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第十六章 遊戯は神降の国でも企てられる
溶け落ちる独善
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兄の期待に応えられなかったことは数あれど、兄に逆らったことはそう多くない。
『待て! 帰ってこい、戻れ! ヘル! 戻ってきて! ヘル!』
兄の声。兄の姿をしたモノの叫び。
僕はそれを聞かないために耳を塞いだ。兄じゃないなんて言って、僕は兄から逃げたいだけだ。
違うモノへの嫌悪感はあれど、アレは兄と全く同じ思考回路をしている。ならアレが起こす行動は手に取るように分かる。
兄かどうかもあやふやなものに、兄と同じ行動を取られるなんて、我慢出来ない。愛情だと錯覚できる兄の暴力ならともかく、訳の分からない生物の暴力に耐えるなんて、僕には出来ない。
玄関は……ここ、じゃない。ここは寝室だ。入って来たドアを開けて、間違いの部屋を出ようとした。
だが、廊下の奥に見えた虹色の光を放つ物体を見てドアを閉じた。玄関の場所が分かっていればそこに走っただろうが、今は分からないのだ。アレの向こうに玄関があった時のことを考えると隠れた方がマシに思える。
ベッドの下に潜り込んで、フードで顔を完全に隠した。足を折りたたんでローブの内側に入れて、少しでも見つかる可能性を捨てた。
キィ、と高い音を立ててドアが開く。溶けかけたゴムのような物体が入って来る、生き物と言っていいのかすら分からないそれからは、鈴の音に似た美しい声が響いていた。
『t…………li-li…………りっ……ヘル……』
確かに僕の名を呼んだのは兄の声だ。先程まで話していた兄の正体がアレだったと言うのなら、僕の直感と自論は間違っていなかった。
アレは……僕の腕を喰った魔物だ、アスガルドで兄の名をつけた魔物だ。兄の名をつけた魔物が兄の姿を取ったのは、偶然か、それとも……元は兄だったモノだからか。
アスガルドでの馬鹿げた妄想、僕の代わりに兄が怪物化したのではないかなんて自分勝手な想像。それが現実味を帯びてきた。
もしそうなら、アレは本物の兄……僕が吐き捨てた言葉は全て間違い。
兄じゃない、という直感こそが妄想。
……いい加減にしろ、自分の考えをしっかり持て、一つくらい貫き通せ。何もかも推測じゃないか、どこか違う国で兄が普通に暮らしている可能性だってあるのだ。ロキもそう言っていた。
ならアレは? 兄が悪戯に作った魔法生物。なんて回答も出来るだろう。
混乱し過ぎだ。一度落ち着こう。
まずアレは……何だと思う? 真実を当てろという意味ではなく、僕の心はなんと言っている?
兄だとしても、兄ではなかったとしても、僕が今すべきことは何だ?
この家から無事に逃げることだ。
『て……liリ、イない、ィ、ナぁ』
水っぽく気持ち悪い音を立てながら魔物は去っていく。
生物かすらも怪しいアレを魔物と呼んでいいのか? 魔物なら僕の言うことを聞くのではないか?
試して……いや、ダメだ。もう玄関からでなくてもいいから、窓でもいいから、出口を探そう。
耳をそばだてベッドの下から這い出る。魔物は別の部屋を探している。
僕は魔物と正反対の方に向かい、他のドアとは少し違った作りの、ガラスがはめられたドアを開いた。
……違う、ここも何かの部屋だ。暗くて分からないがおそらくは風呂だろう。
音を立てないように方向転換をする。と、魔物の鼻先が別の部屋から見えた。
とりあえず隠れようと風呂場に入る。ドアの影程度しか隠れる場所もないが、仕方ない。
生温く濡れたタイルを踏むと、何かに足首を掴まれた。叫びそうになる口を必死に押さえ、それを引き剥がそうとする。
『………見つケ、た。ヘル。ここにいた』
カチ、とスイッチを押した音がして、明滅しながら灯りがついた。
一番に目に入ったのは僕の足首を掴んだモノ。足を半分引きちぎられて、腹を破かれて内臓をこぼした女だった。
自分でも訳が分からないくらいに叫んで、背後にいる魔物の存在も忘れて後ずさった。
腰が抜けてうまく立てない、立てたとしても足を掴まれて逃げられない。
背後の気配が変わる、奇妙な液体が兄の姿をとる。
『……ふぅ、やっぱりあっちの方が楽だね。話しにくいってのはあるけど、人間体みたいに急に動きが鈍くなったりしないからさ。早くこっちにも慣れないとね、ヘルはこっちの方が好きだよね?』
助けて、そう動いた女の口。見れば顎の下から喉が引き裂かれている、破れた喉から覗いた舌が首飾りのようにも見えた。
「……なに、なんなんだよ、なにしてたんだよ!」
『何って……食事だよ、お腹空いちゃったから』
「食事……人、食べたの」
『知ってるだろ? 僕はもう人しか食べられない』
知っている、知っているからこそ、認めたくない。
「……ねぇ、にいさま」
『兄だって認めないんじゃなかったの?』
「答えて欲しいんだ、これだけは、本当に」
意地悪な言葉を無視して、質問を投げかける。
優柔不断な僕だけど、この質問の答えで決めよう。
今目の前にいるモノが、兄なのか兄ではないのか。
真実がどうであろうと、僕は僕だけの答えを出そう。
『……仕方ないね。いいよ、約束してあげる。で? 何?』
「そうなったのは、僕のせいなの? 僕が怪物になりかけたことと、いきなり治ったことと、関係あるの?」
彼は意外そうな顔をした後、バツが悪そうに目を伏せた。言うことを戸惑っているような、そんな表情だ。
本当に兄が魔物になったのか、魔物が兄を騙っているのか。もうどちらでもいい、ただ一言「ヘルのためだよ」と言ってくれればそれでいい。
僕の為なら人喰いの怪物にもなってくれる。そんな兄なら僕は喜んで受け入れよう、たとえどんなに残虐な方法で人を喰ったとしても。
僕の為に生きてくれるのなら、魔物だったとしても構わない。僕に近づく方法として兄の姿を取ったと考えれば、いじらしくも思える。
そう、もう、どっちでもいい。
僕の為だけに生きてくれるのなら。
『……ヘルが魔物になるなんて許せなかった。所有物に所有者以外が手を加えるなんてありえないよね? 僕はヘルには人の形をしたままでいて欲しかったから、それを解こうとした。でも、反対魔法も解呪も通じなかった』
無表情のまま、虚ろな瞳で語る。
『僕は……僕は、ね。自分が人間かどうかなんてどうでもよかった。興味がなかった。いや、むしろ魔物になれば今以上の魔法が使えるんじゃないかって思ってた、実際そうだった』
しゃがみ込んで、僕と目線を合わせる。
『だから移した』
冷たい手が頬に触れる、髪を梳く指はどことなくぎこちない。
「……僕のためにしてくれたの?」
肯定を期待する。
今までの話では彼が自分の損得だけで動いたように感じられた。ここで肯定してくれないと、僕は兄と認めたくない。
僕を愛してくれない兄なら要らない。
僕を愛してくれるのなら兄でなくとも構わない。
『僕はいつだってヘルのためになることしかしてないよ? いつだってヘルのためだけにやってるじゃないか』
いつだって、僕の為に僕を殴っていたの。
嘘吐き。自分の事しか考えていないくせに。
「……本当に?」
『分からないの?』
兄は本心から言っている。
予想を上回る歪んだ愛情が垣間見えた。
独善的で自分勝手な、そう分かっていても僕は求めていた。それでもいいから証明して。僕の心がそう叫んできた。
「…………ありがとう、にいさま」
頬を撫でていた手を引いて、兄の体を手繰り寄せる。優しく首に腕を回して、目を閉じて顔をうずめた。
錯覚でも嘘でも何でもよかった。僕だけを愛してくれる家族が欲しかった。
『やっと分かったんだね? 相変わらず理解の遅い子……まぁ、及第点にしてあげる』
抱き締めた頭が、僕を包んだ腕が、どろりと溶けた気配がした。
だけど今の僕にはそんなことはどうでもよくて、ずっと目を閉じていた。
嫌なものを何も見ない為に。兄を兄だと思い込む為に。
『待て! 帰ってこい、戻れ! ヘル! 戻ってきて! ヘル!』
兄の声。兄の姿をしたモノの叫び。
僕はそれを聞かないために耳を塞いだ。兄じゃないなんて言って、僕は兄から逃げたいだけだ。
違うモノへの嫌悪感はあれど、アレは兄と全く同じ思考回路をしている。ならアレが起こす行動は手に取るように分かる。
兄かどうかもあやふやなものに、兄と同じ行動を取られるなんて、我慢出来ない。愛情だと錯覚できる兄の暴力ならともかく、訳の分からない生物の暴力に耐えるなんて、僕には出来ない。
玄関は……ここ、じゃない。ここは寝室だ。入って来たドアを開けて、間違いの部屋を出ようとした。
だが、廊下の奥に見えた虹色の光を放つ物体を見てドアを閉じた。玄関の場所が分かっていればそこに走っただろうが、今は分からないのだ。アレの向こうに玄関があった時のことを考えると隠れた方がマシに思える。
ベッドの下に潜り込んで、フードで顔を完全に隠した。足を折りたたんでローブの内側に入れて、少しでも見つかる可能性を捨てた。
キィ、と高い音を立ててドアが開く。溶けかけたゴムのような物体が入って来る、生き物と言っていいのかすら分からないそれからは、鈴の音に似た美しい声が響いていた。
『t…………li-li…………りっ……ヘル……』
確かに僕の名を呼んだのは兄の声だ。先程まで話していた兄の正体がアレだったと言うのなら、僕の直感と自論は間違っていなかった。
アレは……僕の腕を喰った魔物だ、アスガルドで兄の名をつけた魔物だ。兄の名をつけた魔物が兄の姿を取ったのは、偶然か、それとも……元は兄だったモノだからか。
アスガルドでの馬鹿げた妄想、僕の代わりに兄が怪物化したのではないかなんて自分勝手な想像。それが現実味を帯びてきた。
もしそうなら、アレは本物の兄……僕が吐き捨てた言葉は全て間違い。
兄じゃない、という直感こそが妄想。
……いい加減にしろ、自分の考えをしっかり持て、一つくらい貫き通せ。何もかも推測じゃないか、どこか違う国で兄が普通に暮らしている可能性だってあるのだ。ロキもそう言っていた。
ならアレは? 兄が悪戯に作った魔法生物。なんて回答も出来るだろう。
混乱し過ぎだ。一度落ち着こう。
まずアレは……何だと思う? 真実を当てろという意味ではなく、僕の心はなんと言っている?
兄だとしても、兄ではなかったとしても、僕が今すべきことは何だ?
この家から無事に逃げることだ。
『て……liリ、イない、ィ、ナぁ』
水っぽく気持ち悪い音を立てながら魔物は去っていく。
生物かすらも怪しいアレを魔物と呼んでいいのか? 魔物なら僕の言うことを聞くのではないか?
試して……いや、ダメだ。もう玄関からでなくてもいいから、窓でもいいから、出口を探そう。
耳をそばだてベッドの下から這い出る。魔物は別の部屋を探している。
僕は魔物と正反対の方に向かい、他のドアとは少し違った作りの、ガラスがはめられたドアを開いた。
……違う、ここも何かの部屋だ。暗くて分からないがおそらくは風呂だろう。
音を立てないように方向転換をする。と、魔物の鼻先が別の部屋から見えた。
とりあえず隠れようと風呂場に入る。ドアの影程度しか隠れる場所もないが、仕方ない。
生温く濡れたタイルを踏むと、何かに足首を掴まれた。叫びそうになる口を必死に押さえ、それを引き剥がそうとする。
『………見つケ、た。ヘル。ここにいた』
カチ、とスイッチを押した音がして、明滅しながら灯りがついた。
一番に目に入ったのは僕の足首を掴んだモノ。足を半分引きちぎられて、腹を破かれて内臓をこぼした女だった。
自分でも訳が分からないくらいに叫んで、背後にいる魔物の存在も忘れて後ずさった。
腰が抜けてうまく立てない、立てたとしても足を掴まれて逃げられない。
背後の気配が変わる、奇妙な液体が兄の姿をとる。
『……ふぅ、やっぱりあっちの方が楽だね。話しにくいってのはあるけど、人間体みたいに急に動きが鈍くなったりしないからさ。早くこっちにも慣れないとね、ヘルはこっちの方が好きだよね?』
助けて、そう動いた女の口。見れば顎の下から喉が引き裂かれている、破れた喉から覗いた舌が首飾りのようにも見えた。
「……なに、なんなんだよ、なにしてたんだよ!」
『何って……食事だよ、お腹空いちゃったから』
「食事……人、食べたの」
『知ってるだろ? 僕はもう人しか食べられない』
知っている、知っているからこそ、認めたくない。
「……ねぇ、にいさま」
『兄だって認めないんじゃなかったの?』
「答えて欲しいんだ、これだけは、本当に」
意地悪な言葉を無視して、質問を投げかける。
優柔不断な僕だけど、この質問の答えで決めよう。
今目の前にいるモノが、兄なのか兄ではないのか。
真実がどうであろうと、僕は僕だけの答えを出そう。
『……仕方ないね。いいよ、約束してあげる。で? 何?』
「そうなったのは、僕のせいなの? 僕が怪物になりかけたことと、いきなり治ったことと、関係あるの?」
彼は意外そうな顔をした後、バツが悪そうに目を伏せた。言うことを戸惑っているような、そんな表情だ。
本当に兄が魔物になったのか、魔物が兄を騙っているのか。もうどちらでもいい、ただ一言「ヘルのためだよ」と言ってくれればそれでいい。
僕の為なら人喰いの怪物にもなってくれる。そんな兄なら僕は喜んで受け入れよう、たとえどんなに残虐な方法で人を喰ったとしても。
僕の為に生きてくれるのなら、魔物だったとしても構わない。僕に近づく方法として兄の姿を取ったと考えれば、いじらしくも思える。
そう、もう、どっちでもいい。
僕の為だけに生きてくれるのなら。
『……ヘルが魔物になるなんて許せなかった。所有物に所有者以外が手を加えるなんてありえないよね? 僕はヘルには人の形をしたままでいて欲しかったから、それを解こうとした。でも、反対魔法も解呪も通じなかった』
無表情のまま、虚ろな瞳で語る。
『僕は……僕は、ね。自分が人間かどうかなんてどうでもよかった。興味がなかった。いや、むしろ魔物になれば今以上の魔法が使えるんじゃないかって思ってた、実際そうだった』
しゃがみ込んで、僕と目線を合わせる。
『だから移した』
冷たい手が頬に触れる、髪を梳く指はどことなくぎこちない。
「……僕のためにしてくれたの?」
肯定を期待する。
今までの話では彼が自分の損得だけで動いたように感じられた。ここで肯定してくれないと、僕は兄と認めたくない。
僕を愛してくれない兄なら要らない。
僕を愛してくれるのなら兄でなくとも構わない。
『僕はいつだってヘルのためになることしかしてないよ? いつだってヘルのためだけにやってるじゃないか』
いつだって、僕の為に僕を殴っていたの。
嘘吐き。自分の事しか考えていないくせに。
「……本当に?」
『分からないの?』
兄は本心から言っている。
予想を上回る歪んだ愛情が垣間見えた。
独善的で自分勝手な、そう分かっていても僕は求めていた。それでもいいから証明して。僕の心がそう叫んできた。
「…………ありがとう、にいさま」
頬を撫でていた手を引いて、兄の体を手繰り寄せる。優しく首に腕を回して、目を閉じて顔をうずめた。
錯覚でも嘘でも何でもよかった。僕だけを愛してくれる家族が欲しかった。
『やっと分かったんだね? 相変わらず理解の遅い子……まぁ、及第点にしてあげる』
抱き締めた頭が、僕を包んだ腕が、どろりと溶けた気配がした。
だけど今の僕にはそんなことはどうでもよくて、ずっと目を閉じていた。
嫌なものを何も見ない為に。兄を兄だと思い込む為に。
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