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第十九章 植物の国と奴隷商

赤紫の薬品

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ベルゼブブが蹲ってから十数秒後、突然地面が軟化し、足が沈む。気が付けば甘い匂いが辺りに漂っていた。苛立ったベルゼブブが『暴食の呪』を撒き散らしているのだ。

『ヘル!  お待たせ!』

『黒』の声と共に僕は頭から赤紫色の液体がを被る。それと同時にベルゼブブの呼吸が穏やかになり、僕を見て一言呟いた。

『…………不味そう』

『良かった、成功みたいだね。うろ覚えだから不安だったんだよ』

「……えっと、この水の効力は?」

『浴びた者の魔力に比例して魔物に不味そうに感じられるようになる。さっきのはその逆ね』

魔力に比例して、か。確かに僕は扱い方はともかく魔力の質や量はいいらしい、ご馳走と認識して当然だろう。
そして今はその反対、とびきり不味そうに感じられるのだろう。残飯とでも例えられるのかな。

『うっ……吐きそ……うぇっ…………気持ち悪っ。あぁ……こんな、全ての生き物食材への冒涜みたいな味っぽいの……信じられません』

「そ、そんなに……」

スポンジケーキと化していた地面も元に戻り、甘い匂いも風に流されて薄まっていく。呪いは解いたらしい。

『食卓に汚物置かれたようなもんだね』

「…………うん、まぁ、食べられなくはなったし。助かったよ、ありがとう『黒』」

『どういたしまして、汚物くん』

「やめてよ!  泣くよ!?」

『黒』はフラスコに入った青紫色の液体を鳥の死体に振りかけた。そうするとベルゼブブは鳥の死体に飛びつき、貪り始めた。

『アレはさっきの薬の残りだよ。帝王様、随分お腹空いてたみたいだからね、ついでに持ってきたんだ。いつまでも空腹じゃ君が齧られちゃいそうだったからさ。ま、しゃっ君じゃ腹に貯まらないだろうけど、空腹を誤魔化すくらいは出来るはずだ』

「空腹でもしばらくは大丈夫だろうけどね、僕汚物だから」

『うっ……ぷ。気持ち悪い。すいませんヘルシャフト様、離れてくれませんか?  落ち着いて食べられません』

「み、みんなして僕を汚物扱いする!」

『君って自分で言うくせに人に言われたらギャンギャン喚くよねぇ、面倒臭い子だ』

結局ベルゼブブは僕が離れる前に死体を完食した。先程まで背に乗せてもらっていた生き物を喰われた、というのはやはり心に深く冷たい影を落とす。

『……疲れましたし、戻りましょうか』

「どこに?」

『吐き気するんで近寄らないでください』

あまりにも酷い言葉にただ涙を流す、反論なんてする気も起きない。

『何も言い返さないで泣かないの』

「その言い方……近所の子を思い出してっ……」

天才の弟が学校を辞めさせられたと国中に広まって、少し外に出ただけで飛んできた石やら魔法やらで大怪我をしていた時期。思い出すだけで体も心も痛くて仕方ない。

『なんかすいませんね。倉庫に戻るんですよ。先輩方がいった方面からはリンとか言うのの家の通り道にありますし、合流出来るはずです。何より私が個人的にアレを殺したい』

『殺すなら気をつけなよ?  君への精神汚染だけなら良いけど、外に顕現したら国が滅ぶかもしれないんだ』

『……あの化物って召喚か変身だと思うんですよ。だから一撃で心臓を屠ってしまって、術を使う暇を与えなければ大丈夫だと思うんです』

『へぇ?  まぁ、やりたいようにやりなよ』

『黒』の口調と表情には微かに嘲罵が伺えた、言葉だけではそんなふうに思えないのにそう考えてしまうのは僕が捻くれているからなのだろうか。


口論やら相談やら世間話をしながら歩いていると、いつの間にか倉庫に到着していた。扉の前にはアルとカルコスが座っている。

『ヘル!  大丈夫だったか……っ!?  な、何だ?  ヘル……何かしたのか?』

『…………おいガキ、なんだこの生ゴミを煮詰めたような腐臭は』

「やっぱり……そんなに臭いの?  生ゴミ……そっかぁ」

予想通りの反応ではあったが、やはり傷付く。
涙を零してしまわないように真上を向いて瞬きをした。その後で目にゴミが入った振りをして目を擦れば、ある程度誤魔化せる。

『ベルゼブブ様を止めようとはしたが、私では太刀打ち出来んからな』

「……ううん、頑張ってくれたって聞いたから」

『あぁそうだ、頑張ったぞ!』

アルを褒めているのに、何故かその隣でカルコスが胸を張る。

『貴様は何もしておらんだろう』

『オスライオンって普段働きませんからねぇ』

『有事の為に力を蓄えているんだ』

『……先程は有事だったと思うんだがな』

アルと再会したら抱き締めて撫でて、とびきり甘えようと思っていたのだが、今の僕は魔物に吐き気を覚えさせるような腐臭を放っているらしいのでやめておいた。

『そんな話はいいんですよ。本題を殺しましょう。さ、心臓抉っちゃいましょ』

「待って、その前にちょっと話させてよ」

理由は分からないがベルゼブブのナイへの殺意は凄まじい。
『黒』の名前を思い出す約束──彼にとってはゲーム、僕はその詳細を聞きたいのだ。改めて『黒』の話も、と思ったのだが後ろにいたはずの『黒』はいつの間にか消えていた。

「あれ?  『黒』は?」

『気が付きませんでした?  彼女、もう実体化してられないんですよ。貴方を助けるのに本来使えないはずの加護までやりましたからね、相当消耗したでしょう』

「……消えて、ないよね?」

『ええ、この時空に存在出来ていないというだけですから。またいつかどこかで会うんじゃないですか?』

「…………そっか、良かった」

その時までに名前を思い出しておかなければ。そんな不可能に近い決意を胸の奥に隠した。

『じゃ、行きますよ?』

倉庫の扉はベルゼブブが暴れ回ったせいで歪んでいたが、どうにか開いてくれた。
中には残酷な缶詰の山と、その横に倒れた研究者──ナイの姿があった。

『こんにちは。先程ぶりですねぇ、ベルゼブブですよ、お元気でしたか?』

ナイは酷い怪我をしていた。腕は両方共に反対に折れ曲がって、足なんてもう平らに見える程ぐちゃぐちゃに潰れていて、あの黒い瞳は二つとも抉り出されていた。とてもではないが缶詰や棚の下敷きになっただけで出来る傷ではない。

『……ヘルシャフト様が少し離れて、食欲よりも貴方への恨みが勝っちゃったんですよね、一瞬だけでしたけど。でも幸運でした、長くここに留まっていたら貴方もう殺しちゃってましたからねぇ』

ベルゼブブが加えた傷は多い。僕が最後に見たナイには目があったし、しっかり二本の足で立っていた。

「待ってよベルゼブブ。ちょっとナイ君に聞きたいことあるんだから」

『……仕方ありませんね、少しだけですよ』

両目が抉られているのでは視界に入ることは出来ない。僕はナイの注意を引く為に、損傷が少ない胴体──腹のあたりを軽く叩いた。

「ナイ君、ちょっといい?」

返事は声でも言葉でもなく、気味の悪い笑顔だった。顔の上半分が赤く染まっているのに、口を三日月型に歪ませて笑っているのだ。
今更怖気付く自分を自分で鼓舞して、深呼吸もして準備を整える。

「…………『黒』との約束について、聞きたいことがいっぱいあるんだ」

ナイの顔は動いていないはずなのに、僕には何故か笑みが深まったように見えた。
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