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第二十五章 本拠地は酒色の国に

挨拶回り

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二階の廊下をしばらく歩き、アルが何処かの扉を開ける。手を引かれるままに足を進めると足裏の感覚が板から絨毯に変わった。

『頭領はん、よう来はったねぇ。えっらいもん連れて』

「えっと、茨木?  の部屋なんだね、ここ」

『酒呑様の部屋やよ。うちは模様替え手伝うてるだけ、うちの部屋はこの隣や』

「そっか。酒呑は?」

そう言った直後、耳に大きなイビキが届いた。

『……聞こえはった?  そこで寝てはるよ』

「あ……うん、ほんと、勝手な人だね」

自分の部屋の模様替えをさせておいて自分は寝るなんて、僕なら……相手にもよるがそのまま模様替えを続けているだろうな。茨木は僕のように気が弱くはないが、何故か酒呑に尽くしているし、寝られても腹が立ったりはしないのだろう。

『どうかしはったん?』

「あ、いや、ちょっと……ほら、見回り?  家どうなってるのかなぁーって」

『ふふ、探検やね。楽しいん?』

「楽しいけど……そんな子供っぽいのじゃないよ」

子供は初めての場所に来るとはしゃいで走り回ったりするらしい、僕は子供の頃から引きこもっていたから分からないけれど。

「そうだ。手、握らせてもらってもいい?」

女性に突然「手を繋いで」と言うのは中々勇気が要る。表情が見えなくて助かったかもしれない。

『……ええけど』

伸ばした手に大きな手が重なる。兄よりも大きく、指を絡めればかなり痛い。骨ばっていて力強く、硬い。義肢だからだろうか、こう言っては失礼だが女の手とは思えない。

『どんな具合?』

「え……えっと、義肢なのに、その、本物の手握ってるみたい。皮膚の感触とか、骨?  の形とか」

『ふふ、高性能やからなぁ』

「これ、気に入ってる?」

『そらなぁ。ところで頭領はんいつまで居はるん?  長居しはるんやったらお茶でも出さんとなぁ、あぁでももうすぐ夕飯時やねぇ。何や軽くこさえた方がええやろか』

「あ、いいよいいよ。もう出てくから」

『…………そ。ええ子やね』

茨木はクスクスと楽しそうに笑っている。何故かは分からないが上機嫌そうで何よりだ。
僕は彼女の手を離し、僕と同じ大きさの手を握る。その手に引かれるがまま部屋を出た。

『次は一階だ』

先導するアルの足音が消える。すぐ隣からミシッと音がして、僅かに風を感じた。

『ヘル、貴方は階段から……お、おいヘル!  待て!』

無数の手が僕を持ち上げ、ジェル状の物体が僕を包む。一瞬の浮遊感があって、元通りに立たされるとアルが飛び込んできた。

『ヘル、平気か?  怪我は無いな?』

「……今、何があったの?  なんかふわっとしたけど……」

『…………私が手すりを乗り越えて一階に飛び降りたんだ。貴方には階段からと言ったのだが、そのスライムはそれを聞かずに私が行った通りの道を通った』

先程の何かが軋んだような音はアルが手すりに飛び乗った音か。包まれたのは怪我をしないようにで、浮遊感は飛び降りたから。不思議な出来事もこうして聞けばなんてことはない。

『……知能は無いのか?  まぁ、いい。こっちだ』

アルの足音を追って手を引かれるままに足を進める。案内されたのはダイニングルームらしい。

『あ、お兄ちゃん。ご飯もうすぐ出来るよ』

「フェル?  うん、ありがとう。ご飯なに?」

『トマトスープ。なんかトマトいっぱいあったからさ』

「そっか……ねぇ、手、握っていい?」

『悪いけど料理中。手ならいっぱいあるでしょ?』

僕の手を片方ずつ、両手で包む。あのスライムなのだろうが、この手はフェルのものと同じだ。僕と全く同じ特徴なのだから、そう特筆して覚えるべき事は無いか。

「トールさんは?」

『何だ?』

「あ、居たんですね。すいません、静かだったので……」

『お兄ちゃん、さっきから包丁振ってるのトールさんだよ。僕は鍋混ぜてる』

「え……そ、そっか」

まな板と包丁がぶつかる音。どこか懐かしく安心出来るその音を立てているのはフェルだと思っていた。やはり目が無いのは不便だ。

『何か用か?』

「……手、握ってくれません?」

伸ばしていた手が大きくごつごつとした手に包まれる。やはりと言うべきか握力は強い、軽く握られただけでその後しばらく指がくっついてしまった。
感触や匂いは──ぬめっとしていて、トマト臭い。

「……すいませんトマトしか感じません」

『だろうな、トマトまみれだ』

「……切ってるんですよね?」

『今はな。さっきスープ用に潰したから、それだ』

「…………今日はトマト尽くしですか」

『トマトスープ、トマトサラダ、トマトステーキだ』

「……ステーキ?  まぁ別にトマト嫌いじゃないから良いんですけど」

嫌いではないが好きでもない。そもそも僕には「この食べ物が好き」という感覚がよく分からない。野菜や肉などの素材は味が薄い、香辛料や調味料の好みならともかく、味を感じられない素材の好みなどまず無い。食感で言うなら別だけれど。

「……なんでトマト多いんだろ」

「パッと見血っぽいからだよ。イラついた時とか気が紛れる」

聞き慣れない声に慌てて振り返る。だが、振り返ったところで何も見えない。

「ん……あぁ、見えてないのか。俺だよ、ヴェーンだ、ヴェーン・アリストクラット」

「あ、あぁ……びっくりした」

足音が聞こえなかった。調理の音を楽しんでいたからだろうか、先程は革靴の音が聞こえたのに……中履きに履き替えたのか?

『…………おい、貴様臭うぞ。向こうへ行け』

「はぁ?  向こうでシャワー浴びたぞ」

『知らん。臭い。もう一度浴びてこい』

アルは唸りながらヴェーンを責めている。嗅覚が鋭いというのも不便なものだ、僕はトマト以外の匂いを感じていないと言うのに。

「アル、何の匂いしてるの?」

『…………何だろうな、とにかく臭い』

「何して来たんですか?」

「はぁ?  あのクソ淫魔とする事なんざ一個しかねぇだろ、ガキかお前」

ガキと呼んでおいてガキなのかと聞くのはどういう心境なのだろう。何も考えていないのか、きっとそうだ。

『これだから吸鬼は……』

「っんだよ俺はあれじゃ魔力吸えねぇんだよ!  つーか逆に吸われて腹減るだけなんだ!  俺だって本当はやりたくない!」

『いいから早く身体を清めろ』

「はいはい聖水でもかけて大火傷してきますよー小煩いクソ犬様!」

扉を乱暴に閉めた大きな音、扉の向こうから聞こえる先程は聞こえなかった不機嫌そうな革靴の音。ヴェーンは部屋を出たようだ。

「……僕まだあの人苦手。早く慣れないとだよね……どうしよう」

『まだって……何かあったの?』

「…………前に会った時、目、抉られた。後、その前に僕あの人の母親とお兄さん殺してて……いや僕は直接何もしてないけど、間接の間接みたいな……」

『一触即発なんてもんじゃないね、なんで普通に話せてるのかの方が疑問だよ』

僕もフェルと同意見だ。何故ヴェーンがアシュに下っているのかも分からない。強い悪魔に従うと言うなら自然な事だが、その割には敬意が感じられない。

「家族とは絶縁してたとか言ってたし、僕も目は治ったし……また無くなったけどさ。普通に話せる理由、フェルならわかってくれると思ったけど」

『……いや、分かんないよ。痛めつけられたからって怒れないし恨めないのは分かるけど、僕は目を抉った相手と普通に話せるとは思えないなぁ』

「…………あぁ、そっか。フェルって記憶無いんだっけ」

『にいさま以外の生物との記憶は消されてるけど、思考回路は同じはずだよ?』

記憶を消されているなら思考回路は同じではないだろう。性格には他者や経験が影響するものだ。

「……僕に何されようとアルが怪我しなかったらどうでもいいんだよね。あの時アルは無傷だったし……怪我させられたらそりゃ腹は立つけど、だからって感じ」

『うっわ人間の思考じゃない』

「僕この家の中で唯一の人間なんだけど」

ふわ、と足に温かい毛の塊が擦り寄る。フェルとの会話に集中していた僕がそれをアルと認識するのには時間がかかった。

「……正直、まだ茨木とは話しにくい」

『え、仲良いじゃん』

「そう見えてるならいいけど。まぁ、手打ちって言うか、お互い様で納得したけど」

『ふーん……?』

グロル、いやアザゼルともまだ打ち解けられない。彼女自身には何の問題もないのだが、アルを二度も殺したのは堕天使だ。それがどうしても気にかかってしまう。
種族や家族の問題は切り離して、個人と向き合うべきなのに……特に統率者にならなければならない僕は。
どうしても割り切れない。黒い翼と光輪の組み合わせがたまらなく憎い。アザゼルと長く付き合っていけば、いずれ克服出来るのだろうか。
僕はため息を吐いてスライムに腰掛けた。
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