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第二十五章 本拠地は酒色の国に

大勢での夕食

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包丁とまな板がぶつかる音が終わり、勢いのある水の音が少しの間だけ聞こえた。トマトを全て切り終わったトールが手を洗った、といったところだろう。
グツグツと何かが煮える音や金属が擦れる音は聞こえてくるから、フェルはまだ鍋をかき混ぜているのだろう。

『そういえば、その眼……今はないけど、魔眼を暴走させたのは狼さんが死んじゃったからだったね』

『…………面目無い』

「アル……そんなに落ち込まないで」

程よい冷たさと柔らかさのスライムソファに身体を静め、膝の上にアルの顎を乗せる。これほどまでに幸せな体勢があるだろうか。

『にいさまがやられた時は叫んでただけだったのに……って言ったらにいさまに何されるか分かんないね』

「…………そうだね。にいさまが撃たれた時は、僕は、人を殺せなかった」

アルを撃たれた時も結局殺せはしなかったけれど行動は出来た。

『そういえば僕も撃たれたなぁ。僕はにいさまほど複雑なつくりしてないから結構早く再生したけど、お兄ちゃん怒ってくれてたよね』

「……そりゃ、怒るよ」

最初に撃たれたのはフェルだった。僕は力も使わずに突っ込もうとしただけで、兄に止められなければ撃たれていたかもしれない。フェルは嬉しそうに話しているけれど、とても喜べる話ではない。

『自分の複製なんて気持ち悪いだけだろうに、本当の弟みたいに接してくれて、傷付けられたら怒ってくれて、そういうのってとっても嬉しいんだよ?  お兄ちゃんも分かるよね、同じなんだから』

「……分かるけど、その対象が僕っていうのは、ちょっと」

『それも分かるよ。自分に価値が無いって思ってることはね。でも反転して考えてみれば、僕がお兄ちゃんのことどう思ってるかも分かるはずだ』

本当の兄のように思ってくれていると?  本当の兄というものがどういった存在なのかはイマイチ分からないけれど、それは嬉しい。

「……フェルも、自分に価値が無いって思ってる?」

『そりゃあね。でも、僕はお兄ちゃんより存在理由がハッキリしてる』

「存在理由……?」

僕の存在理由は魔物使いである事だけ。この力を人間の為に使って始めて僕はこの世界に存在を認めてもらえる。誰かに言われた訳でもないけれど、そう確信している。

『身代わりだよ。あらゆる凶事を引き受ける人形』

「そんな!  ダメだよ、僕なんかの代わりなんて…………僕がお兄ちゃんなんだから、僕が、全部……」

『やめてよ。それじゃ僕が居る理由が無くなっちゃう』

初めはそれでよかった。
フェルが全て引き受けてくれると聞いて心の底から喜んだ。あの宣言があったから、実際に庇ってくれたから、今も兄と対等な気分で話せている。
けれど、今はもう違う。
フェルは僕の大事な弟だ、身代わりになんて出来ない。だがフェルが僕の複製である以上、そう易々と存在意義を手放すとは思えない。
それなら、フェルを守る為には──

「……分かった。僕は僕の敵を全て消す。そうすればフェルが身代わりになっていたってフェルは……」

『傷付かない。そうだね、自分の身体が削れるのは良い気分じゃないから。出来るならそれが一番だけど』

「やるよ。絶対。僕、もうお兄ちゃんだから」

『…………そう、やることいっぱいだね。潰れちゃダメだよ、お兄ちゃん』

人と魔物の共存共栄、『黒』の名を取り返す、敵を全て葬り去る。途方もない夢だけれど、これが僕の存在意義だ。これを叶えなければ、叶えようとしていなければ、僕は要らない者になってしまう。

『トマトの香りー!  晩御飯はトマトですか!  トマトいいですねトマト、でもトマト尽くしは流石に嫌ですよ肉を出しなさい肉を』

扉が乱暴に開けられ、早口言葉のような要求を喚く。

「……びっくりした」

『あぁすいません、音に敏感になってるんでしたね』

「いや、目があっても今のは驚くよ。普通に入ってよ」

『はいはいごめんなさいね、魔界最速なもんで』

幼く可愛らしい声で吐き捨てられ、僕は反論する気を失う。

『……なんやトマト臭い。ぁ……?  トマトばっかり……なんやこれ』

開け放たれた扉から誰かが──声からして寝起きの酒呑が入ってきたらしい。

『わぁ、どこもかしこも真っ赤。綺麗やねぇ』

続いて入ってきたのは茨木だろう。声での推測が得意になってきた。

『単色にしてんじゃねぇぞクズ共って言ってますからねこの人』

『あ、大丈夫。そういうのは特技の被害妄想で何となく分かるから』

『さぁっすがヘルシャフト様のコピー』

「どういう意味?  ねぇ、どういう意味なの?」

『そのままの意味ですよ』

膝の上のアルをどかして立ち上がり、手探りで机を探す。角の席に座ると何本もの手に髪を整えられる。前髪を留められたらしい、顔の前に髪がないと落ち着かない。

「……あ、見えないと食べれない」

『仕方ありませんねぇ……』

隣の椅子を引く音がする。ベルゼブブが隣に座ったらしい。

『……私が、貴方様の分も食べて差し上げます』

艶っぽい話し方で、僕の耳元で、そう囁いた。

『食べさしたるとかとちゃうんか』

『育ち盛りやからしゃーないなぁ……ふふっ』

向かいの席あたりから鬼達の声が聞こえてくる。彼らはこういった状況の時見物に徹する。

『お兄ちゃん専用フェルシュング予備触手が食べさせてくれるはずだよ』

「名前……いや、いいんだけどさ」

長いと言うべきか、格好悪いと言うべきか。

『略してオニシュ』

「略さないで、かっこ悪っ、ぅぐっ…………ぇほっ」

そう言った口にスプーンが突っ込まれる。上には固形とは呼べなくなったトマトが乗っている。

「……ねぇ、タイミングおかっ…………ぅえ、ちょっ」

『口開けたら何か入れるよ、多分。脳みそつけてないからめちゃくちゃ頭悪い。簡単な指令は送れるけど複雑な操作は僕にも出来なくて』

脳が無いなら頭が悪いなんて言葉では表せないのではないか。そんなどうでもいいことを考えている間にも、サラダが口に押し付けられている。

『……弟君、私が食べさせるからこのスライムを引かせろ』

『え?  スライム?  スライムって何?』

『………………だから、その、オニ……シュ?  を、引かせろ……』

「フェル!  アル虐めるのやめてよ!」

背もたれや肘掛けに登っていたスライム達が降りていく。代わりにアルが肘掛けに顎を置いた。

『ヘル、何が食べたい?』

「えっと、ステーキ?  ってあるよね、それ」

『よし、口を開けろ』

喉の奥に突き入れられる事もなく、前歯にぶつかる事もなく、トマトを刺したフォークは僕の口の中にトマトだけを置いていった。

『一応手なのに……器用さで負けるなんて』

『器用さっちゅーか頭の良さやろ』

『……酒呑様はスライム以下』

『茨木!  表出ぇ!』

バタバタと足音が聞こえ、扉が開いてまたすぐに閉まる。するとドンドンと扉を叩く音が聞こえてくる。

『うるさい奴は閉め出すに限ります、珍しく良い働きをしましたね』

『そらまぁ、うちはあんたと違うて大人やからなぁ。それなりの対応せんと格好つかへん』

酒呑はダイニングルームから閉め出されたらしい。表に出ろと言う面倒な輩への対処は、先に出させて扉を占めることだったのか。良いことを覚えた。

『ヘル、次は?』

アルは鬼達の騒ぎなど気に留めず、僕の世話を焼いている。自分で食べるよりも上手く口に運べているように思えるが、アルがどうやって食器を持っているのか気になる。鋭い爪や愛らしい肉球では何も掴めないだろうに。

「……美味しい。ねぇアル、アルどうやってフォークとかスプーンとか持ってるの?」

『尾だ。私の尾は蛇だからな』

持ち手を咥えさせているということか。そういえばそんな仕草を見た覚えもある。

「…………前から思ってたんだけど、そっちって……その、意識とか、あるの?」

『思考は出来んが五感はある』

思考が出来ないのなら狼と蛇で行き先が別れる事も無いな、今更ながら一つ安心だ。

『この尾で見たものは頭の方で処理される、聞いたものや嗅いだもの同様にな。喰ったものもしっかり胃に送られる』

「……ちゃんと胃に繋がってるの?」

『ああ、勿論だ』

アルの身体の構造が気になる。胃に繋がる管が二つあるという事か?  それとも頭からの管と途中で交わっているのか?
そう考え始めると翼の骨はどことどう繋がっているのかとも気になるし、僕の頭では理解出来ないであろう事にまで好奇心が湧いてくる。

「……アル。変な人に解剖とかされないように気を付けてね、変な人に着いてっちゃダメだよ、にいさまとかね」

『…………ん?  あぁ、気を付けよう』

アルは僕の気持ちを理解していないようだったが、聞くのは面倒なのか適当に肯定した。
アルは時々こうやって雑になる。そんな一面を見せられる度、気を許されているのだと一人で高ぶるのだ。
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