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第十二章 兵器の国と歪みきった愛

お味はいかが

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兄の首に鼻をつけて、しばらく経った。
すぐにでも噛みつくはずだったのに、いざとなると口が開かない。
そんなことをしてしまえば僕は本当に怪物になる。兄に捨てられる、殺される。
少なくとも今は兄は僕を可愛がってくれている。僕はそれを捨てる勇気が今一つ持てないでいた。

「見てる?  ねぇ、見てよ、えーっと、犬」

『私の名はアルギュロスだ!  犬でもない、狼だ!』

「どっちでもいいよ、見てよほら、ヘルすっごく僕に甘えてる。可愛くない?」

『……同意だが、気に入らん』

「犬でも悋気するんだね、知らなかったよ」

兄は僕を抱いて運んでいる、その間ずっと上機嫌だ。やはり、逆らわなければ優しい兄なのだ。噛みついたらどうなるのだろうか。

『貴様、ヘルの兄だというのは本当か?』

「ん?  ああ、うん。ホントだよ。似てるでしょ?」

『顔はな。それよりも……ヘルを虐待していた。いや、しているというのは本当か?』

「やだなぁ、言いがかりはやめてよ。可愛い可愛い弟にそんなことする訳ないじゃないか」

声色は変わらない、表情は見えないがきっと変わっていない。

『ヘルに暴力を振るってみろ、ヘルが何と言おうと私が貴様を喰い殺してやる』

「……あはは、こわぁい。あんなこと言ってるよ?  ヘル。どう思う?」

兄は嘘くさい笑顔を作りながら僕に問いかけた。
返事をしないでいると撫でていた手で僕の髪を掴み、引っ張り、無理矢理目を合わせた。
次の瞬間、兄は僕を投げた。

『貴様!  何をしている!』

「魔封じの呪……術式発動」

僕の落ちた土の上に呪詛が描かれていく。力が抜けて立つことも出来ない。
アルが兄に体当たりをして術を途中で止めた。

『ヘル!  無事か?  怪我はないか?』

僕は駆け寄るアルを突き飛ばして転んだ兄に飛びかかる。呪文を唱えられないように口を抑えて、横を向かせて、頸動脈を狙って噛みついた。

『……ヘル?  何を、している』

くぐもる兄の声はこの上ない快感だ。喉を通る新鮮な血は今まで飲んだ何よりも美味だ。
弾力のある肉も、びんと張った血管も、素晴らしい味だ。脳が、神経が、焼き切れそうな快楽に襲われる。
もっと食べたい。もう一度噛みつこうとしたその時、アルが僕の服を咥えて引き倒した。

『ヘル!  何をしているんだ!  おい、ヘル?  聞こえているのか!  返事をしろ、ヘル!』

「……っの、馬鹿犬が!  誰のせいだと思ってんの!?  君が僕の封印を邪魔するからだよ!」

『貴様……ヘルに何をした、すぐに戻せ!』

「僕じゃないって……本当に馬鹿だね」

首の傷を癒して、兄は僕の顔を両手で挟み込んだ。

「……呪い?  いや、毒?  よく分かんないな」

『ヘルはどうしたんだ?』

「さぁね、誰かに何か仕込まれたんだろ。魔物化してる。魔力を変質させて体を作り替えていくタイプのだね。大抵は禁術とか秘薬とかなんだけど、これは見たことないや。ご丁寧に食人嗜好までつけられちゃって」

アルが心配そうに僕を見つめている、兄が原因を探っている。
だが、そんなの僕にはどうでもいい。
もっと食べたい。血を、肉を、もっと。

『それは解けないのか?』

「あれ、僕のこと信用するんだ」

『……緊急事態だ』

「解く方法ねぇ、思いつかないな。この手のは原因が分からないとどうしようもないんだよ。誰がどこで何をどうした、ってね。触媒でもあれば僕なら解けるよ。多分」

『なら触媒を手に入れればいいんだな?』

「簡単に言うけど、あるかどうか分かんないしあっても手に入らないよ、多分。それにもう時間がない、完全に魔物化すれば僕でも戻せない。だから……遅らせる必要がある。その方がヘルも苦しまないだろうし」

『どうするんだ?』

「君には出来ないから向こう行っててくれる?」

兄は僕を押さえつけながら何か呪文を唱え始めた。
その対象は自分だ。
身体中に彫られた魔法陣が鈍く輝き、その形と意味を変えていく。皮膚の上をぐにゃぐにゃと動く模様たちは気持ちが悪い。

「反対魔法、これが効かないのは無いからね。この世に存在する全てのものには性質ってものがある、この魔法はその性質を反転させ──」

『御託はいい。自分にかけてどうするんだ』

「うるさいなぁ、いちいち口挟まないでよ。ヘルに直接かけたら逆流して破裂するかもしれないでしょ。こういうのは丁寧に間接的にするのが大事なの」

兄はそう言って服をずらし、右肩を露出させる。僕の頭を撫でて、兄は自らの首に僕の顔を押し付けた。
血の匂いが皮膚を越えて伝わる。かぐわしいそれを手に入れるため、僕は邪魔な肌を歯で裂いた。

「こうやって、間接的に、ね。分かった?  過保護な馬鹿犬さん」

『犬ではない!  ……平気なのか?』

「ああ、僕を通せば魔法は肉と一緒に消化されるからヘルに害はないはずだよ。人間食べて大丈夫なのかって意味ならそれも平気、魔物化は大抵の場合体内から始まるから」

『それも大切だが……私が言いたいのは、貴様のことだ』

「僕?  なんともないよ。すぐに再生するし、痛覚も消してる。可愛い弟のためならお兄ちゃん頑張っちゃうよ」

硬いものに当たる、白っぽい……骨か。別の部分に歯を当てて、噛みちぎる。食欲がなくなってきた、想像よりも満腹が早い。

『それだけ想っていて、何故ヘルに暴力を振るうんだ』

「……大切な大事な自慢の弟。僕の、僕だけの物。僕の言うこと聞いてれば幸せになれるんだから、僕に従ってさえいれば上手くいくんだから。そのためならちょっとくらいの痛みは我慢してもらわないとね」

『随分と歪んでいるんだな』

「…………天才はいつの時代も理解されないんだよね」

『ヘルは貴様が思っているよりも良い子だ。躾など必要ない。もうやめてやれ、ヘルは貴様に優しくされていたいらしい。私は貴様を喰い殺してやりたいが、そうするとヘルが泣いてしまう。だから……頼むぞ?』

口に含んだ肉が飲み込めなくなってきた。
多幸感が薄まって血の味が気持ち悪くなる。

「……ふん、犬になんか指図されたくないな」

口を離して、喰い散らかした傷跡を眺めた。
体が冷えていく、頭の靄が晴れていく。
僕は……何をしていた。

「あ、落ち着いた?  ヘル。大丈夫?」

「にい……さ、僕、僕、何をしてたの」

「よしよし、とりあえず大丈夫みたいだね」

「あ、ぁ……ごめ、な……さい。ごめんなさい、僕、違う……違う。僕じゃない、僕じゃない!」

何が?  何が違うの?  僕じゃないか。兄に噛みついたのは、兄を喰ったのは、僕じゃないか。

『ヘル、落ち着け』

「だって、だってぇ、にいさま、僕が」

『もう傷もないだろう?  大丈夫だ、落ち着け』

アルに寄り添われて少しずつ呼吸が整っていく。
兄は混乱した僕を不思議そうに見つめ、服を整えて僕に尋ねた。

「美味しかった?  僕、どんな味?」

『妙なことを聞くな!  ふざけているのか貴様!』

「君に聞いてないんだけど。ねぇねぇ、どんな味だったの?」

『黙れ!  それ以上口を開くな!」

頭がはっきりとしてくると同時に、吐き気も増していく。この吐き気は精神的なものだ、食べたものが何か認識してしまって、僕の頭が拒絶しているのだ。
だが吐けばまた我を失う、僕はそう確信していた。
だから吐いてしまわないように、ぎゅっと目を閉じて上を向いて、アルと兄の口喧嘩を聞いていた。
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