はアルと二人だけで、ずっとベッドの上で……
『ヘル! ヘル、ヘル!』
……アルの声がする。目を開けると真っ白い天井が見えた、知らない場所だ。
『ヘル、大丈夫か? 酷く魘されていたぞ』
隣にアルが居る。美しい銀狼だ、視界の端に黒翼や黒蛇が揺れている。大丈夫だよと言って抱き締め、幸せに浸って目を閉じる──と、毛皮の感触が消えた。
「……ヘル? 大丈夫なのか? 返事をするんだ。もう一度聞く、大丈夫か?」
僕が抱き締めていたのは華奢な少女だった。
「……………………アル?」
「ああ、ようやく声が出たな。覚えているか? 貴方は校門を抜けた所で倒れて、私が保健室まで運んだ、ここは保健室の仮眠用ベッドだ。早退するか? 病院に行った方がいい」
する、と腕から勝手に力が抜ける。
ここはどこなんだ。学校って何なんだよ。どうしてアルがアルじゃないんだよ。もう嫌だ、こんな空間、こんな世界、僕の居場所はここじゃない。
叫びたい事柄が多過ぎて、それを叫ぶ為に必死に息を吸い込んで、喉がひゅうひゅうと鳴り出した。
「ヘル! 落ち着け、深呼吸だ! 吐け! ゆっくり……ヘル、ヘル聞いてくれ!」
息が出来ない。怖い。死んでしまう。それは嫌だ、せめて一目アルに会ってからじゃないと──アルに包まれながらじゃないと──
「ヘルっ……!」
抱き寄せて、頬に手を添えて、少女は僕の口を開かせて無理矢理に口付けた。息を吹き込まれ、背を撫でられ、正しい呼吸の仕方を教えられる。
「ヘル……大丈夫か?」
「…………アル」
「ああ、アルだぞ、貴方のアルだ」
「……………………助けて」
呼吸はひとまず落ち着いた。けれど状況は何も変わっていない。
この空間から出たい。帰りたい。
「……私は貴方の為なら何でもする。だが、どうすればいいのか分からない。言ってくれヘル、私は何から貴方を守ればいいんだ? どうやったら助けられるんだ?」
「分かんないよっ……分かんない、なんにも分かんないんだよっ! なんで僕ここに居るの!? ここどこなんだよ!」
「学校の保健室だ、倒れたから私が運んだ」
「違うよっ! 僕学校なんて行ってない! すぐ辞めさせられて……そもそも君は何なんだよ! なんで人間なんだよ! 君はっ……君は、狼だったろ!?」
「…………狼? 私が? 何を言っているんだ」
誰が閉じ込めた、誰が僕を連れて来た。動機は、目的は、そいつは何を求めているんだ。
──そう、やっぱり、獣の方が好きかぁ。恋人なら人間の方がと思ったんだけど……ごめんね、戻すよ──
……今の声は? 聞き覚えがある、どこで聞いたんだっけ。
『何を言っているんだ、ヘル。私は狼だぞ』
ベッドに前足を置いたアルが首を傾げる。ぴんと立った三角の耳がぴくぴく震えて、黒い瞳が真っ直ぐに僕を見つめる。
「……アル? あれ? アル……だね」
『うむ、私はアルだ』
「…………さっきまで女の子じゃなかった?」
『……私は今も女だが』
「そうじゃなくて、人間だった……あれ?」
『人間? それはいいな、それなら貴方と手を繋いだりキスをしたり出来る。だが、残念ながら私は獣だ。夢でも見たんだろう』
夢? そうだったの? アルが僕と同い年の少女だったのは、あの柔らかい銀髪は、あの華奢な身体は、全て夢だったの?
なのに僕はまだ現実に戻れていない。ここは訳が分からない空間のまま。夢の中で夢を見ていたのか? ここは夢なのか? どこまでが本当に起こったことなんだ?
「……手、繋げるよ。ほら」
『芸をする犬のようだ……』
混乱した僕はアルの願望を叶えようとした。けれどそれはアルの理想とは違っていたらしい。
『これでは歩けんだろう。私は貴方と手を繋いで街を歩いてみたいんだ』
「僕が前に回って両手握って中腰でゆっくり歩けば……」
『赤子ではないか!』
「……手を繋ぐのは無理かなぁ」
けれど──とアルを抱き寄せる。短い毛の生えた額に頬擦りをして、そこに唇を触れさせた。
「キスは出来るよ」
『……口がいい』
「口も出来るよ」
大きな口の先、鼻の下に同じように口付ける。
『…………何か違う』
「えぇー……ワガママ」
『……余計ペット扱いされているような気がするんだ』
そうは言っても唇同士を触れさせる以上なんて無いだろう……いや、アルのものは唇と言っていいのか?
獣臭かったり毛が口に入ったりするのを我慢してやっているのに、そう不満ばかり言わないで欲しい。まぁ、この匂いがクセになってしまっている僕も居るけれど。
『調子は戻ったようだな。どうする? 早退するか? 教室に行ってみるか?』
「…………教室、行ってみる」
登校時間の校門だったから人が多かったんだ、少しずつに分けられる教室なら人混み酔いなんてしない──そう考えた僕が愚かだった。確かに先程より人は少ないし、校庭よりは狭い。しかし密度は高い。
「おぉ、ルーラー、カーネーション、戻ったか」
『二時間目からの出席だ、記しておいてくれ』
「国語だぞ、持ってきたな?」
『勿論。なぁヘル』
アルが話しているのは唯一服装が違い背の高い男……教師か。
前の席なら密集した人間を見ずに済むのだが、僕の席はどこだろう。
「ヘルシャフト! 倒れたってマジか?」
肩を引っ張られて振り向くと見知らぬ少年が居た。
「保健の先生今日出張だっただろ。つ、ま、り……四十五分まるまるカーネーションさんと一緒だったんだよな?」
僕は彼を知らないけれど、この空間で彼は僕の同級生なのだろう。友達、かな……だといいな、なんて。
「そうだけど……」
先程から聞くカーネーションとはアルの事なのか?
「うっっわ……羨ましい。なぁお前ら付き合ってんだよな? 本当に体調不良なのかよ。なーんかやってたんじゃねぇの?」
『ヘルは過呼吸で倒れたんだ。絡むな小童』
アルは少年を尾で優しく押しのける。
「そ、そうか? なんかごめんな……」
『キスを試しただけだ』
「しっかりやってんじゃねぇか!」
『馬鹿を言うな! あんなものキスとは呼べん!』
「ご、ごめんなさい……?」
僕の精一杯を強く否定された。
しかし……彼を含めてここに居る者達はアルを何と認識しているのだろう。狼と認識しているのなら彼の言動は少しおかしい。人間と認識しているのなら牙を剥かれて怯える必要はない。
「……ねぇ、君さ、アルのことどう思う?」
「え……? いや、美狼だと思うけど……あっ、別に狙ってないからな!? お前らお似合いだし、カーネーションさんお前にぞっこんだし……」
美狼とはまた面妖な言葉だ。しかし、彼らはアルをしっかり狼として認識していると分かった。狼として認識した上で人間として接しているのだ。それは決して思いやりや気遣いなどではなく、この空間における常識なのだろう。
「……ってかカーネーションさん実は男子より女子にモテるんだぞ、どの男子よりもイケメンって……気を付けとけよ」
「あ、うん……どうも」
「そんなカーネーションさんと付き合ってるお前は男女問わず逆恨みされてるな。まぁ俺もお前のことは気持ち悪い奴だとは思ってるけど……羨ましいなーくらいだから安心しろよな」
「そう……」
どうでもいい情報を二つもありがとう、気持ち悪いと思っている相手にも優しいんだね。そんな無礼な返事が出来る訳もなく、無愛想な相槌を呟いた。
しかし、同じ服を着た人間が大勢居るというのは、後ろから見ても見分けがつかないというのは、気持ち悪い。
「ヘル、どうした。顔色が悪いぞ」
ここは学校だと意識すると呼吸が不規則になる。辞めさせられた、その後も虐められた、退学になったせいで母に殺されかけた、ずっと兄に殴られてきた。
「ア……ル。アルっ、アルぅっ……」
「ああ、私は此処だぞ。やはり体調が悪いのか? 保健室まで連れて行こう、歩けるか?」
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「私なら此処に居るだろう? ほら、立て」
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「よっ……と、ヘル、私の鞄も持ってくれ」
見知らぬ少女に横抱きにされる。胸の上に鞄が二つ置かれる。無数の視線が僕に向けられていると感じる、嘲笑が聞こえる。
怖い。
苦しい。
気持ち悪い。
嫌だ、こんな場所に居たくない。僕はアルと二人だけで、ずっとベッドの上で……
『ヘル! ヘル、ヘル!』
……アルの声がする。目を開けると真っ白い天井が見えた、知らない場所だ。
『ヘル、大丈夫か? 酷く魘されていたぞ』
隣にアルが居る。美しい銀狼だ、視界の端に黒翼や黒蛇が揺れている。大丈夫だよと言って抱き締め、幸せに浸って目を閉じる──と、毛皮の感触が消えた。
「……ヘル? 大丈夫なのか? 返事をするんだ。もう一度聞く、大丈夫か?」
僕が抱き締めていたのは華奢な少女だった。
「……………………アル?」
「ああ、ようやく声が出たな。覚えているか? 貴方は校門を抜けた所で倒れて、私が保健室まで運んだ、ここは保健室の仮眠用ベッドだ。早退するか? 病院に行った方がいい」
する、と腕から勝手に力が抜ける。
ここはどこなんだ。学校って何なんだよ。どうしてアルがアルじゃないんだよ。もう嫌だ、こんな空間、こんな世界、僕の居場所はここじゃない。
叫びたい事柄が多過ぎて、それを叫ぶ為に必死に息を吸い込んで、喉がひゅうひゅうと鳴り出した。
「ヘル! 落ち着け、深呼吸だ! 吐け! ゆっくり……ヘル、ヘル聞いてくれ!」
息が出来ない。怖い。死んでしまう。それは嫌だ、せめて一目アルに会ってからじゃないと──アルに包まれながらじゃないと──
「ヘルっ……!」
抱き寄せて、頬に手を添えて、少女は僕の口を開かせて無理矢理に口付けた。息を吹き込まれ、背を撫でられ、正しい呼吸の仕方を教えられる。
「ヘル……大丈夫か?」
「…………アル」
「ああ、アルだぞ、貴方のアルだ」
「……………………助けて」
呼吸はひとまず落ち着いた。けれど状況は何も変わっていない。
この空間から出たい。帰りたい。
「……私は貴方の為なら何でもする。だが、どうすればいいのか分からない。言ってくれヘル、私は何から貴方を守ればいいんだ? どうやったら助けられるんだ?」
「分かんないよっ……分かんない、なんにも分かんないんだよっ! なんで僕ここに居るの!? ここどこなんだよ!」
「学校の保健室だ、倒れたから私が運んだ」
「違うよっ! 僕学校なんて行ってない! すぐ辞めさせられて……そもそも君は何なんだよ! なんで人間なんだよ! 君はっ……君は、狼だったろ!?」
「…………狼? 私が? 何を言っているんだ」
誰が閉じ込めた、誰が僕を連れて来た。動機は、目的は、そいつは何を求めているんだ。
──そう、やっぱり、獣の方が好きかぁ。恋人なら人間の方がと思ったんだけど……ごめんね、戻すよ──
……今の声は? 聞き覚えがある、どこで聞いたんだっけ。
『何を言っているんだ、ヘル。私は狼だぞ』
ベッドに前足を置いたアルが首を傾げる。ぴんと立った三角の耳がぴくぴく震えて、黒い瞳が真っ直ぐに僕を見つめる。
「……アル? あれ? アル……だね」
『うむ、私はアルだ』
「…………さっきまで女の子じゃなかった?」
『……私は今も女だが』
「そうじゃなくて、人間だった……あれ?」
『人間? それはいいな、それなら貴方と手を繋いだりキスをしたり出来る。だが、残念ながら私は獣だ。夢でも見たんだろう』
夢? そうだったの? アルが僕と同い年の少女だったのは、あの柔らかい銀髪は、あの華奢な身体は、全て夢だったの?
なのに僕はまだ現実に戻れていない。ここは訳が分からない空間のまま。夢の中で夢を見ていたのか? ここは夢なのか? どこまでが本当に起こったことなんだ?
「……手、繋げるよ。ほら」
『芸をする犬のようだ……』
混乱した僕はアルの願望を叶えようとした。けれどそれはアルの理想とは違っていたらしい。
『これでは歩けんだろう。私は貴方と手を繋いで街を歩いてみたいんだ』
「僕が前に回って両手握って中腰でゆっくり歩けば……」
『赤子ではないか!』
「……手を繋ぐのは無理かなぁ」
けれど──とアルを抱き寄せる。短い毛の生えた額に頬擦りをして、そこに唇を触れさせた。
「キスは出来るよ」
『……口がいい』
「口も出来るよ」
大きな口の先、鼻の下に同じように口付ける。
『…………何か違う』
「えぇー……ワガママ」
『……余計ペット扱いされているような気がするんだ』
そうは言っても唇同士を触れさせる以上なんて無いだろう……いや、アルのものは唇と言っていいのか?
獣臭かったり毛が口に入ったりするのを我慢してやっているのに、そう不満ばかり言わないで欲しい。まぁ、この匂いがクセになってしまっている僕も居るけれど。
『調子は戻ったようだな。どうする? 早退するか? 教室に行ってみるか?』
「…………教室、行ってみる」
登校時間の校門だったから人が多かったんだ、少しずつに分けられる教室なら人混み酔いなんてしない──そう考えた僕が愚かだった。確かに先程より人は少ないし、校庭よりは狭い。しかし密度は高い。
「おぉ、ルーラー、カーネーション、戻ったか」
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「国語だぞ、持ってきたな?」
『勿論。なぁヘル』
アルが話しているのは唯一服装が違い背の高い男……教師か。
前の席なら密集した人間を見ずに済むのだが、僕の席はどこだろう。
「ヘルシャフト! 倒れたってマジか?」
肩を引っ張られて振り向くと見知らぬ少年が居た。
「保健の先生今日出張だっただろ。つ、ま、り……四十五分まるまるカーネーションさんと一緒だったんだよな?」
僕は彼を知らないけれど、この空間で彼は僕の同級生なのだろう。友達、かな……だといいな、なんて。
「そうだけど……」
先程から聞くカーネーションとはアルの事なのか?
「うっっわ……羨ましい。なぁお前ら付き合ってんだよな? 本当に体調不良なのかよ。なーんかやってたんじゃねぇの?」
『ヘルは過呼吸で倒れたんだ。絡むな小童』
アルは少年を尾で優しく押しのける。
「そ、そうか? なんかごめんな……」
『キスを試しただけだ』
「しっかりやってんじゃねぇか!」
『馬鹿を言うな! あんなものキスとは呼べん!』
「ご、ごめんなさい……?」
僕の精一杯を強く否定された。
しかし……彼を含めてここに居る者達はアルを何と認識しているのだろう。狼と認識しているのなら彼の言動は少しおかしい。人間と認識しているのなら牙を剥かれて怯える必要はない。
「……ねぇ、君さ、アルのことどう思う?」
「え……? いや、美狼だと思うけど……あっ、別に狙ってないからな!? お前らお似合いだし、カーネーションさんお前にぞっこんだし……」
美狼とはまた面妖な言葉だ。しかし、彼らはアルをしっかり狼として認識していると分かった。狼として認識した上で人間として接しているのだ。それは決して思いやりや気遣いなどではなく、この空間における常識なのだろう。
「……ってかカーネーションさん実は男子より女子にモテるんだぞ、どの男子よりもイケメンって……気を付けとけよ」
「あ、うん……どうも」
「そんなカーネーションさんと付き合ってるお前は男女問わず逆恨みされてるな。まぁ俺もお前のことは気持ち悪い奴だとは思ってるけど……羨ましいなーくらいだから安心しろよな」
「そう……」
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