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第二十七章 壊されかけた者共と契りを結べ

帰って来た狼

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ヘルとエアが神降の国に向かってしばらく、アルが大荷物を詰めた袋を尾に引っ掛けて戻ってきた。歯型の付いた財布をヴェーンに返し、荷物を冷蔵庫の前に置き、ヘルを探す。

『帰ったぞー!  ヘル!  ヘルー!』

ダイニングを覗き、リビングを覗き、ヘルの部屋に飛び込む。当然ながら何処にも居ない。アルは邸内を三周し、ダイニングにて吠えた。

『ヘルは何処だ!』

『あー、買いもん』

『何……?  今行ったばかりだぞ』

『行き違いなったんやな。自分出てった後で頭領が買いたいもんあった言い出してなぁ、兄さんと行ったわ』

九十を越えるアルコール度数の酒を水のように飲みながら、酒呑はそう嘯いた。

『やっぱアカンな。酔うん早うてええけど味が後回しなっとる。味は果実酒の方がええな』

「こっちの方が高いんだぞ、じゃあ葡萄酒飲め葡萄酒。この国じゃ水道水より安い」

酒の話に移った彼らをしばらく眺め、アルは溜息を吐く。ヘルが帰るまで部屋で待とうと、廊下をとぼとぼ歩いていく。

『暇か兄弟!』

『……違う』

『何か用事があるのか?』

『不貞寝する……』

話しかけてきたカルコスを見ることもなく、ヘルの部屋に向かう。

『暇だな。庭で鬼事をするんだ、参加しろ』

『嫌だ』

『あの小さなガキと一の兄弟も参加する、三人より四人だ。来い』

『私は忙しい。ではな』

アルは乱暴に扉を閉じ、天蓋付きのベッドに飛び乗ると、宣言通り不貞寝を始めた。
この部屋に入れるのはヘルとアル、それにヘルの兄弟だけだ。エアがそう設定した。

『……狼さん、ちょっといい?』

棚の影からフェルが現れる。

『…………何だ?』

『お兄ちゃんに、どう言えばいいかな』

リンの事か──、とアルは深い深い溜息を吐いた。出来る事なら一生触れずにいたい話だ。だが、勿論そんな訳にはいかない。

『僕達が留守中、僕が置いて行ったお兄ちゃん用の椅子が暴走しちゃったんだって……それも謝らないとだけど、まだ言えてないんだ』

『……そうか。どちらも早い方が良いと思うぞ』

『だよね……でも』

ヘルの姿をしていなければ怒鳴りつけていただろう。アルはそう考えながら、ぐずぐずと問題を先延ばしにしたがるフェルの言い訳を聞いていた。

『……最初っからだよ。失敗ばっかりだ。これじゃお兄ちゃんの身代わりになんてなれない……僕には、何の意味も無い』

『フェル……そう言うな。失敗は挽回すれば良い、ヘルはそう冷たい男では無い、反省していれば許してくれるさ』

『あの天使と戦った時だって……僕が余計な封印とか結界とか張らなけりゃ、もっと楽に終わってたし…………僕がちゃんと走ってたら、あの人は生きてただろうし……そもそもっ、僕が人間のフリしてなけりゃ、あの人は僕を守ろうなんてしなかった。ヘルだって……僕が弟面しなけりゃ、気味悪がって捨ててた』

フェルにはアルの慰めなど聞こえていない。ただ、自分がどれだけ出来ない奴かを並べ立てて、同情を誘い慰めを求めているだけだ。

『そうだよ、僕なんか早く処分すればいいんだ!  元々その予定だったんだし、長生きしていい思いして、幸せだったよ……人に迷惑かけて…………これ以上、もう……嫌だ』

『フェル、そんな事を言うな。ヘルが聞いたらどう思うか分かっているのか?』

『…………嫌われる前に消してよ。睨みつけられて、嬲られて死にたくない!  ごめんねって、君のお願いだからねって、いっぱい撫でてから消して欲しい!』

アルはフェルの願望に既視感を覚えていた。そう、ヘルと同じ──愛されているうちに消えたいと、絶頂で死にたいと、今まで幸福を感じてこなかったからこその憐れな願望だ。

『……無責任に駄々を捏ねるな』

『…………え?』

アルに慰めて貰えると思っていたフェルはぽかんと口を開ける。せっかくヘルが居ないから、エアと違って優しいだけの狼に愛を貰おうとしていたのに、予定と違う。

『もう貴様はただの複製ではない、ヘルの弟なんだ。ヘルの許可無く消える事など出来る訳が無いだろう。死んでいいのはヘルがそう求めた時だけだ』

『なっ……なんだよ、それ…………それじゃ、僕はお兄ちゃんの為だけに生きろって言うの!?』

『……真面な生き物でも無いだろう。私もな。私達のような生き物は……主人の思い通りになっているのが正しいのさ』

『僕はっ……僕は、そんな……』

フェルはエアの練習台として造られ、ヘルと出会った以降はヘルの苦痛を引き受ける身代わり人形の役割を追加した。
その事はフェルもよく理解していたが、フェルはヘルの複製であって、いくら自分が偽物だ人形だと思い込もうと、根幹は変わらない。
フェルが求めているのはヘルと同じ扱い、いや、ヘルの座だ。自分の中だけでは自分はヘルなのだから、当然だ。

『……記憶を弄られて何も覚えてないけど、僕は……君と旅をしてきたヘルと同じなんだよ』

『違うな。作られただけ、そう思っているだけだ。ただのスライムが自分はヘルだと思い込んでいるだけだ』

『スライム……うぅん、違う』

フェルの右手がどろりと溶ける。黒く粘着質な液体に変わり、目玉を浮かばせて牙が並ぶ。

『……僕は、ショゴス。万能生物だ。お兄ちゃんより……優れてるはずなんだよ』

『万能、か。何にでも成れる……しかし、自身は何物でもない』

『黙れよっ!  悪魔の劣化版が偉そうにっ!  僕は、僕は……僕は偽物なんかじゃない!』

腕をヘルのものに戻し、フェルは部屋を飛び出して行った。乱暴に開けられた扉は反動で自然と閉まり、部屋に静寂が戻ってくる。

『やれやれ……』

アレにはヘルに仕えているという自覚が足りない、そう思いつつ自嘲の笑みを浮かべる。主人に欲情して襲い掛かり、恋人に成りたいなどと言った自分も同じだと。

『ヘル……会いたい』

その魔力の輝きをずっと見つめていたい。その蕩けるような味の血を飲み干したい。天に昇るような心地になる肉を喰い尽くしたい。

何時いつ、帰って来るんだ』

アルは自分も自覚が足りないのだからフェルを馬鹿には出来ないと思いながらも、自分はもう恋人として認められたのだと笑みを浮かべる。

『早く……早く、早く帰って来て……』

口の端を歪める悪魔らしい笑み。身悶えてシーツを引っ掻く獣らしい鋭い爪。いつもより高い声で帰還を待ち望む乙女らしい仕草。
まさに、合成魔獣キマイラと呼ぶに相応しい。



慰めのおねだりに失敗したフェルはぼうっと廊下を歩いていた。ふと窓の外を見て走り回る合成魔獣達とグロルを見つけ、変わってしまった予定の穴を埋める為、中庭に向かった。

『む……おぉ!  ガキの弟!』

『複製品か』

「あ……どろどろ」

思い思いの呼び名に面食らいつつ、何をしているのかと尋ねる。

「鬼ごっこ……」

『ふぅん……君、この人達苦手じゃなかったの?  うぅん、全員だね。ここに居る人全員、お兄ちゃん以外は怖いんじゃなかった?』

グロルはアザゼルの能力の片鱗である魔力視を無意識に使ってしまっていて、なんとなく彼らの恐ろしさだけを察してしまうのだ。

「そ、そうだけどね。トラさんもライオンさんも、やさしいの……こっ、こわいけど、やさしいの」

グロルはフェルに怯えつつ、話してみたら存外丁寧に扱ってくれたと伝える。

『ふぅん……』

「どろどろさんは……やさしい?」

『いや、優しくないよ。お兄ちゃんの複製だからね』

「おにーちゃん……?」

グロルは首を左右順に傾げる。子供好きなら笑みを零してしまう仕草だが、そうでないフェルにとっては苛立ちの原因だ。

『ヘルの事だよ』

「おーさま、やさしいよ?」

『……嫌われたくないから良い顔見せてるだけだよ』

小さな子供に向かって個人的な真理を解く。カルコスはそんなフェルの肩に前足を置き、ぐいと引っ張る。

『混ざれ』

『嫌だよ……僕は忙しいんだ』

『このような小さな下等生物と話していたのにか?』

適当な言い訳にカルコスは納得したが、今度はクリューソスがやって来る。

『ちょっと予定変更があって……時間が余ってたからさ。でも、もう次の予定の時間だから。それじゃ』

フェルは魔獣達の包囲をぬるりと抜け、邸内に戻った。
予定があるのは本当だ。これから昼食を作り、夕食の仕込みをしなければならない。
フェルはどうせならベルゼブブの罰は料理当番にすれば良かったのに、と声に出さず呟き、包丁を握った。
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