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第十八章 美食家な地獄の帝王

本物のヴァルプルギス

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メルに抱えられて堀を越え、外へ着地する。
メルが僕を離しても僕はメルを離さなかった。いや、離すことが出来なかったと言うべきか。

『だーりん?  どうしたの?  もう……こんなところでなんて……別にいいけど、今はダメよ?  逃げなきゃだもの』

何かを勘違いしているメルの言葉も僕には届かなかった。

「…………め」

『め?』

「眼、眼が、いっぱい……こっち、見て、殺すって、僕を、見てて」

視線は嫌いだ。多ければ多いほど、混乱してしまって身体が硬直していく。あんな異形のものからの無数の支線であっても、僕の面倒な恐怖症は健在だった。

『……何よもう、ワタシの魅力に気づいたわけじゃないの?』

「気づいてない……眼、眼が怖い」

『気づいて!  それと、今から走るから!  自分で走ってよ!?』

メルは僕の腕の中から抜け出し、僕の手を引いて走り出す。城下町に向かって走ると液体もその後を追ってくる。真っ黒のスライムなんて見たことがない、見慣れないものへの恐怖は誤魔化すことすら不可能だ。

「き、来てる、速い!」

『だーりんが遅いの!  どうしてヒール履いてるワタシより遅いのよ!』

「生まれつきだよ!」

『努力して!』

「嫌だ!」

『何でこんな男だーりんって呼んでるんだろ……』

「そ、それは考えないでよ」

そんな場合でもないのにくだらない小競り合いをしながら走る。と、長いローブが足に絡んだ。

『何なのぉ!?  もう、何でよ!  何回転べば気が済むのよ!』

受け身も取れず、腕で顔を庇うことも出来ず、みっともなくうつぶせに倒れた。僕の腕を掴んでいたメルも尻もちを着いたが、僕とは違ってすぐに起き上がった。

「ご、ごめん。起こして」

『もう……頼りがいないし、情けないし、弱いし遅いし、男としては最低……』

「僕にそんなもの求める方が間違ってると思う」

そもそも、僕に求められるものは無い。ストレス解消用の玩具なら適任かな。

『言ってる暇あるなら起きて走って!』

「ごめん……でも、僕にそういうの期待しないでね」

立ち上がってメルの目を見る、その目は僕を見てはいなかった。映りこんだ景色は黒く塗り潰されている。

『ひっ……もうやだ、何なのよ、何なのコレ』

「に、にいさま?  あの、落ち着いて」

兄が僕の言葉を聞かないと一番分かっているのは僕だ。特に今は。

『殺す、殺す、殺す、魔物使い、殺す』

「……誰、なの?  ねぇ……にいさま?  僕だよ、にいさまの弟だよ?  ねぇ、魔物使いなんて呼ばないでよ、出来損ないでもいいからぁ。そんな呼び方しないで……」

女の声は僕に対する殺意で満ちている。目の前のモノが兄ではないというのは明白だった。
声はもちろん、兄が僕に殺意を向けることはありえないからだ。結果的に殺傷に至ったとしても兄は僕を殺そうとは思わない。
そもそも兄が他者に殺意を抱くことなどありえない、他者をそんな感情を抱く価値があると兄が認識するはずがない。兄にとって自分以外は塵芥だ。

『だ、だーりん!  とりあえず逃げよ!』

「…………人、食べてない」

僕は道の端に倒れる人を見つけた。気を失っている者、喰われかけた者、様々だ。生きている者もいる、だというのに兄はそちらには何の興味も示していない。

「やっぱりお腹空いてるんじゃない。じゃあ、何でそんな……」

『だーりん!  だーりんってばぁ!』

メルに引っ張られ、少しずつ引きずられながら考える。
兄の様子がおかしくなった原因は何だ。いつものような空腹ではない、ここには兄のがたくさんある。
様子がおかしくなったのは──地下でナイに何かをされてからだ。ナイに何かを見せられて、兄はそれに怯えて、でもその直後は僕に殺意なんて向けなかった。ナイは関係ないのか?  いいや、他に何も思いつかない。ナイが兄を壊したのだ。

「メル、離して」

『だーりん……?』

僕はメルの手を振り払った。

「…………何とかする。でも、成功するかどうか分からないから逃げて」

『何、言ってるの?』

メルは涙目になって僕の背に寄り添った。僕の行動を邪魔しないように、すぐに逃げられるように羽を広げながら。

「にいさま?  分かる?  僕だよ」

『魔物使い、私を殺した……私の、敵』

「違うよ、僕はにいさまの弟だよ」

私、だなんて兄は言わない。兄の中に人知れずいた違う人格と考えるか、今まで兄が喰らった人だと考えるか、ナイに他人を入れられたと考えるか。
僕に殺されたと言うなら前者二つはおかしい。後者だったとしても、僕が殺した人間なんて──居る、けれど。

『私の…………弟?  違う、私には。私……?』

「にいさま、もう怖いのはいないよ」

『私…………わ、違う。僕は…………』

僕、それが兄の一人称だ。そうだ、そのまま兄に戻って。
僕はそう願いを込めて、必死に笑顔を作った。

「にいさま?」

『…………ヘル?』

無数の眼が閉じる、口も消えて黒い塊と化す。スライムのようなそれは歪みを持ち、兄の声を発した。

『ヘル、僕の弟…………私の敵、私……違う。僕の、大事な弟』

「にいさま、良かった。戻ったんだね?」

両手を広げ、抱きつくように液体の中に体を沈める。口と鼻は埋めないように気をつけて顔を上げながら。

「にいさま!」

僕は兄が戻ったと確信して、今度は本当の笑顔を浮かべた。

『…………魔物使い』

粘着質な液体の感触が消え、僕の両手は細い体を抱き締めた。人の形に戻った、そう確信した僕は目を閉じたまま兄の胸に顔を埋めた。
柔らかく沈む、豊かな胸に………豊かな胸?

「…………誰?」

顔を上げる。
僕は知らない女に抱きついていた。

「…………誰?」

『魔物使い、よくのこのこと顔を出せたなぁ。私の前に!  お前が殺した私の前に!』

魔物使いと呼んでいるという事は僕をそれなりに知っている人物という事。けれど僕には覚えがない。

「え、だ、誰?  にいさま?」

『覚えている、覚えているぞ!  お前は私を無数の魔物に喰わせた!  死なないからと何度も殺した!  私は逃れられないと悟り、蘇生魔法を解いた!  そして私は本当に死んだんだ!  お前が、私を殺したんだ!』

女の剣幕に後ずさる。メルが僕の体に腕を回し、羽ばたき始める。身に覚えのない残虐な殺人で恨まれているなんて、僕が理解出来る状況ではない。

『何故ここにいるのか、まだ生きているのか、全く分からない。だがこれだけは分かる、お前が魔物使いだと、復讐すべき敵だと!  殺してやる、今度こそ私がお前を殺してやるっ!』

僕達は空高く舞い上がり、女の姿はどんどんと小さくなる。だというのに不安はどんどんと大きくなる。
もう豆粒に見えるほど離れたというのに、女の邪悪な詠唱がはっきりと聞こえた。

『史上最大のサバトよ、今こそ甦れ。凡人共を恐怖の底へ突き落とせ。忌まわしき狩人よ、我らが敵を、贄を喰らえ!  さぁ今こそ我らが神を讃える時。そう、ヴァルプルギスの夜だ!』

女の周りに現れた魔法陣……いや、影。
影からは蝙蝠のような翼を生やした蝮に似た化物が次々と溢れ出る。ある化物は翼をばたつかせ、またある化物は街の人々を喰らった。

『な、何、何アレ、召喚?  にしては……』

「やばそう。ねぇメル、もっと高く飛べる?」

『これ以上は……ちょっと厳しい、ワタシの羽なんて飾りみたいなものなのよ。でも、やらなきゃ……喰われるわね』

必死に羽ばたく羽は薄く、今にも破れてしまいそうだ。いつの間にか空を飛んでいた化物の突進を躱しながら、必死に高度を上げる。

『さぁ、目覚めよ我が神よ。至高の恐怖は今ここに!  至上の愉悦は今ここに!  さぁ、我が神よ。今ここに帰還せよ!』

下卑た笑い声を上げながらくるくると踊る女、僕達を狙って空を飛び回る蝮に似た化物、生き残っていた国民を貪る化物。
まさに地獄絵図、一度死者の国へ行き魔界へも落ちた僕でもこの景色は耐え難い。
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