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第三十一章 月の裏側で夢を見よう

微睡む日常

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兄は十八歳ながらに大学教授として勤めていた。この謎の空間でも兄は変わらず天才らしい。

兄の大荷物の中身は数枚の毛布と褞袍どてらとかいう……何だろう、着る布団? のようなものだった。魔法の国にはこんな服はなかったし、建物の構造も魔法の国とは違う。強いていえば科学の国の建物に似ている。兄は教壇の端に分厚い毛布を敷き、僕をそこに座らせた。

「コンセントコンセント……ぁ、あったあった。ヘル、これ電気毛布だから……これで温度調節して」

兄は僕によく分からない機械らしき物を渡す。僕の表情で分かったのか、兄は使い方を丁寧に教えてくれた。どうやら小さなツマミを調節すると温度が変わるらしい。

「これ、にいさまが作ったの?」

機械のように見えるが、魔法かもしれないと思い聞いてみた。

「え? 違うよ、市販品」

やはり機械なのか、少し不安だな。

「そっか……すごいから、にいさまが作ったんだと思った」

「……ふふ、なーにそれ、ヘルは可愛いなぁもう」

兄は機嫌を良くして僕に褞袍を着せ、腰に何の仕掛けもない毛布を被せた。足りなければと畳んだ毛布を二枚渡し、別の鞄を開けて授業の準備を始めた。

「おはよーございます。ね、きょーじゅ、この子誰? 隠し子?」
「うっわすっごい似てる……ちっちゃい教授だ」
「えーマジ生き写しじゃん、子供いたの?」
「いやいや教授は結婚出来ないタイプっしょ」

数人の生徒らしき者が僕を囲む。好奇の目は苦手だ。

「弟だよ。ほら、早く席に着きなさい」

生徒達は兄の言葉に素直に従う。本当に先生なんだなと感心した。

「……仔犬みたい。ねー教授、お菓子あげていい?」
「この子チョコ好きですか?」

「ダメ。早く行かないと席埋まるよ」

やって来た生徒達は半分程度が僕に興味を示した。何故か何度も餌付けされそうになったが、僕はそんなに動物らしいのだろうか。

「教授なんで弟連れてきたんですか?」

一番前の席に座った生徒が手を上げる。

「体調悪いみたいでね。兄さんは部屋で寝かせてろって言うんだけど、心配だし」

「へー教授ブラコンなんだー」

「…………君の単位は僕の手のひらの上ってこと忘れないように」

鐘の音が鳴り、兄は授業を始める。途端に静かになって生徒は全員兄の話を聞いていた。時折に上がる質問以外、僕の耳に届くのは落ち着いた兄の声だけ。優しい声と毛布の温かさに誘われ、壁に背を預けて座ったまま眠った。


再び鐘の音が鳴り響き、壁に伝わった振動に起こされる。目を擦っているとまた生徒に囲まれているのに気が付いた。

「ねぇこの子寝てたよねー、めっちゃ可愛くない?」
「鐘の音でビクってしてたし……なんかホントに仔犬みたい」
「教授、きょーじゅー、チョコあげていいですか?」

「はい散って散って、早く次の授業行きなよ」

「はーい。ぁ、教授今日も食堂?」
「弟さん連れてくる?」
「一緒に食べません?」

兄は適当に生徒達をあしらうと僕を毛布ごと抱え、教室を出た。兄が息を切らしながら到着したのは静かな部屋だった、物が沢山あって人は居ない、少し気味が悪い。

「……にいさま、ここは?」

「はぁ…………疲れた。ん? 何?」

毛布に包んだ僕を革張りのソファに下ろし、上着を脱いで丸椅子に座る。

「ここ、何の部屋?」

「研究室。次の講義は昼からだから、それまでここで論文用の研究しようかなって」

「にいさま何の研究してるの?」

「万能細胞。前作ったのは条件多過ぎてね、それでも結構騒がれたけど」

兄はその後自身の研究について説明してくれたが僕には少しも理解出来なかった。兄は魔法使いではないようで、僕に理解出来ない言葉が出たということは僕の夢ではないということで、ここは──ますます何なのか分からなくなった。

「そうだ、ヘル、朝食べてなかったよね。お腹空いてない?」

「あんまりかな……」

「うどん作るけど、ヘルも食べる?」

「…………ちょっと多めに作って、少し僕にちょうだい」

分かったと言って兄は奥へと消えていく。研究室では調理が出来るらしい。しばらくすると器を持った兄が帰ってきて、ソファの前の低いテーブルにそれを置いた。

「…………ヘル、あーん」

太い麺を絡めとって温度を確認し、僕の口元に運ぶ。
……本当に優しい。優しさだけを抽出しているなんて、やはりこれは僕の夢なのだろうか。昼食を食べ終えると兄は僕の隣に座って本を読み始めた。

「にいさま、研究は?」

「ん……これ読んだら」

本を捲る音、秒針が刻まれる音、その二つはまた僕の眠気を煽る。先程は一時間と少ししか眠れなかった、昼までここに居ると言っていたし、鐘の音に反応しなければ昼まで眠れる。僕はこっそりと兄の肩を枕にし、目を閉じた。


昼になると兄は僕をおぶって食堂に行き、卵うどんを食べさせた。何故か机に生徒達が集まってきたが可哀想なほど適当に対応されていた。
昼食が終わると兄はまた講義をして、僕は満腹で眠くなってしまって、気が付いたら兄の背におぶられて濃霧の街を歩いていた。

「…………にいさま?」

「起きたの? もう少しで家だよ」

「うん……」

僅かな揺れが心地好くて絡めた腕と足に力を込める。家の前に着いて降ろされ、鍵を探す兄の代わりに小さな鞄を持った。

「おかえり」

「うわっ……君……いつから居たの」

鍵を見つけて扉を開けようとした兄は扉の前に座り込んだ少女を見つけた。濃霧で全く分からなかった。
兄は少女を家の中に引き入れ、リビングに通した。

「ヘル、平気か? 体調不良と聞いたぞ」

少女は僕の顔を覗き込んでいる。しかし、僕は彼女に見覚えがない。
肩まで伸びた銀色の猫っ毛、僕を心配そうに見つめる黒い瞳、健康的な白い肌にはところどころに絆創膏や包帯がある。

「ヘル……貴方の居ない学校は酷く退屈だった」

きゅ、と抱き締められ、思わず引き剥がす。
十人に聞けば十人が頷く美少女ではあるが、だからといって見知らぬ人に抱き着かれても怖いだけだ。

「ヘ、ヘル? どうしたんだ?」

兄は彼女を家に入れたし僕に抱き着いても何も言わないから、大学の生徒達のようにこの空間では知り合いなのだろう。だが、僕は彼女を知らない。

「どうしたじゃないよ、何を、いきなり……」

「……あぁ、兄君の前だから照れているのか? 問題無い、なぁ兄君」

「ん? うん、早く甥っ子作って」

「セクハラだぞ……教授になったならそういう発言は慎め」

この子は何なんだ、兄公認の僕の恋人? ならどうして見覚えもない少女なんだ、無理にでも知り合いを役に入れてくれればいいのに、この空間は不親切だ。

「まぁ二人とも十二歳だし……あと何年? 三年? 四年くらい?」

「だからそういう話は……あぁもう」

「もうすぐ日没だけど、帰らないの?」

「急に話を変えるな。問題無い、今日はここに泊まらせてもらう」

泊まる……? 手ぶらで来ておいて何を言っているんだ。

「あ、そう? じゃあ兄さんに夕飯一人分増やすよう連絡しないと」

「手間をかける」

「気にしないで。君はヘルに構ってあげて」

兄が他人に「ヘルに構え」と言うなんてありえない。この空間は兄を勘違いしている。

「ふふ、ヘル。今日は泊まるぞ、一緒に寝ような。風呂はどうする?」

「一人で入るし一人で寝るよ」

「え……?」

同い年の女の子と一緒に風呂に入るなんて、同じベッドで眠るなんて、ありえない。僕はそう思っていたのだが彼女は違ったらしい。

「なっ、何故だヘル! いつも一緒に入っているのに!」

「それがおかしいんだよ!」

「今日は少しも私に触れてこないし……熱が高いのか?」

触れる? いつも僕は彼女を触りまくっているのか? この空間における『僕』は何なんだ。

「ほら、ヘル。貴方の好きな私の髪だぞ」

少女は僕の手を取り、自分の髪を梳かさせる。確かに良い触り心地だ……何故だろうか、いつも触っている気がしてきた。

「ふふっ……やはり、貴方に撫でられるのが好きだ。至福の時だな」

そんなに僕を好いているのか。そんな恋人が僕に居るなんてありえない、やはりこの空間は怪しい。
しかし──この髪の触り心地はたまらない。もう顔まで埋めてしまいたくなる手触りだ。指通りは良いし髪の表面は滑らかで一本一本が細く柔らかい。人間の髪がここまで柔らかくなるものなのか。
僕は少女の髪がぐちゃぐちゃになっていくのも構わず、彼女の頭を撫で回し続けた。
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