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第二十七章 壊されかけた者共と契りを結べ

迂闊な帝王

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アルとベルゼブブが争う雰囲気を察知したアザゼルは茨木の背に隠れていた。茨木はそれ以前に喧嘩を予想していたが、ナッツを食べる手を止めなかった。
そして今、アルがベルゼブブの喉に食らいついた姿を見て、アザゼルは小さく感嘆を漏らした。格上にも牙は届くのだと、下克上の勇気を与えられた。

『ふふ……阿呆やなぁ。周りが全然見えてへん』

アザゼルは茨木の呟きに疑問を抱きながらも喧嘩を眺めるのに夢中になっていた。
ベルゼブブがアルの顔を裂き、顎の筋肉を引きちぎる。噛む力はなくなったが、くい込んだ牙はそう簡単には抜けない。

『ほんまに最高司令官なんやろか。いっつもやったら気付いてはんねんやろなぁ、感覚は優れてはるらしいし』

「……さっきから何言ってんだ?」

『ふふ、あんたも阿呆か?  ちゃうんやったら耳澄ませ』

皮と肉を犠牲にベルゼブブはアルを引き剥がすのに成功した。しかし、アルの腹の傷はもう完治して、顎も治りかけていた。
出力は遥かに上回っていようと、賢者の石の持久力には適わない。

「…………まぁ、こんな暴れてて聞こえてないわけないもんな」

アザゼルは言われた通りに耳を澄ませ、茨木の言葉に納得した。
アザゼルが呟いた丁度その時、ベルゼブブの姿が少女から小さな丸い蝿に変わった。魔力にはまだ余裕があったはずなのに、ベルゼブブはそう狼狽えてその場でホバリングしていた。だから簡単に捕まった。

『はい捕獲、ダンピール、入れ物』

「このナッツ瓶でいいだろ」

ベルゼブブはエアの触手に絡め取られ、中身がなくなったナッツ瓶に詰められる。本来なら簡単に破れるであろうガラスも、一般的な虫とそう変わらない今の力では強固な牢だった。

『アルちゃん、無事?  自力で治った?』

『あ、あぁ……』

アルを気遣うエアの背後、ベルゼブブを詰めた瓶を振るヴェーンの背後、廊下の真ん中に呆然と立っていたヘルが突如座り込む。

「お、おい王様!  兄貴、王様診てやれ!」

咳き込んで、口を押さえた手から漏れた赤い液体を見て、エアは慌てて治癒魔法を発動させた。



アルとベルゼブブが争うよりも前、リビングに集まった男達は酒をあおっていた。
向こうが女子会ならこっちは男子会でも──なんて冗談から始まった静かな宴会は平和だった。

「……たっけぇのにバンバン呑みやがって」

『酒は飲まんかったら意味あらへんやろ』

『そーそ。あ、ヘルとフェルはダメだよ』

「分かってるよ」

兄は蒸留酒を炭酸で割って飲んでいる。人間以外では味も感じないし、栄養も手に入らない。アルコールも例に漏れず。だから兄は刺激だけで炭酸を飲んでいる。割らずに炭酸だけ飲めば経済的なのに、何故か酒を半分混ぜる。気分だろうか。

『ところで下等生物、お前本当にアルギュロスと添い遂げる気か?』

「えっ?  ぁ、あぁ……それは」

『当たり前やろ。なぁ?  頭領。俺は分かっとったで、自分があの狼に怪我させられた言うてカチコミ来た時からなぁ』

神降の国で再会した時の話か?  他人の質問に勝手に答えないで欲しい。

『……あれは犬だぞ?  本気なのか?』

『異類婚姻譚なんてどこにでもある……だよね?  鬼』

『おぅ、せやせや。龍神やら水神やら鳥やら貝やら……』

『そういう話は全て人に化けているだろう』

『…………そうやったっけ』

『知らないよ』

僕を放って僕の話を進めないで欲しい。僕はまだ覚悟を決めていないし、『黒』に指輪を渡すつもりでいる。『黒』は前世の約束だから問題無いとしても……アルは、どうしようか。

『形が違う者同士が上手くいくとは思えんな』

『兄弟は現実主義だな』

「いーや違うぜライオン。この虎は妹が心配なただのシスコンだ」

『違う!  そもそも俺達に兄弟関係は無い!』

アルから異物を取り除こうという時も「妹」とか言っていたか。カルコス以外は互いを兄弟だと思っていないような口振りだが、その実思いあっているようで羨ま──微笑ましい。

『俺は魔物使いに聞いているんだ!  おい、どうなんだ!  とっとと答えろ下等生物!』

「ぁ……その、僕は……」

アルの事は大切に思っているけれど「添い遂げる」だとか「子供を」だとかそんな感情ではない。『黒』にだってそんな感情は抱いていない。
だが、これから変化する可能性も否定は出来ない。

「僕、は……」

一分でも、一厘でも、その可能性があるなら──

「ア、アルのこと、本当に、その……」

──保険として置いておかなければ。

『…………分かった、もういい』

クリューソスは言葉に詰まる僕からふいっと顔を逸らした。

『はははっ!  義父様、いいや義兄様のお許しがでたぞ!』

『黙れ毛玉!』

この考え方はきっと最低なものだろう。屑だ。けれど──ここで否定してアルに伝わって、アルが僕の元から去ってしまったら僕は壊れてしまう。
僕にはアルが必要だ。恋愛的な意味でも、家族的な意味でも、何でもない。事実としてアルがいなければ死んでしまう。

『よしよし、ヘル。ならあの子は僕の妹だ!  もう酷いことしないよ』

「……酷いことしてたの?」

『あはは』

「…………ねぇ、にいさまは……文句、無いの?」

『無いよ?  っていうか、ヘルが凡庸な人間選んで遺伝子穢す方が嫌。僕みたいな天才は人間にはもう居ないだろうし、悪魔とでもなきゃ優秀な子は出来ないよね!  でも悪魔は生物じゃないからちょっと心配で…………だから、合成魔獣の最高傑作、つまり遺伝子的には世界最高の生き物を選んだんだから、お兄ちゃんこの上なく満足!』

遺伝子だとか優秀な子だとか、兄は気が早過ぎやしないか。そもそも僕は自分の子なんて見たくないし、アルと子供が作れるとは思えない。産まれたって兄の玩具になるのなら最初から存在しない方がいい。

「僕の血が入る時点で最低なのは確実だよ……」

相手関係無くアルの子供なら見てみたい。仔犬はきっと可愛らしいだろう──と、こうやっていつまでもアルを犬扱いしているから周囲と差が生まれるんだ。そう分かってはいるけれど、自分ではどうしようもない。

「…………ん?」

『どないしたんなダンピール、飲めや』

「ちょっと静かに……なんか聞こえる」

全員が黙り込むも、僕には何も聞こえない。

「…………ねぇ、何が聞こえたの?」

「俺の聴覚共有してみろよ」

聴覚を共有?  確かに、兄に教えられたのは感覚共有だけれど──補助は義眼にあるし、聴覚なんてどう意識すれば良いのか分からない。

『この声、アルちゃんかな?  威嚇してる?』

「ヴェーン!  聴覚を寄越せ!」

「えっ、ぁ、うん、好きにしてくれ」

耳だ、とにかく耳に集中すればいい。ヴェーンの位置を確認して、魔物使いの力を使って、耳に意識を集中させる──何か聞こえる。
アルの唸り声、ベルゼブブの怒鳴り声、水音、硬い物が砕ける音。

「……視覚も寄越せ!  ヴェーンさん、来い!」

「お、おう!」

『僕も行く』

視覚を借り、聴覚を切る。他人の視界で扉に向かって走った僕は扉を開ける事が出来ずにぶつかり、今は兄に抱えられて廊下を進んでいる。
赤い絨毯が敷かれた廊下を走り、ダイニングに辿り着いた。開け放たれた扉の向こうにアルとベルゼブブの姿が見えた。
紅い輝きを放つ液体が床に撒き散らされている。宝石のように輝くそれはアルの腹とベルゼブブの喉から溢れていた。

「…………ベルゼブブ」

ベルゼブブがアルに怪我をさせた。床が染まるような多量の血を流して内臓が出ていってしまうような大怪我をさせた。
ベルゼブブもアルに喉を噛まれている。喧嘩だろう。けれど──どちらが悪かろうと僕はアルを傷付けた彼女を許せなかった。

「…………………… 死 ね 」

ぼそっと呟いた。無いはずの目玉にフォークで弄られるような痛みが走り、視界共有が切れる。

『はい捕獲、ダンピール、入れ物』

「このナッツ瓶でいいだろ」

兄とヴェーンの声。僕には何も見えない。力を使おうと意識すると、無いはずの目玉に激痛が走る。放っておくと頭痛だけで済む。

『アルちゃん、無事?  自力で治った?』

『あ、あぁ……』
 
アルの声だ。戸惑っているようには聞こえるが、痛みを耐えているようにも酷い傷を負っているようにも聞こえない。
安心して足から力が抜けた。

「お、おい王様!  兄貴、王様診てやれ!」

アザゼルだろうか。そう心配しなくても大丈夫、安心しただけだから──そう言おうとして咳き込んだ。口を押さえ、咳が治まるまで待つ。手にべっとりと何か液体が付着しているような……気のせいだろうか。

『……ヘル、ヘル?  大丈夫?』

『治癒魔法は……』

『やった、けど……魔力の方だから、自然回復を待つしかない。一時的魔力不足や出力の瞬間向上による肉体の破損は修復してるよ』

『ふむ、ヘル、平気か?』

大怪我していたのはどこのどいつだ。そう言ってやりたかったが、また咳き込んだ。

『……痛覚麻痺もかけてるけど、あんまり効いてないね。もちろん肉体の破損の方の痛みには効いてるけど、無理に魔力を使った代償の苦痛はそのままだ』

『そんなっ……ヘル、済まない……私の為に』

『…………君がヘルの為に出来る事が一つあるよ、アルちゃん』

『何だ?  何でもするぞ』

『寄り添って、声をかけ続けて安心させることさ』

アルは何も言わず、恐る恐る僕の腕の中に潜り込んだ。翼で僕を包み、蛇で背を擦って、前足を太腿に置いた。

『……こんなものでいいのか?』

『それが一番だよ。ね、ヘル』

苦痛そのものは和らがないが、精神的な苦痛は癒されていく。兄もたまには良い事を言う。
僕は筋肉痛にも似た全身の痛みと、脳をかき混ぜられるような頭痛と、目玉を穿ち弄ばれるような幻痛を味わいながら、アルの声とアルの感触だけを求めた。
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