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第三十章 欲望に満ち満ちた悪魔共
実兄のプライド
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赤い魔法陣が描かれた黒い瞳は僕を見て驚愕し、次に僕の腕を見て震え出す。
『ぁ……ごめ、ごめんっ……』
触手が引き抜かれ、噛み付いた牙が消え、傷が癒えていく。半分溶けたままの兄はポロポロと涙を流し始めた。
『ごめんなさい……ヘル、ごめんね、ごめん……』
兄がこうやって謝るのはそう珍しいことではない。幼少期は特に多かった、カッとなって僕を殴っては冷静になって抱き締めて泣きながら謝って……僕はその時間が何よりも好きだった。
僕は所在なく空中に留まった腕を見て笑みを零す。僕に無駄な気を使って触れないようにと止まったのだ。そう思い込んだ僕は兄の胸に飛び込んだ。どろどろとぐちゃぐちゃと溶けた身体に抱き着いた。
『…………ヘル?』
力を入れれば入れるほど手が中に沈んでいく。少し不安になる面白い感触は兄にはどう伝わっているのだろう。
『ヘル………………許してくれるの?』
許さないと言ったらどうする気だろう。離れるかな、逆上するかな、少し気になったが、僕は首を縦に振った。
『ヘルっ……! ごめんね、ごめんねっ! 酷いお兄ちゃんで、ごめんね……』
ようやく僕の背にも腕が回された。ゆっくりと兄の形が定まって、身体に手が沈まなくなる。
「…………えっと、俺部屋帰るわ」
『一人で平気か?』
「もう何もないだろ。え、ないよな?」
ぺたぺたと軽い足音が遠ざかる。アザゼルは部屋に戻り、カルコスはその場に腰を下ろした。
『…………ねぇ、ヘル。僕……要る?』
「どういう意味?」
『……ヘルに、お兄ちゃんは必要?』
何を言っているんだろう。ずっと僕を所有物として扱ってきたくせに、物に自分が必要かどうか尋ねるなんて、どうかしてる。
意図が読めなくて、気持ち悪くて、僕はただ腕に込める力を強めた。兄なら自分に都合のいいように僕の感情を解釈するだろうと、魔法を使って読みはしないだろうと。
『殴って、蹴って、痛めつけて、いっぱい酷いことして、殺しかけて、そんなお兄ちゃん……嫌いでしょ?』
嫌いだと言ったら殴るんだろ。
『…………好きなの?』
黙って抱き着いていると兄は僕の思い通り自分に都合のいい解釈をする。
『どうして……? 僕、僕には、好きになるところなんて、ひとつもないのに……』
様子がおかしい。いつもの兄ではない。
あぁ、違ったのか。さっきの問いに「嫌いだ」と答えていても、兄は僕を殴らずどこかに行ってしまっていたのだろう。
『君が従えてる悪魔よりずっと弱いのに、どうしてっ……?』
兄にとって自分の価値は強さだけ。天才であること、完璧であること、最強の魔法使いであることだけ。
それがベルゼブブだとかの強い悪魔の前で霞んで不安になっていたのだ。僕と同じような性格をしていたのだ。
「……にいさまだから」
『…………え?』
「ずっと面倒見てくれたお兄ちゃんを嫌いになる弟なんて居ないよ」
『へ……ル…………ぁ、あっ…………ごっ、ごめんっ! ごめんね! ごめんねヘルっ! ごめん……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ!』
「……謝らないでよ」
ずっと嫌いになりたかった。憎んでいた。でも、気まぐれに見せた優しさが、笑顔が、大好きだった。
兄への依存心が薄まっても、仲間が大勢できても、何よりも大切な人が傍に居ても、幼い頃の思い出は消えてくれない。僕を兄から解放してくれない。
殴られて、抱き締められて、罵られて、褒められて……徹底的に依存させられた。その過去は今僕を抱き締めている腕のように僕を縛り付けている。
『…………もう、もう絶対に、痛いことしないから……お兄ちゃん、優しくなるから……』
どうせ、兄が失踪しても、兄を殺しても、僕の呪縛は解けてくれない。
それなら呪縛を甘やかなものに変えてしまえばいい。
「にいさま」
『ぁ……なっ、何? 何、ヘル。何して欲しいの?』
「……ずっと、お兄ちゃんでいてね」
縛るものが鎖ではなく真綿なら、それは僕好みだ。
兄に形を取り戻させて、落ち着かせて、部屋に帰らせた後、僕も部屋に戻った。アルはカルコスに連れてくるよう頼んだが、彼が酔っ払いに絡まれていたら時間がかかるだろうな。まぁ時間がかかるのは好都合だ。
僕は洗面台の前に立ち、大きな鏡に映った僕を眺める。服の中に入れてある首飾りを取り出し、石を見つめずに鏡に映した。
『……アレはキミの兄に相応しくないと思うけど』
鏡の中に美しい青年が現れる。黒檀のような巻き髪に浅黒い肌、深淵そのものの瞳、ナイによく似た風貌だ。
「いいんだ。どうせ、忘れられないから」
彼は鏡の中の僕の隣に立っているけれど、横を向いても彼は居ない。鏡の中だけに現れている。
『まぁ、ボクが上手くやれなかったのが原因だけどさー? ボクはキミの兄なんだよ? 兄としての顕現なんだ、もうちょっと兄らしく扱ってよ』
僕は彼を「ライアー兄さん」と呼んでいる。けれど実際にあの街で会った彼とは少し違う。よく似た別のものを僕が作っただけだ。
「そのおかげでにいさま反省してくれたし」
『……ボクとしてはあのまま仲違いしてボクだけを呼んでくれた方が良かったけど』
「そう言わないで。僕、家族はたくさん欲しいから」
『家族、ね』
面白くないとわざとらしいため息をつく。
『……イカれたショゴスに間の抜けたキマイラ、消えかけの名無し、スワンプマンもどきに出来の悪い邪神。そんなのが家族でいいの?』
意地悪な言い方だ、ライアーらしくない。
「うん、楽しそうでしょ?」
『…………ふんっ、ボクはいつも一番真ん中で蚊帳の外なんだけど?』
「あはは……仕方ないよ、出ていられるなら良いんだけど」
『キミくらいに強力で、自我のない依代があるなら完璧だよ』
僕の魔力は僕が思っている以上に膨大だ。それに匹敵するとなれば、兄やベルゼブブなどになってくるが、自我がとても強い。そもそも強い魔力を持つものは総じて自我が強いものだ。
『……信じるの? 痛いことしないとか、優しくなるとか』
「信じられるなら幸せだろうね」
僕は人を信用出来ない性格だ。自分も、アルも、何も信用出来ていない。
けれど人に何かをさせる時は容易に「信じてる」と吐いてみせる最低の人間だ。
「まぁ、殴ってきてもアルとかが止めてくれるだろうし、その後はさっきみたいに抱き締めてくれるだろうから、どうでもいいや」
昔は逃げたくて仕方のなかった暴力。けれど、今はどうでもいい。それを受けることで僕の傍に繋ぎ止められるのなら喜んで受けよう。僕に尽くしてくれる人を獲得するためなら僕の苦痛や欠損なんて何の意味も持たない。
「……そろそろ眠くなってきたし、寝るね。多分アルが引き摺られて来ると思うけど、気にしないで」
『今更多少何かあっても気にならないよ。それじゃ、また夢かどこかで』
バイバイと手を振って鏡の中の美青年は姿を消す。どこかライアーより軽薄で冷酷、そしてライアー以上に兄として振舞おうと努める。彼は僕の理想の兄、僕だけを愛し僕だけに尽くす、僕だけの兄。現実の方もそうなってくれるのなら万々歳だ。
さて、明日アルに兄と和解したと説明しなければならない。今のうちに頭の中で文を組み立てて、ベルゼブブやヴェーンとの和解も進めなければ。
そうしたらまた各国から仲間を集めたり、魔物や人を助けたり────そんな予定を立てているうちに僕の意識は闇に沈んだ。
『ぁ……ごめ、ごめんっ……』
触手が引き抜かれ、噛み付いた牙が消え、傷が癒えていく。半分溶けたままの兄はポロポロと涙を流し始めた。
『ごめんなさい……ヘル、ごめんね、ごめん……』
兄がこうやって謝るのはそう珍しいことではない。幼少期は特に多かった、カッとなって僕を殴っては冷静になって抱き締めて泣きながら謝って……僕はその時間が何よりも好きだった。
僕は所在なく空中に留まった腕を見て笑みを零す。僕に無駄な気を使って触れないようにと止まったのだ。そう思い込んだ僕は兄の胸に飛び込んだ。どろどろとぐちゃぐちゃと溶けた身体に抱き着いた。
『…………ヘル?』
力を入れれば入れるほど手が中に沈んでいく。少し不安になる面白い感触は兄にはどう伝わっているのだろう。
『ヘル………………許してくれるの?』
許さないと言ったらどうする気だろう。離れるかな、逆上するかな、少し気になったが、僕は首を縦に振った。
『ヘルっ……! ごめんね、ごめんねっ! 酷いお兄ちゃんで、ごめんね……』
ようやく僕の背にも腕が回された。ゆっくりと兄の形が定まって、身体に手が沈まなくなる。
「…………えっと、俺部屋帰るわ」
『一人で平気か?』
「もう何もないだろ。え、ないよな?」
ぺたぺたと軽い足音が遠ざかる。アザゼルは部屋に戻り、カルコスはその場に腰を下ろした。
『…………ねぇ、ヘル。僕……要る?』
「どういう意味?」
『……ヘルに、お兄ちゃんは必要?』
何を言っているんだろう。ずっと僕を所有物として扱ってきたくせに、物に自分が必要かどうか尋ねるなんて、どうかしてる。
意図が読めなくて、気持ち悪くて、僕はただ腕に込める力を強めた。兄なら自分に都合のいいように僕の感情を解釈するだろうと、魔法を使って読みはしないだろうと。
『殴って、蹴って、痛めつけて、いっぱい酷いことして、殺しかけて、そんなお兄ちゃん……嫌いでしょ?』
嫌いだと言ったら殴るんだろ。
『…………好きなの?』
黙って抱き着いていると兄は僕の思い通り自分に都合のいい解釈をする。
『どうして……? 僕、僕には、好きになるところなんて、ひとつもないのに……』
様子がおかしい。いつもの兄ではない。
あぁ、違ったのか。さっきの問いに「嫌いだ」と答えていても、兄は僕を殴らずどこかに行ってしまっていたのだろう。
『君が従えてる悪魔よりずっと弱いのに、どうしてっ……?』
兄にとって自分の価値は強さだけ。天才であること、完璧であること、最強の魔法使いであることだけ。
それがベルゼブブだとかの強い悪魔の前で霞んで不安になっていたのだ。僕と同じような性格をしていたのだ。
「……にいさまだから」
『…………え?』
「ずっと面倒見てくれたお兄ちゃんを嫌いになる弟なんて居ないよ」
『へ……ル…………ぁ、あっ…………ごっ、ごめんっ! ごめんね! ごめんねヘルっ! ごめん……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ!』
「……謝らないでよ」
ずっと嫌いになりたかった。憎んでいた。でも、気まぐれに見せた優しさが、笑顔が、大好きだった。
兄への依存心が薄まっても、仲間が大勢できても、何よりも大切な人が傍に居ても、幼い頃の思い出は消えてくれない。僕を兄から解放してくれない。
殴られて、抱き締められて、罵られて、褒められて……徹底的に依存させられた。その過去は今僕を抱き締めている腕のように僕を縛り付けている。
『…………もう、もう絶対に、痛いことしないから……お兄ちゃん、優しくなるから……』
どうせ、兄が失踪しても、兄を殺しても、僕の呪縛は解けてくれない。
それなら呪縛を甘やかなものに変えてしまえばいい。
「にいさま」
『ぁ……なっ、何? 何、ヘル。何して欲しいの?』
「……ずっと、お兄ちゃんでいてね」
縛るものが鎖ではなく真綿なら、それは僕好みだ。
兄に形を取り戻させて、落ち着かせて、部屋に帰らせた後、僕も部屋に戻った。アルはカルコスに連れてくるよう頼んだが、彼が酔っ払いに絡まれていたら時間がかかるだろうな。まぁ時間がかかるのは好都合だ。
僕は洗面台の前に立ち、大きな鏡に映った僕を眺める。服の中に入れてある首飾りを取り出し、石を見つめずに鏡に映した。
『……アレはキミの兄に相応しくないと思うけど』
鏡の中に美しい青年が現れる。黒檀のような巻き髪に浅黒い肌、深淵そのものの瞳、ナイによく似た風貌だ。
「いいんだ。どうせ、忘れられないから」
彼は鏡の中の僕の隣に立っているけれど、横を向いても彼は居ない。鏡の中だけに現れている。
『まぁ、ボクが上手くやれなかったのが原因だけどさー? ボクはキミの兄なんだよ? 兄としての顕現なんだ、もうちょっと兄らしく扱ってよ』
僕は彼を「ライアー兄さん」と呼んでいる。けれど実際にあの街で会った彼とは少し違う。よく似た別のものを僕が作っただけだ。
「そのおかげでにいさま反省してくれたし」
『……ボクとしてはあのまま仲違いしてボクだけを呼んでくれた方が良かったけど』
「そう言わないで。僕、家族はたくさん欲しいから」
『家族、ね』
面白くないとわざとらしいため息をつく。
『……イカれたショゴスに間の抜けたキマイラ、消えかけの名無し、スワンプマンもどきに出来の悪い邪神。そんなのが家族でいいの?』
意地悪な言い方だ、ライアーらしくない。
「うん、楽しそうでしょ?」
『…………ふんっ、ボクはいつも一番真ん中で蚊帳の外なんだけど?』
「あはは……仕方ないよ、出ていられるなら良いんだけど」
『キミくらいに強力で、自我のない依代があるなら完璧だよ』
僕の魔力は僕が思っている以上に膨大だ。それに匹敵するとなれば、兄やベルゼブブなどになってくるが、自我がとても強い。そもそも強い魔力を持つものは総じて自我が強いものだ。
『……信じるの? 痛いことしないとか、優しくなるとか』
「信じられるなら幸せだろうね」
僕は人を信用出来ない性格だ。自分も、アルも、何も信用出来ていない。
けれど人に何かをさせる時は容易に「信じてる」と吐いてみせる最低の人間だ。
「まぁ、殴ってきてもアルとかが止めてくれるだろうし、その後はさっきみたいに抱き締めてくれるだろうから、どうでもいいや」
昔は逃げたくて仕方のなかった暴力。けれど、今はどうでもいい。それを受けることで僕の傍に繋ぎ止められるのなら喜んで受けよう。僕に尽くしてくれる人を獲得するためなら僕の苦痛や欠損なんて何の意味も持たない。
「……そろそろ眠くなってきたし、寝るね。多分アルが引き摺られて来ると思うけど、気にしないで」
『今更多少何かあっても気にならないよ。それじゃ、また夢かどこかで』
バイバイと手を振って鏡の中の美青年は姿を消す。どこかライアーより軽薄で冷酷、そしてライアー以上に兄として振舞おうと努める。彼は僕の理想の兄、僕だけを愛し僕だけに尽くす、僕だけの兄。現実の方もそうなってくれるのなら万々歳だ。
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